こういった一連のことはそのまま、岩城の知らぬところで時が解決するはずだった。 しかし、思わぬ事態から、全てが岩城の知るところとなった。 撮影が終了し、打ち上げ、ラッシュの鑑賞、宣伝を目的としたテレビ、ラジオへの出演など、クラン クアップしたからといっても、その後も結構な頻度で、互いに顔を会わせる機会がどうしなくとも訪 れるはず、だった。 しかし、そのいずれの場所へも、美津は顔を出さなかった。 体調を崩している、と、マネージャーから説明を受けた。 香藤は1人で精力的に宣伝活動に動きながら、気持ちの中で美津の状態が全く気になっていないか、 といえばそんなわけはなかった。 10日近く仕事に復帰できないことを考えれば、それ程のことなのだろうと、想像できた。 しかし、自分に出来ることは何もない、と、思っていた。 そして、2週間ほどして、美津は仕事に復帰した。 テレビのトーク番組に1人でのゲスト出演、だった。 その番組へ美津が出る同じ日に、岩城も同局での仕事が入っていた。 すれ違わなければそれだけ、だった、が、2人は局の喫茶室で鉢合わせてしまった。 1人、テーブルで座っている美津を見つけた岩城は、当然のこと、声をかけた。 以前一緒に仕事をしている、最近は香藤と映画を撮った、岩城が偶然見かけた美津に声をかけるのは 当たり前の行動だった。 「こんにちは」 そう優しく声をかけられ、驚いて美津は顔を上げ、それが岩城であることを知り、あっと、驚きなが ら、咄嗟に何とか「こんにちは」と、挨拶を返した。 おもむろに立ち上がり頭を下げようとした美津を、岩城が「いいから、座ってて」と、やんわりと制した。 美津の目の前には、口をつけないまま冷め切った紅茶が置かれていた。 「・・・体・・・もう大丈夫なの?」 岩城は香藤から聞いて、美津が体調を崩し、1人で動いていることを知っていた。 確かに、目の前に居る美津は、メークで隠せない疲労が見えていた。 「・・はい・・ありがとうございます」 消え入りそうな声で、美津が答えていた。 「そう・・よかった。映画も、きっといいものに仕上がってるだろうから・・・これからだね」 そう言って、ニコッと笑うと、岩城は、じゃあ、と、そこを去ろうとしたそのときだった。 下から、「あの・・・香藤さんは・・・」と、美津の小さな声が追いかけてきた。 「えっ・・?香藤?」 岩城がそう確かめて顔を向けると、美津は慌てて、「すみません・・・何でも・・ありません・・失 礼しました」と、自分の脇のバッグを掴んで、ガタガタと逃げるようにそこから小走りに去っていった。 その後姿を、岩城は呆然と見送った。 いったいどうしたというのだろう、自分が何か嫌なことでも言っただろうか、と、そんな事を頭に思 い巡らしながら、ふと、美津の座っていたテーブルを見下ろすと、そこに、ブルーの薄いシステム手 帳が置いてあった。 美津が忘れて行ったのだと、すぐに判った。 追いかけて届けなければ、と、岩城の右手がそれを取り上げようとして、焦りから掴み損ねフロアに 落としてしまった。 バサっと音をたてて手帳が落ち、フロアからそれを拾うため膝を折った岩城は、瞬間、ブルーの手帳 の角から、写真が覗いていることに気がついた。 岩城は咄嗟に手を引き、それを凝視した。 3分の1しか見えていないその絵、しかし、岩城には絶対に見間違うはずのない栗色の髪と少し見え ている瞳、だった。 引き付けられるように手帳を手にした岩城は、そっと、覗いている写真の角を僅かに引いた。 そこに現れた顔を確認して、すぐそれを再び挿し入れた。 心臓がドクドクと脈打ち、手が冷たくなっていた。 その手帳を手に岩城は立ち上がり、しばし考えると、そのまま喫茶室を出て、美津が向かったであろ う方向へ足を向けた。 そのままここに手帳を放置する、または誰かに預ける、という訳にはいかなかった。写真のことは別 としても、けっして人に中を見られたくはない、それが手帳というものだろうと、岩城は判断した。 また、自分が中の写真を見てしまったことにも、若干の罪悪感を感じていた。 直接返すべく、美津が戻ったであろう楽屋があるところまで行った。 ドアにある美津ヨリカの名を確認して、岩城がそのドアをノックしようとした、まさにその瞬間、中から、 やや大きな声で「いい加減にしっかりしなさい!ヨリカちゃん」という女性の声が、岩城の耳 に飛び込んできた。岩城は思わずその手を止めた。 その後すぐに続いて同じ声が聞こえてきた。 「想ったってどうしようもない人なのよ、あなたがどれだけ好きでもっ!どうするの、そんなことで ・・・・自分の女優生命とあわせてよく考えてみなさいっ!」 そして、ドアに向かってくるヒールの音が聞こえ、岩城は咄嗟にその場から走り去ると、フロアの角 を曲がり身を隠した。 美津の楽屋のドアが開き、中からマネージャーの女性が出てきた。 岩城の方とは反対方向へ進む彼女を追いかけ、岩城は先ほどの手帳を事情を説明して差し出した。 マネージャーは手帳を受け取ると、礼を述べ去っていった。 岩城はそのまま、自分の仕事へと向かった。 向かいながら、思考は止まらなかった。 たかが写真1枚、そう考えを切替ながら手帳を返すために向かった岩城がそこで知ったことは、それ がたかが写真1枚ではない、ということだった。 名前こそ出てこなかった先の会話、だったが、美津ヨリカが恋をしている相手が誰であるかなど、パ ズルを繋げば簡単なことだった。 美津がどれだけ香藤を好きになっているのか、その想いを誰より理解できるのも岩城だった。 好きになってしまうのも無理はない、そう思った。 岩城は香藤の魅力を知っている。 3ヶ月も一緒に仕事をし、恋人として振る舞い、多分日々その想いは深まっていっただろう、香藤を 知れば知るほどに・・・・自分がそうであったように。 ただ、違うのは、香藤がすでに岩城を選んでいる、ということだった。 香藤の気持ちがけっして揺らぐものではないことを、この永い年月が岩城に教えていた。 だからこそ、今、美津に感じるものは嫉妬、ではなかった。 ただ、かわいそうだと・・・・そう岩城は感じ胸が締め付けられた。もし自分が香藤を好きになり、 その香藤が他の自分ではない誰かを愛していたら・・・・と思った。 自分は愛されたい人間に愛された。しかし、ひとつ間違えば、手に入れられない愛もある。 結局こうやって、思わぬことから事態を岩城は把握し、ある種奇妙な感情を引き起こし、そしてこの 感情こそが、香藤が岩城にだけは絶対に知らせたくない、と思っていた所以でもあった。 香藤がキッチンに入ってコーヒーを入れている、そのときに、ダイニングのテーブルの上に置いてあ った香藤の携帯電話が着信した。 マナーモードのままになっていたそれは、光の点滅だけで着信を知らせ、そこにいた岩城だけが着信 を知った。 携帯電話を手に取り、「香藤、電話だぞ」と、そう言いながらキッチンへ足を進めた。 見るつもりはなかった岩城の目に、画面に表示されていた「檀春美」という名前が飛び込んできた。 その名が誰を指すのか、岩城は知っていた。 ドキドキと音を立てる胸を押さえながら、手元から目を外し、香藤だけを見て、「ほら」と言って手渡した。 「んっ?サンキュ」 そう口にして笑顔で差し出された携帯を手にした香藤は、画面をチラ、と見て、そのままジーンズの 尻ポケットに差し込んだ。 「出なくて・・・いいのか?」 不自然にならないように、岩城は訊いた。 「うん、いい」 それだけ言うと、香藤は再びコーヒーメーカーに向かった。 そこで口を閉じておけばよかった、が、岩城はつい口走ってしまった。 電話をかけてきた彼女の想いを考えると、無視されることがどれ程辛いだろうと、感じた。 「しかし・・・何か用事があってかけてきたんじゃないのか・・・彼女も・・」 その瞬間、香藤は岩城を振り返った。 あっと、自分が口にした言葉の意味に気がつき岩城は口を閉じた。 昨日や今日、愛し始めた相手ではない。 たとえそれがどれ程短い言葉であろうと、その奥に居座っている言葉を読み取ることなど、造作もな いことだった。 香藤は手にしていたコーヒー缶を置くと、口を閉じたままの岩城に向かって進み、その前に立って無 言で何秒か見据えた。 目の前の岩城の瞳の色に、自分の持った疑念に確信を得た香藤は、ひと言口にした。 「いつから知ってるの?」 岩城は動揺していた。それを上手く切り抜ける器用さは、持ち合わせていなかった。 そんな岩城に、香藤は再び言葉を重ねた。 「どうして判ったの?」 「・・・大して何も知っているわけじゃない・・・昨日偶然・・・テレビ局で彼女の楽屋から漏れた 声が耳に入った・・・それだけだ」 「・・偶然・・?」 そんな偶然などあるわけない、と、香藤の声が追求していた。 「局の喫茶室で彼女が忘れて行った手帳を届けようと・・・・それで楽屋へ行ったんだ・・・そのときに・・」 「何を聞いたの?」 「・・・・・」 キッチンの入り口に、2人立ち尽くしたまま、じっと互いの目を見つめ続けていた。 自分を見据える強い香藤の目線から、岩城は眼をそらすことが出来なかった。 頭の中でまだ上手く整理出来ていなかった、昨日自分が聞いた言葉、それをそのまま自分の口で伝え ることなど出来なかった。 言葉をなくしている岩城に、香藤がゆっくりと口にした。 「いい、別に。岩城さんが何を聞いていても・・・・。ただ・・・・」 そこまで口にした香藤の目が、僅かに熱を持った。 「大して何も、知っているわけじゃない・・・って、まさか、それ以上の何か、があるって、そう思 ってるんじゃ、ないよね」 「違う!!そんなことは思ってない!!」 「じゃぁ何!?」 「・・・何って・・」 「なんで、そんなに後ろめたい、不安を抱えたような目で見てるの?」 「・・違う・・・ただ俺は彼女が・・・」 「美津ヨリカが、何?」 「電話をお前にしてくるには・・・・何か大切な・・・言いたいことが」 「いいの?」 「えっ?」 「ほんとにいいの?俺が電話に出て」 「・・・いいとか・・・悪いとか・・・そんなことを俺が言える・・」 そこまで言いかけた岩城の体に向い、香藤がじわっとにじり寄った。 自然と体が後ろに引き下がる岩城に向かって香藤はさらに進みを、その両腕を両手で強く握った。 その視線は無言で岩城を追い詰め、逃がさなかった。 息がかかるほどの距離で、香藤はゆっくりと、そしてはっきりと言葉を並べた。 「もう1度訊くけど、いいの?本当に、俺が電話に出て」 岩城は完全に道を失い、迷子になっていた。 そう・・・全てはまだ、岩城の中で彷徨っていた感情だった。 息苦しくなるほどの空気に追い立てられながら、しかしそんな中でも、ひとつだけ、岩城の胸の中で 不確かに浮上してきた不安があった。 急に畳み掛けられて、岩城がやっと口に出来た言葉、それは恐怖と不安に彩られた、「電話に・・・ 出たら・・・俺はお前を・・失うのか?」、という、正直な思いだけだった。 瞬時に香藤の瞳の中に、怒りの色が浮かび上がった。 香藤の腕が乱暴に岩城の体を引き、その顔を両手で挟んだ。 強い力で挟み込んだ岩城の顔を引き寄せ、香藤は数秒の間、焼ききれるほどの熱を持った眼差しで目 の前の岩城を見据え、不意に、唇を塞いだ。 仕掛けられたキスは荒々しく岩城の唇を開き、舌が舌を強い引力で絡めとっていった。香藤の手が固 定する力が僅かでも弱められることはなく、少しの隙間で息をついては、何度も繰り返される口内へ の愛撫に、いつしか岩城の体は、ただ香藤の腕に抱きかかえられる流線となり、先まで混沌としてい た脳は、強烈な刺激と、自分に密着する体から感じる熱い欲望にうつろになり始めていた。 崩れ落ちる岩城の体を、キッチン壁に沿って床へと滑るように下ろしながら、なお、香藤の唇は岩城 を許さなかった。 岩城の背を抱きかかえたまま、前にしゃがんだ香藤の顔がやっと岩城を解放したときには、ハァハァ と荒い息を吐き出しながら、岩城はぐったりと、壁に沿った体を起す力も無くしていた。 胸を波打たせながら、岩城は薄っすらと開いた目で香藤を認め、何かを口にしようとした、が、それ より先に、香藤の口が動いた。 「違うよ・・・・岩城さん・・」と、弱く口にした香藤の瞳から、もう怒りは消えていた。 香藤はじっと目の前の岩城を見つめたまま、「・・・可能性だよ」と、ぽつんと小さく告げた。 「可能・・性・・・?」 「そう、可能性・・・どんなことにも俺達の生活を脅かす可能性があるってことだよ・・・どんな些 細に思えることにもっ!!」 岩城の心臓がドクドクと脈打ち、想像もしていなかった領域を示す言葉が、香藤の口から発せられる のを、脅威の色を浮かべた瞳が見つめ返していた。 自分があの時、あの写真を目にし、ドアの中の声を聞き、それでも頭に浮かぶことさえなかった事柄 ・・・そうなのか・・・?香藤・・・まさか・・・そうなのか?と、岩城の頭が悲鳴を上げていた。 「香・・・藤・・・・お前・・・・まさか・・・彼女を好き」 「馬鹿っ!!」 そう叫んで、香藤は岩城の言葉を切り捨てた。 「しかし・・・だから・・そうやってお前は」 「違うって言ってるでしょっ!!確かに・・・美津ヨリカは、俺を好きになってるっ!そのことを知 った岩城さんはっ・・!岩城さんはっ!・・・ああっもうっ!!・・・嫉妬より先に彼女を可哀想だ と思った、そうでしょっ!?」 「そんな事は・・・関係ないっ!!俺はっ」 「関係あるよっ!大ありだよっ!!俺は岩城さんがっ・・・!そんなことを考えるんじゃないかって ・・・そう思ったからこそ俺はっ!わざと彼女のことを話さなかったんだ!!」 次の言葉を岩城の口が息を吸い込み、送り出そうとした瞬間、その口を香藤の手のひらが塞いだ。 「いい?聞いて!黙って、俺の言うことを」 そう告げた香藤は、目で念を押しながらその手を岩城の口から離した。 岩城は黙っていた。 黙ってただ香藤の口が動くのを待っていた。そう・・・今は口を開かない方がいい・・・開けば自分 はとんでもない醜態をさらけ出してしまいそうだった。 今にも不安に押しつぶされそうな目の前の岩城の顔を、香藤は見つめ、そして思っていた。 この、信じられないほどの、恋にウブで真っ白な心を持った恋人・・・それなりの人生を送ってきた くせに、いざとなると、考えられないほどの初心者振りを発揮する。 また、それが虚飾でなく、真の姿であることが、いつも自分を感動させ、そして今はなにより厄介だと・・・・。 香藤は、思い切ったように、目の前の岩城の腕を掴みながら、言葉を切り出した。 「俺がさっき、可能性、って言った、あれは何も、俺が彼女を好きになって岩城さんと別れるって、 そんな可能性を言ってるんじゃない。何が俺達の障害になるか判らない、って、そういう意味で言っ たんだ。人を好きになった人間の感情なんて計り知れない・・・・自分が好きになった相手に対して どう行動するか・・・俺だって岩城さんを好きになったとき、どんな手段を使っても手に入れたいっ て、そう思った。宮坂のときだってそうだ・・・俺のときは岩城さんには決まった恋人がいなかった ・・・・でも、俺だって、もしあのとき岩城さんに誰か好きな人がいたって・・・どうしてたかわか んない・・・すんなり諦められてたかどうかなんて・・・全然自信なんてない」 岩城は頷くでも否定するでもない、曖昧な反応を示していた。 脳が着いていっていなかった。岩城の頭は、不安材料が解消されず、鈍く停止したままだった。 香藤は小さく息を吐き、一旦目を閉じてから、再び口を開いた。 「ごめん・・岩城さん・・俺が悪い・・・ちゃんと話すから・・・」 話す順序を間違えた、と、感じていた。 最初に言うべきであった言葉を、やっと今、香藤は岩城に告げた。 「俺は岩城さん以外・・・・もう誰に惑わされることはない。どんな人間がどれだけ俺を好きになっても、 1ミリも心は動かない・・・・・それは信じてくれてるよね」 そう言って、香藤はその頬を触った。 「そこから・・・そのことからちゃんと話を始めるよ・・岩城さん・・・いい?」 岩城の頭が微かに上下に振れた。 そんな岩城を見守りながら、香藤は口を開いた。 「人を・・・好きになることが、どれだけ辛いことか・・・・・恋をして幸せになれるのは、その相手が自分の 気持ちに答えてくれて・・・そのとき初めて幸せになれるんだよ・・・・美津ヨリカの気持ちに俺が答えるこ とはない・・・それを俺が知ったからといって何も変らない・・・、その後もただの共演者として、俺は彼女に 接していた・・・・、いや・・・それ以下だったかもしれない・・・ 知ってからは自然と・・・俺は仕事以外では距離をとろうとしていた・・・」 一旦言葉を切り、香藤は少し悲しそうな瞳で遠くを見つめ、そしてポツリと口にした。 「冷たいかもしれない・・・でも・・俺には岩城さんとのことの方が大切だから・・・」 「・・・香・・藤・・・」 「だから、間違った優しさは示せない・・・少なくとも・・・相手にとってそんな同情は嬉しくなんかないよ」 香藤が口にした言葉に、岩城は「同情・・・」と呟いていた。 「そうだよ、同情だよ。相手の気持ちに答える気がないのに施す優しさなんて・・・」 じっと微動だにせず、床に腰を落としたまま岩城は、自分の腕を掴む香藤の手の力に、そして自分を 見つめる瞳の中に、次第に香藤が今、何を自分に示そうとしているのかを理解し始めていた。 脳が僅かずつ現在地に追いついていた。 全く自分が思いつきもしなかった想定外の危険要素・・・それを香藤は自分に教えようとしているんだと・・・・。 香藤は岩城の反応を確認しながら、ゆっくりと次に進んだ。 「俺を好きになっている彼女が・・・そのままその気持ちに終止符を打ってくれればそれが1番いい ・・・・だけど・・・それは判らない・・・もしこのまま想いを募らせたら・・・そうなったとき、 彼女が俺に対して・・・岩城さんに対して・・・また彼女自身に対して・・・どんな無茶をしないと も限らない・・・それが・・・さっき言った可能性、だよ」 言葉の余韻と共にゆっくりと目の前の岩城を抱きしめ、香藤はその体に魔法をかけた。 「好きだよ・・・岩城さん・・・凄く愛してる・・・心の底から・・・」 香藤の腕はなお一層強くその体を抱き寄せた。 戸惑いながらも岩城の両手が、香藤の背に這い登ってきた。 香藤の自分への変らぬ想いを確信できた岩城の心は、香藤の胸に抱かれ平静を取り戻しつつあった。 疑うより先に信じてしまう、そんな岩城が香藤にはどこまでも愛しく、絶対に守りたいものでもあった。 だからこそ香藤は、1番理解してもらいたいことを静かに口にし始めた。 「・・・だから・・・どうしても判って欲しいことがある・・・・・多分・・・岩城さんにとっては とても難しいことかもしれない・・・でも、それでも・・・このことだけはちゃんと頭に叩き込んで おいて欲しいんだ・・・・俺は・・・どんな火の粉でも、それが危険だと感じれば、振り払ってこの 関係を守っていく・・・。だけど岩城さんは・・・・・それが火の粉だと判っていても、ぎりぎりま で振り払わない・・・すごく危険なんだよ・・・そんな中途半端な感情は・・・・」 岩城の体が腕の中で揺らぎ、おもむろに顔を上げ、香藤を見つめた。 「・・・香藤・・・そうかもしれない・・・しかし・・・俺は別に全てを受け入れるためにしているわけじゃ・・・」 「あれだけ痛い目にあっていて・・まだ判らないのっ?」 岩城の目に苦痛が浮かんだ。 あのとき、宮坂の花束を断れても、車への誘いを断れなかった自分、部屋の鍵を断れなかった自分、 その後に経験した、苦く辛い時間。それら全てが脳裏に蘇っていた。 香藤が指していることを、岩城は自分の中で理解は出来ていた。 その学習した事柄を、自分が今後、正確に処方していけるかどうか、その自信がないだけだった。 しかし、努力は必要だと、今、そう考えることはできた。 「・・・そうだな・・・」と、呟いた岩城の瞳には前向きな光が宿り始めていた。 「ノーと言わなければ受け入れてしまうことになる・・・・確かに・・・お前が言うとおりかもしれない・・・」 「何も・・・全てに警戒心を持たなくてもいいんだよ・・そういう場合もあるって・・・それを忘れないでくれ たら・・・・」 岩城の持つ綺麗な部分を切り捨てて欲しくはなかった。 ただ少し、疑うこと、拒否する勇気を覚えて欲しかった。 人間の性質などそう変われるものではない。これくらい言っても、多分岩城が実際出来ることは半分 くらいだろう。残り半分は、自分が目を光らせるしかない、と、香藤は思っていた。 香藤は、岩城の体を引き寄せ胸に受けたまま、互いの状態を入れ替えた。 自分が今度は背中を壁につける形で、岩城を胸に入れ両手で包んだ。 そうやって、「俺はね・・・」と、岩城の後ろから語りかけた。 「俺は・・・岩城さんと、生涯を無事、添い遂げる、そのことが願いでもあり目標でもあり・・・そ して・・・責任だとも思ってる・・・とてもシンプルなことだけど・・・・簡単なことのようで」 「簡単なことのようで、難しい・・・そのことには俺にも責任はある・・・・だから・・・」 そう言って岩城は香藤を顧みた。 少し笑顔を浮かべた岩城は、「俺も・・出来る限り・・努力するよ」と、静かに口にした。 そんな岩城に、ありがと、と、香藤は優しく答えながらキスをした。 愛しい人を抱きとめながら、香藤は思っていた、美津と岩城は何処か似ている、と。 だからこそ、美津に危険なものを感じていた。 彼女はその頭を切り替えられないかもしれない、想いは深く根を張るかもしれない・・・と。 岩城がドアの外で何を聞いたか、それは岩城に彼女の想いを全て悟らせるに足る言葉であったことは 間違いない。 美津は昨日も電話を1度かけてきた。 香藤はそれに出ることはなかった、が、共演が終了し、時間が経っても、彼女の想いが冷めていない ことが、それらからうかがい知ることが出来た。 あの性格で電話をかけるには、それなりの勇気が必要だろう。 もし、自分が今後、もう1度でも彼女の想いに触れるようなことがあった場合・・・そのときは何ら かの対処が必要かもしれない・・・・と、香藤は岩城の体と心の重みを感じながら考えていた。 それから3日後、香藤が危惧していた通りのことが訪れた。 どうしても避けることが出来ない場面もある。それがこの日の、『白い空間』への映画雑誌のインタ ビューだった。 ホテルの一室で行なわれたインタビューは、出演の美津ヨリカと香藤洋二へのものだった。 香藤はその日、金子を連れず自分の車でその場へ向かった。 いつもなら必ず時間前には仕事場へ入る香藤だった、が、しかしその日、10時開始の予定にジャス ト10時に到着するように動いていた。 2人になることは極力避けたい、そう考えて向かった指定されているホテルの部屋、そこへ香藤が入 ると、椅子に座った美津以外、誰もいなかった。 えっ!!と、そんなはずはない、という香藤の体が瞬間僅かに引いていた。 美津も、あっ、と顔を上げ、香藤を見つめていた。 「何・・?雑誌の人は・・・?まだなの?」 そう香藤が口にしたとき、ホテルの部屋の電話が鳴った。 香藤が足早に中へ進み、受話器をとった。 「はい・・・はい・・・そうですか・・・判りました」 手短に切られた電話を戻すと、振り向いて、香藤は言った。 「雑誌の人、ちょっと車がトラブって遅れるらしい、2〜30分」 美津は思いつめた顔をしていた。 「マネージャーの彼女は?」 香藤の問いに、「あ・・・ちょっと・・・他へ・・・」と、美津が小さく口にした。 少し考えた香藤は「じゃ、俺、ちょっと下に行ってくるから」と、さっと身を返しドアに向かった。 その背中に、「あのっ!」という美津の声が追いかけてきた。 どうしようか、と数秒迷い、香藤は振り返った。 「何?」 ひと言訊いて、椅子から立ち上がっている美津を見た。 「・・・電話を・・・私・・・電話をして・・・」 「・・・そうだね・・・でも、出ないよ、俺は」 「ダメって・・・そう思ってたんです・・・ずっと・・・電話なんかしちゃ・・・迷惑に・・・でも ・・・私・・・私・・・どうしても・・・香藤さんのことが・・・」 震える声で懸命に訴える美津は、涙を滲ませていた。そんな姿を静かに見つめながら、香藤は余計な 装飾はせず、「俺には、岩城さんがいるから」とだけ、口にした。 美津ははじかれたように椅子に腰を落とすと、両手で顔を覆った。 ここにも1人、恋の初心者が居た。 肩を震わせている彼女に、「じゃ、また後で」と、脳裏で慰めと謝罪の言葉を浮かべながら、香藤は 再び出て行こうとした。 「でも・・・好きなんです・・・・もう・・・私・・・自分でもどうしたらいいのか・・・判らないんですっ・・・・」 そんな事をいい募る美津を背に残し、言葉を何も返さず無言のまま、そこから出て行くため香藤がド アノブに手をかけたときだった。美津が混乱の中から口にした言葉に、はたとその手が止まった。 「もし・・・1人だったら・・・岩城さんがいなくて・・・もしも香藤さんがひとりだったら・・・ 私のこと・・・好きになってくれましたか・・・?」 ノブに手をかけたまま、香藤の頭ではひとつの危険信号が点滅し始めた。 ここで無理に切らなくてもいいかもしれない、が、しかし、切らない選択からは僅かな臭いがした。 自分が何よりも避けたい、と思っている危険を予感させる臭いが。 10秒余りそうしていた香藤は、手をノブから離すと振り向いた。 そして言った、「そう・・・そんなに俺のこと、好きなんだ」と。 美津が両手から顔を上げ見た香藤は、そのとき別人の表情をしていた、が、そんな事に気がつけるほ ど、美津は冷静でも歳をとってもいなかった。 ただ、頭を縦に振り、小さな声で、はい、と、答えていた。 「じゃあ・・・」と、香藤は数歩彼女の前に進むと、落ち着いて「この仕事終わったら、デートしようか?」と、言った。 「えっ?」と、美津は跳ねたように顔を上げた、 思いもしない言葉が香藤から発せられ、驚きと混乱がそこに見て取れた。 「丁度ホテルだしさ、このまま使えばバレないし、好都合だよ」 「このまま・・・・って・・・」 美津はどう答えるべきか、言われている意味もはっきりしなかった。 そんな美津へ、香藤はさらりと口にした、「そう、このままここでセックス出来るじゃん」と。 美津は言葉を失っていた。 しかし、そんな美津に、香藤は容赦なく言葉を投げかけた。 「何・・・?俺とデートって・・・まさか手を繋いで映画でも観るなんて思ってたんじゃないよね」 「・・で・・でも・・・岩城・・・・さんが・・・」 「何それ?ヨリカちゃん、それさっき言ってたことと違うよ。岩城さんがいても!俺が好き!なんでしょ?」 「・・・それは・・・」 「俺もどうしようかなと思ってたんだけどさ・・・ヨリカちゃん、純情そうだし・・・、でも俺も久しぶりに女、抱きたいし」 言葉を失った美津が見つめる目の前には、AVの中で演じていた香藤洋二がそのまま立っていた。 「どうしたの?」 数歩、美津ににじり寄った香藤から、美津の体が椅子の上で知らず後ろに引いていた。 香藤の口が、フッと笑いを吐き出し、「俺のこと、白馬に乗った王子様か何かだと思ってた?」と告げた。 「香・・・藤さん・・・・どうして・・・違う人・・・」 震える声でおどおどと、言葉を何とか口にする美津を見る香藤の目は、冷たかった。 「違うよ?当たり前じゃん。俺はイラストレーターの須貝公太、じゃないんだよ、俳優の香藤洋二! 判ってる?須貝とデートしたいんなら、俺は、あんなに優しくないよ」 美津の目から、もう涙はこぼれなかった。 ただ、目の前で信じられない言葉を示す男を、まるで知らぬ人間を見るように見つめていた。 その美津の変化を確認しながら、香藤は、「まっ、ダブってくれたんなら、俺の演技も捨てたもんじゃないな」 と言い、ここで止めておこうかと思ったが、もうひと言駄目押しをして、今度こそは本当に部屋を出て行った。 「セックス抜きで好き、なんて言われても、ね」 廊下を歩く香藤は、美津ヨリカの自分への想いが完全に断ち切れただろうか、と、そう思いながらエ レベータに向かった。 ポン、と心地よい音と共に開いたドアからエレベータに乗り込み、静かに降下する箱の中で、香藤は 美津に心の中で謝った。 酷いことを言った・・・しかし、時間が必ず癒す、と。 不倫恋愛をする人間が、愛する相手、ではなく、その妻や夫を憎悪の対象にする。 そういった理屈に合わない曲折した感情を、今日、先ほどの美津の中に香藤は感じた。 絶対に切り捨てておきたい感情だった。 フロアにいる香藤を、遅れて到着した雑誌社の人間が見つけ、一緒に再び部屋へ戻った。 インタビューは小1時間で終了した。 何もなかったかのように振舞う香藤のその横で、同じく冷静に答えを口にしている美津だった、が、 香藤はしっかりと感じ取っていた。 美津の中から完全に熱が失われていることを。 失われているどころか、自分は嫌悪感さえ抱かれているかもしれない、と、そう思う香藤だった。 が、それでも全くかまわなかった。また、そのことに安心感のようなものも感じていた。 「・・で、香藤さんは今回、初めて美津さんと共演されたわけですが、いかがでしたか?」 「ああ、とてもやりやすかったです。彼女はとてもいいものを持っている人なので」 さっきの今で、白々しいほどの言葉を互いに口にしながら、淡々とインタビューは進んでいった。 あれ以来、岩城は美津のことを話題に出してくることはない。 岩城が完全に頭からそのことを切り離している、とは、香藤は思っていなかった。 ただ、自分を信じてくてれいるのだ、と・・・、自分が言ったことを岩城の中で消化し身に着けよう としてくれているのだと、そう思った。 昨夜、自分の腕の中で、肢体の動作、漏れる言葉さえも不確かになっていた岩城が、無我夢中で口走 った「愛している・・・香藤・・・香藤・・・」と、熱に侵されリピートする声。その声こそが真実 を告げる言葉として、香藤の頭にインタビューアーの声をかすめ、こだましていた。 岩城の知らぬところで、誰かが岩城を疎ましく思う、岩城の一途に自分を愛する心を、そんなもので 汚したくはなかった。 それから1週間がたった頃、香藤はあるテレビ局の廊下で、美津のマネージャーに呼びとめられた。 「香藤さん、このたびは本当にありがとうございました」 そう言って深々と頭を下げる彼女へ、香藤は、「えっ?何がですか?」と、訊いた。 顔を上げた彼女は、穏やかな表情で、香藤を見ていた。 「香藤さんが美津へとって下さったご配慮、どれだけ感謝しても足りません」 「えっ・・・」 香藤はどう返事をしようかと少し迷い笑った。 「・・本来なら私がどうにかしなくてはいけないことなのに・・・力がなくて・・・結局、香藤さん に助けていただくことになってしまいました」 「助ける・・だなんて・・・」 「いえ、あの時は本当に・・・困り果てていました・・・。もう、気力が失せていましたから・・美津の・・・ でも、あの日以来、吹っ切れたように仕事に向かうようになって・・・」 「それは・・・美津さんが自分で努力されたんじゃないんですか?」 何気ない風に柔らかく答える香藤に、彼女は笑顔を浮かべ少し困った感じで「・・・美津が好きにな るのではと・・・そうなっても無理はないと・・・思ってはいたのですが・・・」と、口にした。 それには何も答えず、香藤は言った。 「・・・・今更なんですが・・・少しやりかたが強引過ぎたかもしれないと・・・・傷つけてしまったかもしれ ません・・・・でも・・彼女はいい女優になる人だと思うので・・・」 「美津のために・・・香藤さんが悪者になってしまって・・・きっと時期を見て私からきちんと説明します ので・・・」 頭を下げるマネージャーへ、香藤は少し照れた笑いを浮かべた。 そして、静かに口にした。 「違いますよ。俺はそんなに大人じゃない・・・・。守りたいものを守りたい・・・ただそれだけ、です」 そうやってニコッと笑った香藤は、じゃぁ、と頭を下げてその場を去った。 自分がしたことが正しかったかどうか、それは永遠に判らない。 しかし、ひとつだけ判っていることがある。 自分が岩城を心から愛している、ということ、そして、相手も自分に裏切ることのない心を返してく れている、ということ。 それだけは変らない。そして、そのことだけが、全ての事柄に対処する不変の基準である、と。 そんな事を考えながら、香藤は仕事場へ向かった。 2006.10 比類 真 |
本当に起こりうる話かも・・・・と読ませて頂きました
疑似恋愛が本当の恋心になってしまう・・・経験の少ない女優さんなら
余計だったかも知れません
そしてそう思わせてしまう香藤くんの魅力・・・納得です
でもどういう状況になろうともいつも彼の心の中には岩城さんへの
真摯な気持ちが息づいていて揺らがないのが素敵ですv
比類さん、今回も素敵な作品をありがとうございますv