「明日からだな、いよいよ」 次の日、夕食後に、岩城は自分が入れたコーヒーを香藤に手渡しながら、そう言った。 受け取りながら、「うん・・・ありがと」と、香藤は答えた。 「どうだった?この1週間」 香藤の隣に腰を下ろしながら訊く岩城に、香藤が何かを答えようとした、そのとき、電話が鳴った。 岩城は下ろしかけた腰を上げて、受話器を取りに向かった。 電話口で「ああ金子さん、はい、ちょっと代わります」と、香藤に受話器を渡しながら、岩城は「金 子さんからだ」と告げた。 用心深く、持っていたマグカップをテーブルにおいて、香藤は受話器を耳に当てた。 「・・・・・えっ・・・2日?」 香藤の受け答えを、岩城は黙って聞いていた。 「・・・はい・・・じゃ、そういうことで・・・」 不自然な余韻の中で、電話は切られた。 どうしたんだ?と、訊いてくる岩城に、香藤は、うん・・とだけ口にして直ぐには答えなかった。 少しして、「後2日、延びたんだって・・・撮影開始」と、ポツンと口にした。 「えっ?どうして?」 「なんか・・・引田監督が今回の撮影に使う彫刻、出来上がる過程を撮って、完成品を持ち帰る予定 だったらしいんだけど・・・ミスがあって・・・あと2日かかるんだって・・・・・それで」 「・・・そうか・・・じゃ、仕方ないな」 「・・うん・・・仕方ない・・・」 明らかに元気がなくなっている香藤に、岩城は「ま、どっちにしても、撮影は始まるんだから、同じ だろ」と、軽く口にして、横に座った。 香藤は、そのまま黙っていた。 後2日、不自由は続く。多分香藤は、アイマスクを外さないつもりなのだろう、と、岩城は思ってい た。外さない、と、そう考えるからこそ、失望しているのだと。 「俺・・・・ちゃんと何かを得られてるのかなぁ・・・・」 ポツンと香藤が呟いた。 引田が、今、劇中で最後に大賞を取ることになる、その彫刻品を求め動いている。それは、何でもい いわけではなく、香藤が演じる行田仁史の、血の滲むような渾身の努力と熱意の結果、でなければな らない。 行田仁史を演じる香藤を信じての行動、そう思える引田の熱意が、香藤により一層の責務のような感 情をもたらしていた。 責務と、そして求められている感情。 引田が望み、香藤が模索し、岩城が気づかせようとしている感情。 見える者と見えない者の、決して浅くはない溝。それを、この瞬間から残された2日間で、香藤は知 る事になる。 それは、たとえ努力しても得られなかったかもしれない。こうやって、不自由な時間を永く過ごすこ とで初めて判る感情、だった。 「俺・・・・ちゃんと何かを得られてるのかなぁ・・・・」 そう呟いた香藤を見て、岩城は軽く、「買い物に行くか?」と、誘った。 「えっ?買い物?って・・・」 「食料も、そろそろ尽きるだろ?」 「うん・・・そうだね。行こう」 そう答えて、香藤はアイマスクをサングラスに替えた。この状態で家から外に出るのは初めてのこと だった。夜11時を過ぎている静かな住宅街を、車で10分ほどのところにある深夜営業のフードシ ョップへと、岩城の運転で2人は出かけた。 車へ乗るまでも、香藤は岩城の手を借りなかった。 駐車場に車を止め、そこからゆっくり歩を進める岩城に沿って、香藤は店舗入り口まで歩いた。 自動ドアが開き、店内に入りかけたそのとき、岩城が突然立ち止まり、そして、告げた。 「じゃ、俺は車で待ってるから、お前、買ってきてくれ」 驚いた香藤は、えっ!!と、声を出して振り向いた。 「何度も来てるから、判るだろ?」 「判る・・って・・・、俺、1人で買うの?」 「ああ・・・じゃ、任せたからな」 と、言い終わらないうちに、岩城の体の感触が、傍から消えた。 香藤は唖然として、しばし入り口で突っ立っていた。 岩城は、そんな香藤を、少し離れた場所まで歩いていくと、振り向き、見つめていた。 少しして、諦めたように、香藤の体がゆっくりと店内に向かった。その右手が入り口から不安げに壁 を伝っていた。 岩城は、心の中で「香藤、許せ」と、呟いていた。 アイマスクをサングラスに替えても、香藤は絶対にその下で眼を開けないだろう、と、岩城は知って いた。 ただでさえ気持ちが沈みかけている、そんな香藤を1人で放り出した。酷いことをする・・・、と、 岩城は苦しい感情に責めたてられていた。岩城はそれでも香藤に与える道を選んだ、決して生易しく はない、努力を必要とする環境を。 後2日・・・時間は限られている。香藤は必ず判る、自分が言いたい事を・・・、そしてそれを必ず 役の肥やしにするだろう。 香藤を愛する心が生む行動、だったが、それでも、岩城の心はどこか揺れていた。 香藤が愛しい。その気持ちだけが邪魔をしていた。 店内を思い起こしながら、香藤は進んだ。入り口のカートをまず手にして、右手は変らず横位置を探 っていた。 この時間、店内に客はまばらだった。しかし、それでも、サングラスをして、手探りで進む香藤の姿 は、有名人であることを差し引いても、十分人目を引いた。 野菜が並ぶ中、レタスとトマトを見つけ、カートに入れた。 鮮度はわからない。値段もわからない。しかし、余り手当たり次第、物を探るわけにもいかず、落と さないように、荒らさないように、その手は慎重に彷徨っていた。 途中、カートが何かに突っかかり、前に動かなくなった。無理はできないので、カートの前を探って その原因を知った。中央ワゴンに引っかかっていた。 それを避けるために、カートを横にずらしかけていると、ふっと自動的にカートが動いた。 「手伝いましょうか?」 男の声だった。 誰かが助けてくれたのだと知り、香藤は笑顔で頭を下げた。そして、「何とか1人で・・頑張りたい から、ごめんなさい・・・ありがとう」と、言った。 判りました、と、男の声が返ってきた。 自分の記憶にある道筋をたどりながら、何度も物にぶつかり、目的のものを見つけられず、ひとつの ものを手にしては悩み、考えに考えた。全ての凹凸が邪魔になった。 乳製品の場所まで行くと、パックを手にし、暫くじっとしていた。 どうしようもなかった。今手にしているものが、牛乳なのか、違うものなのか、パックの形が同じで 見分けがつかなかった。 香藤は意を決し、少し小さな声で「・・・誰か・・俺の傍にいますか?」と、口にした。 口の中で呟いたような声には、誰からも返事は返ってこなかった。 今度はややはっきりとした声で、もう1度、同じことを口にしてみた。 少し年配の女性の声が、「どうしました?」と、返ってきた。 「あっ・・・すみません・・・あの・・俺・・今・・牛乳、手にしてます?」 少し置いて、女性が、「ああ・・・牛乳ね、違いますよ、それはオレンジジュース」、と、そう言っ て香藤の手にあるパックを取り、「はい、牛乳はこれ」と、替わりに違う物を渡した。 「ありがとうございます」 香藤は再び頭を下げて、手にしたものをカートに入れた。果たして頭をきちんとその人に向けて下げ ているのかどうかも、定かではなかった。 必要最低限のものをカートに収め、それでも何とかレジに向かった。 レジと思われる通路に入っても、誰も何も言わない。音もしない。 どうしようか、と、香藤が考えているところへ、「すみません、そっちは閉めてますので、こっちへ お願いします」と言う声が聞こえた。 夜間、レジは1つしか開けられていなかった。 香藤は後ろへ不安げに下がると、声のした方向へ向きを変え、進んだ。 「ここです。そこ、左に曲がってください」と、声がかかったので、そこで折れて、レジに入った。 「ありがとう」と、香藤は籠を出しながら言い、「いえ」と言う声と共に、籠が引き取られた。 軽快なレジの音に続いて、レジ係の男性が、合計金額を告げた。 香藤は財布を手に、中から札を出そうとして、再び迷った。 本当に、何から何まで、相手を信用しなければ始まらなかった。 香藤は、1枚、札を手にして言った。 「ごめん・・・・俺、今、1万円札出してるかな・・・」 「・・・・違います・・・千円札です」 「・・・・・悪いんだけど・・・・1枚、取ってくれる?万札」 そう言って札入れを前に差し出す香藤に、やや戸惑っていた店員は、ゆっくりと手を伸ばして、香藤 が手にしている札入れから、1万円札を1枚、引き抜いた。 「ありがと」 そう言う香藤に、「おつりです」と、店員はレシートと共におつりを渡した。 もう1度、ありがと、と、口にして、香藤はとりあえずその場を離れ、無造作におつりを財布に仕舞 った。おつりの枚数を数える気力もない、緊張で体中がありえないほど疲れきっていた。 買ったものを手に下げ、出口に向かったときには、僅かな安堵感と、どうしようもない悲しさがこみ 上げてきた。いったい何が悲しいのか、それさえも香藤には判らなかった。 自動ドアを外に出ると、ふっとビニール袋を持っていた右手が軽くなった。 「お帰り」 聞きなれた声が耳に響き、香藤の荷物がなくなった右手を、優しい手が握った。そして、ゆっくりと 車まで導いて行った。引かれて歩きながら、香藤の心には岩城に会えたことの喜びが充満していた。 店舗内に居た自分の孤独感は、かつて経験したことのないものだった。自分を導く優しい手が、本 当に嬉しく、それを断る気持ちは、今の香藤からは全く消え失せていた。 車に乗り、ドアを閉めた途端、香藤は岩城に抱きついた。 「悪かった、香藤・・・・・本当に・・・よく買ってきたな」 どれ程、不安だったことだろう、勇気もいり、恥ずかしい気持ちもあったろう、と、岩城はそんな思 いから、香藤の背中を慈しむように摩った。 「愛してる・・・愛してる、岩城さん」 岩城の背中で、香藤が繰り返す声が不安定に響いていた。 「俺も愛してる、香藤」 岩城がポツンと愛を返してきた。 無事、自分の元に帰ってきた香藤が愛しくて仕方なかった。 岩城が何故こんなことをしたのか、香藤が何を思って帰ってきたのか、口にせずとも、互いの胸の中 では、十分理解出来ていた。 その夜、互いにおやすみ、と言い合った後、少しして隣のベッドから香藤がゆっくりと手探りで、岩 城のベッドへ入ってきた。 「いい・・?岩城さん・・・このままで・・」 アイマスクを差しているのだと判り、そんなこと・・、と岩城は言いかけ、「それは・・お前が決め ることだ」と、答えた。 「うん・・・」 頷いて、香藤はそのままアイマスクを外さずに、岩城の顔を両手で挟んだ。 今、どうしても岩城とひとつになりたかった。 見ることの出来ない岩城を体で感じ、自分がこの世で1人ではないことを確認したかった。 香藤は頬から唇に指を這わせ、確認できた岩城の唇に、キスをした。 舌を深く絡めながら、右手が忙しく岩城の体を探り、唇もその体をなぞり降りていった。 息が上がり始め、香藤の舌が岩城の下半身へと移行する頃には、互いに裸になっていた。 セックスなど、見えなくても何の不自由も生じない。 永年覚え知った体を愛することなど、生活に生じる不自由に比べれば、塵に等しい。 香藤は、難なく岩城を探り当て、繋がった。 押し出される、岩城の呻きと熱い吐息。 香藤は肩を両手で掴みながら、岩城の反りあがる白い喉を想った。 強く数回突き上げると、さらに高い喘ぎが立ち上ってきた。 香藤の脳裏によぎる、岩城の固く閉じた目尻に滲む汗と涙。 右手を肩から胸へ滑らせ、突起を摩ると、僅かな振動が体に伝わってくる。 見えない世界で、岩城の声色の微妙な変化さえも強い色香で脳に迫る。それは、異常なほど香藤にあ らゆる肢体を思い起こさせた。 その美しい指が強くシーツを握り締め、岩城は今、高い歓喜の波に揺さぶられている。十分に満足の いく快感を、多分自分は岩城に与えることが出来ている、いつもそれを確認し、喜びを覚える。 岩城の腰を抱きかかえ、香藤は荒々しい激動でひたすら責め続けた。 岩城の限界が悲痛に訴える内腿の震えと哀願の声に押され、香藤は一気に岩城を連れて果てた。 引きずったうめき声と共に、香藤は岩城の上に倒れこみ、時も置かず、狂ったように、まだ息も収ま らぬ岩城の震える唇を貪った。 落ち着きのないその両手は、岩城の頬や鼻、耳や汗に濡れた髪を、ただひたすら探り続けた。 探っては唇を合わせ、また探っては唇を落とす。 繰り返す動きに中で、「見たい・・・」と、悲しく呟いた香藤の唇と指が、忙しく岩城の顔を確認し 続け、次第にその動作は荒々しく、苛立ちを含んだものへと変化していった。 「見たい・・・見たいよっ!!」 「かとう・・・」 「岩城さんの・・・岩城さんの顔が見たいっ!!」 岩城の胸に熱いものが込みあがり、優しさが、もう、ほんのそこまで姿を現しかけていた。 香藤は岩城の体を痛いほど抱きしめて揺すった。 「他はいいっ!何にも見れなくっていい!!岩城さんだけ見れたら・・・ねぇっ!!」 たった後2日、その2日が、今、耐えられなくなっていた。 確実に遠のいていく記憶。 忘れるはずのないそれぞれの形態、それを思い描くとき、僅かに頭を掠める疑い。 確かにそうだっただろうか?岩城の唇は、黒髪は、耳は、目は・・・どうやって泣くか、どうして悦 ぶか・・・目の色は・・・肌の色は・・・。 岩城の細部にわたるまで知る自分の記憶、それを見たいときに確認できる、その幸せの根源にあるも のを、香藤は今、知った。 雲の形を見ずとも、生きていける。が、岩城を見ることが出来なければ生きてはいけない。 今日、自分を店外で待っていてくれた、その岩城の表情をどれ程見たかったことか・・・・。 たった1週間。それが2日延びただけ、たったそれだけのことに、香藤は苛立っていた。 知っているからこそ、見えていたからこそ、苦しい。 行田仁史も、どれ程苦しかっただろう。 次第に気がつく自分の過ち、そして、今夜、店で感じた岩城の自分に対する強い優しさ、それらが香 藤の苛立ちに拍車をかけていた。 不意に、「じゃあ、外したらどうだ?」という、僅かに息の収まった岩城の静かな声が、腕の中から 響いてきた。 香藤の心臓が激しく波打ち始めた。 「どうしても我慢できないのなら、外せばいいことだろ。見たいものを見たいと思うときに見ること が出来る、言い換えれば、見るものを自由に選ぶことが出来る、誰も邪魔はしない。それが・・・今 のお前だ」 岩城を見下ろす香藤の唇が僅かに震えた。 「・・・自由に選ぶ・・・自由に選べる不自由・・・・だ」 香藤はアイマスクの中から必死で岩城を見ていた。見えない岩城の表情、しかし、香藤はその表情を 知っていた。 岩城はとうに気づいていた、見えていた者が、見えなくなる事の残酷さを。 知っていて、気づいていて、それを自分に告げるタイミングを待っていたのだ・・・・。 無言で岩城を見下ろしていた香藤の体は、ゴロンと、脱力したかのように転がり、その横に並んだ。 ゲームなどと、馬鹿なことを・・・。楽しいわけがない。地を這うほど苦しいはず。期限などないの だ。行田仁史は永遠に自分が見たいと望むものを見ることは出来ない。 「・・・馬鹿だ・・・俺は・・・」 そう香藤が呟いた。 顔を天井に向けていた香藤は、少しして両手でふいに顔を覆った。 その下から、ああ・・・、と、それは溜息でもない、絶望と失望を彩った声が響いた。 「・・・岩城さん・・・」 香藤の呼びかけが弱くこだました。 「・・・どうしよう・・・後2日しかない・・・」 くぐもった声で、香藤は訴えた。 「・・・俺は・・・きっと出来てない・・・何も・・・」 そんな香藤の頬を、岩城の手が優しくなぞった。 「後2日も、あるじゃないか・・・」 岩城がポツンと口にした。 「2日もあれば・・・・お前は大丈夫、だろ?何も出来ていないなんてことはない。見えないことの 動作は、もう習得している・・・後は、そこに感情が着いていけばいいだけだ・・・」 そう言いながら、岩城は横の香藤を抱きしめた。 「その感情も、今日、お前は習得しただろ?」 「・・・・・・習得・・・・・?・・・俺は・・」 「お前は・・・どんなときも、誰が見ていなくても・・・目を開けなかった・・目を開けてしまえば 何も得られないと・・・そう考えたからこそ、どれだけ辛くても頑張った・・・そんなお前を、俺は 誰よりも信じられるし、誇りにも思っている・・・だから・・・自信を持って、あと2日、頑張れ」 岩城はそう言いながら、腕の力を少し強めた。 香藤は、ふいに抱かれた腕の中から両手を抜き、その手で力いっぱい岩城を抱きしめた。 この1週間、監督もスタッフも全ての人間が、自分を待ってくれている、そして、自分を信じて、黙 って何も言わず見ていてくれた岩城、香藤はそれらの思いに報いたい、と、そう強く思った。 その夜、岩城はやっと、先日、因幡から言われたことを香藤に告げた。 明日からの2日間、岩城は久しぶりの連休だった。そのことも付け加え知らせた。 もう、香藤はままごとは止めた。 次の日から、食事は岩城に任せた。それは岩城からの提案でもあった。 1人、2階に篭り、シナリオの復習に励んでいた。 既に頭に入っているシナリオ。香藤はアイマスクをしたまま、繰り返し演技を模索していた。 岩城が食事だ、と呼びに来ると、ありがと、と言い、階下へ降りた。 岩城が不慣れながら心を込めて料理してくれている、それらを、香藤は、美味しい!!と言いながら 食べた。 そんな香藤を見ながら、岩城は、がんばれ、と、心でエールを送っていた。 「ごめんね、岩城さん、せっかくの連休・・・」 「気にするな、おかげでゆっくり読書も出来て、いいさ」 「・・うん・・」 勿論香藤の心の中にも、連休を岩城と過ごす、それがどれ程幸せな時間なのか、判っていた。 ご馳走様、と、口にすると、香藤は再び2階へと向かった。 2人が在宅しながら、とても静寂な空気の流れる家だった。 次の日も、同様に過ぎていた。 昼に見た香藤の表情が、少し晴れない感があった。 岩城は夕方まで待ち、昼以来、1度も香藤が出てこない部屋を、そっと2階へ上がり、覗いた。 音をさせないようにドアを開け、中を見た。 カーテンも開けていない薄暗い部屋の中、探す香藤の姿がなかった。 中へ入り、部屋の中に居ないことが判り、岩城は寝室を覗き、続いてバスルームなど、最後は声を出 して香藤を呼んでいた。 答えはなかった。 1階へ急ぎ駆け下り、同様に呼びながら探したが、姿はなく、庭に出たが、同じだった。 外に出たのだ、と、岩城は思った。 一体いつ・・・?どうやって・・・?と、まるで岩城の心の中に、本当に目が不自由な人間に対する ような不安が渦巻いていた。アイマスクさえ外せば、香藤は見ることが出来るのだ、と、判っていな がら、この9日間で、岩城の感覚も麻痺していた。 また、きっと香藤はアイマスクを外していない、という、確信もあった。 急ぎ靴を履き、岩城は外へと出た。 左右どちらだろう、と、その道を迷い、きっと人通りのない方向だろう、と信じて、そちらへ向かっ た。夕方6時を過ぎた頃の、薄暗い空気の中、岩城は2人の人間とすれ違い、そのどちらにも、香藤 を尋ねた。 そして、岩城が3人目に出会った仕事帰りの男性に尋ねたときだった。 「ああ、見かけましたよ。その先の公園で」と、答えが返ってきた。 岩城は走った。 3分も走らないうちに、右手に公園が見え、と、同時に、公園の奥のベンチに腰掛けている香藤の横 顔が目に飛び込んできた。 香藤はサングラスをかけ、ただベンチに腰掛け、じっとしていた。その顔は僅かに空を仰いで、落ち た肩から延びた両手が、両足の間に力なくうなだれていた。 その姿は、酷く孤独で、寂しげだった。 ジャリっと、土の音をさせながら、岩城はそっと、香藤の背後まで近寄った。 自分の背後で音が止まったことに気がつき、僅かに香藤が振り向きかけた、そのとき、岩城は手を伸 ばし、香藤の耳にかかるサングラスを外した。 えっ?と、香藤が驚いて完全に振り返った、そのときには、既にサングラスは岩城の手によって、外 されていた。 「い・・岩城さん!!なんでっ!!」 背後から漂う微かな香りと手の感触で、聞かずとも判る岩城に、香藤は驚き声をあげた。 香藤の目を覆っていたものが、9日ぶりに消え、香藤はその感触に驚き、うろたえていた。 「もう・・・外してもいい頃だろ?」 「ダメだよ!!そんな、まだ俺」 香藤は、目を開けることなく、そう言い募った。 岩城はゆっくりと前に回り、香藤の隣に腰を下ろした。 「お前は・・・・実際のときも、目を瞑って演技するつもりなのか?」 香藤は唇を固く結んだまま、肯定も否定もしなかった。ただ、何も言えずに、その目は以前、硬く閉 じられていた。 「違うだろ?目を開けて演技するんだろ?」 「・・・そうだけど・・でも」 「じゃあ、目を開けて演技したらどうだ?」 「・・・・・・・」 香藤はじっとしたまま、無言で岩城の横で俯いていた。その睫が微妙に揺らぎ、迷っていた。 「どうした?開けるのが怖いのか?」 「・・・・・・・」 判っていた。自分でも、それは判っていた。この2日間、アイマスクを外し演技に挑もうと、何度も 考えた、が、どうしても出来なかった。 開けると、今までの努力が全て無駄だったと、やはり自分は何も習得していなかった、と、それを知 ってしまうことが怖かった。 岩城に告げる結果が何もなく、こうやって、黙ってそっと外に出た。逃げるように・・・。 どれだけ過酷な条件を自分に与えてみたところで、行田仁史の苦しみには及ばない。そんな自分の演 技は、どうやって演じても甘い。 期待されるだけのものを演じきる自信が、今の香藤には全くといっていいほど、なかった。 ただ黙って、俯いているそんな香藤を前に、岩城は小さく言葉を送った。 「・・・お前は、行田仁史じゃあない。香藤洋二、という、役者だ。同一人物ではない」 「・・・・判ってる・・・そんなこと・・・」 「・・・香藤洋二、という役者が、観る人間に『行田仁史の人生は、どれ程大変だったろう・・そし て、その困難を乗り切って成し得たものは、なんと素晴らしいのだ』と、それを伝えることが出来れ ば、それでいいんだ。行田仁史の苦しみを同じ感覚で味わうのは、それこそ同じ人生を歩むことでも なければ、無理だ。お前を通して、皆、行田仁史の人生を知る、それを間違いなく伝える、それが役 者、だ」 静かな薄闇の中で、穏やかな岩城の声が香藤の体を通り、抜け、風に消えていった。 香藤の左手が岩城の右手を横に探り、上から握り締めてきた。と同時に、顔を岩城に向けた。 香藤は目を開けるつもりだ、と、岩城は判った。 ゆっくりと、スローモーションのように、その目が徐々に開き、現れた視界が岩城を捕らえた。 その瞳が、目の前の岩城をじっと見つめ、唇が僅かに何かを訴えるために開きかけたとき、不意に香 藤の澄んだ瞳に膜が張り、一瞬で溢れたものがツッと、香藤の頬を伝った。 柔かな微笑で見つめる岩城の手がその頬を滑り、伝う涙を優しく拾った。 頬に添えられた手の上から、香藤の手が静かに重なり、そのまま唇へと移動した。岩城の手の内側に 香藤の暖かに湿った呼吸が伝わった。 「・・・岩城さん・・・・俺・・・判ったよ・・・・今・・・判った・・・何もかも・・・」 香藤がたどたどしく言葉を漏らした。 なんという幸福感。 全てを見ることが出来る中で、会えなかった岩城を見るときの幸せ、そんなものとは比べ物にならな い・・・・・何も見ない世界から、ただ1人、岩城を目にした幸せは、言葉では言い表せないほどだ った。 だからこそ、香藤は、やっと知ることが出来た、見ることが適わない不幸を、今、体中で感じること が出来ていた。 見ない時間が生み出したこの感情。 判った、と口にした香藤が、いったい何が判ったのか、それは健常者が得ることがとても難しい感情 である、と、岩城は知っていた。 香藤がこの日々の中で試みたことは、決して無駄ではなかった、と、岩城は心から思った。 「よかったな・・・香藤・・・・本当に、よかった・・・」 香藤の頭を胸に抱きこみながら、岩城は呟くように口にした。 「お前は・・・よくやったよ・・・絶対に見なかった・・・だから知ることが出来たんだ・・・」 こうやって、香藤の苦しい9日間は終了した。 ブラインドを開けた視界は、香藤にとって、新たな希望を提示していた。 それは、見えぬときではなく、見えた瞬間にこそ存在していた。 引田が持ち帰ったものは、香藤の顔をかたちどった頭部の像だった。 行田仁史は自分の顔を思い出しながら、ひとつの彫刻を作り上げる。 途中、何度も自分の顔をなぞり、確かめながら、約1年の歳月をかけて、日本芸術大賞をとる事にな る作品を完成させる。 香藤の顔は、土で汚れ、ただ無心で、開いた目が瞬きも忘れ制作活動に没頭していた。 完成させたものを手で確かめながら、『見たい・・・』と、香藤が呟いた。 その後ろから、因幡が声をかける『手で見てみなさい、判るはず、これがどれ程素晴らしく出来上が っているのかが』と・・・・。 じっと何度も指で像をなぞりながら、香藤のその像が見えているはずの開いた目は、全く何も写すこ とはなかった。 『見たい・・・先生・・・俺は見たくて仕方がない・・・・自分が・・・何を作ったのか・・・どう なっているのか・・・どうして・・・・どうして見せてくれないんだっ・・・俺の目は・・・』 土に汚れた手で顔を覆い、座り込んだ香藤は声をあげて像の前で泣いた。 あの夜、岩城を見たくて仕方なかった自分が呟いた、見たい、という思い。あの時、たった後2日が 我慢できなかった自分。それらの時間が今、香藤に答えを示していた。 知らず、その姿を見守る因幡の目にも涙が光っていた。 そして最後のセリフを因幡が呟いた。 『・・ほんとうに・・・見せてあげたい・・・私の目をあなたにあげてでも・・・それが出来ればど んなに・・』 そして、ゆっくりと因幡は香藤の前に進み、その前に腰を下ろして静かにその泣きじゃくる体を抱き しめた。 そして告げた。 『あなたは・・素晴らしい仕事をしたのですよ・・・もう私などを遥かに超えた・・素晴らしい仕事 を・・・・』 因幡の口にしたセリフは、彫刻家として生田仁史に告げるものであった、が同時に、彼女の胸の中で は、役者としての香藤洋二に贈った言葉でもあった。 そして、同じ思いが、監督の引田昂をはじめ、周りにいるスタッフの胸にも宿っていた。 この作品はいいものに仕上がる、そして、必ず観る者の胸を打つ、と、誰もが思っていた。 こうやって、香藤の苦しい葛藤の中から生み出された演技は、そのスクリーンを観る人間全てに、そ こに繰り広げられる生田仁史の苦悩と努力の人生を体感させた。 いつしかそれが香藤洋二なのか、生田なのか、それさえも忘れさせていた。 完成試写会で、初めての賞賛の声に触れた香藤の笑顔は、輝いていた。 ステージ上で香藤は、関係者一同に感謝の意を言葉にして述べながら、今日、仕事でこの場に足を運 ぶことが出来なかった岩城に、胸の中で言葉を贈った。 ーありがとう、岩城さん 自分を導いてくれたその顔が、香藤の頭によぎり、優しく言葉を返してきた。 ーよかったな、香藤、と・・・・・ あの香藤が彷徨った9日間はこうやって誰にも知られることなく、2人だけの歴史のページに加えら れていった。 2006.06 比類 真 |
「雲の形を見ずとも、生きていける。が、岩城を見ることが出来なければ生きてはいけない」
香藤くんの想いが書かれたこの一文が私にとってとても印象的でした
役を掴むためにもがき苦しむ香藤くんとそれを優しく・・・でも厳しく見守る岩城さん
ふたりの絆に泣いてしまいました
どれだけ強いんだ、このふたりは・・・と・・・
そして互いを理解しているからこその言動・・・その1つ1つが胸を打ちます
比類さん、素敵な作品をありがとうございますv