アイ セイ ノー 香藤が、少し寒そうにしている彼女の肩に、自分のジャケットを脱いでかけた。 「あっ・・・」 驚いて自分の上にある香藤の顔を、彼女は見上げた。 白のオフネックセーターに身を包んだ香藤は、ニコッと笑って「俺は大丈夫だから」と、口にした。 彼女は少し頬を染めて俯いた。 そこで、大きく、カットの声が入り、皆一同、息をついた。 香藤は雪が降り出している空を見上げて、「ううっ・・・ホント、寒いよね、ここ」と言って、隣の美津ヨリカを見下ろした。 美津は黙って、コクンと頷いていた。 『白い空間』という映画を撮り始めて、1ヶ月くらいになる。 香藤と美津ヨリカのラブストーリーは、昨年ベストセラーになっている『白い空間』の映画化で、主演の香藤に、 相手役は今年18歳になったばかりの美津ヨリカだった。 美津ヨリカは、今まで映画を1本だけ撮っており、それは記録的なヒットとなっていた。 女優として彼女はキャリアこそ浅かったが、非常に事務所などに大切に育てられている存在だった。 香藤も実際、こうやって仕事を一緒にしてみると、そのことがよく理解できた。 彼女はこの映画の女性に重なる、清楚なはかなさ、柔らかな愛らしさを持っている、とても透明感のある 女優だった。 香藤が演じる、須貝公太というイラストレーターは27歳、美津が演じる、檀春美という大学で美術を学ぶ ヒロインは18歳で、美津の歳そのままだった。 須貝の所でバイトをする檀が、徐々に須貝に惹かれ、恋をする。真面目で無垢な彼女を前に、須貝は その気持ちを知りながら、受け入れることが出来ない。 なぜなら、須貝は自分の右腕が、いずれ手術で切断しなければいけない病魔が巣食っていることを知 っていたからだった。 実話に基づいた話は美しい悲恋として、昨年テレビドラマ化された折も高視聴率を保ち、今回待ち望 まれて映画化、となった。 次のシーンを撮るまで、休憩が入り、皆、それぞれの場所で休んでいた。 香藤と美津はテント下の椅子に座り、それぞれのマネージャーが飲み物などを手渡していた。 ふと美津が「あっ・・・これ・・」と、先ほどかけてもらったままになっていた香藤のジャケットを 脱ぎかけた。 「あっいいからいいから、そのままで、俺、もうコート羽織っちゃってるしさ」 笑顔で答える香藤の横で、消えそうな声で「すみません・・・」と、美津は答えていた。 香藤が、クスッと笑い、「ヨリカちゃんって、いっつもそうなの?」と、訊いた。 「えっ?」と、不思議そうな表情を向ける美津に、香藤は笑いながら言った。 「内気」 「あ・・・・そ・・・そうです・・・私・・・」 「俺の妹なんかさ・・・ヨリカちゃんとは全く正反対っていうか・・・もう、はっきりしてるわ、言いたい こと言うわで・・・可愛いのか可愛くないのか」 そう言って、香藤は声を出して笑った。 「・・・・でも・・・羨ましいです・・・・香藤さんみたいな・・・お兄さん・・・」 「そうそう。そう思うでしょ。俺みたいな優しくてかっこいい兄貴が居るなんて、もっと感謝して欲しいよなぁ」 美津は小さな声で笑った。 横から美津のマネージャーが言った。 「香藤さん、今度の映画でしっかりヨリカを鍛えてやってくださいね、本当にこの子、これからこの 世界でやっていけるのかしらって、心配になるくらい気弱で・・・」 美津は黙って俯いていた。 「いいんじゃないかなぁ・・・。きっとそのまんまの方が・・・人間どうしなくても強くなってくも んだし・・・出来るだけそのまんまで居られれば・・・それがヨリカちゃんのいいとこ、でもあるわけだしさ」 そう優しく答える香藤に、美津ヨリカがますます小さくなっていた。 恋愛経験もないまま、社会人としての生活がスタートした無垢な女優が、2本目の出演作で出会った 共演者に、役のまま実生活でも恋に落ちることなど、至極当然の流れだった。 香藤の知らぬところで、美津の心は急速に香藤へと傾き、初めての恋の深みにはまっていっていた。 当然、美津は知っていた。香藤には岩城京介という愛する人間が存在する、ということを。 だからこそ美津は誰にも知られず、密かに恋をしていた。 毎日香藤と演技で恋のやり取りをする・・・・隠れて恋をするには、美津の置かれている環境は余り に残酷なものだった。 ホテルのティールームで、岩城は向かいに座っているインタビュアーへ、静かに、そして誠実にひと つひとつの問いに答えを返していた。 少し椅子を離して、清水がその様子を見守っていた。 一通りのインタビューが終了した後、「そういえば・・・」と、インタビュアーが思い立ったように言った。 「そういえば、香藤さん、今、撮ってらっしゃるんですよね、『白い空間』・・・」 「ああ、はい。そうですね」 「確か・・・美津ヨリカさんと共演ですよね・・・岩城さん、彼女とはお仕事なさったことおありですか?」 「はい、コマーシャルの仕事で・・・・・・1年位前に」 「・・・・ああ、そうでしたね、車のCM」 「はい」 「あれ・・・よかったですよね。彼女が待っているところへ、岩城さんが車で迎えに行って・・・窓から呼ぶ 岩城さんに、彼女が走り寄っていって・・・お2人ともとっても素敵でした」 岩城は1年前の撮影を思い出していた。 美津ヨリカはまだこの世界に入って間もなく、たどたどしさを感じさせる動きの中、それでも一生懸 命努力している姿に、とても好感が持てた。 非常に内気で、岩城が手を繋ぐだけで、顔を赤くしていた彼女だった。 「今度の『白い空間』、香藤さんと美津さん、本当にベストキャスティグだと思います。監督もいいですし、 絶対いいものが出来上がると、私、思います」 そう口にするインタビュアーに、「ええ、本当に、僕もそう思います」と、岩城は答えた。 岩城は心から、そう願っていた。 香藤の仕事として上手くいって欲しい、という、それは勿論のこと、美津のことを考えても、いい作品に 仕上がればいい、と、思っていた。 「岩城さんっ!!寒いから、早く早く!!」 ベッドの上でリネンの中から、香藤の右手が伸びて泳いでいた。 その手に誘われるように、岩城は同じベッドへ滑り込んだ。 その体に、香藤の体が巻きついてきた。 「・・う〜ん・・気持ちいい」 「人を・・・湯たんぽみたいに・・・」 「違うって!俺が湯たんぽ!暖めてあげてるんじゃん」 「・・・・」 こんな子供のようなことを楽しめるのも、こいつがいるからだな、と、岩城は呆れもしていたが、楽しん でもいた。 無言でいる岩城の首に、香藤の唇がぴったりとひっつき、「いい匂い」と言いながら、鼻を擦り付けていた。 湿った息をそこに感じながら、岩城は「どうだ・・・?撮りは順調か・・?」と、訊いた。 「・・・ん?」 香藤は、岩城の首筋から僅かに口を離し、「順調だよ」と、答えた。 「・・・今日・・雑誌のインタビューアーがきっといいものに仕上がるって・・・言ってた」 岩城の言葉に、香藤は顔を上げ、ニコッと笑った。 「そ・・?嬉しいなぁ・・・ホントにいい感じで進んでるし・・・ヨリカちゃんがいい味だしてるからね・・・」 「ああ・・・彼女なら・・・そうだろうな」 「・・・・そっか・・・岩城さん・・・一緒に撮ったことあるんだった・・・」 「・・・忘れてたか・・・?」 「ううん・・・そうじゃなくて・・・あんとき、すっごい岩城さん、ナイスガイでさ・・・俺、目が釘付け!! 相手の子、目に入ってなかっただけ」 クスッと笑った岩城は、ポツンと「とっても・・・いい子だった」と、口にした。 うん、と、香藤も頷き、「すっごくいい子・・・でも・・・」と、ちょっと言いよどんだ。 なんだ?と、岩城が表情で問うと、香藤は言った。 「・・・いい子すぎて・・・・どうなんだかなぁ・・・って・・」 「・・・・何が・・・?」 「・・・・だってさぁ・・・今回、ラブストーリーじゃん、あるんだよ、キスシーンもベッドシーンもさ・・・」 「・・・・・・・ベッドシーンもあるのか・・・?」 「・・・うん・・・いや、脱がないんだけどさ、実際は・・・でも、それなりに・・・その過程は撮るからさ・・・ 何か俺・・・すっごい悪いことしてるみたいでさ・・・」 「・・・・・・・・」 「何・・?嫉妬しちゃった?」 「・・いや・・・そうじゃなくて・・・」 そう言った岩城を見て、香藤はちょっと小さく溜息をついた。 互いが同じレベルで思考していることが、手に取るように感じ取れた。 「・・まあ俺も、そんなこと言ってても、実際、いいもの作りたいのが最優先、だからさ、彼女も判ってこの 世界入ってるんだし」 そう言いながら、香藤は、思い切ったように岩城に重なり、唇を合せてきた。 既に熱を持った下半身を岩城に押し付けながら、香藤は自分の欲望を訴えた。 「俳優としては・・・失格なのかもしれないけどさ・・・・俺・・・いっつも・・・岩城さんだったらって・・・岩城さんを 好きって気持ちと・・・・シンクロしちゃうから・・・」 そんな事を言いながら岩城の腿に割り込んでくる香藤に、しんなりと絡みつきながら、「・・ばか・・・」と、岩城 の口が言葉を紡いだ。 思いつめた表情で見上げる美津の前に、香藤はゆっくりと進み、そっとその頬に触れた。 ビクッと美津の体が揺らぎ、それと同時に、香藤の顔が美津に重なり唇にも重なった。 今朝、美津はセットに入ったときから、緊張していた。 香藤は、さりげなく冗談を言いながらムードを和らげる努力をしていた。 今日、ヒロインである檀は、須貝のアトリエで須貝と結ばれる。 実際のリアルな絵は飛ばしても、キスからソファーになだれ込む、そしてその先を予感させるイント ロダクションは、どうしても必要だった。 美津の初演の映画は学園物、そこにキスシーンはおろか手を繋ぐシーンさえなかった。 徐々に口数が少なくなる美津は、2人で出を待つ間、小さくこう言った。 「・・・私・・・・田舎の高校で・・・そこからそのまま・・・こうやってお仕事をすることになって・・・・その・・・ 男の人とお付き合いをしたことが・・・・なくて・・・・だから・・・」 「ヨリカちゃん」 香藤がそんな言い訳を口にする美津の傍で声をかけた。 「これまでどう生きてきたかなんて、気にすることないんだよ。スクリーンの中に居るヨリカちゃん は檀春美、その子を演じるのが女優なんだからさ」 コクンと、無言で美津は頷き、小さな声で「すみません・・」と言った。 香藤は優しく笑っていた。 「謝らなくったっていいよ。俺なんかさぁ、実生活がこれだけバレバレでさ、それでも、スクリーン の中ではヨリカちゃんを愛してるって、誰が見てもそう見えるように演じきろうって、努力してる・ ・・・だから、そんな事言ってたら切りないよ・・・・それに・・」 じっと香藤の話す言葉に耳を傾けていた美津だった。 「それにさ・・・ヨリカちゃんはきっと・・・結構、檀春美に近い、と思うよ。だから、あんまり気にせず自然体で大丈夫だよ」 そう言ってニコッと笑う香藤に、美津も顔を緩め笑った。 そんな2人に、入りを伝える号令がかかった。 ゆっくり立ち上がる美津に、香藤は言った。 「ヨリカちゃん、そのままでいいから・・・・ただ力抜いて、自然に檀になって俺を好きだと思ってくれたら・・・ 俺は絶対無理はしないから・・・」 そうやって始まったその日の撮影だった、が、しかし、撮ってみれば全てがスムーズに進み、1回でOKが出た。 香藤のリードも上手かった。 そして何よりも、美津は実際、香藤に触れられると、自分でも予想できなかったほど体も心もそのまま自然に、 自分を抱きしめる腕に寄りかかることが出来た。 心は幸せに満ち、頬は熱くなり、この腕にずっと抱きしめられたままでいたいと思った。 香藤に引き寄せられながらソファーに沈む体を、その強く優しい腕に抱きとめられながら、柔らかな 髪が自分の頬にかかり、その頬に触れる香藤の唇と、自分の右手に合せられた香藤の手のひらの感触 が嬉しく、開いたシャツの隙間から流れ出てきた香りに、眩暈を覚えた。 この甘美な高揚、そして不思議な安心感はなんだろう・・・と、美津は思った。 何も考えず、ただこの人の腕の中に居たい・・・ただそこに包まれているだけで、これから先、どんな苦難も 乗り越えられる、この腕が守ってくれる、と・・・美津は生まれて初めて、愛されることの喜びを感じていた。 後でラッシュを見ると、スクリーンの中の美津は檀そのものの、至福の幸せに満ち満ちた表情をしていた。 「凄くいいよ。ヨリカちゃん」 監督に言われ、赤い顔を下に、ボソッと「香藤さんの・・・リードが・・・・・」と口を動かした。 「ウン、さすがだよねぇ、俺、いい男だなぁ」 軽口をたたく香藤に、「香藤くん、俺が褒めようとする前に自分で言ってちゃさぁ・・」と監督が言い、皆が笑った。 美津は今まで味わったことのない気持ちに包まれ、体がふわふわと浮き立っていた。 いつも以上に、目の前に立つ香藤の姿から目を離すことが出来ず、今まで然程気にすることもなかっ た、首の線や指の動き、その先にある爪までの細部が、ひとつひとつ目に留まっていた。 この人は、何が好きで、どうやって服を脱ぎ、そして眠るのだろう、と、その見えない姿を思った。 そこに、金子が香藤の携帯電話を持って来た。 「岩城さんです」 小さな声で香藤に告げ、携帯を渡すと、受け取った香藤は、「ちょっと失礼します」と言い、その場から少し離れた。 美津の目には、嬉しそうな表情で見えぬ相手と話す香藤が映っていた。 美津の幸福感も、然程永くは続くはずもなかった。 一瞬、忘れていたことを、しっかり突きつけられ、美津の胸がきしんで痛んだ。 こんな痛みも初めてだった。 いい香りのする美しい髪を持ち、優しい目で見つめ、素敵な笑顔で暖かい言葉を話す、この目の前の 彼が守る人は私ではない、彼が自分を好きになってくれることはないのだから、と、頭に言葉を並べ復唱し、 何度も何度も自分に言い聞かせる美津だった。 その後、どんなシーンを撮るときも、美津は演じながら演じる必要がなかった。 スクリーンの中で須貝に恋をしながら香藤に恋をしている、そこに居る美津は、今までのどの画面に 映る彼女よりも美しく輝いていた。 撮影の中で1度だけ使う携帯電話を、2人は自分のものをそのまま使用していた。 互いの番号を登録してはいたが、そこにある2人の思いにも歴然とした差があった。 美津のほうは、「香藤さん」、香藤の携帯電話に登録されている美津の名は、「檀春美」、だった。 1人になると声が聞きたくなり、美津が自分の携帯電話を握り締め、思い悩むことなど、数えられぬほどあった。 ただあの声で、名前を呼んでもらうだけでよかった。 しかし、彼女は、ボタンひとつ押すだけの勇気など、絶対に持ち合わせない、そんな性質だった。 いつでも声の聞ける岩城が、心の底から羨ましいと思った。 あの人に愛される、それはどれ程幸せだろう、と・・・・。 12月の中に始まった撮影は、春に入る頃、無事、最終段階に入っていた。 「最近、ヨリカちゃん、少し痩せた?」 スタッフに言われ、香藤もそんな彼女を見て、頷いていた。 「もう・・・この子、あんまり食べないんです・・・困っちゃって・・・」 マネージャーがそう告げた。 「だめだよ、ちゃんと食べなきゃ、食べるのも仕事のうち、ってね、そう考えて」 香藤がやんわりと諭した。 真っ白な美津の心は、この撮影を無事終了させる、そのためだけに必死で息をしている、ということ を、誰も知らなかった。 香藤に会いたくて撮影に来る・・・会って幸せを感じ、そして苦しむ・・・この2ヶ月はその繰り返しだった。 それでも会えている内は幸せだった。後何日、こうやって、傍で仕事が出来るのだろう。 指を折るようにして日を数えながら、最終日はあっという間にやってきた。 その日須貝は、自分が腕を切断しなければいけないことを告げぬまま、檀が待つ部屋へは帰らず、そ のまま姿を消す。 部屋を出るときに、「今日は晩御飯、作って待ってる・・・・」と、檀が言い、その彼女を抱きしめ た後、「うん」と、須貝が答える、それが最後のセリフだった。 2人ひとつの部屋で入りを待っていると、金子がドアを開け、「香藤さん、ちょっとすみません」と 呼んだ。 香藤は立ち上がり、部屋を金子について出て行った。 香藤が出て行った後の椅子には、香藤が脱いでいたジャケットが無造作にかかっていた。 美津は、ふっと手を伸ばし、そのジャケットを取った。 両手でジャケットを顔の近くに寄せると、香藤の香りが漂ってきた。 すぐ返さなければ、と思いながら、手に持ったものを美津は放すことが出来ないでいた。 知らずその手はジャケットを抱きしめ、そうするうちに、頬にツッと涙が伝った。 今日で撮影は終わる。 それがどういうことなのか、こうやってこの場所へ来れば会えていた人は、もう明日からは目の前か ら消え、偶然が訪れなければ会えなくなる。考えると頭がおかしくなりそうだった。 恋をしたことがない、それは自分の体に沸き起こる感情を、いったいどうすればいいのかも判らず、 ただ美津は香藤への想いに翻弄されるばかりだった。 撮影がある、泣いてはいけない・・と、必死で自分と戦って、やっとの思いでジャケットを手放し、 元の椅子にかけ、急いで涙を拭いて鏡で顔を確認した。 しかし、美津は気がついていなかった。 香藤は、金子に呼ばれ、30秒もしないうちに、部屋へ帰っていた。 ドアは美津の背中にあり、開ければ美津の丸い背中と、そして鏡に映った、自分のジャケットを抱き しめて泣いている姿が、香藤の目に飛び込んできた。 3秒、その姿を見て、香藤はすぐにドアを閉め、再び外へ出た。 美津は自分に恋をしている。 確信は早かった。 少し前から感じ始めていたことが、今、香藤の中で確信に変った。 演技の中で見せる、自分を見つめる美津の視線の熱さ、それが、演技が終了しても変ることのない熱 を発散していた。そして、その視線が、いつどこに居ても自分を追いかけていた。 数週間前から、危ない、と感じ、香藤はさりげなく美津に距離を置くことを心がけていた。 それは自分のためではない、美津のためだった。 自分はけっしてその気持ちに答えることはない。 それは、たとえ相手が誰であろうと、香藤の中で生涯変ることはない。 ただ黙って自分に想いを寄せている人間に、そのことをいちいち説明することは出来ない。 時の流れが美津の心の中に諦めを生むことを、香藤はただ待っていた。 しかし、今日1日は恋人でいなければいけない。 香藤はそのまま部屋へは帰らずに、撮影現場へと向かった。 15分ほどたって撮影が開始された。 最終シーンは、難航した。 結局8回やり直し、9回目にやっとOKが出た。 終了したときの美津は、そこに倒れこまんばかりの状態だった。 「今日は晩御飯、作って待ってる・・・・」と、檀は笑顔で須貝を送り出す。 そのときの檀は、須貝が再び帰宅するものと信じている。だから、笑顔でなければいけない。 しかし、美津は香藤に抱きしめられているときから、目に滲む涙を、どうしても制御することが出来なくなっていた。 「すみません」「ごめんなさ」と、何度も頭を下げながら、なんとか笑顔を作ろうとしている美津の 姿は、痛々しく、哀れでもあった。 優しい言葉をかけることは容易かった、が、香藤はけっして慰めはしなかった。 ただ黙って、演技に没頭した。心の中で美津に向かって、強くなれ、と、声をかけながら・・・・。 |