翌朝、香藤はカーテンの隙間から入る陽射しで目が覚めた。今日も天気がいいようだ。
腕の中には静かに寝息を立てている岩城がいる。
だいぶ皺になっているものの、糊付けされたホテルの真っ白なシーツに岩城の乱れた
黒髪と大きく肌蹴た浴衣。
そしてそこから覗く緋色の花弁……。
もう一度肌を触れ合わせたい衝動に駈られるのを何とか無け無しの理性で踏み留まった。

香藤がそっとベッドを抜け、シャワーを浴びて出てくると岩城が上半身をベッドに
起こし乱れた浴衣を直していた。
昨晩はあんなに愛し合ったのに…自分以外に人が見ているわけでもないのに…でも
そんな岩城を堪らなく愛しく思う。
「すまん。寝過ごしたか?カーテン越しでもこんなに明るいんだ、今日もいい天気
なんだな。」
額にかかる黒髪をかきあげると物憂げな雰囲気は影を潜め代わりに凛とした空気を身に
纏う。
香藤もそれを見て頭を切り替えようと勢いよくカーテンを開けた。
2人とも一瞬眩しさに目がくらんだが直後窓から見える景色に目を奪われる。
青々とした木々の後ろにそびえる日光連山。
窓がそのまま1枚の絵画という言葉を聞くがまさしくこういうことを云うのだろうか。
「あれってよく聞く男体山と女峰山だよね。どっちがどっちだろう?」
「大概高い方が男だろう。若干左側の方が高いみたいだな。」
「そっか、でも俺達にとってはどっちも男体山でいいのかもね。」
香藤がクスリと笑ってウインクをする。
その意味するところを感じ取ったのか岩城は頬を朱に染めて言った。
「ばか…。」


明日の朝食用に金谷ホテルのパンを買い、チェックアウトを済ませた2人は中禅寺湖を
目指す。
午前中はチェックアウトをした観光客が同じように第二いろは坂を登るが昨日と同様、
混んではいなかった。
天気もよく、車の窓を開けると自然の風が思いっきり入ってきてかなり涼しい。
髪が乱れるのも気にせず全身に風を浴びる。
何だか訳もなく笑いあえる。

い・ろ・は・に・ほ・へ・と……一つ一つカーブを抜ける度に景色が広がっていく。
深緑の山、高い空、見下ろす町並み、それらが理屈抜きに開放的な気分にさせる。

いろは坂を登り切った明智平から岩城が運転することになった。
今回の旅行は香藤の車で来ていたため自然と香藤が運転していたが昨日も大丈夫だと
言ってずっと運転し通しだったからだ。
上まではもう少し坂がある。
「大丈夫?左ハンドルだし。」
「そんなに混んでいないようだしゆっくり走っていれば慣れるだろう。お前の車を運転
するのはなにも初めて
じゃないしな。いろは坂も下ってみたいし帰りは俺が運転してやるよ。」

観光地なので特にナビゲートしなくても案内標識だけで迷わず目的の場所に辿りつく
ことができる。
中禅寺湖に大きな赤鳥居、ずらりと立ち並ぶ土産物屋。嫌が応にも観光気分を盛り上げ
てくれる。

華厳の滝はエレベーターで下に下りて展望台から見るようになっている。
駐車場横の展望台からも覗き込むような形で見られるようになっていたが、そこで見る
のと下で見るのとでは迫力が違っていた。
今日は天気がいいので水しぶきに虹がかかる。
水量が多いのでそのしぶきが自分達にもかかる。長い時間見ていたら結構濡れてしまい
そうだった。
「これって中禅寺湖の水なんだよね。中禅寺湖の水ってなくならない訳?」
「中禅寺湖の水は…どこかからか注ぎ込まれているか雪解け水なんじゃないのか?さあ
…詳しくは知らないが大きな川だって上流は小さな川だろう?元は湧き水だったり…。
そういうことと同じなんじゃないのか?」
「そっかー。なんか不思議だよね。」
「そうだ…な。じゃあ中禅寺湖の方に行くか。」

中禅寺湖は静かに水を湛えていた。
あんなに華厳の滝が水を落としているのが嘘みたいに。
湖面には男体山の深い緑と空の青さが映し出されていてそのまま吸い込まれて行きそう
な雰囲気があった。
暫く車を止めてその神秘的な湖面を無言で眺める。
時が止まっているような錯覚を覚える。
(なんかこのままいると岩城さんが吸い込まれてしまいそう…)
僅かに頭を振って無理やり現実に引き戻した。

湖を左手に車を走らせていると中禅寺金谷ホテルが右手に見えた。
ここは下のホテルとは違ってコテージといった趣だ。
そのまま菖蒲ヶ浜から奥日光の戦場ヶ原や日光湯元に向かう。
戦場ヶ原は見渡す限り荒れ野のような景色で今が夏だということを忘れてしまいそう
だった。
ノンストップで車を走らせ日光湯元に入る。
「湯元なんだから温泉なんだろう?どこか外湯にでも入っていくのか?」
昨日の自分の言葉を覚えていたのか岩城が聞いてくる。
「今から温泉に入ったら却ってだるくなりそうでしょ?汗もかいちゃうし。温泉はまた
今度の機会にしよう。秋とかさ。」
「それもそうだな。」
現実問題としてに自分達がこれから外湯に入るのには無理があるだろう。
この景色だけで充分リフレッシュできたのだ。あまり欲張りなのは得策ではない。
湯ノ湖を見て、湯元でUターンをし、元来た道を戻ると下りの第一いろは坂に向かった。

いろは坂は第一が下り、第二が上りとなっており、どちらも二車線づつで対向車は全く
ない。
そのため週末の深夜などになると無理な運転をする若者が集まることでも知られている。

カーブ手前でしっかり減速してくれるので怖く感じることはないが、なかなかどうして
岩城もキレのある運転である。
「あの〜、岩城さんって運転…結構好き…?」
ちょっと聞いてみる。
「お前、なんで俺があの車に乗っていると思っているんだ?」
「え?なんでって。」
「プジョーってのはラリーにも参加しているところだぞ。」
「うそ、じゃあ岩城さんって結構走り屋さんだったりすんのー?」
「ばか、今まで俺がそんな運転していたことがあるか?第一、上京してからそんなこと
している暇なんかある訳ないだろ。…でもこういうのは嫌いじゃないんだ。」
“ハンドル持ったら人格変わりました”にはなっていないが確かに横でステアリングを
操っている岩城は楽しそうだった。
いつもはDriveに入れ放しのギアが今はしっかりこまめなギアチェンジをされてOut
in Out でカーブを抜ける。
「えー、じゃあなんで?」
「なんでって…だからそういうのは運転の好き嫌いなんじゃないのか。それに兄貴の
影響もあるのかもしれないな。」
「お義兄さん…?」
「俺が中学の時にはもう成人して免許を持っていたからな。よくドライブに連れて
行かれたんだ、初めの頃は運転練習と称してな。そこで言われるんだ“その車の特性や
、ある意味車の限界っていうのを体で知っていない
といざという時に運転者がパニックになってしまう”ってな。結局そういうのが嵩じて
運転が好きになってしまった…ってことかな。」
「そう………。」
あのお義兄さんから運転を極める姿は想像できないが講釈をたれているのは何となく
想像できた。まあ岩城さんも結構なんでも突き詰めて考える性質なのだから似たもの兄
弟、そういうこともあるのかもしれない。
が、そこで香藤は気付く。……いや違う。それは同乗者を守るという真の優しさ、強さ
なのだ。
2人ともそのことに気付いているのかな…。
左右に振られ多少シェイクされた頭で香藤は考えた。


そのままいろは坂を下り市街で昼食を取る。
昨日の夕食も今日の朝食も洋食だったので体が和食を欲している。
ここでは湯葉料理を食べることにした。京都同様日光も湯葉が有名だ。
あまり敷居の高い店でなくそこそこの料理屋で個室を取ってもらい懐石風のコースを
頼んだ。
湯葉(本来日光では湯波と書く)と一口に言っても色々な食べ方があるらしい。
吸い物は勿論、佃煮、刺身、煮物に天婦羅など、お膳は湯葉づくしだ。
「こちらのお刺身湯葉は山葵醤油でも結構ですし、特製のたれにつけても、ポン酢に
つけても、お好みでどうぞ。」
女将とおぼしき年配の女性が丁寧に説明してくれる。
声が少々上擦っているのはこっちが誰だか判っているからなのだろう。
刺身湯葉は喉ごしもよく、夏の暑い季節には丁度よかった。
チェックアウトをした時にはさほどに暑く感じなかったのだが標高差のせいだろうか
降りてくると駅前は暑く感じられた。

美味しく食して会計を済ませる時になって申し訳なさそうに色紙を差し出された。
プライベートとはいえ断らない。笑顔で2人分のサインを書き込んだ。

店を出てそろそろこっちを発とうということになる。
順調にいっても都内までは3時間近くかかるからだ。
(それに今晩もしたいし…。声もじっくり聞かせてもらおうかな。)
これは香藤の心の内。
香藤が運転席に乗り込んだ。
「結構長く運転させちゃったからさ。疲れたら替わってもらうから。」
「構わないが良いのか?」
香藤の下心に全く気付いていない岩城だった。
(そんなところが可愛いんだよ。)
「大丈夫、大丈夫。」

そのまま市内を離れていく。インターに乗ろうという時になって…。
「あっ!お土産買ってないよ。どーしよう。何処か寄る?戻る?それともサービス
エリアで買う?」
「1泊だしな、あまり仰々しく買っていくのもどうかと思っていたんだが…やはり何人
かに買っていった方が
いいのかな。……香藤、俺のセカンドバッグにパンフレットが入っているからそれを
頼めばいいさ。うちにも欲しいしな。」
岩城がそう言ってセカンドバッグを開けると昨日寄った“明治の館”のパンフレットを
ひらつかせる。
横目で見るとそこには『夏の贈り物 お問い合わせ・お申込は』の文字が。
(さすが岩城さん。)
こういうフォローができるというのも新発見。

「またオフが取れたらこんな風に旅行するのもいいな。」
「そうだね。いつもとはまた違った岩城さんを発見できるかもしれないしね。」
「いつもと違うって、どこがだ??」
そんな会話をしながら帰路につくふたりだった。


(End)



☆ちづる様のコメント☆
【後書き…及び沢山のお詫び】
ちょっと前まで日光の近くに住んでいたので現住所とは違いますが、
取りあえず同じ栃木県ということで日光に2人に来ていただきました。
駆け足気味の紹介ですが。しかも勝手な想像つき。
本当のお2人はどんな運転をするのでしょうか。
いろは坂…特に秋の行楽シーズンに窓を開けるのはお勧めできません。
猿がくるからです。気をつけましょう。
住んでいた期間も短くてうろ覚えのところもあり位置関係とか違って
いたら申し訳ございません。
他に栃木の方、もしくはよく知っている方、いらっしゃったらすみません。
あと金谷ホテルは…いつも通るだけでしたから。それと猫足のバスタブ、
あれは実際は別の棟のお部屋になります。
あと謝りついでに。すみません苦手なのにもかかわらずあのシーン書いて
しまいました。すみません、魔がさしました。
香藤くんの出身地の千葉には私の従兄妹が住んでいて小学校の修学旅行
先が日光だったと以前聞いたことがあるので、それでは香藤少年にも
…と一足先に来ていただきました。
日光はもっと見るところがありますし栃木県には他にも文中に出てきた
鬼怒川をはじめ益子や那須など観光地はたくさんありますがこれで
いっぱいいっぱいです。栃木県はこれで…。


‘03.07.07.
(‘04.01.16.訂正)
ちづる


◆ちづる様ありがとうございますv

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