ファッキン ゲーム オブ スター




岩城は床に座り込み、頭をうなだれていた。

あと1回で最終回を迎える連続ドラマ。このシーンで、男は目の前に横たわる女を殺そうかどうしよ

うか、思い悩んでいた。

ついに決心をした男の手が女の首にかかった瞬間、ふと女の目が覚める。

そして、ねっとりとした視線で岩城を見上げながら、セリフを口にした。

『あなた・・今、私を殺そうとしたわね』

そこでカットが入った。

女優の岬美夏は体を起して、軽く頭を振り長い髪を揺らし笑った。

岩城も続いて立ち上がった。

岬は髪を手で直しながら、「岩城くん。今日、どう?この後」と、飲む手つきを示した。

「あ・・・すみません、今日はちょっと・・・」

岩城は小さく答えた。

「なぁに?この間もそう言ってたわよ?今日くらい付き合いなさいよ、先輩の言うことを聞いて」

いつもの強烈な口調、だった。

「はぁ・・・しかし・・」

「なに?私と2人っていうのが問題なの?それとも香藤くんに怒られるの?」

「あ・・いえ、そう言うわけじゃ・・・」

「もう・・子供じゃないんだから!!そんなに言うなら、尾崎、一緒に行かせるわよ、ねっ尾崎、い

いでしょ?」

斜め後ろにいた、脇役の尾崎が苦笑いをしながら、少し頷いていた。

こうやって、初回に1度、付き合って以来、岩城は岬の誘いを何度も断り続け、結局、今夜は断りき

れなかった。

岬美夏は年齢的にもキャリアでも、岩城からは数段先輩格にあたる。

47歳になる華麗で我侭な女王は、自分でもその立場をしっかりと把握し、思う存分有効なカードを

切っていた。

彼女と共演の連続ドラマもあと僅かで終わる。

岩城は今回ほど、早くこの仕事が終わってくれと願ったことはなかった。

岬は初回から、何かといえば岩城に寄り、さりげなく体を沿わせていた。

わざとらしく逃げるわけにもいかないので、そのたび、岩城はじっと我慢をしていた。

初回の飲みから、あけすけにホテルへ行こうと誘われ、胸中では驚きながらも、軽く笑って岩城はそ

の場を濁し別れた。

サスペンス仕上げのこのドラマ内でも、2人のからみは結構ある。

岬のキスは濃厚で遠慮がなく、岩城が躊躇するほどだった。



1ヶ月前に放映されたそのシーンを観ながら、香藤は言った。

「この人、岩城さんのこと、絶対、好きだよね」

勿論、香藤はこの回だけを観てそんなことを口にしたわけではない。

今までの幾多のシーンでも積極的に、岬は岩城に求められる演技以上のモーションを仕掛け、香藤の

発言にも、岩城は肯定もしないが、しかし否定も出来ない有様だった。

仕方なく、岩城は控えめに「・・・そうかもな・・・」と答えた。

途端に香藤が横で振り返った。

浮気を問い詰められた夫が、最後まで絶対に白を切り通さなくてはいけない、という大原則に反し、

あっさり認めてしまった岩城に、香藤は「そうなのっ!?」と、叫んでいた。

「あっ・・・いや・・・違う・・・お前がそう言うから・・・そうかもな、と思っただけだ・・」

「何・・?ホテルにでも誘われたの?」

「・・・・・・・・」

ほんの冗談で口にしたことが、結構な重さで返ってきた。

「うそ・・・・マジで?」

そう口にした香藤は、結局、その日、岩城から岬のこれまでの言動を全て聞きだしていた。

岩城はかなり端折って軽めに説明をした、が、そんな事は何の役にも立たなかった。

香藤の脳裏ではしっかりと、岬に対してレッドカードが突きつけられていた。

もともと、岬美夏はそういった噂の絶えない女優でもあった。

並々ならぬ面々との噂が「スター女優、岬美夏」としての演出に一役も二役も買っていることは間違

いなく、世にスターという肩書きがあるとすれば、確かに岬美夏はその名を形容するにふさわしい存

在といえた。

整った上に華やかさを合い持ったその面立ちは、軽く微笑めば奥深い魔力を醸し出し、男を引きつけ

て離さないボディラインは年を重ねても崩れることはなく、演じれば、溝にはまった貧民の売り子か

ら、影の実力者と呼ばれる政治家の妻まで、多彩に演じ切り、受けた賞はスクリーンから舞台まで、

プロフィールを難なく埋め尽くしていた。







その日、電話で帰りが遅くなる旨を岩城が香藤へ伝えたときも、もはや香藤の追求に嘘をつくことな

ど、到底通用しない状況だった。

それでも岬と2人きりではない、と、岩城が言ったので、香藤もしぶしぶながら納得をした。

しかし、最後に言うべきことは忘れなかった。

「迎えに行くからね。ころあいを見計らって、俺、電話入れるから、出てきて。2時間も付き合えば

十分でしょ?」

心の中では、岩城もほっとしていた。その方がありがたい。岩城とて早く帰りたい気持ちに変わりは

ない。そのきっかけを香藤が作ってくれれば助かることは確かだった。







岬と尾崎、そして岩城は、フレンチレストランへ入り、飲みながら食事をし、早いペースでグラスを

空ける岬に巻き込まれないように気を配りながら、2時間足らずでその場から次の店へ移動するため

店を出た。

このタイミングが1番、と、岩城は心で香藤にコールを送っていた。

しかし、そう事は上手くは運ばない。

結局、岬に連れられるまま次の店へ入った。

少しすると、岬が遠慮のない口ぶりで、「尾崎、あんた、もう帰ってもいいわよ」などと、口にし始

めた。

尾崎は、岩城の心の中を知っていた。決して岬と2人にはなりたくないだろう、と、しかし、そう思

ったからとて、若輩の尾崎がどうにかできる問題でもなかった。

苦笑いをしながら、「そうですかぁ?」と、曖昧な返事を尾崎が返している、そのとき、まさに待ち

望んだコールが岩城の胸で鳴った。

「すみません、ちょっと失礼します」と、胸から取り出した携帯電話を見て、岬に頭を下げた。

少し離れて、岩城は香藤に電話で、居場所を教えた。

そうやって岩城は戻ると、今度は岬に、おもむろに告げた。

「すみません、ちょっと、俺はここで帰らせていただきます」

えっ?という顔で岬はあからさまに不機嫌を顔に出して、「何?どうしたの?」と、口にした。

「・・いえ、たいしたことでは・・・でも、帰らなくてはいけない事情が出来たので・・・」

「ふぅ〜ん」

岬は少し考えて、「じゃ、もう1杯だけ付き合いなさいね、そしたら帰してあげるわ」と、言ったと

きには、既にオーダーの手を上げていた。

岩城は腰を下ろし、グラスが運ばれるのを待った。

1杯、というリミットが切られたことで、岩城の頭の中で瞬時の諦めは早かった。

それから20分をかけて3人は最後のグラスを空け、やっと腰を上げた。

店を出るときには、岬もかなり酒が入り、また、これで帰す、という自分が施した理解の代償のよう

に、その右腕はべったりと岩城の左腕に絡まり体ごと寄り添っていた。

店を出たところで、少し辺りを見渡すと、すぐ斜め前に、見覚えのある車が停まっていた。

「じゃ、申し訳ありませんが俺はここで・・・。今夜はどうもご馳走様でした」と、丁寧に頭を下げ

た岩城が、さりげなく岬の右腕を外し、その体から離れようとした、そのとき、岬の両手がいきなり

岩城の顔を挟み、赤い唇が迫ってきた。

瞬間、僅かに顔をそらした岩城の唇横に、岬の唇が到達し、チュっと音を立てて離れていった。

岩城は足早にその場を去り、斜め前方の香藤が待つ車へ乗るため、ドアに手をかけて開けた。

その背中から、「じゃ、岩城くん、また撮影でね!!」と、岬がヒラヒラと右手を泳がせながら呼び

かける声が追いかけてきた。

思わず振り返りかけた岩城の体は、車の中から腕を掴まれると強い力で引っ張られ、そのまま車中に

否応なく引き込まれた。

どすん、と、岩城の体がシートに落ちると、香藤が岩城の前に腕を伸ばしてドアを引き、閉った途端

にアクセルを踏むと、車はその場から急発進した。

走りながら香藤の右手がダッシュボードからティッシュボックスを取り出し、おもむろに岩城の前に

突きつけた。

そして、ひと言、言葉を吐き出した。

「着いてるよ!口紅」

はっと、岩城はティッシュを取り出し、口の辺りを拭いた。

車が信号で止まると、香藤がさっと振り向き、乱暴にティッシュを抜き出すと、岩城の顔を片手で固

定しながら、拭き切れていない赤い残骸を拭い取った。

拭き終わったティッシュをダストボックスに投げ入れながら、「もうっ!信じらんないっ!!」と、

言葉も吐き捨て、再びアクセルを踏んだ。

香藤の岬美夏に突きつけたレッドカード、その効力は、しかし残念ながら、ここまでしか役目を果た

さなかった。

香藤がどれ程、強力なカードを持とうが、所詮、事が起こらなければ使えない。

そして、事が起こった後では、何の役にもたたないカードだった。











10日後、最終回の撮影が行なわれ、収録は無事終了した。

高視聴率をあげて現在放映中のこのドラマ、岬のことがなければ、岩城にとって心地よいクランクア

ップとなるはず、だった。

岬は終了後の雑然としたスタジオ内で、岩城の傍に来るとこう言った。

「岩城くん、お疲れ様。今日でおしまいね。この後、行くでしょ、飲み?」

「えっ・・?打ち上げですか?」

「そうね・・・そんなもん。Mホテルの1階のラウンジバー、先に行ってるから、皆で」

「はい、じゃ、終わり次第駆けつけますから」

そう言い残して、岩城は駆け足でそのスタジオを出て行き、次のテレビ局へ向かった。

その場でスタッフなどと会話をする暇さえあれば、岩城は救われただろう。

しかし、撮りが押し、次の生放送への時間が迫っていた。

また、今日に限って清水も休みだった。

岬はそのこともしっかりとお見通しだった。

走り去る岩城の背中を見つめる岬の瞳が生々しく光を放っていた。







生放送の番組を終えた岩城は、タクシーでホテルへ向かう中から香藤に電話を入れた。

撮影が今日で最後であることは、香藤も承知していた。

打ち上げだ、と言われ、それは仕方ないことだと、香藤も納得して電話を切った。香藤の納得には、

勿論、打ち上げという、岬以外にも多くの人間がそこには存在する、という環境においての納得に他

ならなかった。

そうやって、岩城はみすみす網が張られているテリトリーへと足を運ぶことになった。

ホテルのラウンジに入り、辺りを見渡す岩城の目に入ってきたのは、岬が1人でカウンターに座って

いる姿だった。

何故ひとりなのだ、と、最初に岩城は思った。

そして次に岩城はこう考えた、他の皆は既に場所を移動していて、岬が遅れる自分を待っていてくれ

たのだ、と。

疑ってみる最初の第1歩、それさえ岩城の頭には浮かんでいなかった。

「すみません、お待たせして」

そう頭を下げながら、紫のシフォンドレスに身を包んだ岬美夏に、背中から岩城は声をかけた。

岬は満面の笑顔で振り向き、どうぞ、と、横の椅子を勧めていた。

岩城は、勧められた椅子に腰を下ろしながら、「他の皆さんは・・・?」と、口にした。

「いいじゃない、他の人間なんて」

岬が口にした言葉に、「えっ?」という、曖昧な反応を示しながら、「でも・・・皆さんはどちらか

にもう行かれているんでは・・・?」と、岩城は続けた。

クスっと岬が笑い、ひと言、言葉を投げた。

「来ないわよ、誰も」

瞬間、岩城は言葉を失っていた。

「・・・来ない・・・って・・・それはどういう・・」

「今日はあなた以外、誰もここへは来ない、ってこと」

「・・・・どうして・・・」

「もう・・鈍いわね。打ち上げなんてないのよ、私があなたと2人で飲みたかった、それだけ」

「・・・・・・・・・」

嘘をつかれたのだと、岩城の頭はやっとそのとき、事情を飲み込んだ。また、自分がとんでもない行

動をとってしまった、ということも知った。

岩城の顔には怒りと困惑がない交ぜになり浮かんでいた。

そんな岩城に、岬は横から甘い声色で呼びかけた。

「ねっ、もう、今日で最後なんだから、いいじゃない。上に部屋をとってあるの、楽しく夜を2人で

過ごしましょう」

「・・・・失礼します」

それだけやっと口にした岩城は、憤懣の体を押さえながら腰を椅子から上げた。

急な展開に、投げつけたい苦情は山のようにあった、が、所詮今日限り、事を荒立てずに終われれば

それでいい、と、岩城は思っていた。

「いやぁね、どうしたの?そんなにがっちりガードを固めちゃって・・いいじゃない、1回くらい」

岩城は立ち上がったまま、静かに、「俺には、いますから・・・」とだけ口にした。

「知ってるわよ、そんなこと。何・・・?そんなに香藤くんに操立てしなくちゃいけないの?それと

も、もう女は抱けない、とか・・・?」

頭がヒートし始め、熱が体中に篭り出すのを、岩城は必死で堪え、そのままなにも言わず背を向け、

1歩を踏み出した。こんな公共の場で言い争うわけにはいかない。

ただでさえ、今、この場での2人の存在は、ただの一般人では済まされない。

岩城の逃げかけた腕を、岬の手が、強い力で掴んできた。

そして深く湿った声が被さってきた。

「岩城くん・・・あなた、まさか・・私をここに1人残して立ち去ろうなんて、考えてるんじゃない

でしょうね」

「・・・・その手を・・離してください」

相手が女であることに僅かな忍耐を付加しながら、しかし岩城の言葉は怒りに震えていた。

「ここまで私に言わせて、随分な恥をかかせてくれるじゃない!」

岩城は思い切ったように腕を振り払い、無言で岬から離れていった。

後ろから岬の声が小さく岩城の耳に響いてきた。

「・・・覚えていなさい!後悔するわよ・・」

岬を1度も振り返らずに、岩城はそのままホテルを出て、タクシーに乗り帰宅した。




人間に降りかかる災いなど、予感できるものはほとんどない。

また起こってみれば、その元凶は、考えもしなかった些細なことかが起爆剤になっていたりする。

このときの岩城にも、明日になってわが身に起こることなど、ドラマ内での筋書きででもない限り、

現実に起こりうることとは、想像だにしないことだった。

しかし、現実は架空の物語以上に過酷なものだった。












次の日の朝、香藤が9時前に岩城を起すため寝室へ上がってきた。

香藤の仕事は昼から、岩城は10時には清水が迎えに来ることになっていた。

「おはよ、岩城さん・・・朝だよ」

そう柔らかな声をかけながら、香藤は自分のベッドに寝ている岩城を少し揺すり起した。

横顔が枕から正面へ向くと、ゆっくりと岩城の瞼が動き、その瞳が香藤を認めた。

少し眠そうに、でも嬉しそうに、表情を崩しながら岩城が、おはよう、と、声を返した。

情事に耽った翌朝は、互いに少し照れている。

岩城の唇に軽くキスを落としながら、香藤はその体を抱き起こした。

「ごはん、出来てるよ、シャワー浴びてきたら?」

愛された体に微かな印と匂いを残し、僅かなけだるさを纏った岩城は、「ああ・・ありがとう」、と

小さく答えた。

「悪いな・・・お前は昼からなのに・・・」

そんな事を言いながら、シャワーへ向かう岩城に、「なに言ってんの」と、軽く返しながら、香藤は

リビングへと向かった。

少しして、シャワーを終え身なりを整えた岩城は、キッチンを覗き、自分もコーヒーを運んだ。

いつもの、何変らぬさりげない幸せな時間だった。

2人でテーブルにつき、箸を手にした、そのとき、岩城の携帯電話が鳴った。

表示を見ると、清水、だった。

岩城が電話に出ると、清水が口早に告げた。

「岩城さん、とにかく、テレビつけてください。Nチャンネル。9時30分から始まるモーニングワ

イド、後1分で始まりますから」

「・・・えっ??」

「説明します!でも、その前に、とにかくテレビ、つけてください!」

清水の尋常ではない口調に、岩城は、とりあえず言われるまま、テレビのスイッチをいれチャンネル

を合せた。

香藤は、驚いた顔でその様子を無言で見つめていた。

「つけました」

岩城がそう告げると、清水が説明を始めた。

「今日、この番組に、岬美夏が緊急出演します。その内容は・・・岩城さんに関係することです」

「えっ!!俺に・・?」

「そうです。今朝になって急に決まったことで、我々も放送が始まる今の今まで知りませんでした」

「いったい・・・彼女は何を・・?」

「それは・・・とりあえず、今から始まる番組を観て下さい。観ていらっしゃるうちに私がお迎えに

あがれると思います。まだうちしか知らないことなので・・・でも放送が始まってしまうと、記者が

そちらに殺到すると・・・・私がお迎えに上がるのと、どちらが早いか・・・・、とにかくすぐに出

れるようにしておいてください」

それだけ言うと、電話は切られ、そのタイミングで、番組が始まった。

「えっ?いったいどうしたの?何?清水さん?」

香藤はテレビを観る岩城に言葉を重ねながら、おもむろに腰を上げテレビの方へ動き始めていた。

「いや・・・俺にもよく判らないんだが・・・とにかくこの番組を観ろって・・・清水さんが・・」

そこまで、岩城が答えたとき、立ち上がっていた2人ともが息を呑んだ。

番組が始まり司会者に呼ばれ登場した岬美夏の、その端正な顔の左目から横にかけて、青黒い痣が広

がっていた。

司会者が、今日この番組へ岬が緊急出演をした訳を、彼女からの要請で、と、手短に説明を行い、少

ししてソファーに腰を下ろした岬が、「実は・・・」と、沈鬱な表情で語り始めた。

「この顔の痣は、昨夜、俳優の岩城京介さんに殴られた跡です」

その瞬間、岩城の体が僅かに揺らぎ、無意識にそのまま後ろのソファーへと、体がスローモーション

のように沈んだ。

香藤は立ち尽くしたまま、「何・・・これ・・・」と、それだけ呟いた。

さらに岬は続けた。

「ドラマの共演が終わり、2人で食事に行き、そのままホテルの部屋へ・・・でも・・・余りに彼は

乱暴で・・・・、それは普段の彼からは想像できない程で・・・私、怖くなって帰ろうとしたんです

・・・・そうしたら・・・いきなり殴られました・・・・」

そう言って、岬は涙ぐんで俯いていた。

「ホテルの部屋まで行って、帰ろうとした私もよくないんですが・・・・でも・・・岩城さんがまる

で・・・いつもとは別人のようだったので・・・・」

そこまで岬が話したとき、岩城の携帯電話が鳴った。

しかし、岩城は携帯を右手に握ったまま、全く反応出来ないでいた。

香藤がそれに気がつき、すぐその手から携帯をとると、表示名を確認してから受信した。

「清水です、今、あと数分でそちらへ着くところまで来ています。出来たら玄関の外へ出ていてくだ

さいますか?すぐ車に乗っていただけるように・・・」

「・・判りました」

香藤はそれだけ答えると、岩城に向かい、声をかけた。

「岩城さん!清水さん、もう着くって・・・だから門まで出てて欲しいって」

ソファーに腰を落としたまま、ぼんやりと画面を見つめている岩城の前に行き、その肩を両手で挟み

掴むと、もう1度、「岩城さんっ!!」と、香藤はやや大きく呼びかけた。

ビクッと体が揺れた岩城は、びっくりしたように香藤を見上げ、「あっ?・・・ああ・・判った」と

弱く口にした。

おもむろに立ち上がり、何も言わず機械的に玄関へ向かおうとする岩城の右手を、香藤は後ろから追

いかけ握ると、「岩城さんっ!」と、もう1度呼びかけながら、握った手を引き寄せた。

じっくり岩城に諭している猶予はない。

自分の胸にその体を力いっぱい抱きしめながら、耳元で香藤は言った。

「大丈夫!!俺は岩城さんのこと・・判ってるから、全部」

岩城は精一杯の笑顔で、「ありがとう」と、答え、そのまま家を出て清水の車に滑り込んだ。

記者達が騒がしく家の周りに集まりだしたのは、それから5分もしないうちだった。












こうやって、1夜にして岩城の身辺状況は変化した。

岬美夏は、露出できる媒体全てを使い、痣の浮かんだ顔をブラウン管に流し、同じ事を同じ口調で繰

り返し訴えた、自分は岩城京介に暴力を受けた、と。

当然メディアはこのネタに喰らい付き、あらゆる番組が取り上げ、批評し、そして脚色した。

そのうち、雑誌が発売され始め、当たり前のようにトップ記事は岬美夏と岩城京介、だった。

岩城が移動すれば、記者が動く。

何処へ何をしに行っても、岩城の周りからその群れが消えることはなかった。

岬美夏が持つプライドの根深さ、そのことに気がつかなかったことの代償は大きかった。

しかし、それを知っていたからといって、どうすることも出来なかった。

岩城が彼女を抱かない限り、避けることが出来ない道筋である。

それは有り得るはずのない避難路で、岩城にとっては、無いも同然だった。

つまり、岩城が岬と共演し、選ばれた時点で、岩城には回避不能の不運であったとも言えた。

迎えに来た清水は、車に乗り込んできた岩城に、開口一番、「岩城さん、申し訳ありません。うちが

力不足でこんな許しがたい攻撃を事前に防げなくて・・・」と、悔しそうに口にした。

帰宅した岩城を心配しながら迎えた香藤は、「もう・・・岬美夏!!あんな嘘!普通考えるかよっ!

信じらんないっ!!あの女!!」、と叫んでいた。

2人とも、今回のことが事実無根の狂言であることに微塵の疑いも持ってはいなかった。

岬が訴えていることがあり得ない事である、と、岩城を近く知る人間はすぐに理解できる。

だからといって、それと同じ事を世間に期待は出来なかった。

こういったときに、役者としての仕事以外では露出が少ない岩城は、ある種、ベールに包まれている

部分も持っていた。

岩城京介、という人物が真面目で誠実な人間である、ということは理解され大方の評価として根付い

てはいた。

しかし、メディアや視聴者など、所詮、そのときの風に馴染むものである。

岬の痣を造った顔を目にし、それと同時に涙で訴える岬の声も重なる。

そうするうちに、観る者の心の中に、「ひょっとしたら・・・」という疑念が湧く。「ひょっとした

ら彼は自分達が知らない1面を持っているのかもしれない・・・」と。

そして、その頃に、世間は今更のように思い出す、岩城京介の前身を・・・・。

彼がAV男優であった、という、それは、すっかり姿を潜め、忘れ去られようとしていたことであっ

た。













「記者会見、開くのはいや?岩城さん」

岬が始めてテレビで口を開いた日から5日が過ぎ、相変わらずの岩城を取り巻く状況に、香藤がそう

口にした。

あれから岩城は「大丈夫だ」と、口では言いながら、明らかに心身ともに疲れ果てていた。

動きに機敏さがなく、食欲もなかった。

少し時間が空くと、深く考え込んでいたりする。

自宅周りの記者の数はまばらになったとはいえ、テレビ局から出れば出た場所で、移動すれば移動し

た先で、車から降りて数歩でも歩こうものなら、歩行中片時も離れず、岩城にマイクを向けていた。

そんな状況を考えれば、いっそ記者会見を開いてしまうほうがいいのではないか、と香藤は思った。

自分に非がないことへ、弁明の会見を開くということを、岩城が嫌がることは百も承知で、見るに見

かねて香藤は提案してみた。

ソファーで深く腰を下ろしていた岩城は、香藤の問いに、「そうだな・・」と、ぽつりと答えた。

嫌がる岩城をどう説得しようかと考えながら口にしたことに、あっさり頷かれ、岩城自身かなり疲れ

ているのだ、と香藤は思った。

岩城があの晩、岬にホテルへ呼び出された打ち上げが嘘であったことを、こんなことになるまで、香

藤は聞かされていなかった。

打ち上げにしてはやけに帰りが早いな、と、そう思って香藤が尋ねると、岬が居たので早めに切り上

げてきた、と、それだけ岩城はあの晩説明した。

先日、どうしてそのことをちゃんと言わなかったのか、と、香藤は責めた。

岩城は、ぽつりぽつりと、訳を口にした。「この先、どんな事で彼女とお前が一緒に仕事をすること

になるかもしれない、そのときに、変な先入観がないほうが、お前のためにもいいと思った」、と。

しかし、そんな岩城の配慮も、彼女には全くの無駄、だったと、今、香藤は思っていた。

岬美夏は、それほど上等な人間ではない、配慮をするに値しない人間だったと。

記者会見については、事務所からも言われていたことだった。

「本当は、どうしたいの?」

ソファーで横に座っている香藤にそう訊かれ、そうだな・・と、曖昧な言葉を岩城は発していた。

自分でもどうしたいのだろうか、と、判断が出来なかった。

「判らないんだ・・・自分でも・・・・・会見を開いて・・・それで終わるだろうか・・?」

「でも、今のままじゃ、何処までも引きずるよ?あの女、止めないタイプだって、とことんまで」

小さく溜息をつく岩城の手を取って、香藤は自分の唇に当てた。

再び岩城がぽつんと、口を開いた。

「・・・・・俺が・・・会見に出て・・彼女を殴ってもいないしホテルへも行っていない・・・全て

嘘だ、と・・1から説明する・・・その姿がとても・・・滑稽に見える・・しかし・・・それも必要

なのかもしれない・・・自分の口で弁解することも・・・」

そこまで口にして、岩城は一旦言葉を切ると、少し置いて、また、ゆっくりと口を開いた。

香藤は、そんな岩城にそっと寄り添っていた。

今、岩城の口から発せられる言葉がとても大事に思えた。

「でも・・・どうしても判らない・・・何故彼女がそこまでのことをするのか・・・そして・・何も

していない自分がどうして・・・弁解しなければいけないのか・・・」

「うん・・・そうだよね・・・・」

「決して思わせぶりな態度をとってきたつもりは無い・・・・極力、接点を少なく・・・しかし・・

失礼になってはいけない、という・・・そんな俺の曖昧な対応が・・・いけなかったのかもしれない

・・・俺が・・・そんな俺が・・・彼女をそこまで追い詰めたのかもしれない・・・・」

「そんなわけないじゃん・・・」

香藤はそっと岩城の体を抱きしめた。

岩城らしい思考回路だった。それは、岩城の美点であり、しかし今は顔を出さなくてもいい、あると

きには欠点にもなり得る性格、だった。

「いいんだよ、無理にしなくったって、会見なんて・・・いずれ・・・時がたてば、どうせ皆、忘れ

るんだし・・・・」

会見が必要かもしれない、と、さっきまではそう考えていた香藤だった、が、岩城の言葉を聞きなが

ら、今はいい・・・もう少し待ってみればいい、と思った。

岩城が口を開けば、相手も必ず再び口を開き追ってくる。

追いかけ、再び勝とうとし、岩城を傷つける。

何も言わぬ者に正義が存在することもあると、時間が証明してくれる、と、信じたかった。




そうやって沈黙することで、これ以上の報道の加熱を避けようとしていた、香藤の、いや2人の願い

は、しかし、時を置かずもろくも消え去った。

岬が投げた凶器は何処までも深く、1人歩きをし始めていた。














『岩城京介!以前から暴行癖?!恋人の香藤洋二にも手をあげていた!』

『誰も知らなかった岩城京介の裏の顔!香藤洋二への暴力は日常茶飯事?!』

見出しは各雑誌に躍った。

誰が何処からリークしたかも判らない。

事態は思わぬ方向へ刃を向け始め、当初、岩城だけに集中していた取材攻撃も、一転して香藤にもそ

の波は押し寄せはじめた。

岩城が香藤の頭を叩く姿を見たことがある、という証言がまことしやかに書かれ、当然のようにそれ

は尾ひれをつけ、膨大していった。

軽くはたく、が叩くに変わり、叩くが今度は殴るに変化する。

メディアの中に潜む魔物がまさにこのとき、顔を出していた。

決まっていた岩城の清涼飲料水のCMが見合わされ、打診されていたドラマ主演の話がプッツリと途

絶えた。

数日は何とか身を隠して移動し、記者たちに捕まらないようにしていた岩城も、あるテレビ局の地下

駐車場で、結局、取り囲まれてしまった。

駐車場入り口から数メートル先の車まで、清水と共に進む間、怒涛のように押し寄せる人並みと叫び

声、目が開けられないほどのフラッシュに、岩城は僅か1メートルも進めない有様だった。

「岩城さんっ!香藤さんに暴力をふるっているのは本当ですかっ?」

「岬さんとホテルへ行ったんですかっ?」

「どうして会見されないんですかっ?」

ありとあらゆる言葉が投げつけられ、言い方は違っても、皆、同じことを叫んでいた。

清水も記者たちに叫んでいた。叫びながら前へ進むべく戦っていた。

岩城はもみくちゃになりながら、それでも多くの怒声の全てが耳に深くしっかりと浸透していた。

多くの声の中で、「香藤」という名が叫ばれるたび、胸が締め付けられ、次第に他の声は聞こえなく

なり、ただ「香藤」という名だけが耳に到達するようになった。

そんな中、ある記者が叫んだことに、岩城はハッと立ち止まり、顔を向けた。

「香藤さんとは仮面夫婦だったんですかっ?」

岩城が顔を上げたことで、一瞬、シンと沈黙がその場を支配した。

清水が小さな声で、「岩城さん・・」と、呼びかけた。

岩城がよく通る声でひと言、答えた。

「明日、きちんと会見を開きます」

そうやって、岩城は車に乗り、帰宅した。

車で、清水が運転をしながら、記者会見のことを確認した。

「本当に、いいんですね、明日、段取りして・・・」

「・・・・はい・・・もう、限界でしょう・・・黙っているのも・・・」

「・・・そう・・ですね・・」

「きっと・・・香藤のところへも押し寄せているでしょうから・・・」

そう小さく呟く岩城をバックミラーで見ながら、清水は言った。

「悔しいですね・・・・本当に・・・こんな理不尽なこと・・・一生懸命お仕事されていて・・こん

なこと・・・本当に酷い・・・」

「ええ・・・でも・・・これも・・・この世界で生きる・・・ということなんでしょう・・・」

そうポツンと、岩城は人事のように窓から外を眺めながら口にしていた。

何処か心の一部が欠けているような、そんな空虚な表情だった。












明日、記者会見を開くことを、ベッドの中でやっと口にした岩城だった、が、香藤は既に清水から聞

いて知っていた。

「明日、岩城さんが会見をすることになりました。ご自分からそう、決められました」

清水は今日、駐車場であったことも教えてくれた。

最後に清水は、「香藤さんにも、今度のことでご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありません」と言

った。

岩城もそれと同じ言葉を、会見を開くことを告げた後に言った、「迷惑をかけてすまない」と。

「お前のところにも記者たちが」と、言いかけた岩城の唇に香藤は優しくキスを落としながら、言葉

を遮った。

そして、「なんでもないよ」と、言って、その髪をすき、自分の腕の中に引き寄せた。

岩城の腕が香藤の背中に回され、その力は決して弱くはなかった。

胸から小さく、「俺が・・・もっと上手く立ち回っていれば・・・」という岩城の声が漂ってきた。

「そんなこと・・・無理だよ、あの状況じゃぁ・・」

「違う・・・俺がもっと・・・彼女を上手くあしらっていれば・・・・お前にもこんな迷惑を」

「上手くあしらうって・・・」

そう言って、香藤はゆっくりと岩城の上に移動しながら、下にある顔を見下ろした。

「上手くあしらう、なんてさ・・・岩城さんから1番遠いところに存在する言葉、でしょ?」

柔らかな笑顔で香藤にそう言われ、岩城は一瞬、破顔しそうになり、喉元で堪えながら小さく、「お

前との・・・」と、口にした。

んっ?と、かしげた顔で訊く香藤に、岩城は続けた。

「お前とのことを・・・今日・・・お前と俺が・・・」

岩城はどうしてもその先を口にすることが出来なかった。

香藤は全てを知っていた。

いったい今日、岩城が何を言われ、何故、記者会見をする決心をしたかを。

「いいんだよ・・・言いたい奴には言わせとけば」

岩城にとって、自分との事を疑われる、そのことが何よりも耐え難いことだろうと、香藤は思った。

それは自分も変らない。

岬美夏が憎かった。

明日、岩城が記者会見を開いても、なお岬は自分の正当性を訴え続けるだろう。

岩城の奥深くに思いをため込む性質を考えれば、明らかに岬に分があった。長期化すればするほど、

その差は如実に効果を発し、岩城はぼろぼろにされてしまう。

ただ時を待つ、というわけにはいかないと、香藤は岩城を静かに抱きしめながら感じていた。

岩城は今、香藤に抱かれる安心さえも、受け入れる力を失っていた。

そんな岩城を感じながら、香藤には岬の高笑いが聞こえてくるようだった。






その夜、岩城が眠りの中で見た夢は、自分が岬の首を絞めて殺そうとしている夢だった。

嫌だ、殺したくない、と、必死で叫びながら、自分の両手が吸い付いたように岬の首から離れなかっ

た。

頭の中で叫んでいた声が、ひとつの声になって口から飛び出た瞬間、岩城は目が覚め、横の香藤が自

分の肩を揺らしながら起してくれていたことを知った。

終了したはずのドラマが、再び岩城を襲っていた。













次の日の朝、香藤が目を覚ますと、ほぼ時を置かずに、腕の中の岩城が目を開けた。

香藤は額にキスをしながら、「おはよう」と、言い、笑った。

眠りからまだはっきりと目覚めていないような、ぼんやりとした表情の岩城が、横の香藤を見つめて

いた。

頬に片手を添えながら、「岩城さん、朝だよ」と、香藤は柔らかく声をかけた。

横の、岩城の自分に向けられている瞳が、僅かに揺らぎ、口が何かを告げようと動きかけた。

「どしたの?まだ寝ぼけてる?」

岩城が弱く、不確かな口調で、「・・・か・・・とう・・」と、呼びかけた。

「何?」

香藤が訊くと、岩城の表情が滑るように崩れた。

その瞬間、香藤の胸に嫌な予感がよぎった。

瞳を彷徨わせながら岩城が不安定な声で呟いた、「聞こえない・・・」と。

えっ?と、小さく声を発した香藤に向かって、再び岩城が言った。

「かと・・う・・・聞こえない・・・聞こえないんだ・・・・・・」

「聞こえない・・・・って・・・!!岩城さんっ!!何も・・?なんにも聞こえないのっ!!」

「香藤・・・・聞こえない・・・・お前の声も・・・・何も・・・・」

岩城の目の前で、まるで無声映画のように、口を動かしている香藤がいた。

始めはただ自分が寝ぼけているのだと思った。

目覚めた脳が、次第にはっきりとしてくると、岩城は自分の耳が何かに塞がれているように、全く何

も聞こえないことを知った。

引き起こされた岩城は、ベッドの上で、その体を香藤に強い力で揺すられていた。

両手が岩城の両腕を掴み、次はその顔を挟み、香藤が泣きそうな顔で叫んでいた。

そんな香藤の前で、岩城はただ、聞こえない、と、同じ言葉を繰り返していた。

驚愕し、慌てながら叫んでいる香藤がただ見えるだけで、無音の世界が岩城を支配していた。