至上の贈り物 



  人は誰でも心の中にさまざまな傷を抱えて生きている。
  平穏で幸せな日常に、あるいはそれ以上傷つかない為に
  普段は心の奥底に隠されているそれが、ふとしたきっか
  けで傷口を開くことがある。
  そして時にそれは人の心のバランスをも崩してしまう。


十二月も半ばを過ぎたある日、岩城はいつもの様に清水の車に送られ自宅へ着いた。
「岩城さん、お疲れ様でした。お渡しした台本はゆっくり目を通されてください
ね。返事は来週いっぱいでいいそうですから。」
後部座席の岩城の手には、オファーのあった数冊の台本が握られていた。
「分かりました。清水さんのお話だとどれも素晴しい作品の様なので、じっくり
読んで検討させて貰いますよ。それじゃあ、お疲れ様でした。」
岩城は車を降りると窓越しに清水に微笑みかける。
「気をつけて帰ってくださいね。」
「はい、ありがとうございます。それじゃあ失礼します。」
清水も笑顔で挨拶を返すと帰って行った。

カチャリ。ドアを開けると人気の無いしんとした家の空気は、外気と変わらない
ほど冷え切っている様な気がした。
(香藤はまだ帰ってないのか…。)
岩城ははまっすぐリビングに向かい、台本をテーブルの上に置くとエアコンの
スイッチを入れる。
冷え切った空気を暖めようと温風が勢いよく吹き出し始めた。
岩城が着替えを済ませてきても、リビングにはまだ肌寒さが残っていた。
ソファーに座り薄手のケットを羽織って台本を読み始める。
清水の言葉どおり素晴しい内容の台本に岩城はすぐに没頭していった。
部屋が十分暖まったのにも気づかず、ケットを羽織ったままで台本を捲り続けて
いた岩城の手がピタリと止まった。
その目はひとつのセリフに縫い止められた様になっていた。

「撮影が押して遅くなっちゃいましたね。」
香藤も仕事を終え、金子の車で自宅へと向かっていた。
「うん。でもまだそんなに遅い時間じゃないし、平気だよ。」
予定では六時過ぎには終わるはずだったのだが、今はもう九時になろうとしていた。
やがて車は自宅の前へ到着した。
「香藤さん、お疲れ様でした。」
「うん。金子さんもお疲れ。」
道路に降り立つと刺す様に冷たい風に襲われ思わず首を竦める。
「うっ、さっむ〜。」
金子の車を見送った香藤が見上げると、リビングに明かりが灯っていた。
「岩城さん、帰ってるんだ。」
香藤は寒さも忘れ、弾む様な足取りで階段を上った。

「ただいまー。岩城さん。」
香藤は勢いよく玄関を開け声を掛ける。
しかし、いつもなら迎えに出てくれる岩城からの返事は無かった。
訝しく思いながら香藤はリビングへ向かう。
「岩城さん。居るんでしょ?」
そう声を掛けながらドアを開けると、岩城はソファーに座っていた。
ドアが開いた事にも気づかず、何か思いつめた様子の岩城に再度声を掛ける。
「岩城さん、どうしたの?岩城さん?」
そっと肩に手を掛けるとやっと香藤に気づいた。
「えっ?あ、香藤。いつ帰ったんだ?気づかなかった。」
驚いた様子の岩城に、香藤はフゥーッと息を漏らし隣に腰を下ろした。
「今戻ったところだよ。ただいま、岩城さん。」
「そうか。出迎えなくて悪かったな。お帰り、香藤。」
そっと唇を寄せ触れるだけのキスを交わす。
「ね、岩城さん。なんか考え込んでたみたいだけど、何かあったの?」
岩城の目を見つめ香藤が問いかける。
岩城は膝の上に置いたままになっていた台本に視線を落とした。
「何も無いよ。オファーを貰った台本を読んでて、入り込み過ぎただけだ。」
そう言って台本をテーブルに置くと立ち上がり軽く伸びをした。
「香藤、コーヒー淹れるけどお前も飲むか?」
「あ、うん。…ねえ岩城さん、本当に何も無い?」
岩城は心配そうに見つめてくる香藤の頭を撫でながら微笑む。
「ああ。本当に何も無いよ。ほら、早く着替えて来い。」
「うん。」
そう応えながらも、香藤はどこか不安を拭い切れないまま、キッチンに向かう岩城の背中を見つめていた。

翌朝、香藤が目を覚ますと、腕の中で眠っていたはずの岩城の姿が無かった。
ゆっくりと首をめぐらすと、窓辺に立ちカーテンを少し開けて外を見つめていた。
その横顔が消えてしまいそうに儚げに見え、香藤は思わず駆け寄り後ろから抱きしめた。
「岩城さんっ!!」
岩城はさして驚いたふうも無く、穏やかな声で香藤に語り掛ける。
「どうした、香藤?」
香藤は自分の不安を上手く言葉に出来ず、抱きしめる腕にさらに力を込める。
その腕が僅かに震えているのを感じた岩城は、そっと自分の片手を重ねる。
そしてもう片方の手で首筋に顔を埋める香藤の頭をあやすように軽く叩いた。
「どうした?何も怖い事なんて無いだろう?それより見てみろ、雪が積もってる。」
「えっ?」
岩城の言葉に驚いて窓の外を見ると、一面に真っ白な雪が積もっていた。
「凄い、綺麗…。」
朝日を反射してきらきら光る美しい光景に思わず感嘆の声が出る。
「ああ、本当に綺麗だな。でもな。」
力の抜けた香藤の腕を外して、岩城がくるりと向き直る。
「道路は渋滞間違いなしだ。清水さん達も早めに迎えに来るだろうから、いつでも出られるように支度しておかないとな。」
「えっ。あっ、そうか。そうだね。」
そこまで考えてもいなかったという様子の香藤に、岩城が小さく苦笑する。
「ほら、いつまでもそんな格好で居ると風邪ひくぞ。ちゃんと上に何か着ろ。」
パジャマ姿の香藤にそう声を掛け岩城は階下へと向かう。
「あ、うん。」
香藤もガウンを羽織ると岩城の後を追った。

すっかり身支度を整えた二人はリビングに居た。
負けず劣らず有能なそれぞれのマネージャーからも、早めに迎えに行くとの連絡が入っていた。
「結構積もってるね。四〜五センチってとこかな?」
香藤は窓辺に立ち外を眺めていた。
「ああ、そうだな。でも東京でこの時期に雪が積もるなんて珍しいな。」
ソファーに座ったままで岩城が応える。
「そうだねー。今頃雪が降るってだけでも余り無いのに、積もるのなんて本当に久しぶりじゃない?」
香藤もソファーへとやってきて隣に腰を下ろした。
「そうだな。新潟じゃ今頃雪が積もるのなんて珍しくも無いのにな。」
岩城の視線が足元に落ちる。
「ね、さっき上でその事思い出してた?」
「えっ?」
香藤の問いに岩城が顔を上げた。
「なんか遠くを見てるみたいだったからさ。さっきの岩城さん。新潟の事思い出してたのかなって。」
どこか寂しげな様子の香藤に、岩城がそっと凭れ掛かる。
「ああ、おふくろの事思い出してた。雪の中はしゃぎ回って服を濡らしてよく怒られたもんだ。」
「へえ〜。岩城さんでもそんな事してたんだね。」
「当たり前だ。俺だってごく普通の子供だったんだからな。」
「そうなの?岩城さんはお坊ちゃまだから、俺とは違ってお上品だったと思ってた。ほら、久子さんも<京介ぼっちゃま>って呼んでたし。」
イタズラっぽく笑ってウィンクをする香藤の頭を顔を真っ赤にした岩城が殴る。
「人をからかうんじゃない。大体、新潟は雪国だぞ。雪遊びをしなかったら冬なんてする遊びがないじゃないか。新潟じゃこの程度じゃ積もったうちに入らない位たくさん積もるからな。」
岩城はふいっと窓の外へと目をやった。
「ごめん、岩城さん。」
香藤も殴られた所を撫でながら窓へと視線を向ける。
「でも、そうだよね。お正月に岩城さんの実家に行った時もいっぱい積もってたもんね。」
「ああそうだったな。もうすぐあれから一年か。早いもんだな。」
「ホントだね。」
その後も取り留めのない会話をしているうちに清水がやって来た。
「じゃあ香藤、行ってくるからな。」
「うん、行ってらっしゃい。気をつけてね。」
「ああ。お前も気をつけて行けよ。」
玄関で岩城を見送っていた香藤は、ふいにその姿が雪が反射する眩しい光の中に解けて消えてしまいそうな感覚に襲われた。
「岩城さんっ!」
思わず門まで駆け下りたが、岩城は気づかずに出発してしまった。
「岩城さん…。」
夕べからの事も相俟って、香藤は言い知れぬ不安を感じ暫くそこに立ち尽くしていた。

午後になり、岩城はドラマのリハーサルに望んでいた。
岩城は年明けから放送開始の宮坂主演の学園ドラマに友情出演していた。
宮坂演じる熱血教師「石井」のよき相談相手となる先輩教師「鷹秋」役である。
出演は二〜三話ごとに一度で、ごく短いシーンのみとなっていた。
今日の収録もごく短い物になるはずだった。
予鈴が鳴っても階段でふざけ合っている生徒達を岩城が促し一緒に昇って行く、それだけのシーンだった。
「じゃ、リハーサルいきまーす。」
スタッフの声でそれぞれが位置につく。
「スタート」
監督の声とともに階段の中ほどで生徒役の少女達がじゃれ始める。
それを見上げて岩城が階段を数段昇ったところで突然、少女の一人がバランスを
崩して階段を踏み外し岩城の方へと倒れて来た。
岩城は支え様として支えきれず、少女を抱きかかえたまま階段から転落してしまった。
「キャーーッ!!」
階段に取り残されたもう一人の少女の悲鳴が響き渡り、直後、一瞬凍り付いたかの様になっていたスタッフ達が二人に駆け寄る。
「大丈夫ですかっ!?」
スタッフの声に岩城に抱きかかえられていた少女はゆっくりと身体を起こしたが
、岩城は意識を失っておりピクリとも動かなかった。
「岩城さん?岩城さん!?しっかりしてくださいっ!」
「頭を打っているだろうから動かさない方がいい。」
「おいっ、早く救急車を呼べ!」
現場は一気に騒然とした空気に包まれていった。

香藤が岩城の事故を知らされたのは夜になってからだった。
香藤も正月明けから主演ドラマが放送される事になっていた。
スタジオに缶詰状態で今日の撮影予定を終えると同時に金子が駆け寄って来た。
「香藤さん、大変です!」
「岩城さんが怪我!それって何時の事?どうしてもっと早く教えてくれなかったの!?分かってたんでしょう!?」
激昂して詰め寄る香藤に金子が申し訳なさそうに答える。
「すみません。でもまだはっきりした事が分かってませんでしたし。香藤さんはきちんとお仕事される方だと分かっていても、影響が出るのが怖かったんです。」
金子のあまりの恐縮振りに香藤が落ち着いて周りを見ると、スタジオに緘口令が布かれていたらしく、たった今ニュースを聞いたばかりの俳優やスタッフ達がざわめいていた。

「岩城さんの容態はどうなの?病院へは行けるの?」
スタジオを出て足早に控え室に向かいながら香藤が訊ねる。
「いえ、それが…。まだ詳しい連絡は無くて。ただ今夜のところは安静が必要なので香藤さんが行かれても面会は出来ないとの事でした。」
「そんな!」
金子の言葉に香藤が思わず大声を出す。
「あ、ごめん金子さん。会えないなんて、岩城さんの具合そんなに悪いのかな?」
廊下に響いた自分の声ですぐに我に返り金子に詫びる。
「いえ、いいんです。岩城さんの事はただ安静が必要だとしか聞いてませんので
。すみません。お役に立てなくて。」
「あ〜そんな恐縮しないで。連絡が無いんだもん。分からなくても仕方無いよ。きっとそのうち清水さんが連絡くれると思うから。気にしないで。」
「はい。ありがとうございます。」
申し訳なさそうに俯いていた金子が香藤の言葉にやっと顔を上げた。
「とにかく、今夜は大人しく家に帰って連絡を待ってみるよ。」
「はい。分かりました。お送りします。」

その後、外で待ち構えていたマスコミの質問攻めを適当に言葉を濁してかわし、家へと帰りついた。
明かりの灯らない真っ暗な家の鍵を開け玄関へと入る。
ガチャン。扉の閉まる音がしんとした家にやけに大きく響いた。
香藤は靴を脱ぎ捨てるとリビングに駆け込み明かりを点ける。
エアコンのスイッチを入れ最大出力にすると、ソファーの上で膝を抱えた。
(きっとこんなに不安になるのはこの部屋が寒いからだ。)
香藤は膝に顔を埋めながらそう自分に言い聞かせた。
暫くして部屋が暖まると本当に精神的に少し落ち着いてきて、金子が調達してくれていた夕食を食べシャワーを浴びた。
しかし、岩城の居ない寝室で一人眠る気にはなれず、明かりを点けたままリビン
グのソファーで眠る事にした。
岩城の事が気になりなかなか寝付けずにいたが、疲れのせいかいつの間にか眠っていった。
朝になり目覚めた香藤がテレビをつけると各局で岩城の怪我が報道されていた。
やはり詳しい情報は無く、容態については今日の午前中に所属事務所から発表されるとの事だった。
(岩城さん。大丈夫だよね。)
香藤は祈る様な気持ちで、画面に映し出された岩城の姿を見つめていた。

「香藤さん。清水さんから連絡無かったんですか?」
仕事へと向かう車の中で、ルームミラーに映る香藤の姿が元気がないのを見かねて金子が声を掛ける。
「いや、あったよ。あったんだけどね…。」
香藤の表情がさらに沈んだ物になる。
「岩城さんの怪我、酷いんですか?」
「うん?怪我自体はね、頭と全身の打撲。それと右手の甲の骨にひびが入ってて、全治三週間だって。検査の結果脳の方にも異常はないらしいんだ。ただ…。」
「ただ…?」
金子がゴクリと唾を飲み込む。
「事故から半日以上経つのに、まだ意識が戻らないんだって。夜になっても戻らないようならもう一度脳の検査をし直すんだって。」
香藤は俯き顔を手で覆う。
「…そう、ですか…。」
金子もそれ以上どう言っていいのか分からなかった。暫く車の中に重い空気が漂う。
と、突然香藤がガバッと顔を上げた。
「金子さん。俺ちゃんと仕事するから心配しないで。そうしないと目覚ました岩城さんに怒られちゃうしね。それから岩城さんの意識が戻ってない事オフレコにしてくれって。マスコミにもその事は伏せて怪我の状態だけを発表するらしいから。」
不安を振り払う様に、無理に明るく振舞おうとする香藤の姿が痛々しい。
「分かりました。この事は誰にも喋りませんから。大丈夫。きっと岩城さんも夜までには意識が戻られますよ。」
自分の言葉が気休めにしかならない事が分かっていながらも、金子はそう言わずにはいられなかった。

その日の午後になって事務所での雑事を終えた清水が病院へやって来た。
看護師に岩城の容態を確認し、そっと病室のドアを開ける。
岩城はまだ意識を取り戻す事無く眠り続けていた。
いつもは凛とした美しさの中にも人柄の温かさを滲ませているその顔が、表情を感じられない今は人形の様に見える。ベッドの側の椅子に座り、清水は静かに話し掛ける。
「岩城さん。早く目を覚ましてください。たくさんのファンの方達が待ってますよ。香藤さんも心配なさってます。早く目を覚まして安心させてあげてください。」
すると、清水の声に反応するかの様に岩城の瞼が僅かに震えた。
それに気づいた清水は祈る様な気持ちで岩城の名前を呼んだ。
「岩城さん。岩城さん!聞こえますか?目を開けてください!」
それに応える様に岩城の長い睫が震え、ゆっくりと瞼が開かれた。
「岩城さん。あ〜良かった。気が付かれたんですね。どこか痛む所とかありますか?」
清水は安堵の溜息をつき、ナースコールを押した。
岩城はゆっくりと瞬きを繰り返しながら辺りを見回していたが、やがて清水に視線を戻し訊いた。
「…ここ、どこですか?」
「ここは病院ですよ。覚えておられませんか?岩城さん、リハーサル中に階段から落ちて怪我をされたんですよ。」
岩城は記憶が定かではないのかぼんやりと中空を見つめていたが、再び清水へ視線を向け問いかけた。
「僕、階段から落ちたんですか?」
「ええ、共演の女優さんを庇って……」
そこまで言って清水はハッとした。
(岩城さん、今御自分の事を僕って。今までは俺って仰ってたのに…)
胸の中に不安が一気に湧き上がる
岩城は不安げに瞳を揺らしながら清水をじっと見つめもう一度問いを発した。
「…お姉さん、誰ですか?」

岩城の意識が戻ったとの知らせを受け、香藤は金子とともに病院へ向かっていた。
しかし、その顔には不安の色がありありと浮かんでいた。
「岩城さんと面会する前に先生から話があるから金子さんにも立ち会って欲しい
なんて…。岩城さんに何かあったのかな?」
金子には答えられないと分かっていながらも、香藤は訊かずにいられなかった。
「………」
金子も香藤が気休めでもいいから楽観的な答えを期待していると知りながら、今
の状況では何も言えなかった。