その一 桜の君
洋二郎は、川辺に腰掛け、ぼんやり、日の光を反射してきらきらと輝く水面を見つめていた。 もうすっかり世間は、春めいて暖かい日差しが眩しく、ちらほらと川辺の桜の木も花を付け始めている。 だが、その美しい江戸の風景と裏腹に、洋二郎は重い気持ちに苛まされていた。 すでに、三日もこうして、町を歩き回っている。 呉服屋の七兵衛に、もう何度も早く次の浮世絵が見たいと催促されている。所持金の方も少なくなってきた。 いままで使っていた女人が病気になり、代わりになる美女を探し続けているのだが、なかなか見つけることができない。 苛立だしさに、洋二郎は溜息をついて空を見上げた。 「はあ〜、どこかに居らぬものか〜」 そう独り言を言ったとたん、、向こう岸に一人の青年が桜の木の下でこちらに背を向けて佇んでいるのに気がついた。 すらりとした長身で背格好のよい男であった。何故だか、洋二郎はその男から目を離す事ができない。 その男の顔がどうしても見たくなって、向こう岸に行ってみようかと思った時、ゆっくりと男が振り向いた。 洋二郎は、その男の美しさに息を呑んだ。 その黒髪は、艶々と日を反して輝き、憂いを帯びた青い月のように輝く黒曜石の切れ長の瞳は、一度見たら忘れられないほどの眼力を持ち、そして、その整った鼻梁と赤い唇は、ほのかな色気を漂わせ、肌は、女よりも美しいのではと思うほど白く、淡い真珠のように輝いている。 「見つけた!」 思うや否や洋二郎は、その男に向かって、走り出していた。 やっと、向こう岸に着いた時には、すでに男は桜の木の下から去ろうとしている所だった。 「もし、そなた、お待ちくだされ!」 息を切らして、洋二郎がその青年を呼び止める。 ゆっくりと、男が振り向く。 近くで見ると、ますますその男の稀に見る美しさがよくわかる。白い肌は、染みひとつなく輝き、睫毛も思ったよりずっと長く、瞬きをする度にその頬に影を映す。輝く黒髪は、さらさらと、音を立てるように風に靡きその美顔を引き立てる。 洋二郎は、心の臓を掴まれたように息苦しくなった。 「と、突然の無礼をお許しくだされ・・・・そ、その・・・そなたに・・・頼みがあるのです・・・・」 高鳴る動悸を抑えながら言葉を繋げる。 「私は、浮世絵描きなのですが・・・今、人を探しているのです。ぜひ貴方を描かせて頂きたい・・・お礼はできるだけいたします・・・。」 男が、唇を開き何かを言おうとした時、若い男が、小走りに走り寄ってきた。 「お時間でございます。京之介殿」 「すまぬ・・・急いでいるので・・・」 その美しい男は、申し訳なさそうにに洋二郎に謝ると、背を向ける。 「お、お待ちくだされ・・・!」 と、洋二郎が、男の前に立ちはだかろうとした時、今しがた走ってきた若い男に止められた。 「このお方には関わり合いにならぬ方が、そなたの為ですぞ」 十分に気迫のこもった低い声で若い男はそれだけ言うと、京之介と呼ばれた男と一緒に足早に去って行った。 * * * あれから、何度も、町中のいたる所を探し続けた。 もうあの男には会えないかもしれない、そう思いだしたある日の夜、洋二郎はもう一度だけ、あの川辺に行ってみようと思い立った。 とても静かな夜だった。春の夜に、似つかわしく仄かに暖かい風が頬を横切る。水面には美しい満月が、輝いていた。 ふと、見上げると、一本の桜の木だけが、まだ花を付けずにいるのに気がついた。もう、何度もここに来ているのに、なぜ気がつかなかったのだろう。 よくよく見ると、蕾が付いている。だが、もう他の桜は、すでに咲き誇り、散り始めたものもあると言うのに、不思議にその桜の木だけは、ひとつも花を、咲かせてはいなかった。 洋二郎は、何故かその木が気になり、もっとよく見ようと、傍に寄って行った。 そして、蕾に触ろうとした時、男の凛とした、だが、どこか憂いのある声が背後でした。 「そこにいるのは誰だ?その木の下で何をしている?」 振り向く洋二郎の眼に映ったのは、捜し求めていたあの美しい青年だった。 洋二郎は、あまりの嬉さと信じられない気持ちに、体中が熱くなるのを感じた。 「そなたは・・・いつぞやの絵描き・・・か?」 洋二郎を、じっと見つめていた男が、呟く。 「お、覚えていて下されたのか?そなたを、探してずいぶん苦労した。 もう一度私の話を、聞いてはくれぬか?」 「私に、どうしてほしいと言うのだ。」 「そなたを、どうしても描きたいのだ。私は、浮世絵描きだ。ずっと探していたのだ。見るものを惹きつける物を持っている人を・・・。ひと目見た時に貴方だと思った。お願いだ。そなたを、描かせてはくれまいか。」 その問いには、男は、答えず、ゆっくりと花の咲いていない桜の木を愛でるように見上げると、言った。 「では、桜を・・・桜を描いてはくれぬか?」 「えっ?」 「この桜は染井吉野だ。この桜並木でたった1本の・・・。花が咲いたなら、どんなに美しいであろうと思ってな・・・。描いてくれるのなら・・・そなたの頼みをお聞きしよう。」 「そ、それは、有難い。も、もちろん頼みを聞いてくれるなら、何でもそなたに描こう。でも、この様子ならこの桜もすぐ花をつけると思われるが・・・。」 「そうだな・・・・咲いてくれれば・・・・。」 そう言うと男の美しい横顔が、少しだけ悲しそうに歪んだ気がした。洋二郎は、何故か手を伸ばし男を抱きしめたい衝動に駆られた。 その時、一陣の風が舞い上がり、桜の花弁が男の頭上に舞い落ちる。そのあまりの風情の美しさに洋二郎は、肌が毛羽立つのを感じた。 桜の花弁に縁取られ月の光を映す漆黒の髪、潤んだように妖しく輝く瞳、そして青い月に照らされて肌の白さを際ださせている横顔、その現実離れした美しさが、今にも闇夜に消えてしまいそうな幻のように見える。もし、桜の精などと言う物が存在するのであれば、きっとこのような風貌をしているに違いない。 洋二郎は、逢ったばかりのこの男に強烈に惹かれていく自分が怖かった。 「名乗るのが遅れて申しわけない。私は、香藤洋二郎と申す。そなたの名は・・・?」 「岩城京之介だ。」 「岩城殿、早速、明日にでも私の母屋に来てはくれぬか?大道理の大黒屋の裏手にある母屋だ。表札が出でいるのですぐわかる筈だ。」 「わかった。約束する。」 それだけ言うと、京之介は踵を返し、去っていった。 後には、まだ今、起こったことが信じられなくて放心したままいつまでも桜の木の下に佇む洋二郎の姿だけが残された。 ー続くー レイ 2005年 3月 |
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レイさんの連載スタートです
途中企画を挟みながらになりますが掲載させていただきます
一部某所へリンクする箇所もありますv
春・舞台を変えての岩城さんと香藤くん
そしてこれから登場して来るキャラ達の物語を
お楽しみくださいませ・・・・v
レイさん、ありがとうございます
けして無理をされないでくださいねv