指先が冷たい。久しぶりだな・・・。最近はあまりこんなことはなかったのに。
精神的に崩れてくるとこうなのだ。どんなに暑い所にいても両の指先は痺れるように冷たくなる。
息を吹きかけ手をすり合わせてみた。小さく震えてるのがおかしくて他人事のようにクスリと笑う。

香藤が来た。

冷たく追い返してしまったが・・・

俺を好きだって?

アイツはなんて馬鹿なことをいうんだろう。

俺の側に来てどうしようというのだろう?

これ以上自分の中に入ってきて欲しくなかった。
ぎりぎりの場所で保たれている心の均整。人を自分に踏み込ませないこと。作った壁を叩く者がいればすぐに逃げていた。鍵を掛けて心の存在を消してしまえばそれで良かったのだ。
今までだって、大人になって取りあえず笑うことも怒る事も泣く事も出来たけど、すべてが空虚だった。
もう一人の自分がしらけた顔をして奥隅に居座る。こころの温度が分らなくなっていた。

本当に楽しいのか?
本当に怒っているのか?
本当に悲しくて泣いているのか?

俺のからっぽの心は本当は全く何も感じてなどいなかったのだろう。香藤に出会うまでは・・・。
アイツは真っ直ぐに俺を見る。そして太陽のように笑う。そんな時俺は眩しくて何時も目を逸らしてしまうのだ。






母が死んだあと、悲しんだ父はその面影を俺に重ねた。継母はそんな父を憎み、俺に父の面影を重ねることで自分の心の拠り所を探した。
あの頃誰も俺自身なんか見ていないんだと思っていた。自分の姿はまるで透明人間のようだと思い込んでいた。

「俺」は一体どこにいるんだろう?
「俺」を愛してくれる人はどこにいるのだろうか?




いつの頃からか歯車は狂ってしまっていたのだ。
継母からの執拗ないじめに対する憤り、それを知ろうともしない父親に対する不信感。
中学1年の夏、小さかった心の傷は修復不可能なほどに拡大し、京介はだんだん虚ろになってゆく自分の心に気づき怯えていた。

あの日もヴァイオリンを手に教室で習ってきた所を父に聴かせていた。日に日に言葉数の少なくなってくる息子を寂しく感じていたのか、よく父の部屋に呼ばれては一緒に過ごしていて、あの時も目を細めて自分を見る父を、俺の後ろに立つ母の姿でも見ているのだろうと思っていた。
俺が生まれなければ母はまだ生きていただろうと言っていた継母や親戚の者達。言葉を変えて母から貰った
命を大切にしなさいね、と嘯く。でもそんなのは俺の所為じゃない!!俺だって母を愛していたのだ。

父の自分を見る目にイラついた。

ヴァイオリンを弾く手を止め俺は言ってしまったのだ。

「父さん・・・・お母様がね俺に何していたか知ってる?この間だって納戸に閉じこめられて何をされていたか!本当は父さんもお母様とグルなんだろっ??俺なんかいなければ良かったと思ってんだろっ!!それに・・・そんな目で見るのやめろよ!!俺は母さんじゃないっっっ!!!!」


「・・・・・!!!」

夢から醒めたように父は目を見開き、肩で息を吐いている俺を見つめた。

「きょう・・す・・け?何を・・・言ってるんだ・・?」

「・・・・いないほうがいいなら死んでやるよっっ!!!!」

すぐにそんな事無いって言って欲しかった。ただお前を愛してると言って欲しかった。あんな悲しそうな顔で俺を見て欲しくなかった。

慌てて立ち上がる父を尻目に
手にしていたヴァイオリンを放り出し家を飛び出した。泣きながら走っていたので目の前が酷くぼやけていたのを憶えている。家の門を出ると自分を呼ぶ声に気がつき振り向いた。継母が反対側の歩道から手を振っているのが見えて、俺は反射的に反対方向に走りだしていた。あの人に涙なんか絶対見せたくない。下を向いて涙を拭いながら走り出したとき、何かが俺を思い切り歩道へと突き飛ばした。数秒後に聞こえた耳を劈く様なブレーキ音、そしてドンッ!!という大きく響いた鈍い音。振り返った俺が見たものは全てがまるで異世界の出来事のように、色を無くしたままコマ送りで目に焼きついていった。

「・・・・父さんっっ!!!!」

震えて身体が動かない。自分が走ってきた辺りに倒れる人の影。

「う・・・うそだろ・・??」

トラックの向こうに見えた継母の姿。泣きそうな笑いそうな妙な顔で足元に倒れる影を見下ろしている。
変な顔・・・本当はそこにいるのは俺だったはずなんだろう?  
こんな状況だというのに一瞬の間に様々な思いが頭の中を掠めていくのが不思議だった。

「父さん!父さん!!!」

やっとの思いで駆け寄った俺は、周りの「触っちゃいけないっ!」の言葉を無視して父の頭を抱え込んだ。

「父さんっ!!なんでだよっっ・・・!!」

血だらけの父は、微かに目を開け俺を見とめると、ほうっと小さく息を吐いたかに見えたがその後ピクリとも動かなかった。俺は大声で泣きながら父を呼び続けた。








喪が明けて暫くたったある日父の書斎を片付けていると、引き出しの隅に「京介へ」と書かれた小さな箱を見つけた。その日継母は父の残した遺産の問題で弁護士の所へ出かけていて、家にはお手伝いのヒサさんと二人だけ。自分の名前が記されたその箱を開けて、またしても俺は息が止まる思いがした。
箱の中には、少し時代掛かった銀色の腕時計と小さな紙切れが入っていて、折りたたまれた紙を開くとそこには見慣れた父の字が書き連ねてあった。




最愛なる息子 京介へ

前からお前が欲しがっていた時計をあげよう。
重いからまだダメだ、とか大人っぽいからダメだとか言っていたが
本当は違うんだ。
これを渡してしまうと早く大人になってしまいそうだったから。
どんどん成長して行くお前をみてると少し寂しくてな。
いつまで私の側にいてくれるんだろう、とかつい思ってしまう。

もう少しすればこの時計もきっと似合うようになるだろう。
私と母さんがそうだったように、
大切と思える人と一緒に、この時計で思い出を刻んでいって欲しいと思う。

お前が恋をする人はどんな人だろうか?

ちょっと楽しみだな。


追記
最近は留守がちで寂しい思いばかりさせてすまないと思っている。今の仕事が
ひと段落したらドイツのクラウスの所へ一緒に遊びに行こう。
楽しみに待っておいで。


                           父より



「父・・・さ・・ん・・」

そう、3人で幸せだった頃からいつも父の腕にはこの時計があった。その腕がとても逞しく見えて俺の憧れだったんだ。腕を曲げてチラリと時間を見る仕草も格好よくていつか真似しようと思っていた。父のようにこの時計の似合う男になりたいと思っていたから・・・だから欲しかったんだ。
「もう少し大きくなってからな。」といつもかわされていたのに。
父の腕にこの時計が無くなっていたことなんて気付きもしなかった。
この時計はいったいいつ主の手から離されたのだろうか?
そして新しい主の元へいつ届くはずだったのだろう?



継母のことを悪く言う資格なんて無い。
俺は自分のことばかりで父のことなんてこれっぽっちも考えたことなんて無かったんだ。最近ではまともに目を合わす事さえしなかった。
この短い手紙には息子への愛が溢れるほど詰まっているというのに、俺は最後に父に何て言った?俺は最ッ低だ。やっぱり俺はこの世にいないほうが良かったのだ。また俺の所為で大事な人を失ってしまったじゃないか!
手紙を胸に抱きしめ咆哮をあげた。胸が引き裂かれそうだった。このままこの胸にナイフを刺してしまおうか?肉体の痛みにこの苦しみは消えてなくなるだろうか?どんな懺悔の言葉も届く事は無いだろう。絶対許してなんか貰えない。自分も罪を償わなくては!俺にはもう誰にも愛される資格なんて無い。

「俺は父さんをも殺した。」

この12歳の子供には重過ぎる罪は、全ての思いを、心を、固く固く凍らせるのに充分だった。
愛が欲しかっただけの子供は愛を欲するのをやめた。
何も欲してはいけない。運命のまま、流されるままの道を自ら選んだ。

その日から、京介は今まで以上に全く笑わなくなってしまった。

その後継母は岩城の家を父の妹家族に渡すと、父の僅かな遺産と共に京介を連れて東京へ戻ったのだった。

人間は強い。
小説やテレビドラマのように簡単に狂ってしまったりすることなんて出来ないものだ。
どんなに泣いて逃げ出したいと願っても、必ず明日は来る。だから生きてゆかねばならない。
どんなに苦しくても腹は減るし、トイレにも行く。10分に一度流れていた涙も、30分に一度になり、3日に一度になり、やがては流す涙の意味さえもきっとあやふやになってしまうのだろう。


でも今は、ただ心が痛かった。とても・・・・
そしてその痛みが何を意味するものなのか岩城にはまだ知るすべもなかった。


「香藤・・・・・・」
岩城は冷たい指先を唇に当てたまま、溜息と共にその名を呼んだ。



MOMO 


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長い間空洞だった岩城さんの心に何かが入り始めたのかも?
それはきっと彼の存在ですね・・・v