「明日少し時間が遅くまでかかっても大丈夫ですか?」 草加が昨日の別れ際にそんなことを言った…。 特に今日変わったところはない。いつもと同じように秋月が中浜塾で習ってきたことをこの寺の境内で反復したり時勢の事柄について尽きることなく話し合ったりしている。 梅雨どきで空はどんよりとしている。今日も時折小雨がぱらついていてようやく先程になって雨が上がったのだがすっきりした空とは言い難い。それでももう夏なのだ。夕七つを当に過ぎたというのに曇り空でもまだ昼のような明るさだった。 それに少し蒸してきたようだ。 「秋月さんちょっと今日は一緒に行って欲しい所があるのですが、行って頂けますか?」 草加がそう言いながら腰を上げる。 昨日もそうだったが秋月が理由を尋ねても「ちょっと…。」と言葉を濁して笑うだけだった。 草加の笑い顔は、成人の男なのに妙に子供らしいというか屈託がないように見えて憎めない。 そんな顔を見せられると理由を追求することを躊躇させられてしまった。 (一体何処まで行くというのだろう。) 家人には遅くなる旨を伝えてはきたが秋月は少々不安になる。 草加に限って変な場所に誘うことはないと思うのだが寺から随分な道のりを歩いて来させられた。 しかも町から外れて田畑の方に向かっている。 遠くに時の鐘が聞こえてきた。暮六つ…。辺りは薄暗くなってきていた。 「この辺で良いと思います。もう少しここで待っていましょう。」 草加がそう言って何もない草場に腰を下ろした。 目の前にあるのは本当に小さな細い川と丘のような山。 「待っている。」と言っているのだから他の誰かと会わせたいということだろうかと草加の横に腰を下ろした。 辺りは益々暗くなっていく。提灯を持たない自分達はすぐ横の互いの姿を確認することしかできない。 (草加はなにを考えているのか…) そう思って秋月は草加の顔を覗き込もうとしたその時 ――― 小さな光が目に止まる。 (えっ?) 視線を前に戻す…と別の場所にも光が。 川の向こう岸にある小さな山の木々の間や目の前にある川の草の間からやや萌葱がかった黄蘗色の光が輝きだす。 「ほたる……か…。」 今までにも蛍は何度か目にしたことはあったがこんなに一度に多くの数の蛍を見たのは始めてだった。 「凄い、きれいだ…な。」 しばし秋月は時の経つのも忘れて目の前の幻想的な世界に魅入られていた。 (きれいだ…。) そして草加はその秋月の横顔に魅入られていた。 気付けば辺りは真っ暗になっていた。 しかし今宵は望月、雲間からの月明かりの中二人帰り道を歩く。 「秋月さん、ここ雨上がりで泥濘になっていますから気をつけて下さい。」 「あ、すまないな。」 差し出された草加の手に秋月の手が乗せられた。 別段草加に下心があった訳ではない。 しかしその秋月の手のぬくもりが秋月自身のぬくもりに感じられて草加の胸は急激に高まった。 草加の胸の中に恋という名の蛍が静かに舞い始めた。 (終) 【注】一、夕七つ=夏の時期は17:00頃 二、暮六つ= 〃 19:30頃 |
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◆ちづる様作 2003・6・28UP◆