その二 籠の鳥
朝から、洋二郎は落ち着かず部屋の中を歩き回っていた。もう、すでに筆も絵の具も紙もすべて机の上に置かれ、主人の手を待つばかりとなっている。昨夜、京之介と約束を交わしたのは良いが、いつ時に来てくれと言うのをすっかり忘れていた自分が疎ましい。もうそろそろ時刻も九つにもなろうとした時、カタリと玄関の方から、音がした。 「岩城殿か?」 逸る心を抑え小走りに開き戸を開けに行く。戸を開けると、日に当たって艶やかさが増した黒髪を後ろに結わえ、淡い紫の衣を羽織った京の介が立っていた。その美しさに洋二郎の鼓動が高く波打つ。 「すまぬ、何時に来ればよいやら、わからなかったので・・・。」 恥じらいながら、俯き加減に話す京之介を、見て洋二郎は、慌てて言う。 「何を言う、私が悪かったのだ。そなたに、約束の時を告げなかったのだから・・・。さあ、中に入ってくれ。」 すらりとした京之介が、歩くたびに、かすかな衣擦れの音が、心地よく洋二郎の耳に届く。 昨日会った時は気づかなかったが、こうして見ると京之介の腰回りが、とても細いことに気づく。 京之介は、洋二郎に進められたとうり、畳に上に正座した。 「髪を、解いてはくれぬか、岩城殿。」 「京之介でよい・・・。」 と、小さく答える。 「で、では、京之介殿、長丁場になるので、楽な姿勢でけっこうでござる。」 そう言うと、洋二郎は座布団と、脇足で、京之介を楽なように、横たわせる。 その時、京之介の着物の裾が僅かに乱れ、均整の取れた白い脹脛と、足首が垣間見えた。それを見た洋二郎は自分の鼓動が突然早くなるのを感じて、思わず目を背けた。 先ほどからの自分の感情が何なのか分からず、うろたえる。 「どうかしたのか?洋二郎殿・・・。」 「い、いや、なんでもござらぬ。では、始めまする。」 京之介が、髪を解く。黒い艶やかな髪が、はらりと肩に落ちる。しどけなく横たわりじっと洋二郎を見つめる。 洋二郎の鼓動がますます早くなる。筆を取る手が微かに震える。その自分の高揚を京之介に悟られまいと、口早に聞いた。 「京之介殿は、どちらの生まれでござるか?」 「知らぬ・・・。物心がついた時は、母とこの江戸にいた。が、その前は良く覚えていないのだ。」 「そうですか・・。そなたの母上なら、さぞかし美しい方であろう・・。」 「母は・・母は、私が十二の時に亡くなった。」 「そ、それは・・・不躾なことを聞いてしまった。許して下され。」 「いい・・。気にすることはない。それよりそなた、どうして、武士言葉で話すのだ?武士の出か?」 「ええ、私の父は侍ですが、でも・・・・。」 「でも、絵描きになったのか・・。ふふ、、そういう私も武士ではないのに、武士言葉が抜けぬ。」 「では、そなたは・・どうして?・・」 「さあ・・、どうしてだろうか・・母に武士言葉を使わされたのだ・・母一人、子一人だったので・・・その訳を聞く前に母は亡くなった。」 「そうか・・2人共、因果なものだな・・・」 と、洋二郎が言うと、京之介が、ふふふと笑った。 少し京之介が、寛いでくれたようなので、洋二郎は心の中で、安堵する。 その時、京之介が、聞いた。 「ひとつ、聞いてもかまわぬか?」 「もちろん」 「そなたには・・・南蛮人の・・・」 そこまで、言って京之介が、言葉を濁らす。 「ああ、私のこの髪の色か?これは、生まれつきだが、私の父も母もれっきとした日本人だ。」 「そうか・・・。すまぬ・・つまらないことを聞いてしまった。」 「いや、いいのだ、皆この髪の色を、不思議がる。幼い頃は、よく虐められたものだ。だが、可笑しなもので、一旦仲良くなってしまえば、皆、私に良くしてくれたが・・・。」 と、洋二郎が、にっこりと笑った。その、微笑みは、まるで輝く太陽のように京之介の心を柔らかく暖める。 「なんとなく・・・分かるような気がする・・・そなたには、陽の気が漂っておるな・・・きっと、皆、その気に癒されるのだ。」 その京之介の言葉を聞いた洋二郎は、今度は、はにかむように笑う。 「不思議だ・・・そなたとは、初めて会った気がしない・・・」 「私もだ・・・京之介殿。」 開け放された障子から、午後の日差しがゆっくりと部屋の中に差込み、家具や畳を明るく照らし出す。 洋二郎は、目を細め、日の光を浴び輝くように美しい京之介を、描く事に没頭した。 * * * 浅野には、まだ、気づかれてはいないようだった。このまま、彼を騙し続けることは、難しいかもしれぬ、と京之介は思う。先日は、舞の稽古に行くといって、母屋を出たが、帰った後、浅野が詳しく稽古のことを聞いてきた。きっと、私が、最近度々出かけるのを怪しんでいるに違いない。 2万石に近いともいわれる越後の大名である菊地克康の囲われ者になってからというもの、菊地の別宅に移り住み、浅野伸之という世話係が、京之介の身の回りの世話をするようになった。彼は、剣にも長け、忠義心もある武士だったので、菊地も京之介の番を頼むには適任だと思ったのであろう。 もう、洋二郎の所には、行かぬ方が良いであろう事は、京之介にも分かっていた。気づかれれば、洋二郎に迷惑が掛かるのは百も承知であったし、自分の素性が知れるのも嫌だった。だが、何故だか、洋二郎に会いたいと思ってしまう気持ちを抑える事ができない自分に戸惑う日々が続く。 彼と居る時は、自分でいられる。洋二郎の前では、私は一人の男としていられる。囲われ者としてではなく・・・一人の人間として。 洋二郎の屈託のない笑顔を、見る度に、心が温かくなり、癒されるのが分かる・・・まるで乾ききった大地が水を欲するように、京之介は洋二郎を欲していた。 「ごめんくだされ、京之介殿・・」 そう声が、障子の外からかかる。 「入れ・・」 静かに、障子が開き、浅野が滑るように座敷に入ってきた。 「お召し換えの着物をお持ちいたしました。これは、菊地様が、わざわざ京より取り揃えられました物でございます。」 浅野は、そういうや否や着物を京之介の前に広げる。美しい金糸の入った花車と牡丹が、裾に施されている見事な濃紺の着物であった。 「そうか・・」 別段、顔色も変えずに京之介が答える。 女を嫌う菊池は、京之介の身支度も、浅野にさせていた。女が、京之介の体に触れるのが嫌だったのかも知れない。 「では、お着物を・・・」 京之介は、立ち上がり、帯を解き始めた。今着ている衣を脱ぎ、白い肌襦袢一枚になる。上質の絹でできたそれは、美しい真珠のような光沢を放ち、京之介の妖しく輝く白い肌をよりいっそう引き立たせる。下着を付けぬ為、京之介の美しく引き締まった形の良い臀部が薄絹の衣の上からもよく見て取れた。浅野は、しばし顔を背け、見てはならぬものを見たように、目を伏せる。 そっと、新しい着物を、京之介の肩に掛ける。京之介の体躯から立ち上る桜の花のような芳しい香りに眩暈を起こしそうになりながらも、手早く着物の前を合わせ、帯を手に取った。心なしか、指が震えていた。 「どうした?」 急に動かなくなった浅野に、不信に思った京之介が、聞いてくる。そして、何を思ったのか、呟くように言った。 「一人で・・大丈夫だ。下がっても良いぞ・・・」 京之介のその言葉に、浅野は、はっとして返答する。 「いえ・・・すみませぬ・・・菊地様に、お世話をするように言われておりますので・・・私が、困ります。」 そう言うと、着物の襟を整え、帯を巻き始めた。 着付けが、終わるといつものように、京之介の長い艶やかな漆黒の髪を櫛で梳き始める。髪を傷めぬよう、静かにゆっくりと、梳かしてゆく。 こうして、京之介の身支度を整えている時が、浅野にとって高嶺の花である京之介に触れられる至福の時である事を、誰が知るであろう。 髪を結いあげると、白く長い美しい頸が、露になる。その頸筋に、今夜、菊地が存分に舌を這わせ愛撫をするに違いないと思うと、嫉妬で胸が悪くなった。 と、同時に、忠義を誓った殿にそのような感情を持つ事に滞りを感じながらも、どうすることもできない自分の性を恨む。 「京之介殿・・・とてもお似合いでございます。」 白い肌に濃紺の絹の着物は映え、京之介の美しさを否応無しに引き立てる。 浅野は、その神々しいまでの美しさに、我を忘れて見惚れた。 「そうか・・・」 京之介が、抑揚のない声で小さく呟いた。 「では、私はこれで・・失礼いたします。」 静かな低い声で浅野は、身支度が終わった事を知らせた。 後ろ髪を引かれるように障子を閉めると、浅野は小さく感嘆の溜息を吐いた。 今の今まで触れていた京之介の滑らかな肌や髪の感触がまだ指に残っている。 その感触に自分の体が恥かしげもなく反応し,昂っているのを感じながらも、浅野は思う。 京之介を、自分のものに出来なくても、こうして傍にいられるだけで幸せではないかと・・・・ 傍にいられるだけで・・・傍にいられるだけで・・・ そう心の中で、浅野は何度も何度も呪文のように繰り返した。 * * * 京之介は、鏡台に映った自分の姿を見つめる。 自分を美しいと思った事が、京之介には無かった。菊地はもとより、周りにいる全ての人間が、京之介の美貌を絶賛する。そして・・洋二郎も・・・例外ではなかった。 だが、自分にはそれが見えない。それどころか、京之介は、自分の容貌を嫌っていた。この白い肌も長い首も整った目鼻立ちも・・・全てが、疎ましかった。もし、このような姿でなければ、自分の運命は違ったものになっていたのではないか、もっと生きたいように生きる事ができたのではないかと思う。 あの女郎屋の女将に、あの雪に日に母と二人助けれた事は、幸運であったのかそれとも不幸であったのか・・・京之介は今でも思案する。 そして、忘れもしない・・・・初めて男に抱かれた16の春の日の事を・・・・ 本来ならば、誰もが心弾む筈の春の日が、京之介には辛い思い出だけを回想させる季節でしかない。 もう・・・昔の事だ・・・今更・・・・・・何が変わるというのだろう・・・・ 京之介は、薄闇が近づく中庭を眺めながら、小さな溜息をつく。 身支度を終え菊池を待っている時間が、今日はいつもよりずっと心苦しく感じられた。いつもなら、身支度を整えるまでに己の全ての感情を取り払っていき、そして、何も感じないようにすることができた。そうすることによって、辛い菊地との営みの時間を幾度となく乗り越えて来れた。例え、体の自由がきかぬとも、誰も自分の心まで自由にすることはできないのだと思ってきた。 それが、どうしたというのだろう。いつもなら今頃は静かに菊地を待つ事ができたはずだと思う。 その時、突然、昨日の昼間に会った洋二郎の事を思い出す。明るい彼の笑い顔を思うと、自然と自分の顔も緩んでくる。 そして、その暖かい洋二郎の笑顔は、京之介を遠い昔へと誘う。 そうだ・・・あの笑顔は・・・まるで・・・ 京之介の瞳は空を舞い、思い出を追う。 「京之介・・・京之介!そんなに走っては、転びますよ・・・」 「早く・・・・母上、ほら、もうあんなに桜の花が咲いて・・・!」 若年の京之介とその母が、笑いながら川辺の桜並木に近づいてくる。 満開の桜の花を見て、母が溜息を吐きながら言った。 「ほう・・本当に見事に咲いて・・・綺麗ですね・・・京之介」 その時、一本の桜の木に京之介は気がつく。 「母上・・・なぜ、あの桜の木だけ花弁の色が薄いのですか?」 「ああ・・・あれは、染井吉野といって、品種が違うのですよ・・・不思議ですね、他は皆八重桜だというのに・・」 「母上、私は、この桜の花が好きです・・」 「そうですね・・・母もですよ・・・京之介」 そういうと、優しく母は笑い、京之介の手を握った。 「母上、また、来年も桜を見に来ましょう」 「そうですね・・・また・・・」 その桜の花弁が舞う春の日に交わした母と子の約束は、果たされる事はなかった。 その年の冬に京之介の母は病床に就き、春を待たずに帰らぬ人となった。 洋二郎の笑顔と、あの春の日の母の笑顔が重なる・・・・ ずっと前に失くした宝物にまた出会えたような不思議な気持ちを、京之介は消し去る事ができなかった。 レイ 2005年 4月 |
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第2回目です
浅野君が登場してきましたv
彼がどのように関わっていくのか・・楽しみです
そして京之介と洋二郎・・・・
この2人がこらからどのようになっていくのか
目が離せませんv
レイさん、お疲れ様ですv