香藤はすぐ清水に事の次第を伝え、岩城を自分の車に乗せ、病院へ向かった。

岩城が検査をしている間、外で待っていた香藤の元へ清水も駆けつけ、2時間ほどたって、やっと結

果を伝えられた。

「突発性難聴症候群」

ごくまれに起こる、医学的原因が見受けられない内耳障害。

岩城の場合は神経性であると判断された。

聞こえぬ岩城の横に座っている香藤と後ろに立つ清水へ、担当医師は病状を説明しながら、同時に、

紙に病名などの単語を書き岩城にも説明をした。

いつ、どうすれば治るのか、それは示されなかった。

今、神経に障害を与えている要因、そのことに思い当たるふしがあるのであれば、それを軽減する努

力をして欲しい、岩城の心が開かれたとき、脳も開かれる、と、ただそう医師は説明した。

それが容易なことではないことを、そこに居る2人ともが知っていた。






病室を出た後、清水が、今日の午後からの記者会見の予定をキャンセルすることを、岩城に了承を得

ようと口にした。

それは誰が考えても当然のことと思えた。

香藤も同様に考えていた、が、岩城は「いえ、予定通りに・・・」と、言った。

「無理だよ、岩城さん!!」

聞こえぬことを忘れていた香藤は、はっと気が付き、前に回り岩城にもう1度同じ事を繰り返した。

岩城はゆっくりと口を開いた。

「俺が・・・今、話している言葉・・・何処かおかしいか?」

香藤は首を横に振った。

かなり不安定な発音だが、理解は出来る。

「じゃあ・・・口はきけるんだから・・・大丈夫だろう」

「でも・・・」と、言いよどむ香藤に、岩城は少し笑い、小さく頷いた。

香藤は清水を見た。

清水も悩んでいた。

岩城は今、ここで記者会見をキャンセルしても、いずれ自分のことは知れ渡る、現在抱えている問題

に加えて、そのことがどう伝わっていくか・・・・それならば、今、自分が説明できることはしてお

きたい、そう考えていた。

また、自分が隠れれば、その分香藤に攻撃が回ることは必至だった。

2人には、その心が読めていた、が、しかし、決断をするには、多くの不安もあった。

やや考えていた香藤が清水に向かって口を開いた。

「じゃあ・・・その記者会見、俺も出ていいですか?」

「それは・・香藤さんがメディアに向けてお話になられる、ということですか?」

「・・・・岩城さんが記者会見をして全てを否定しても、俺は・・・岬美夏が追いかけてくると・・

・・戦いを闇雲に引き伸ばすだけ、になるかもしれない、と、考えた・・・岩城さん自身も、自分が

いくら否定しても、どちらが正しいことを言っているかなど、証明できるものではない、と、そう考

えて、記者会見に消極的だった・・・でも・・・」

そこまで言うと、香藤は一旦言葉を切り、少し考えて次の言葉を発した。

「でも、俺は、試してみたい・・・・いや、試すというより、賭けてみたい・・・・世間はそこまで

盲目ではない、ということに・・・岩城さんの人格を・・・見極めていてくれている、と・・」

「でも・・香藤さんの事務所へそれはお聞きしないと」

「・・・それは俺が今から承諾を得ます。多分、反対はされないと思うけど・・・」

少なからず2人の立場に影を落としている今の状況に対して、釈明の会見へ臨むことに事務所はノー

とは言わないだろう、と、香藤は推測していた。

その後、香藤はゆっくりと岩城に読めるように顔を見ながら話しかけた。

「岩城さん、俺も、一緒に、出るから、記者会見」

えっ、と、驚きの表情を浮かべる岩城に、香藤は続けた。

「岩城さんの、耳、になるから」

そう言って、香藤は岩城の耳にそっと触れた。

そこに居た清水と共に、岩城の表情にも少しの安堵感のようなものが浮かんだ。

香藤が傍に居てくれれば、心強いことは確かだった。












多くの記者たちが待ち構える会見場に、2人が揃って顔を見せたことに、どよめきが起こった。

ざわつく中、多くのライトに照らされながら、正面の椅子に互いに腰を下ろし、前のテーブルに香藤

は白い紙とペンを置いた。

岩城はじっと正面を見詰めていた。

そして、息を呑み、思い切ったように言葉を発し始めた。

「今日は、多くの方に・・・お集まりいただき・・・ありがとうございます」

そこまで話した岩城を横で黙って見ていた香藤は、片手で岩城を少し制すると、今度は自分が口を開

いた。

「すみません・・・岩城が1人で会見に臨むつもりでした、が、今朝、少し状況が変わり、俺も同席

することにしました」

あくまで岩城に話したいように話させるつもりだった、が、いざ口を開いてみると、やはり、送り出

す言葉が不安定で、あらかたの事情は自分が話した方がいいと、香藤は決断した。

一旦言葉を切り、香藤は少し咳払いをして、再び口を開いた。

「実は、今朝、起きてから、耳が・・・岩城の耳が聞こえなくなり、そのため」

そこまで話すと、会場中にドッと驚きの波が起こった。

岩城は何も聞こえぬ中にいても、香藤が何を言ったのかは、想像することができた。

それほど、会場はざわざわと空気が淀んでいた。

香藤はかまわずそのまま言葉を続けた。

「神経性の突発的難聴であると、診断され・・・・こうして会見場に来ていますが・・・岩城は今、

発声する言葉に自信がありません。聞きづらい部分があるかと思います、が、質問はしていただけれ

ば、俺が筆談でそれを伝えますから、短く答えることはできます」

記者たちが一斉に質問に入ろうとしたが、香藤は言わなければいけないことを続けて述べた。

「ご質問にお答えする前に、今回の一連の報道に関して、俺が少し代弁をさせてもらいます。岬美夏

さんが岩城に殴られた、と、言っていることは、全く嘘です。もちろん、ホテルへなど行っていませ

ん。また・・・俺に対して、ということも誤報です。俺自身、全く身に覚えがないことです」

それだけ述べると、香藤は口を閉じた。

各社、次々に質問を始めた。

「では、岬さんとはお付き合いはされていなかったんですか?」

香藤が紙に、『岬との交際、有?無?』、と、書いた。

「共演者としての・・・お付き合い以上のものは・・・ありません」

不安定な、どこか音程を探っているような岩城の言葉だった、が、理解するには十分の発声だった。

「では、あの殴られた痕はどうしてなんですか?誰が殴ったんですか?」

『岬の痕の訳、誰が殴ったか?』

「全く・・・判りません」

「じゃあ、岬さんが嘘を言ったと言うことですか?」

『岬が嘘を言ったのか?』

「・・・・そうなります」

「どうして岬さんが嘘を言わなければいけなかったんですか?」

『なぜ岬が嘘を言ったか?』

「全く判りません」

「何故今まで何もお話にならなかったんですか?」

『何故今まで黙っていたか?』

「それは・・・全ては間違いだと・・・ただそれだけを言うために・・・口を開いても・・・信じて

もらえる自信が持てなかったから・・です」

岩城の姿は、一種整然とした風体をかもし出しながら、何処か悲しげで、危うく、そこから発せられ

る言葉のたどたどしさが、見る者の胸を締め付けた。

書かれた紙をチラと見ながら、ひと言ひと言をゆっくりと危なげに送り出す岩城を、隣で香藤が見守

っていた。

正面に並ぶ2人には事前に描かれた図面はなく、それは祈る者に似て無色透明な濁りのない姿に映っ

ていた。

観る者にそう映れば、この会見を開いた意味は僅かながらでもあった、と、言えた。

そんな中、1人の男性記者が、やや声高に質問をした。

「お2人とも、AV男優でしたよね、セックスに関してはかなりオープンな考えを持っていらっしゃ

るかと思いますが?その点、岩城さんが絶対、岬美夏さんと関係はないと、言いきれますか?元々女

性もOKだったんですから、ありえないこともないですよね」

一瞬、会場が静まり、香藤の顔に怒りと不快感が過ぎった。

ペンをもったまま、何も書こうとしない香藤に、岩城は怪訝な表情を浮かべながら、どうしたんだ?

と、無言で問いただしていた。

香藤は、少し考え、ペンを走らせた。

『浮気はないと言いきれるか?』

必要最低限の言葉だけを伝えた。

岩城はさっとそれに目を通し、「はい、ありえません」と、答えた。

すると、同じ記者が続けて質問を出してきた。

「そのことを皆、信じると考えていらっしゃると、そういう事ですね?香藤さんを殴っているのを見

た、という人も居ますが?」

一種異様な雰囲気が会場に流れはじめ、それは岩城にもそれとなく感じ取れていた。

岩城が香藤に顔を向け、何らかの説明を求めた、が、横の香藤は何も言わず、何も書こうともせず、

手に持っていたペンをテーブルに置いた。

不審な表情で自分を見つめる岩城をそのままに、香藤はその相手に対してしゃべり始めた。

「あなた、M雑誌の方ですよね?」

相手がそうだ、と、答えた。

「岬美夏がエッセイを連載し、写真集も出しているあの、M雑誌、ですね?」

それにも頷く相手に、香藤は一気に話し始めた。

「岬美夏が始めに岩城とのことを訴えたテレビも、お宅と同系列のM局、でしたね。確か、岬美夏は

数年前、そこの局長と噂が出てましたよね?」

「それがどうしたと言うんですか?」

相手がやや強い口調で返してきたのに、香藤は、「いえ、別に」と、さらりと答え、「どうもしませ

ん。ただ、確認させてもらっただけ、です。公の場で」と、口にした。

自分をじっと横から見つめる岩城の視線を感じながら、それでも香藤は続けた。

「岩城が俺を殴っているところを見た人間が居る、と、そう言うならば、その人間をここへ連れて来

てください。連れて来るのが無理ならば、いつ、何処で、それを見たか、はっきりしてください」

相手は黙っていた。

「どうしたんですか?そんな事も知らずに、まさか、記事にしたわけじゃないでしょ?」

会場は水を打ったように静まり返り、以前、相手の記者は沈黙していた。

香藤は口の中で小さく、「許せない」と言った。

岩城は香藤の表情が険しくなっていくのを見て、香藤、と、呼びかけた。

岩城を振り向き、香藤はゆっくりと声に出さずに、だいじょうぶ、と、少し笑顔で告げた。

しかし、正面を向き直ったときは、再び表情は険しいものに変化していた。

「ひとりの人間をここまで追い詰めて、苦しめる、そんなことは、絶対の確信でもない限り許されな

い!!確信があっても、そうしない人間もいる!!今回のことは、どちらが正しいことを言っている

のか、残念ながらあなた達がそれを証明できないのと同様に、俺達にも証明の仕様がない・・・・し

かし、この人は」

と、香藤は横に視線を僅かだけ移し、岩城を目線で指し示しながら再び続けた。

「この人は・・・・たとえ殺されたって俺を裏切れない人だ。そんな人間の心を玩んでスキャンダル

をでっち上げる・・・!もし・・このまま岩城の耳が戻らなかったら・・・そのときは」

感情に流されそうになったその先の言葉を、香藤は口中に飲み込んだ。

公の場で不釣合いな言葉が口をついて出でしまいそうだった。

「そのときは、どうされるんですか?」

他社の記者が訊いてきたのにたいして、香藤はただ、「いえ、何でもありません」と、答え、その後

に、「岩城の耳は・・・必ず治ります」とだけ、言葉にした。

「岬美夏さんを名誉毀損で訴える、ということはお考えではないんですか?」

会場の空気が僅かながらにも変わりかけていた。

香藤は少し考え、紙に『岬を訴えるか?』と、書き、岩城に見せた。

岩城は、すぐに「そんなつもりは全くありません」と、答え、続けて、「俺はただ・・・判ってもら

えれば・・・・・正しい姿を・・・特に香藤との」と言いかけ、口を閉じ、ややして、「すみません

・・・とにかく、そんなつもりはありません」と、岩城は締めくくった。

互いに個々の感情的な言葉を胸に収めたまま、20分ほどの会見は終了した。

会場から外へ出ると、人目を構わず、香藤は岩城の片手を握った。

そして、顔を見ながら、「帰ろう」と、言った。

岩城は黙って頷いていた。

会場を後にした岩城と香藤が車に乗るため、地下駐車場へ降りたとき、車に向かう2人の後ろから、

先ほどのM雑誌の記者がカメラを持ってついてきた。

岩城の横を歩いていた香藤は、少しだけ顔を斜め横に向け、大声で怒鳴った。

「これ以上、付きまわしたら、ぶっ殺すぞっ!」

記者の足は止まり、何も聞こえぬ岩城は歩を止めることなく、そして香藤もそのまま何もなかったか

のように、岩城の横を歩いた。

香藤の運転する車で、2人、帰路に着いた。

車の中でも、香藤はずっと岩城の手を握り締めていた。













その日、岩城を帰宅させると、香藤はその足で仕事に出た。

こんなときに岩城を1人にしたくはなかった、が、致し方なかった。

ソファーに黙ってただ座っている岩城の正面に行くと、香藤はその顔を見つめながら言った。

「仕事、に、行くから」

岩城は少し浮かべた笑顔で、ゆっくり頷いた。

「8時過ぎ、には、帰れるから」

それにも同様に岩城は頷いていた。

「何かあったら、これ」

そう言いながら、香藤は携帯電話を示した。

「大丈夫だから・・・・早く行け」

不安定な発音で岩城が強気の言葉を送り出した。

香藤は笑顔を浮かべ、目の前の体を抱きしめた。そして、その背中に、「大丈夫・・・俺が絶対に治

すから」と、聞こえぬ主に告げた。

そうやって離れがたい体に背を向けて、香藤は仕事へと家を出た。

車に乗ると、清水から携帯に電話が入った。

「どうですか?岩城さん」と、訊いた後、明日からの仕事をとりあえず3日分キャンセルしたと、清

水は香藤に告げた。

3日で結果が好転するとは、考えずらい状況であった、が、互いに心からそのことを願って止まない

気持ちは一緒だった。

「よろしくお願いいたします」と、清水が最後に改まった口調で香藤に口にした。

岩城の心を開くことが出来るのは、香藤だけだと、清水は知っていた。










いつの間にか、岩城はソファーで眠っていた。

然程自分が疲れているとは、思っていなかった、が、気がついたら、真っ暗な居間で帰ったままの姿

で寝てしまっていた。

ソファーに体を横たえたまま、その場の妙な静けさに、岩城は今の状態を思い出した、自分は聞こえ

ないのだ、と・・・。

何時なのだろう、と、携帯電話を手にしてみると、夜の9時を回っていた。

そこには香藤からのメールが入っていた。

「ごめん、ちょっと帰るのが遅くなるから、寝ててね」

「大丈夫?寝てるのかな?」

「岩城さん、ひと言返して!」

メールは何度も入っていた。

岩城はおもむろにソファーから体を起し、すぐ返事を返した。

「寝ていて今起きた。大丈夫、心配ないから頑張って仕事しろ」

送信すると、ゆっくり立ち上がり、そのままシャワーを浴びて2階へ上がった。

パジャマを着てベッドに入っても、相変わらず、ベッドがきしむ音も、リネンがこすれる音もせず、

岩城の耳はふさがれたままだった。

記者会見を終えるまでは、何ひとつ怖くはなかった岩城だった。が、今、ゆっくりと不安と恐怖が体

を支配し始めていた。

あらゆることを考え悩む、そのことが悪影響になっているのだと思い、ただ香藤のことだけを岩城は

考えた。

香藤の姿や声を胸に思うことが、自分にとって1番安らげる環境だと知っていた。

しかし結局、岩城はその夜、夜中2時過ぎに香藤が帰宅するまで、眠りにつくことが出来なかった。

横を向いて目を瞑っていた岩城に、香藤が寝室へ入ってきたことは判らず、ただ、じっとリネンに包

まったままでいた。

そんな岩城の閉ざされた感覚にも、確かに覚えのある香りが届き、はっと目を開けた。

岩城の横に、滑るように香藤が入ってくると、岩城の顔を覗き込んで、「ただいま」と言いながら軽

く額にキスを落とした。

左腕を岩城の体の下にもぐらせると、引き付けられるようにその体が香藤の胸に入り込んできた。

「おかえり」と、小さな声が胸から立ち上り、両手が背中に回ってきた。

岩城の精神力は強く、己にかける重石は、時に神々しいほどでもあり、また時に意地を張りすぎ、そ

れらが崩れないことに尊敬の念を抱き、また苛立ちもする。

しかし、今、そのどちらでもないものへ、香藤は何も言うことができなかった。

意地を張っているわけではない、自分を必要以上に律しているわけでもない。

岩城が置かれている状況が余りに現実離れしている。そんなことへ対処する術は、ほとんどの人間が

備え持ってなどいなかった。

自分の持てる全ての想いで包み込み抱きしめ、耳の傍で小さく、「大丈夫・・・心配ないよ・・俺が

居る・・・俺がずっと居るから・・・」と、香藤は呟いた。

聞こえぬはずの岩城の肩が、頷くように僅かだけ揺れた。












次の日の朝8時、香藤はどうしようか、と迷ったが、横で眠る岩城を起した。

目を覚ました岩城に、香藤は、おはよう、と声をかけ、昨夜横に置いておいた紙とペンを手にして岩

城に見せながら書き始めた。

『ごめん、今日も1日仕事。岩城さんは今日から3日休みだから』

岩城は枕から頭を起しながら、ゆっくりと頷いた。

目が覚めたときには自分が治っていることを想像していたが、そうではなかった。岩城の耳は、やは

り何も聞こえてはこなかった。

そのことに僅かな失望を感じながら、岩城は何とか笑顔を作り出した。

その思いは香藤も同じだった。

『今日も、帰るの遅くなるけど、明日から2日休めるから』

岩城が少し驚いた表情をして、香藤を見つめていた。

明日から2日の休みをとるため、仕事を詰めていた。休みを希望した香藤に事務所も理解を示してく

れていた。

香藤が明日からは自分の傍に居てくれるのだと、そう思うと、岩城から自然に笑みがこぼれた。

ベッドから起きようとする岩城に、寝てて、と、香藤が言うと、岩城は首を横に振りながら、「朝ご

はん、作るんだろ?」と、言った。

岩城の声が聞けて、香藤は嬉しそうに、「うん」と頷いた。









香藤を送り出すと、岩城はキッチンを片付け、本を手にソファーに座った。

そうやって半日、本を読んで過ごした。

香藤からのメールが時折入るので、そのたび返事を返した。

家の電話が1度かかってきた、が、点滅する光を見ながら、当然、岩城は出ることはなかった。

テレビをつけてみた、が、ワイドショーで自分のことが話題になっている、ということしか判らなか

った。

冷蔵庫からミネラルウオーターを取り出し、グラスへ注ぎソファーまで持っていくと、また少し本を

読んだ。

暫くして飲み終えたグラスを手にキッチンへいくと、冷蔵庫のドアが閉りきっていなかった。手で押

し閉めながら、きっと注意音が鳴っていたのだろう・・・と、想像した。

朝食を食べたきり、だったが、お腹が全く空かなかった。

夕方、2階へ上がり、掃除を始めた。

少したまっていた本や雑誌を整理し始めると、結構な時間がかかった。

僅かに汗ばんだ体で後ろを振り向くと、さっき整理したはずの本の山が全て崩れ、フロアーに散乱し

ていた。

岩城は散らばった本を拾いかけたが、掴んだ本を手から放し、そのままの状態で部屋から出た。

階下へ降りると、薄暗くなっている庭に向かって窓を開け、そのまま腰を下ろした。

経験したことのない世界が、岩城を包んでいた。

どうして聞こえない・・・何がいけなかったのだろうか・・・・いったい、自分の何が・・・。

避けることが出来たのだろうか・・・岬の攻撃を回避することが・・・。

もし・・・もしもこのまま直らなければ、いったいどうなるのだろう・・・・。

香藤との生活は・・・・・香藤にどれ程の負担をかける事になるのだろう・・・・。

岩城はそうやって、じっとしたまま、ただ繰り返し同じ事を思い巡らせていた。

考えてはいけない、と、先までは判っていたはずのことが、今、次から次へと岩城の心から溢れ出て

止まらなくなっていた。

音のない世界は時間さえも無くし、岩城は背中から帰宅した香藤に抱きつかれるまで、2時間余りを

そこでただ何もせず過ごしていた。

抱きついたまま香藤は何も言わず、ただ笑顔で、ただいま、と、言葉をかけてキスをした。

どうしたの?何をしていたの?何を考えていたの?何を悩んでいたの?と、そっと胸の中で岩城に訊

いた。

岩城は香藤の顔を見て、笑顔で、お帰り、と答えた。

その体を静かに抱きしめながら、香藤はその背中に、「いいんだよ、岩城さん・・・無理に笑ってく

れなくっても」と、呟いた。





それから2人で風呂に入り、2人で食事を作り、2人で食べた。

片付けも2人でして、その後、香藤が出してきたオセロで遊んだ。

香藤はずっと、岩城に対して、岩城が答えようと答えまいと普通に声を出して話しかけた。

岩城は読み取れたものには、返事をした。

時々、2人で声をあげて笑いもした。

造られた普通の情景は、それなりに普通であり、しかし限りなく不自然でもあった。

どちらからともなく、寝よう、と言い、2人で寝室へ上がった。

香藤が当然のように1つのベッドで寝ようとする傍で、岩城はやや躊躇を見せていた。

肩を掴んで、「どうしたの?」と、香藤は訊いた。

迷いの見える岩城に、「何?俺が疲れてるかもって、気、使ってくれてるの?」と言いながらその体

を抱き、自分のベッドへ引き入れた。

「仕事で・・・疲れているだろう・・?」

岩城が、言葉を拾うように口にした。

クスッと笑った香藤は、何も言わずに、唇にキスを落とした。





肌を合わせる行為に体の感覚すべてを必要とはしないが、自分の腕を掴む岩城の、その指に込められ

た1本1本の力は、五感ひとつを閉ざされた者が逃がすまいとするよすがのようだった。

重ねた体を下に、「岩城さん」と、香藤は呼びかけながら、その瞼に指で触れ、僅かだけ上へと動か

した。

岩城は訝しげに汗ににじむ瞼を開き、瞳が、同じく汗の浮く香藤の顔をゆっくりと捕らえた。

香藤は、ゆっくりと口を動かし「見える?俺が」と、少し笑顔を浮かべて優しくその眉を指でなぞ

った。

聴覚がなければ視覚で教える。

襲う波に落ちる岩城の瞼を、香藤はまた軽く指でなぞる。

岩城は熱い喘ぎに開いた瞼を引き戻され、閉じた瞳を薄く開けば再び閉じ、視界の先に見え隠れする

自分を見つめる香藤を確認し続けた。

香藤の声も、ベッドのきしみも、自分が漏らしている吐息さえ聞こえない。

目の前に浮かぶ断片的な姿は、それでも聞こえぬ岩城に、時と場所を教え、自分に触れる相手の名前

も教えてくれた。

香藤は、まるでそれが魔法を解く呪文でもあるように、「愛してる・・・・愛してる」と、繰り返し

岩城に告げ、香藤の唇を見つめながら、知らず岩城も無我夢中で香藤を呼んでいた、「愛してる」

と・・・。

どんなにか愛しているだろう、この男を・・・。

どれ程自分の全てを預けてしまっているだろう・・・。

何よりも聞きたい、その声を・・・愛していると、自分を呼ぶ声を・・・・

もしこのまま治らなければ、自分が聞いた香藤の声は・・いったいいつが最後だったのだろう・・

自分はその声を、永遠に忘れずに覚えておけるだろうか・・・・

岩城は一瞬堪えるように表情を強張らせ、香藤の下から這い出ようと体を捩じった。

翻る岩城の肩を掴み引き戻し、「何処へ行って泣こうっていうんだよ、岩城さん!」と、強い口調と

力で香藤は抱き止めた。

「ここで泣けばいいじゃん・・・なんでだよ・・・もう・・・なんでそんな・・・責めるかなぁ自分

を・・・全部、自分のせい、って・・・思ってる?岩城さん・・・思ってるんだよね・・・・きっと

・・・・そして・・・俺に迷惑かけてるってさ・・・・」

泣きたくはない・・・・・・涙を見せれば、その分、今抱えている事態が、より暗く重たく姿を変え

るだけだ・・・その涙に100倍の苦悩が滲み、相手に襲い掛かり、自分をも押し潰してしまいそう

だった・・・・せめて香藤の前では・・・・前だけでは・・・

しかし、こらえ続けた激流も、唯一の場所であればそう永くも維持できるはずもなく、ジワリジワリ

と崩れ始め、そのまま細く弱い嗚咽へと変わり、1度決壊した個所は、もう止めようがなかった。

香藤は岩城の震える背を静かにさすった。

「そう・・・・そうやって俺の腕の中で泣いてくんなきゃ・・・・・」

会話が成立していない2人の間には、それでも確かな言葉が行きかっていた。

聞こえずとも判る、香藤の想い、そして岩城の苦しみ、だった。












次の日、昼過ぎから、香藤は岩城と洋服の整理をした。

互いのクローゼットに眠る洋服を一緒に手に取り、いちいち意見を述べる香藤に、笑ったり呆れたり

しながらも、それぞれに付属する思い出が引き出されていた。

夕方は庭に出て2人で土をいじり、その後2人で風呂へ入り、夕食を作った。

岩城が手のひらで豆腐を切る様子を、香藤が怯えて見つめていた。

「岩城さんって、豆腐切ってても、可愛いなぁ・・」と、香藤が口にした呟きは勿論、岩城の耳には

届いていない。

今日口にした言葉の殆どは、岩城に届いてはいなかった、が、香藤はそれでもよかった。

特別なことは何ひとつしない1日だった。

岩城が聞こえないからといって、特別な対処も、香藤はしなかった。

ただこうやって仕事とは切り離され香藤と過ごす時間、香藤が作り出す計画性を感じさせない計画さ

れた時間が、処方箋のない薬となって岩城の体に浸透していた。









その次の日は、岩城を連れて香藤はドライブへ出た。

行き先も決めず、ただ車を走らせ、少し山沿いに入り、景色のいい場所で車を止めた。

気持ちのいい風がそよぐ一角で、車から下りた2人は、草の上に腰を下ろした。

今朝、香藤が作っていたお弁当を、「はい」と言って、飲み物と一緒に香藤が岩城に手渡した。

きちんと2個に分け入れてあるそれぞれの弁当には、簡単におにぎりと玉子焼き、ウインナーに昨日

の残りのハンバーグ、ポテトサラダ、そして赤いプチトマトが可愛く覗いていた。

岩城はゆっくりと残さず平らげた。

それを嬉しそうに見て、「美味しかった?」と、香藤が訊いた。

岩城は、「ごちそうさま、とっても美味しかった」と、笑顔で答えていた。

高く生い茂って葉をなびかせている木の、その太い幹に香藤は背を着け寄りかかると、右手で岩城の

手を引き「岩城さん」と、自分の足の間に呼び込んだ。

岩城は少し照れながら、それでも誰もいない、この気持ちのいい空間で、素直に香藤の胸に背を着け

て治まった。

香藤の両手が前へ回り、その体を優しく包み込んだ。

風の音も、鳥のさえずりも、何も聞こえない静粛に包まれた岩城の脳が、ただ香藤に施される優しさ

だけに反応していた。

「好きだよ、岩城さん、凄く愛してる」

香藤はこの数日、何度も愛していると、口にする。

何度も言い、その度、胸で祈っていた。早く治れ、と・・・。

今朝、弁当を用意している香藤に、岩城は何も言わなかった。ただ、美味しそうだ、とだけ言って笑

みを浮かべた。

香藤が自分のためにしてくれる全てのことに、岩城はただ抗わずに、自然体で沿っていた。

聞こえないことが、不安でないわけはない。

しかし、岩城は努力をしてくれている、と、香藤には判っていた。

嘆き悲しむのではなく、明日を考えて香藤の意向に同調しようと・・・。

自分が苦しめば、香藤も苦しむ、それを岩城は知っている。

「俺、岩城さんと出会えて・・・本当に良かったよ・・・」

岩城は黙って、ただじっと香藤の胸が少しだけ振動して背中に響くのを感じていた。

聞こえていない香藤の声が、不思議とまるで聞こえているかのように、響いていた。

次第にそれは子守唄のように心地のいいリズムとなって岩城に語りかけ、穏やかな気持ちの中で岩城

はすっと眠りに落ちていった。

眠った岩城を腕に、香藤はただ1人、語りかけていた。

「どうして好きになったかってさぁ・・・」

規則正しい岩城の胸の微かな動きが、香藤にとっても心地よい響きとなっていた。

「・・・・きっと・・・あの時・・・・岩城さんちに呼び出された日・・・あの時に俺・・・もう好

きになっちゃってたんだね・・・・多分・・・」

一陣の風がさぁっと舞い、互いの髪を泳がせた。

岩城の頬にかかった髪を香藤は指でそっと払った。

「だってさ・・・岩城さん・・・可愛いんだもん・・・」

クスッと香藤は肩を揺らし、1人、思い出して笑っていた。

ぽつりぽつりと香藤の口から送り出される言葉は、聞き手がいないからこその素直なセリフだった。

「あんな岩城さん・・・他の奴が先に見つける前に・・・俺が見つけられてほんとよかったよ・・・

・・でも・・」

再びふっと香藤は1人笑っていた。

「でもそうじゃない・・・きっと、岩城さん・・・俺だからだ・・・誰が先でも結局、俺、だったん

だ・・・岩城さんが選ぶのは」

そう言って、香藤はそっと岩城の頭上にキスを落とした。

この世に2人だけしか生きていないような、誰も介入してこない空の下で、香藤はこうやって岩城を

胸に抱いている自分が、誰よりも幸せだと思えた。

岩城は誰の胸にも寄りかからない。その背を預けるのは自分だけだ。

たとえこのまま岩城の耳が回復しなくとも、香藤にとって、岩城と共に生きていくことに変わりなど

ない。

きっとそれは、岩城も知っている、と思った。

知っているからこそ、苦しむのだと・・・・。

少し息を吐いて、香藤は空を見上げた。

「大丈夫、絶対、治る」と、誰にともなく香藤は言葉にした。

時計のない静かな時が過ぎていた。

少しして、また香藤は口を開いた。

「岩城さんは・・・どうして俺のこと・・・好きになってくれたの・・」

口にして、少し考えて、また言い直した。

「岩城さんは・・・俺のどこに惚れたのかなぁ・・・」

香藤のゆっくりとした声の余韻が漂っていた。

ふいに腕の中から「全部・・・」と、微かな声が返ってきた。

「全部・・・?全部ってさぁ・・」と、言いかけ、香藤は跳ねるように、ばっと体を木から起こし、

岩城の肩を掴んで振り向かせた。

「聞こえたのっ?!岩城さんっ!!聞こえるのっ?!」

強い力で掴んだ肩を揺すりながら、香藤の声が興奮していた。

いつの間にか目覚めていた、香藤を見あげる岩城の顔が、ゆっくり1度、頷いた。

「うそっ!!ほんとにっ!!聞こえるのっ?ほんとに聞こえるのっ!?」

無我夢中で香藤は同じ事を何度も繰り返し叫んでいた。

そんな香藤に、岩城は何度も何度も頷き、そして少し震える声で答えていた、「聞こえる・・・香藤

・・・お前の・・声が・・・」と・・・・。

その途端、香藤は岩城の体を痛いほど抱きしめ、叫んでいた。

「岩城さんっ!!よかったっ!!よかったよ!!岩城さんっ!!」

よかったと言う以外、香藤には何も言葉は浮かばなかった。

治って欲しい、と願っていた。しかし、いつ、とは考えないようにしていた。

こんなに早く訪れた奇跡に、香藤はただ嬉しくて、大声で叫んでいた。

抱きしめられ揺れる岩城の両手が、香藤の腕を強く握り締めていた。

その胸に岩城は頭を押し付けたまま、「ありがとう・・・香藤・・・・お前が・・・」と、言葉をし

ぼり出し、後は震えて声にならなかった。

岩城の浅い眠りは、夢の中から呼ぶ声に引き戻され、遠くから聞こえてくる、香藤の愛を告げる言葉

が次第にはっきりと耳に届き、そして目覚めた。

これが香藤の声なのだ、と、岩城はそれを追いかけていた。

この声を知っている・・・・この声は決して自分を苦しめたりしない、愛を奏でる声だ、いつも自分

を幸せにしてくれる声だと・・・。

そうやって、岩城の耳は、再び愛する者の声を聞くことが出来るようになった。






帰る車から、すぐ清水に報告を入れた。

「よかったです・・・本当に岩城さん、よかったですね」と、何度も繰り返した後、小さく清水は呟

いていた、「やっぱり・・・香藤さん、でしたね」と・・・・。










次の日から仕事に復帰した岩城の回りは、少し風向きが変っていた。

世論の動向を見守りながら、岩城だけを責めるのは得策ではない、と、メディアが判断した結果、だ

った。

はっきり断定するわけではないが、岬の発言内容への疑問も語られるようになっていた。

中断されていたCMも復活し、予定されていたテレビドラマも内定した。

岩城の口は堅く閉ざされ、今回のこと、また岬について、一切を話すことはなかった。それは香藤も

同じだった。

そんな中、岬はパリに休暇と称して旅立っていった。

岬自身も、同様に何も語ることはしなかった。が、自分に分がないと、判断したからの出国だったの

だろう、と、皆が感じていた。

自分で始めたゲームに、スターは自分で曖昧な幕を引いた。








それから3ヶ月が過ぎた頃、岩城はあるトーク番組に出演した。

その中で、インタビュアーが訊いた。

「以前、苦しいスキャンダルに巻き込まれていらっしゃいましたね。そのとき、香藤さんは、記者会

見で、岩城さんは、殺されても自分を裏切れない人だ、と、そうおっしゃっていました、知っていら

っしゃいましたか?」

「・・・・いえ・・・知りませんでした」

「相手を裏切らない、そして、相手も自分を裏切ることはない、と・・・・、そう信じてお2人で生

きていらっしゃているんですね」

好意的なトーンで訊かれた問いに、岩城は少しだけ考えていた。

そして、静かにひと言、「・・はい」、とだけ答え、僅かに微笑み頷いた。

ただひと言の短い答え、だったが、岩城の浮かべた穏やかな笑みと濁りのない瞳は、観る人間に、今

回の正しい答えは何処にあったのかを、確信させるに十分の答え、だった。











2008.12
比類 真