その三 暗雲
もう、これは、恋というような生易しいものではなかった。 遠の昔に京之介への気持ちには気づいていた。もう限界だった。 京之介が、会いに来る度に、この胸に掻き抱きたいのを堪える。 傍に立つ度に体が高揚するのがわかる。 己の欲を何時まで押さえていられるかと思案する。 机の上には、桜の木の下に佇む京之介の絵がまだ未完成のまま放置されてあった。 この間も、逢瀬時に、約束の絵の事を聞かれた。その時はもうすぐできるといったが、どうしても筆が進まない。 もう、ここには何度も京之介は、訪ねてきていたが、一度も自分の身分を明かそうとはしてくれなかった。 それに・・・初めて会った時、京之介と一緒に居た男・・・関わり合いにならぬ方がよいと言った・・その言葉がどうしても気なった。 京之介の着ている物からして、身分の低い者ではない事はわかっていたが、これほどまでに心を奪われた相手がどこの誰なのか洋二郎は知りたかった。 洋二郎の心に一抹の不安が過ぎる。 何故だか、この絵を京之介に渡してしまったら、もう二度と京之介に会うことが事ができないような気がして書き上げるのが怖かった。 しばらく、その絵を見つめていたが、小さな溜息を吐くと、気を取り直して、洋二郎は、他の書き上げた京之介の浮世絵を約束した呉服屋の店主に持っていく為、母屋を出た。 呉服問屋に入ると、元気のいい七兵衛の声が、聞こえてきた。 「おぅ!香藤さん、例のもの出来ましたか?」 「ああ・・待たせてすまなかった。ここに数枚ある・・気に入ったのを、買ってくれ」 「おお!!こりゃまた、別嬪さんだね〜〜!気に入った!全部買わせてもらうよ」 店主が、その浮世絵を見た途端大きな声で叫んだ。 「そうか・・・ありがたい」 「いや〜しかし、ほんとに別嬪さんだね〜よくこんな女人を探してきたね〜」 しきりに七兵衛は、感心した様子で浮世絵に見惚れていた。 その時、呉服屋の表座敷の屏風の向こうで、店主の上げた奇声を不思議に思った客が玄関の方を覗いた。 だが、その男は洋二郎の顔を見るなり、はっとして、自分の姿を屏風の後ろに隠す。 「実は・・・この人は女人ではないのだ・・・本当に美しい人で・・・頼み込んで・・・描かせてもらっている。」 「へえ〜、男かい?こりゃまた、たまげたね〜」 しきりに感心していた七兵衛は、その絵を再度しげしげと見つめていたが、何を思ったのかニヤリと笑い、言った。 「もしかして・・・香藤さんのいい人かい?」 「な、何を言う!そ、そうではない!」 七兵衛のその言葉に洋二郎の顔がみるみる赤くなる。 「いやいや・・・妖しいな〜、すぐ否定する所が・・・おまけにそんなに赤くなっちゃ〜ますますだね〜」 ニヤニヤしながら洋二郎の顔を覗きこんでくる七兵衛に、居たたまれなくなって、洋二郎は口早に言った。 「すまぬが・・・急いでいるのだ・・・約束の物を・・」 店主は、まだ顔をにやけさせたまま、約束の代金を洋二郎に手渡した。 それを、受け取った洋二郎は、礼を言うのもそこそこに、店を出て行った。 七兵衛は、そそくさと走りさる洋二郎の後姿に、叫ぶ。 「また、お願いしますね〜香藤さん、何枚でも買わせてもらうよ〜」 七兵衛がそう言って、店に戻ると屏風の陰にいた客が、話し掛けて来た。 男は、今しがた七兵衛が買ったばかりの浮世絵を、手に取って穴が開くほど見つめている。 「七兵衛・・あの者は・・・どこのなんと言う男だ・・」 「今の旦那ですかい?ああ・・・あの方は香藤洋二郎さんと申される方で・・・お侍さんなんですが・・絵描きになられた変わった方で・・・」 その名前を聴いた男の顔が険しい顔に変わる。 「あの・・・どうか、されましたか?」 「この浮世絵・・・一枚分けてはくれぬか。代金は弾むぞ。」 「へえ・・・浅野様も気に入られましたか? どうぞ、どうぞ、香藤さんの描かれる浮世絵は、ほんと情緒がありまして・・あっしも大好きなんですが・・・特に今回のは上出来で・・」 七兵衛が長々と浮世絵の話を続けていたが、もう浅野の耳には、ほとんど届いてはいなかった。 この発覚した事実をどのように菊地に伝えるかと言うことで、頭の中は支配されていたからである。 * * * 「それは、真か!」 菊地の本宅、蝋燭の火が揺らめく中、菊地と、浅野が膝を寄せ話し合っている。 「はい、確かに・・・香藤洋二郎と・・・」 「老中香藤洋江之守の家督、香藤洋二郎か」 「調べてみませぬと、まだわかりかねますが・・・・家督であるにもかかわらず、絵師になると言い張り、勘当されたという事は、耳にいたしましたが・・・」 「殿、これを、ご覧下さい」 そういって、昼間に呉服屋の七兵衛から買った浮世絵を菊地の前に広げた。 「うむ・・・確かに・・・この切れ長の目といい、口元といい、京之介に似ておるな。」 「はい・・・初めて会った時に、関りにならぬよう、警告はしたのですが・・・」 「あやつは、腕が立つとも聞いておるが・・・かなりの色男じゃとも聞いておる。」 「それが・・・・京之介に目をつけおったか・・・!」 菊地は、酒の肴に手をつけようともせず、いらいらと扇子を閉じたり開いたりしている。 「香藤は、京之介を誰かと知っておって、描いておるのか?」 「いえ・・・存ぜぬと思われます。まさか・・・菊地様の御妾に、あのような事は頼みますまい。」 「ふむ・・・京之介を閉じ込める事は簡単じゃがの・・・この前のような事があっては困る。」 「存じております。」 浅野は、少し間をおいて、話を続けた。 「殿・・・・殿は今、若年寄から老中に格上げされます大事な時、現老中との揉め事はお避けになった方が賢明でござりまする。」 「わかっておる!」 菊地は、忌々しい物を扱うように扇子を広げ、激しく扇ぎだした。 「まことに・・・京之介の色香といえば、尋常ではないからのう。少し外に出すと、要らぬ虫が付きよるわ!」 「だが・・・春になると桜を見に行きたがる・・・・・・まあ・・・・・・・あやつも、不憫なやつじゃがの・・・」 菊地は、やっと扇子を手から離し、膳から杯を取ると、酒を少量口に流し込む。 「私が、付いておりながら、申し訳ございません。」 浅野が、深く頭を下げた。 「よい・・・たまには・・・このような事も退屈しのぎになる・・・・」 「で・・・香藤とやらは、京之介にぞっこんか?」 「そのようで・・・呉服屋の七兵衛に冷やかされました所、顔を赤くしておりました。」 「ふっふっふっ・・・・馬鹿なやつよの・・・・」 すると、浅野が、菊地に近づき、含み笑いを浮かべながら言った。 「殿・・・香藤洋二郎を京之介様から引き離し、そして、京之介様のお心を、殿に傾かせる良い案がございますが・・・・」 「何じゃ・・・・言うてみ・・」 浅野は、菊地ににじり寄り、そっと耳打ちをする。 それを、聞いた菊地が、ニヤリと笑う。 「ほう・・・面白いではないか・・・・ふふふ・・・御主もなかなか悪知恵の働くやつよの・・・」 「いえ・・・殿ほどでは、ございませぬ。」 菊地と浅野が、申し合わせたように、同時にくっくっくっと、笑った。 「たとえ、相手が乗ってこなくとも・・・事実を知れば、あちらから遠ざかってゆくでしょう。その時に、京之介様にうんと優しくして差し上げれば・・・きっと京之介様も・・」 「菊地様の御妾と知って、離れぬ者は、よほどの馬鹿か、つわものでございましょうぞ。」 そう言って、浅野が、にんまりと笑った。 「どうやら、わしは、よい家来に恵まれたようじゃのう」 そういうと、菊地は、ふふふと笑いながら、杯に残った酒を一気に飲み干した。 ー続くー レイ 2005年 4月 |
タイトル通り何やら雲行きが悪くなって参りました・・・
どうなるんでしょうか、おふたり・・・;;
それにしても京之介様の色香はすごいですね
これからどんな風に展開していくのか・・・興味津々ですv