教授の声が子守唄のように聞こえている。
当大学で行われるシンポジウムについて説明されているのはわかるのだが、なにせん先程から襲ってくる激
しい睡魔に言葉を理解する機能を脅かされていた。





横にに座っていた友人は隣で、こくりこくりと頭を上下に揺すっている岩城を驚いた目で眺めていた。
<4年が俺の猶予期間なんだ>と話していた岩城は、もうこれで最後とでも言う様に、出席する全ての授業を
一言も漏らずしっかり聞くような“クソ真面目”な学生だったのだ。授業中に居眠りをしでかすようなへま
をする姿は一度も見たことがない。


「君。」

とうとう力尽きて腕に顔を埋めてしまっていた岩城に向かって教授は呼びかけていた。

「お〜い君。」

浅井は慌てて岩城の肩を揺すった。

「おい!起きろ岩城!!岩城っ!!」

小さく耳元で怒鳴りつけると「ん?」と顔を上げ薄く開けかけた瞳を向けてきた。浅井はその表情がとても
あどけなく見えて思わずドキリとその頬を染めた。
岩城は影でクールビューティとか、文芸学部の蝋天使などと呼ばれていた。醸し出す雰囲気も然ることな
がら整然と整い過ぎたマスクは唯そこにいるだけで否応無しに皆の噂の的になってしまうのだ。
それでなくとも紺野グループの中に存在して名字が違うというだけで様々な心ない人々の中傷にあってきたの
だろうと思う。時に何かに耐えているような姿に痛みさえ覚える事があった。だが岩城はそんなときほど悠
然と優雅に微笑んで見せるのだ。「何も問題ないよ。」と。それは“これ以上近寄るな”のサイン。そうな
ってしまうともう俺なんかはお手上げだ。この近寄りがたくも美しい友人に翻弄されている自分がいた。

そんなことが頭の中をぐるぐると飛び交ってる間、ずっと岩城のことを見つめてしまっていたらしい。その
間10秒もなかったのかもしれない。岩城もまだ意識がはっきりしないのかさっきと同じ体制でこっちを見て
いた。

「こらこら君達、二人で世界作ってんじゃないよ。僕の講義はそんなに退屈かい?」






二人は慌てて立ち上がると「す、すいません!」とほぼ同時に頭を下げた。

「いやいや僕も社会思想研究なんてあんまり好きじゃないからね。アナキズムとか勉強したってきっと何の
役にも立たないよねぇ。でも一応カリキュラムにのっとって授業しているのであって、好き嫌いは問題外な
の。で、僕なりに一生懸命講義してる目の前で寝られるとやっぱ傷つくんだよねぇ。」

「すいませんでした・・・・」

岩城はもう一度深く頭を下げ席についた。

このまったりと喋っている教授は、最近舞台などの脚本を手掛けていてそれなりに名の通っている人物であ
った。年の頃は40代後半、クオーターだという泉は薄茶色の髪と濃いグレーの瞳をしていた。

「ま、取りあえず今日の講義終わったら僕の所に来てくれる?岩城くん・・・だよね?」

「はい、わかりました。」

<まいったな、説教か。>と岩城は重い溜息をついた。




「おい浅井、さっきは悪かったな。」
講義室を出た所で岩城は浅井の肩を叩いて呼びかけた。

「あはは。いいよ別に。」

浅井は岩城と同じように1年遅れで入学していて、岩城の数少ない友人の中、歳も同じで柔らかな物腰や落
ち着いた話し方はとても好感がもてる男だった。そして何より浅井は岩城の心の中に土足で踏み込むような
ことは絶対しない。いつも深追いせず調度良い距離間を保ってくれていた。一緒にいても疲れる事がない。

「泉教授のところへいったらきっと仕事手伝わされるぞ。」

「えっ、説教じゃないのか?」

「まっさか。俺達みたいに歳行った学生に本気で説教垂れるほど教授だって暇じゃないだろ?」

「はあ・・・」岩城は思わず吐いて出た溜息に益々心も沈んでいった。

「どうしたんだこの頃。随分疲れてるみたいだな。お前が居眠りだなんて、周りも驚いてたぞ。」

「ああ。猶予期間終了間近だからね。紺野も毎日遅くまで俺に付きっ切りで経営学なるものを叩き込もうと
必死でさ。英語だってTOEICなんてもんじゃなくて、完全なビズネスイングリッシュってやつ。難しく
っていやになるよ。スラングなら得意なんだけどな。」

「へえ、蝋天使岩城京介がスラング話せるなんて初耳だな。」浅井はくすりと笑った。

「くすっ・・・ああ、それに俺は天使なんかじゃなくて本当は悪魔に使える堕天使なんだ。」

「おお〜いいねぇ〜是非お前の悪魔コスチュームとやらをみてみたいなぁ。学際でやったらきっと外まで行
列できるぜ。」

「なんだよそれ。」

本当に嫌そうな顔をする岩城をみておかしくなった。誰にでもこういう表情をするわけではない。少しは自
分に心を開いてくれていると自惚れてもいいのだろうか?他の者より側にいる事を少しだけ多く許されてい
ると思ってもいいのだろうか?

「じゃあな。気は重いけど教授のところへ行ってくるよ。」

「aiight (オーケー)  My Angel 」と両手を広げおどけた表情でウィンクをしてみせる。

「ぷっ・・airhead (ばか) !」

笑いながら駆けてゆく背中を見送りながら、そういえば最近あの1回生と一緒にいないんだなぁなんてふと
思った。やたら明るくて元気な男と楽しそうに並んで歩く岩城の姿をよく見かけていたのだが・・・

蝋天使・・・・誰がつけたのか。天使のように美しい容姿と、それに相反してまるで心を待たぬ蝋人形のよ
うにほんの時々口元だけに浮かぶ微笑。いつもどこか飄々としていて、誰も側に近づけず皆はただ遠くから
眺めるだけ。

でもあの男といる時の岩城は蝋天使などではなかった。いつだったか怒ったり笑ったり表情豊かに話をする
姿を見て吃驚した事がある。
「へえ・・あいつあんな顔で笑ったりできるんだ・・・」
そう思ったとき胸の何処かがギシリと音を立てたが、俺は気付かないフリをしたのだ。





岩城は本当に疲れていた。紺野は最近夜遅くまで岩城に様々な事を教えたがり、昨夜はマネージメントに
関するノートや本を見せながら延々と明け方近くまで説いた。急にどうしたというんだろう。先頃“好き
な女が出来たか”と問われて以来、接吻も全くしてこない。本気で俺に後を継がせるつもりなのだろうか?
単なるお飾りではなく?
岩城は小さく頭を振るとひとつ息を吐き、足早に葉を落とした桜の木の下を通り過ぎていった。


「失礼します。」
迷路のように入り組んでいる校内で、漸く見つけ出した“IZUMI”と書かれた白いプレートが掛かる
部屋のドアをノックする。教授達には一人に一部屋づつ教授室があてがわれていた。大学内におけるプラ
イベートルームである。ベッドを持ち込み寝泊りまでする教授もいれば、ほとんど使わないままの教授も
居る。
ドアを開けて中を覗くと、本やらコピー紙やら切り抜きやらが雑然と置かれている中に泉が蹲っていた。
「教授??」

「あ?ああ、岩城くんか、遅かったな。」

泉はんんっ!と両手を挙げ腰を伸ばすと膝に手を置き立ち上がった。

「すいません。ちょっと迷ってしまって・・・」

「ふ〜ん方向音痴か?容姿端麗、頭脳明晰の君でも苦手な事があるとはね。」

「寝てしまったのは反省してますが、そんな嫌味を言われる程悪いことした覚えはありません。」

「あっはっは、嫌味じゃないさ。僕はほっとしただけだよ。君もちゃんとした人間なんだってね。」

そう言ってスーツの胸ポケットからタバコ取り出して口に銜えた。何処か掴み所のない男だ。

「いやぁ新しい舞台脚本の資料集めに手間取っちゃってね。訳わかんなくなっちゃったんだよ。」

「はぁ・・」

「君、英語得意だろ?ちょっと翻訳手伝ってくれない? はい。」と数枚のコピー用紙を渡してきた。

同意を求める振りをした命令って訳か。浅井の言ってた通りだな。はあ・・リョーカイシマシタ。

岩城は大袈裟に溜息を吐き、何処に座ろうかとキョロキョロ辺りを見回していると

「こちらへどーぞ。」

と泉は窓際に置いてあるデスクの隣りへ立ち、胸に手をあてたポーズをとりまるで女性をエスコート
をするように椅子を引いた。
岩城はムッとしながらも表情には出さず、「ありがとうございます。」と頭を下げるとそこに腰掛けた。
自分のバックからペンとノートを取り出し早速仕事に取り掛かる。そんな様子を泉は少し離れた所でニ
コニコしながら眺めていて、気にはなったが岩城は無視を決め込むことにした。

「ん〜〜さすがだねぇ。」

「は?」

「いやいやなんでもない。続けててくれる?」

「はあ・・・」

変な人だな、なんか調子が狂う。早く終わらせて帰ろう。


部屋の中では泉の本を捲る音と、岩城のシャープペンを走らせる音だけが聞こえていた。<もうすぐ終わ
るな>そう思って時計を見るとここに来てから既に1時間半以上が経っていた。

「どお?終わりそうかなぁ。」泉が顔を上げてこちらを覗き込むようにして立ち上がった。

「ええ、もうすぐです。」

「ねえねえ、岩城くん。」胸に手をいれるとまた先程のタバコを取り出し銜えた。

「はい。」

「君、舞台やってみない?」

「は?」

「だから、役者をやる気はないかなぁって聞いてるんだけど。」

「役者・・・ですか?」




その時コンコンとノックの音がして「失礼します!」と誰かが部屋に入ってきた。

「教授〜〜やっと終わりましたぁ〜。」

「おお、ゴクローさん。」

ドアを閉めて振り向いた男は、分厚い本を何冊か抱えた香藤だった。

「あ!岩城さん!!!」

香藤は岩城を目に留めると、一瞬にしてパアッと顔を輝かせた。岩城はその笑顔を見て自分の胸が嫌なくら
いに波打つのを感じたのだった。




MOMO

※aiight(アーイ)・・・スラング語で“わかった!”とか“オッケー!”の意味。
 airhead(エアヘッド)・・・からっぽ頭??おばかの意味のスラング語だそうです。


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なんか岩城さんが講義を受けている姿に
ほんのり萌えてしまいましたv
居眠りをしてしまう姿も・・・キュートだわ!(笑)
香藤くんを見て起きた変化・・・次の展開が楽しみですv