カトウ'ズ ブラインド
香藤に声がかかった単発2時間ドラマの主演、という仕事。 このドラマは、制作発表段階から大掛かりなPRが施された。 アジア芸術祭のドラマ部門の出品作品として決まっていたからだった。 香藤と女優の因幡美紀子が共に主演。因幡は56歳の日本におけるトップクラスの女優、製作監督も 引田昂という、アジアでも広く知られ誰もが認める名監督だった。 原作は、昨年ベストセラーになった「土」で、香藤が演じるのは、因幡が演じる由井千春という彫刻 の大家に、高校を出て直ぐに弟子入りし、才覚の芽を出しながら、その途中、失明し、なおその道を 諦めず、最後には日本芸術大賞をとる、行田仁史というひとりの彫刻家だった。 描かれるのは、失明をする1年前から10年たって大賞をとるまでの、24歳から35歳までの間の 話だった。 製作がスタートすると、本読みの段階から、因幡は、自分自身が育てた者への、厳しさと愛情、その ふたつを、見事に演じきっていた。 誰もが認める演技力、それは実際目の前にしてみると、想像以上の力を、香藤をはじめ共演者皆が感 じていた。 香藤はそんな中で、自分は自分の考えた行田仁史の姿を素直に表現し、その無理のない自然な演技と 香藤が持っている芯の太さが上手くかみ合い、いい個性を出していた。 本読みをしている間、因幡は香藤に言った。 「香藤さん・・あなた、想像していたよりも、ずっと、いいものをもっていらっしゃるわね」、と。 そして、その評価は、たち稽古に入り、翻された。 稽古が中盤を過ぎたあたりから、まず、監督の引田が、なかなかOKを出さなくなった。 引田はもともと多弁なほうではなく、どちらかと言えば演技解釈は役者に任せ、それを上手く撮りあ げていく、という性質だった。その引田が、香藤の演技に、何度もダメ出しをした。 「違う・・・」と、小さく何度も口にする引田は、何日目かの、もう何度目かも判らないダメ出しの 後、やっとその違う、という、そのことについて、説明をつけた。 「香藤くん・・・・君、見えてるんだね・・・・」 たったそれだけの言葉だった、が、説明には十分だった。 香藤は立ち止まり、無言で引田を見た。そして、言った。 「・・・・監督・・・俺・・・見えてるように・・・見えますか?」 引田は無言で深く頷いた。 そして、少し置いたあと、「1週間、ちょっと休憩しよう」と、静かに告げた。 「えっ?1週間・・・ですか?」 香藤が訊き返し、周りの皆は、それを黙って見守っていた。 「うん・・・1週間、そしてまた始めよう」 引田は何でもないことのように言った。 そして撮影スタッフ一同、1週間という永いブレイクに入った。 引田は香藤に、何をどうして来い、とは、言わなかった。香藤の顔は、このような形で解散になり少 し困惑していたかもしれない。因幡は、そんな香藤に帰り際にこう言った。 「香藤さん・・・あなたのその、目の見えない人を演じている、という演技・・・・・今までの歴史 上、盲目の人間を演じた役者が皆、目が不自由だったわけではないのですよ」、と。 その時から、香藤の戦いが始まった。 自分のために置かれた1週間という時間。それが開けてまた同じことなら、自分に先はない、と、そ う思った。 「ただいま」 岩城は、明かりのついている家に帰り、玄関でそう口にしながら、靴を脱いだ。 居間の内側から、「おかえりっ!!岩城さん」という、明るい香藤の声が響いてきた。 この声を聞くだけで、1日のどんな疲れも吹っ飛ぶ、と、そんな事を感じながら、岩城は居間へ入っ ていった。 居間のドアを開けて入った途端、ドン、という音と共に「ワッ!!」という香藤の声がして、岩城は そこにいる香藤にぶつかった。 「何してる!!そんなとこに立ってたら危ないだろ」と、そう言いかけて、岩城は、えっ?と、言葉 を飲み込んだ。 目の前に立っていた香藤は、アイマスクをかぶっていた。 「・・・お前・・・それ・・・・」 「う・・・やっぱ、音だけだと、なかなか判んないなぁ・・・・タイミングって・・・」 「・・・・いったい、どうして」 「ちょっと、説明するからさ、座って、岩城さん」 そんな事を言いながら、驚く岩城をそのままに、自分は勝手に手探りでテーブルから椅子を引き、座 った。 岩城は、仕方なく、自分もその向かいに腰を下ろした。 岩城が座ったと判ると、香藤は口を開いた。 「あのね、俺、全くダメでさ、今の役」 「今の、って・・・・引田監督の・・・」 「うん。『土』」 目が見えない、という設定の役柄であることは、岩城も知っていた。中盤まで進んでいた撮影も順調 だと、そう香藤から報告を受けていた岩城には、香藤が目の前で語ることは思いもかけない出来事だ った。 「全くって・・・・いったいどうしてそう思うんだ」 「言われたんだよ、監督に」 「引田監督に、か?」 「うん、監督にも、そして因幡さんにも」 「・・・・・・」 言葉に詰まる岩城に、香藤はさらに続けた。 「でも、それだけじゃない、俺も、自分でダメだって、感じてたから・・・・、でね、1週間、休め って言われてさ、今日から1週間、撮影お休み」 「1週間!!まるまる1週間、か?」 「そ・・・1週間、その間にどうにかしろ、って事」 「ちょっと・・・・判らないんだが・・・・いい感じで進んでたんだろ?それがどうして」 「セリフに動きが入りだしてから・・・・君は見えてる、って・・・・言われちゃってさ」 「・・・・見えてる・・・・」 「そ・・・・だから、今日から1週間、俺、見えない人、になるから」 「・・・・・・なるから・・・・って・・・・」 「だから、岩城さんも、協力して!!ね」 「協力は・・・するが・・・・俺は仕事に出るし・・・」 「それでいいんだよ、岩城さんは、何もしないでいてくれる、それが協力、だから」 そんなことをアイマスクをした顔で、なんでもないことのように述べる目の前の香藤の言葉に、岩城 は、強い覚悟を感じていた。 いくら軽いタッチで話されても、何らかの結果がどうしても欲しい、と、その裏で叫んでいる香藤が しっかりと岩城には見えていた。 同じ役者であれば、十分その気持ちは理解できた。 「判った」 そう、ひと言答えた岩城に、香藤は、ありがと!!と、明るく答えていた。 そして、「じゃ、岩城さん、お風呂入っておいでよ。ご飯用意しとくからさ」と言いながら、香藤は 再びテーブルの端を探りながら、キッチンへ向かって足を進めた。 そんな香藤を見つめながら、岩城は胸の中で、ご飯を作る・・・って・・そんなこと・・と呟きなが ら、しかし黙って、部屋を出た。 気にかかることは山のようにあった、が、今は何も言わず、香藤に従った。部屋にいるうちは然程、 危険はないだろう、と判断した。 風呂から出て居間に入ると、テーブルに、皿に乗ったおむすびが並んでいた。 「美味しそうなおむすびだな」 そう言う岩城に、「もう、ごめん!!実は今日、これ、思いついたのが遅くってさ、時間なくなっち ゃって・・」と、香藤はアイマスクを指差しながら言った。 「作るだけでも立派だと思うぞ、よく見えずにこれだけ作れたな」 「うふっ!!そう?ちゃんと中には梅や昆布も入ってるし」 「じゃ、お茶を入れよう」 そう言いながら、岩城はキッチンへ入った。 そこはかなりの戦いの痕が残る惨状だった。 しかし、岩城はそんな事は無視して、さっさと茶を入れると、テーブルに着いた。 「キッチン、酷かった?」 「いや?そんなでもなかった」 そう言って、岩城は不揃いのおむすびを手に取り、口に運んだ。 「美味しいな」 自然に口から出た言葉どおり、本当に美味しいおむすびだった。 嬉しそうに、香藤も手を伸ばし、食べた。 岩城が、「熱いから、気をつけろ、右側に置いたぞ」と、説明しながら置いた湯飲みを、香藤はテー ブルの縁から右手をゆっくりと這わせながら、湯飲みにたどり着き、無事、手にとって飲むことが出 来た。 ペースは遅いながら、2人は次々におむすびを口に運び、皿の上はあっという間に空になった。 「なんだか、不思議な感じ!!見えないってさ、口に入れるものも、怖いよね、判らないと」 「・・・そうだな。1人で暮らすのと、同居人がいるのでも、かなり違うだろうな」 「そっか・・・俺は一応、同居人がいるっていう、設定なんだけどさ、役柄では・・・でも、恋人で も肉親でもないし・・・その辺りは1人と変んないかも・・・」 「・・・どうなんだ?話では。因幡さんとの同居で、どの辺りまでお前がやるんだ?」 「全部。もう、弟子だからさ。食事作るのから、洗濯、掃除・・やんないのはセックスくらいかな」 岩城はプッと吹きだして笑った。 小さな声で、じゃあ、そのレッスンはいらないな、と、笑いを含んで岩城が口にすると、香藤は大き く首を横に振って、そんなことない!!と、断言していた。 「生活全てがレッスンだからさ、1週間は、絶対!外さない、これ」 そう言いながら、アイマスクを指差す香藤だった。 言ったとおりに、香藤はアイマスクを10個も買っていた。 風呂に入ると濡れる、汗をかくかもしれない、などなど、香藤なりに考えて替えを用意していた。 風呂は危ないので外したらどうだ、と、そんな岩城の提案も無視して、そのまま風呂へ入った。 香藤が風呂へ入った後、岩城はドアの外から中の音を聞いていた。 かなり派手な、用具がタイルに当たる音が中から響いてきて、そのたびにドアに手をかけたが、思い とどまり、ひたすら香藤が無事風呂から出るのを岩城は待った。 やっと中から香藤が出る様子が伝わってきたので、静かにそこを後にした。 しばらくすると、香藤が居間へ戻ってきた。 「う〜んっ!!なんか、凄い新鮮な感じ!!っていうか、ゲームをしてるみたいで、ちょっと面白い かも・・・」 そんな事を口にしている香藤を見て、岩城は、そうか?と、口で答えながら、まだ1日目、と、1人 胸の中で呟いていた。 その夜、寝るときもベッドにアイマスクをしたまま入る香藤を見て、「寝るときぐらい外したらどう だ?」と、岩城は言った、が、もちろんのこと、香藤はそのまま眠った。 次の日の朝、岩城が起きて下へ降りると、「おはよう」という、香藤の声と、そこには用意された朝 食が並んでいた。 いつもよりは簡素、ではあるが、トーストに野菜とコーヒー、果物が、やや雑雑と並んでいた。 「お前・・・よく作れたな・・・こんなに」 驚く岩城に、香藤は、満足げな笑いを含んで、「もう、2時間もかかっちゃったよ、何するにもおっ かなびっくりでさ」と、嬉しそうに言った。 そう・・・香藤はとても楽しそうだった。 「お前・・・なんか、楽しそうだな」 岩城が言うと、「うん、何か、微妙に楽しいかも!!」と、香藤も答えていた。 ちょっと焦げかかったトーストを、何も言わずに口に運びながら、「・・・でもな、香藤・・」と、 岩城は言いかけ、止めた。 「ん・・?何?」と訊く香藤に、「いや、なんでもない」と、岩城は言葉を胸に締まった。 香藤は運動神経、つまり反射神経がいい。 それが助けになり、思ったよりも全てのことが難なく上手く運んでいる。 期限付きの不自由、だからこそ、楽しくもあるのだ、と、そう言うつもりで岩城は口を開きかけ、そ して止めた。 以前、香藤が岩城に言った、自分で気づける、という、そのことが今、岩城にもそのまま頭にめぐっ ていた。香藤、お前なら、自分で気づくときがくるだろう、と。また、そうでなければ意味はない、 とも思った。 次の日、仕事先から、岩城は家へ電話を入れた。 無事が確かめられればいい、それだけだった。 明るい声で電話に出た香藤は、相変わらず何事もなく、スムーズに暗闇を泳いでいた。 何をしても、器用な奴だな、と、電話を切った後、そんな事を考えながら、仕事に戻るために、局の 廊下を歩いていると、岩城は向こうから歩いてくる因幡を認めた。 やや歩を止めて、丁寧に頭を下げた、その岩城に、因幡は気がついて、「こんにちは」と、言った。 そして、「香藤さん、どうしていらっしゃる?」と、訊いた。 どう答えたものか、と、少し悩みながら、「このたびは、色々ご迷惑を・・・」と、口にした。 「迷惑なんて、何にもかけられていませんよ」と、因幡は明るく笑った。 知的で魅力的な笑いだった。 そんな因幡が、一息置いて、言葉を発した。 「香藤さん、健全すぎるんですよ」 えっ!?と、顔をあげた岩城に、因幡がとつとつと言葉を重ねていった。 「健全で、強い。それはとても魅力的なことで、勿論、今回の役にも必要な部分、でも・・・それは 流れの後半ね・・・」 「・・・後半・・・」 「・・そう、後半。失明したことを自分なりに納得できた、その後、彼は強くなるのよ、逆境に向か い・・・・・。でも、光を失った人間が、直ぐそんな風になれるなんてことはない・・・特に彼は見 えてたんだから・・・それは当分、悩みもがいて苦しむ・・そんな不健全で、弱い部分・・・それが 前半・・・でしょうか?・・・・・・それに・・・・」 そう言って。一旦言葉を切ると、再び因幡は続けた。 「それに・・・きっと苦しみは・・・終わることなく続く・・・いいものを造れば造るほど、それを 見たいと思う・・・きっと私なら自分の目で確かめたいと、切実に願うでしょうね」 独り言のように告げ、再びニコッと笑うと、香藤さんによろしく、と言って因幡は去っていった。 その日、帰宅した岩城は、よほど今日因幡が話してくれたことを香藤に言おうか、と、迷い、結局思 いとどまった。もう少し待とう、と、そう思った。 3日目。 岩城は7時過ぎに帰宅すると、香藤が作ってくれていたサンドイッチを2人で食べた。 レタスやハムが、やや雑ではあるが、ちゃんとマスタードで味を調えて作られている、そんなサンド イッチを食べながら、良くこんなものが見えずに作れるもんだ、と、そう素直に岩城が感想を口にす ると、香藤は、「火は一寸怖くって、使えないんだけど・・・・、でも、1週間位の予定は考えて、 材料、買ってあるからさ・・・結構、冷蔵庫の中は把握してるし・・・」と、そんな事を言って、笑 顔で自分も食べていた。 「そうか・・・」と、岩城は口にした。 全てが計画通りに進んでいる、といった感じだった。 食べ終わり、時間を見て、岩城は、少し考えて、テレビのスイッチを入れた。 「ちょっと、観たいものがあるんだが、いいか?」と、そう言いながらソファーに移動する岩城につ いて、香藤も当然、すっかり距離感を掴んでいるソファーへと、難なく移動した。 「何?」 そう言う香藤に、「ああ、季節の特番で、以前、京都で撮ったものが、今日、放映されるんだ」と、 さりげなく、岩城は教えた。 「あっ、何?あの、秋の京都を岩城さんが散策して紹介して回るっていう、あれ?」 「ああ」 そんな事を言っているうちに、番組が始まり、岩城の声がテレビから流れ始めた。 「録画!!録画してっ!!岩城さん!!早く!!」 焦った声で口にする香藤は、当然、新聞も見ていない、岩城の番組もチェック出来ていなかった。 「早く、早く」 そんな香藤をチラと見ながら、岩城は腰を上げ、テレビに近づいた。 デッキの前で少し音を立てた後、「駄目みたいだな」と、口にして、ソファーに戻った。 「えっ!!駄目って?」 「ああ、電源、入らないぞ、壊れてるんじゃないのか?」 「嘘!!そんなはず・・」 香藤がもたついた足取りでデッキに寄り、手探りでスイッチを何度も押していた、が、本当に全く作 動しなかった。 動くはずがなかった。 先ほど、岩城がデッキの裏から接続コードを抜いていた。 諦めた香藤がソファーに戻り、すっかりしょげた面持ちで、「誰か録画してるかも・・・岩城さん、 訊いてみてね」と、言った。 「そうだな、訊いてみるよ」 そう答える岩城の手をとって、香藤は黙って見えない画面を見つめながら、耳から岩城を感じ取って いた。 1時間番組の半分を過ぎた頃、岩城は、「ああ、ここからは、俺はもう観てる・・・悪いが風呂に入 っていいか?」と、言った。 「うん、いいよ、俺1人で観てるから・・・あっ・・聞いてるから、か」 そう笑って答える香藤を、1人居間に残すと、岩城は居間のドアを音を立てて開け、そして、自分は 外に出ずに、再び、音を立てて閉めた。 そうやって、じっと黙って、ドアの内側で香藤を見つめていた。 岩城がその場から去った、と、そう思っていた香藤は、その後、5分は黙ってそのままソファーで座 っていた。 画面から、レポーターと岩城の声が響いていた。 『紅葉が素晴らしいですね、岩城さん』 『ええ・・・本当に・・・』 『なんだか、そこに立っていらっしゃる岩城さん、今日着ていらっしゃるお洋服の色と紅葉が、とっ てもマッチして、私が画家なら、本当に素晴らしい被写体、なんでしょうけど・・・』 そんな会話が流れる中、香藤がよろっとソファーから立ち上がり、画面の真正面に行くと、ペタンと 座り込んだ。 両手を画面につけると、その画面をなぞり始めた。 その手は何かを探るかのように、ゆっくりと形を求めて彷徨っていた。 そして、少しして香藤の口から、小さく、「岩城さん・・・」と、呟きが漏れた。 1、2分、そうやって画面の前に座り込んでいた香藤の右手が、アイマスクの耳の位置に上がり、ゴ ムベルトにかかった。 岩城は、はっとして、体が僅かに揺れた。 黙ってじっと岩城が見つめる中、香藤の上がった右手は、15秒ほどベルトを掴んでいた。 香藤の唇が、真一文字にくくられ、その後、右手は何もせずにすとんと下に戻された。 アイマスクを外すことなく、香藤は再びソファーへと戻り腰を下ろした。 そこまで認めると、岩城は音を立てないように、そっと、居間を出た。 自分のしたことの残酷さをその目で確認した後は、香藤への愛しさと、情が沸き起こり、シャワーを 浴びている岩城の胸を熱く焼いた。 誰も見ていない中、数秒、アイマスクの隙から画面を観ることなど、容易い。 しかし、香藤は思いとどまった。 そのストレートな精神と力を、岩城は誰よりも知っていた。 香藤は絶対に外さない、アイマスクを。そして、外さなければ、我慢することも多くなる。香藤のそ んな中から生じる不自由を解消するために安易に手助けはしない。それが岩城の結論だった。 その次の日も、岩城は、どうしようか、と迷いながら、とりあえず1度電話を入れた。 ありがとう、と、言った後、香藤は続けた。 「岩城さん、心配してくれて嬉しい・・けど、もう電話しなくていいから・・・電話あると思うと、 期待して、つい、甘えちゃうし・・・・」 「そうだな、判った」と言って、岩城は電話を切った。 香藤なりに考えて、自分を律しているのだ、と、岩城は寂しさもあったが、それよりも僅かながらに 嬉しさを感じていた。 5日経った。 その日、岩城は帰宅が夜中3時を過ぎていた。 もう寝ているだろうと、そっと家に入ると、真っ暗な居間の中で、ソファーに香藤が膝を抱えて座っ ていた。 「あっ、お帰り、岩城さん」 そう言いながら顔をこちらに向けたので、ただいま、と言いながら、傍へ行き、「起きてたのか」と 岩城は香藤の頭を、クシャっと、1回揉んだ。 その手を、香藤が掴んだ。 「・・・岩城さんの手だ・・」 掴んだ手を頬に当てながら、香藤は呟いた。 「俺・・・岩城さんの手なら、触っただけで判る!!」と、続けながら、香藤の顔が少し寂しげな笑 みを作った。 岩城はそのまま、香藤の隣へ腰を下ろした。 「・・・今日は・・・どうしてたんだ?」 「えっ?今日?えっと・・・キッチンを片付けて・・・洗濯して・・・あっ・・・お皿、1個壊した ・・・部屋を掃除機かけて・・・ちょっと寝た・・・」 「何を食べたんだ?晩御飯」 「パンと牛乳」 「それだけか?」 「うん、だって、1人だったらさ、もう・・・なるべくキッチンを汚さないように・・・ってさ、で もさ、大変だよ、牛乳ひとつ飲むのもさ、期限okだったかなぁ・・って・・いつ買ったんだったっ けって・・・当分考えちゃった・・・・洗濯機回すのだってさ、ボタンの位置って結構覚えてないん だよ、だからもう大変」、そう言って、再び笑う香藤を見ながら、岩城は感じていた。 ほんの僅かだが、楽しいだけ、でもなくなってきたな・・・と。 明るい声で話す、そんな声色にも、微妙に感じ取れる香藤の苦悩と苛立ち。 明らかに香藤は辛くなってきている、と。 無理をするな、と言っても、素直に弱音は吐かないだろう、と、そんな事は重々承知だった。 アイマスクの下でどんな目をしているのか、そんな事を考えながら、岩城はゆっくりと、香藤の頬を 両手で挟み、その唇にキスをした。 ビクッと少し驚いた香藤は、しかし直ぐに両手を岩城の背に回してきた。 ひとしきり舌を絡めた唇から互いが離れ、岩城の手が積極的に香藤の体を探り始め、そうするうち、 自然に香藤の頭は、岩城が、今日は自分を抱くつもりなのだ、と知った。 「・・岩城さん・・・」、と、香藤の唇から吐息に混ざった呟きが漏れ、感覚の全てが呼び覚まされ ながら、抱かれることを覚悟した体は、見えない世界で不可思議な興奮に包まれていった。 それは、岩城の息であったり、匂いであったり、触れる力の強弱であったりもした。 次を予知できない香藤の体が、いつもとは違う期待と、そして僅かな不安に渦巻いていた。 耳元で、岩城が「かとう・・」と呼んだ。 呼ばれなくても、今、自分を抱いているのが岩城であると、その体が知りすぎるほど知っている。し かし、呼ばれることで、より一層確信出来た。 そんな香藤の想いを知ってか知らずか、岩城は何度も、香藤の名を呼んだ。 闇の中で、岩城と繋がっている部分だけが熱を持ち、知覚の全てが股間に集中していくようだった。 何処か不安定な興奮に耐え切れず、香藤は両手両足で岩城の体にしがみついた。 体を突き上げられるたび、脳まで走る激しい快感の波に襲われながら、しかしその夜、香藤は何故か 岩城に名を呼ばれれば呼ばれるほど、無性に悲しく、泣きたいほど寂しかった。 それは全てが終わっても深く心に居座り、香藤は岩城から離れようとせず、いつまでもその体で岩城 を感じていた。 そんな香藤から、岩城も無理には離れようとはしなかった。 自分がせめてもの、今、香藤にしてやれること、だと思った。 1人で待つ時間はただでさえ永く、その中ですることがなく、ただ目を閉じているしかない、それは きっと、酷く不安で寂しい時空だろう、と、岩城は想像した。 少し下降線をたどっていた自分の気持ちを、香藤は、次の日、岩城を送り出すと、切り替えるべく庭 に出た。そして深呼吸をした。 大きく息を吸って、ゆっくり吐いて、何度か繰り返し、そして中に入った。 今日が晴れているのか曇っているのか、日が当たらないので曇っているのだろう、と、思った。 後2日、明後日には再び撮影が開始される。 自分は何か変っただろうか・・・・何かを得ることが出来ているだろうか・・・・ 少なくとも、目が見えない、ということがどういうことなのか、それだけでも判った、と、思いたか った。 香藤は、何をしていても、何処か苛立ち、心も晴れなかった。 正解のない道。テキストがあるわけではない。 自分で探した自分なりのテキスト、それが生み出す結果を信じるしかなかった。 |