#1:solitary Waltz for intoxicated Dog 〜前編〜 | |
ある駅の南口を出て百数十歩。『k’s cafe』はそこにある。 その店は深煎りのコーヒーで染めたような濃い色の木材が床、壁、天井、カウンターにもと、いたるところに贅沢に使われている。演奏が行われることを踏んでか演奏が行われる周辺の天井は吹き抜けていて、ガラスは全て三重になっている。 その他にも防音を考慮された設計をされているのだが、その空間に居て感じるのは防音室特有の圧迫感ではなく、開放的かつ穏やかな時間だ。 岩城と香藤があんな事もこんな事もしちゃう間柄になるなんて神も仏もお天道様も 想像し得なかった、9月の金曜日。 その日はさらさらとした雨が降っていた。 店内はその日一番の盛り上がりを過ぎ、そこそこ盛り上がっていた。 しかし、その一番の盛り上がりには大抵、犠牲という代償がつきもので………。 「洋二。おいっ。起きろ。邪魔だ。起きろ。」 一声かけるごとにカウンター越しに香藤の体を無遠慮に大きく揺らすこの男。 鋭い眼光と計算されつくした無精髭を持ち、皆からはマスターと呼ばれ大変慕われている。 「もっと優しくして…。マスタ…。酔いが…回…る…。」 シンプルなロゴTシャツにライトグレーのパーカーとステッチの効いたダメージデニムという部屋着のような服をモデルのように着こなす犠牲者こと香藤洋二はカウンターに突っ伏したまま動かない、 いや、正確には動けなかった。 見る者を魅了するその瞳も今は開くことを放棄して、 眉間の狭さだけが苦悶の表情を作っていた。 「起きろっつってんだろうが!!聞こえねぇのか?!」 これまた無遠慮にブンブンと音がしそうなほど香藤の肩を掴み前後に揺らす。 「マジ…。勘弁して………。」 されるがままになり、最早抵抗する力さえ残っていなかった。 揺らされるたびに反射するピアスがむなしく光る。 「こりゃ、もう無理だな…。」 そうぼやくとマスターは軽く舌を打ち、 「おいっ。吉澄。」 と一際騒ぎの大きい方向に声をかけた。 「何?マスター。いつもの仕事?」 テーブル席で騒いでいた吉澄がヒョコヒョコと ビールジョッキ片手にカウンター席へと腰掛けた。 「まぁそう言うことだ。洋二を2階に連れてってくれ。 毎度こんなところで潰れられちゃな。邪魔でならん。」 「しょうがないなぁ。マスターの頼みは断れないしね。そのかわり、一杯奢りだよ? 香藤君筋肉質で結構重いんだからさ。」 と、香藤の頭をポンポンと小突く吉澄をマスターは少し睨んだ。 「何を全部一人でやってるみたいに言ってんだ。京介にも手伝わせてるくせに。」 そう言うと、吉澄のジョッキを奪いビールを一気に飲み干した。 「あはは、なんだばれてたか。だって岩城君が手伝ってくれるんだもん。 それにしても、よくもまぁ上手く2ヶ月に1回だけ潰れるね。 香藤君、自分の誕生日でも潰れなかったのにさ。」 吉澄は空になったジョッキを逆さまにして頬杖をついた。 「2年間ずっとそのペースだからな。そういう魔法でもかけられてんじゃないのか?」 グラスを磨きながらそう言いやるマスターに 吉澄はやや細めの目をより細め、 「マスターもロマンチックなこと言うね。 でもさぁ、案外マリア様に会いたくてわざと潰れてたりして。」 と、軽く言った、 のだが、それに反してカウンターの中は一瞬にして重い空気に包まれた。 「なかなか面白い冗談を言うようになったなぁ。吉澄。 でも俺はその手の冗談は好きじゃない。」 マスターの冷めた声と、 他のバーテンダーとウエイターたちからの冷ややかな視線が吉澄に突き刺さる。 特にその視線は、マスターを不機嫌にさせるようなこと言いやがって、 後でとばっちりを喰らうのはこっちなんだぞと、実に具体的な内容をはらんでいた。 「あれっ?好きじゃない冗談だった?そりゃ失礼…。」 吉澄は身の危険を感じ、そそくさと香藤と肩を組み、 「ほら、香藤君。この店唯一の良心にでも会いに行こうじゃないか。 そのビール勘定から抜いといてね。」 と乾いた笑いと共にその場を去った。 「ここのスタッフの眼光は反則だよなぁ…。マスターも良い社員教育してるよ。 なぁ、香藤君。」 と返事を返すことのない相手に語りかけながら。 (まただ。また騙された。いや、違うか。からかわれたと言うべきかもしれないな。) 香藤がされるがままになっていた頃、2階では1階より少し暗い照明の中、 5人がけの小さなカウンターを挟んで3人の老人にからかわれている男がいた。 その男は黒いフェイクレザーの靴にセンタープレスの入った黒のスラックス、 膝下丈まである長めの黒いカフェエプロンとそれらに映える真っ白なシャツを身にまとい、 額に手を置き、悔やんでいた。 「京介君。君は少し人を信用しすぎる嫌いがあるな。」 男を京介君と呼ぶ彼の名はシン。本名は知られていない。日本国籍を持った元ドイツ人だ。 地に足の着いた現実主義者と言ったところだろうか。 「まさか、わしらがスパイだって話を信じるなんてなぁ。 そんなの洋二君くらいかと思っとったわい。」 二人目の名はコン。彼もまた本名は知られていない。日本国籍を持つ元イタリア人。 ナポリの太陽の様に丸々とした体格とそれを反映させた大らかな性格を合わせ持つが、 ヒョロリと縦長のシンとは何もかもが正反対だ。 「香藤君にも言えることだけど、そこが岩城君のいいところよね。」 3人目の彼女の名はアオイ。たぶん本名だろう。シンやコンとは違い生まれついての日本人で、いつも着物を着ている。コンとは結婚していて、近々金婚式を迎えるそうだ。 バラバラのこの3人の共通点といえば、流暢な日本語と、70に近い年齢だろうか。 この店の常連で、誰とも構わずからかうのだが、最近では岩城と香藤を同じ嘘で騙し、 その反応の違いを楽しむという大変高尚な遊びを楽しんでいる。 「そんな好き勝手言わないでくださいよ。 それに洋二ってあの酔っ払いのことでしょう? 」 岩城は銅製のアラジン型ポットを磨きながら、不服そうに言った。 「あなた、岩城君怒っちゃったわよ。」 「何言っとるんじゃ。京介君がなんと言おうと洋二君はいい男じゃよ。 歌ってるときは特にな。それに酔っ払うのだって、彼の歌がいい証拠じゃろて。」 「本当にコンは洋二君が好きだな。」 コーヒーの香りを楽しみながらシンが呟いた。 「ファンなんじゃよ。ファン。」 ファンだと言いやるが、実は孫に似ているから、かまうということを皆知っている。 コンとアオイは香藤に甘い。それはこの店の常識となっているほどだ 「確かに歌は上手いですけど、 酔っ払ってるところしか見たことないんで、どうも印象がね。 どうでもいいかもしれませんけど、3人がスパイだったって話、妙にリアルですよ。」 不思議なこの3人の素性は何事にも無関心な岩城も少し気になっていた。 「ふむ。洋二君もそんなこと言っとったな。」 「君も洋二君も、根っこのところでは同じなんじゃな。 歌ってるところを見たら君も考えが変わると思うんじゃが。」 「岩城君、珈琲御代わり頂戴。」 この3人は長生きするだろうなと思いながら 「はい。」 とアオイの方だけを向き岩城は返事をした。 「同じ人間てところでは確かに同じですけどね。」 無駄口をたたいてるなと思いながらコーヒーを注ぐ。 「岩城君、酔っ払い嫌いだものね。」 「嫌いじゃないですよ。苦手なだけです。 お待たせしました。ダッチコーヒーです。」 「ありがとう。」 3人はそれぞれに満足したのかそこで会話は終わり、吹き抜けの隣り合わせにあるこの部屋には、1階の喧騒が、雨音と共にラジオを聞いているかのように静かに流れていた。 夜のこの店では喧騒と静寂が確かに同居しているのだ。 しばらくして、 「おーい。岩城くーん。眠り姫連れてきたよー。」 と、静寂を破るように遠くで吉澄の間の伸びた声がした。 「おっ。直考君の声だ。洋二君がくるんじゃないかの?」 「あらっ、もう2ヶ月たったのね。」 キャッキャと、コンとアオイが騒ぎだす。 「みたいですね。」 岩城は人知れず溜息をついた。 「さて、ベッドメイキングでもするかな。」 シンはそう言うと出入り口付近に不自然に置いてあるカウチソファの元へ向かった。 「すいません。いつも。」 「なに。2ヶ月に一度くらいは、運動しないとな。」 2階の店には大人一人が寝れるくらいのカウチソファがある。 それには細工が施してあり、少しいじるとセミダブルほどのベッドになるのだ。 「後、よろしくお願いします。」 香藤を迎える準備を3人に託し、そう言い残すと岩城は眠り姫の元へと駆け出した。 「すいません。吉澄さん。常連ってだけで手伝ってもらって。」 「かまわないよ。みんな忙しいみたいだったし。いつもうちの花買ってくれてるじゃん。」 吉澄は『k’s cafe』の真向かいに『吉澄花店』と言う店を構えている。 要はお花屋さんなのだが、ストリングベースの演奏ができることもあり、 大変重宝がられている。 というのは昔の話、今は演奏の出来る雑用係位にしか思われていない。 花と音楽と車を愛でる生活を送っている。 「それにしても、随分と赤ら顔の眠り姫ですね。」 吉澄にだらしなく凭れる香藤をちらりと見やる。 「あぁ、香藤君ね。歌い手の中で一番若いから、 みんなに可愛がられちゃって。たっぷり飲まされるんだ。 万が一、酒のせいじゃなかったら、岩城君に会えて照れてるんだよ。」 「もしかしなくても、酒のせいですよ。それに眠り姫というよりは眠れる野獣だ。 毎日のように来てるのに、何で2ヶ月に1回だけなんですかね?」 「なんか、そういう魔法でもかかってるみたいだよ? とりあえず後よろしく。まだ伴奏が残ってるんだ。」 「マスターを怒らせましたか?」 マスターは不機嫌になると演奏の人数を増やす傾向があるのだ。 「おっ。珍しく鋭い。でもね、いいんだ。金子君巻き込んだから。」 「金子さん…。可哀想に…。」 岩城は心から金子を哀れんだ。 「もしかしなくても、金子君は世界で一番不幸なフルート吹きだよ。 松田君もピアノ気合入ってたし、今日はいい演奏聞かせられると思うよ」 吉澄はそう言うと香藤を岩城に預け、じゃあねと、手を振りながら階段を下りていった。 岩城は眠れる野獣と2人きりになった。 2006/03/25 tenugui |