その六 漆黒の闇 |
雨が小振りになっても、まだ、空は、雲に覆われているようだった。母屋から、一歩踏み出すと、月どころか星一つ見えない漆黒の闇が目の前に広がり、吸い込まれていくような感覚に襲われる。その異様な夜の顔に、洋二郎は、身震いをした。 昼間からのざわついた嫌な気分を、拭い去る事ができない・・・ だが・・・・今夜・・・・・京之介が誰であるのか、ついにわかるのだ・・・・ 洋二郎は、思い切って、漆黒の闇へと足を踏み入れた。 菊地の別宅に着く。 いつもなら、犬の遠吠えや、梟の声が聞こえるのに、今日に限って何も聞こえない。不気味な程静か過ぎる夜だった。 そっと、裏木戸を引いてみる。 カタッという小さな音と共に、戸が開いた。 見張りの者もいないようだ・・・ それでも、用心しながら、ゆっくりと、中庭に入って行った。 じゃり、じゃりと言う己の足音だけが、静かな庭に響き渡る。 突然、何かに、着物の袖を引っ張られ、ぎくりとする。 振り返ると、松の枝に袖を取られていただけだった。 ほっと、小さな安堵の溜息が洩れる。 中庭を、さらに奥に進んでいくと、渡り廊下が見えてきた。 浅野の言った通りに、右奥の座敷へと、歩を進める。 その座敷に、明かりが灯っているのが見えた。 障子から透けて見える灯火に吸い込まれるようにして、一歩また一歩と、周りを伺いながら、進んでいった。 部屋に近づくに連れ、男の荒い息遣いが、聞こえてきた。それが、情事の声であることに気づくのにそう時間はかからなかった。 洋二郎の鼓動が、早鐘のように、鳴り響く。 まさか・・・まさか・・・・そんな事が・・・京之介・・・・! いや、この目で、確かめるまでは・・・ ごくりと生唾を飲み込み、息を抑えて、音を立てずに、ゆっくりと障子を一寸ほど開ける。 思った通り、二人の人間が、絡み合っていた。 上にいるのは、男のようだが、下になっている者が、長い髪で顔が隠れている為、女か男かよくわからない。 体を少しずらして覗いてみる。 男の顔が見えた。見覚えのあるその顔・・・・・・菊地だと、思った。 組み伏せられているのは・・・・ 長い艶やかな黒髪・・・白い肌・・・・まさか・・・・ ・・・・・朱色の襦袢を着ている・・・女か?・・・ 洋二郎の緊張が、ほんの一瞬解けかける。 いや・・・胸が見えた!・・・男か! 洋二郎の鼓動が、これ以上にないほど、大きく打ち始める。 すると、菊地が、その男の髪を、ゆっくりと顔から払い上げ、首筋に口付けを落とした。 「!!!」 息が、一瞬止まった。 刀で、心の臓を抉られたような鋭い痛みが、走る。 その美しい白い顔を見た途端、洋二郎は、信じたくなかったあまりにも残酷な真実に、目の前が真っ暗になった。 ・・・息を上げ、肌を朱に染め、潤んだ瞳で・・・ あの日と一寸違わぬ壮絶な色香を放つ京之介が、そこにいた。 ただ一つ違うのは、京之介を抱いているのは自分ではないと言う事であった。 体中が鳥肌立ち、怒りで、わなわなと拳が震える。 そして、次の瞬間、嫉妬の炎が、燃え上がり、自分が、どこの誰で、一体どこにいるのかさえ、頭の中から、吹っ飛んでいた。 今まさに、洋二郎が障子に手をかけ、部屋に入り込もうとした時、首筋に冷たい刃物が、当たった。 「おっと・・・そこまでだ・・・香藤殿・・・・・・・殿のお楽しみを、邪魔されては、困る・・・」 しまった! 洋二郎の顔から血の気が引く。 あまりの驚愕に我を忘れていた為、浅野が近づいてくる気配さえ、気づかなかった。 「そのまま、ゆっくりと、立て」 言われた通りに、立ち上がると、浅野が小声で言った。 「中庭へ、お戻りいただこうか・・・香藤殿・・・」 刀を、突きつけれたまま、渡り廊下を歩き、中庭に出る。 洋二郎はどうする事もできない悔しさに、歯軋りした。 「お忘れになった訳では、ございますまい・・・ここは、菊地様の別宅・・・忍び込んだとあれば、香藤殿であろうと、切り捨てられても、文句は言えますまい」 「やはり、罠か・・・・私を、ここで、切るつもりか・・・・」 「くっくっくっ・・・・そうしたいのは、やまやまだが・・・お父上に礼をいうのだな・・・今、御主を切る訳にはいかぬ」 浅野は、さらに、刀を洋二郎に突きつけたまま、裏木戸を開けると、 洋二郎の体を暗闇へと押し出した。 そして、洋二郎に、吐き捨てるように言った。 「京之介殿は、菊地様の御妾様であられる!今後、一切、京之介殿には、近づくでないぞ!」 恐ろしい形相をして浅野を睨みつける洋二郎の前で、裏木戸が閉められた。 * * * その後は、どこをどのように歩いたのか、覚えていない・・・・ ただ、呆然と夜の江戸を歩きまわった。 気がつくと、初めて京之介と出会ったあの桜の木の下に来ていた。 もう、ほとんどの桜が散ってしまい、枝ばかりが目立っていたが、その染め吉野だけは、まだ、あの日と同じく蕾をつけたままであった。 『桜が・・・咲かぬ・・・』 京之介の声が、聞こえたような気がした。 一陣の風が吹き、まだ僅かに残った花びらを無残に剥ぎ取っていく。 桜の花びらが、洋二郎の頭上を舞った。 『もう一度・・・あの桜を見る事ができたら、何かが変わるような気がして・・・・』 幾年もの間、京之介は、この桜の木をどのような思いで見つめ続けたのだろうか・・・ 幾年もの間、京之介は、その悲しい日々を、どのように乗り越えてきたのだろうか・・・・・ 洋二郎の瞳から、後から後から、止め処もなく涙が溢れてくる。 何故 言ってはくれなかった・・・・ 私がそなたを、嫌うと思ったのか? ああ・・・だから、だから・・・・私に、全てを言えなかったのか、京之介! 気づこうとしなかった己の浅はかさに、洋二郎は、涙した。 その時、また、風が吹き、桜の花びらが、漆黒の空へと舞っていった。 暗闇に散っていくその桜の花びらを見たと同時に、洋二郎は、京之介と最後に交わした言葉を思い出した。 『そなたに・・・逢えて良かった・・・・本当に良かった・・・・』 洋二郎が、はっとする。 京之介は、死ぬつもりだ! 私の短刀で・・・!! 何としてでも、止めなければ・・・・! ああ!!京之介!!! ー続くー レイ 2005年 6月 |
・・・・・京之介さんの秘密を知ってしまった洋二郎・・・・
大きく物語が動きそうな展開です・・・
どうなってしまうんでしょう;;;