仮定法未来

**1**

大学のカフェテリアは閑散としていた。
昼のピークはとうに過ぎ、既に二時を回っている。
午後の講義が行われている時間帯である。
ゆえに、ちらほらと点在しているのは運悪く休講に当たってしまったか、はたまた自主休講か、もしくは課業を終えても帰らずにダラダラしている学生たちが殆どで、喧騒とは程遠いまったりとした空気が辺りに漂っていた。
明るい窓際の、四人掛けの丸テーブルにひとり腰掛け、香藤洋二はピラフを掬ったスプーンを機械的に口に運んでいた。
斜めに照らす日差しを受けて、脱色された髪が茶髪を通り越し、金色に輝いていた。その、ゆるやかに癖を帯びた長めの髪に包まれているのは、十人中十人がハンサムと答えそうな顔だった。甘さと精悍さ、少年らしさと男っぽさが絶妙に融け合い、人目を惹く華やかさを醸し出している。座っていて分かりづらいが、伸びやかに長い手足は均整の取れた長身を窺わせる。ややもすると同性の反感を買いそうな恵まれた容姿の中で、心持ち目尻の下がった両眼が愛嬌を添えて、上手く帳尻を合わせている。
その視線は先程から、手元の雑誌に注がれていた。アルバイト情報誌である。
「よお。」
突然降ってきた声に、香藤が顔を上げる。
「あ、遠藤先輩。」
立っていたのは香藤の所属するサークルの先輩だった。一応体育会系の看板を掲げているものの、内実は『キャンパスライフを楽しく過ごそうよろず同好会』と言ってよく、堅苦しい上下関係なども希薄である。入部してほどない最下級生としてはかなりくだけた挨拶を香藤が返す間にも、遠藤は遠藤で断りなく対面の椅子を引き、腰を下ろす。飄々として掴み所がないながら、やたらと顔が広く面倒見が良い。そんな感触を、香藤は目の前の男に得ていた。新入生歓迎コンパ以来姿を見せない四年の部長に代わって実質サークル運営をしているのが、この三年生の先輩だった。
「この週末――日曜、暇か?」
前置きなく、遠藤が用件を切り出した。
「日曜ですか? バイトの面接かな。たぶん。」
指し示すように、香藤は情報誌を一瞥する。
「バイト? どんな。」
「まだ本決まりしなくて。なかなかいいのはないっすね。」
言いながら、肩をすくめる。
「希望とか、あるのか。」
遠藤は灰皿を引き寄せ、煙草に火をつけた。
「職種は何でも、割のいいのが。…斡旋してくれるんですか?」
「割がいい、ね。」
「それで拘束時間が短ければもっといいな。」
「贅沢言ってやがる。」
苦笑しながら、遠藤が灰を落とす。
「車、買いたいんですよ。で、資金稼ぎ。」
「まぁ、そういうバイトにいくつか心当たりがなくもない。」
「ホントですか?」
犬が骨を目前にしたように、香藤は食いついた。
「だから、日曜は付き合え。」
「え、そりゃ構いませんけど…。」
「じゃあ決まりな。」
詳しいことは後で連絡入れるから。
携帯番号を交換し、さっさと席を立つ遠藤に、香藤が慌てて言い添える。
「俺、カテキョはバツですよ。」
「そんなコワイこと、考えてやしないって。」
遠藤が後姿でひらひらと手を振った。


そして日曜。
穏やかな晴天に誘われ、多くの人出で賑わう広大な公園の一角。噴水を囲む広場で催されているフリーマーケットの売り子の中に、香藤の姿があった。
雑多な品々で飾り立てられた出店スペースは、50を下らない。噴水を二重に取り巻くようにして、それらは配置されている。噴水のぐるりに内周の店々、通路の幅を置いて外周の店々。
香藤がいるのは外周であったが、すぐ後ろが植え込みになっていた。両隣との余裕は辛うじて人ひとりが通れるくらいで、あまり身動きは取れない。水色のビニールシートを敷いたスペースは二畳ほどの広さであろうか。向かって右半分をキャスターの付いたパイプハンガーの列が塞ぎ、色とりどりの衣料が吊るされている。その殆どは、一目でそれと判る女物だ。シートの手前に並べられている小物類の中にも、アクセサリーやファンシーグッズなどが目立つ。当然ながら、足を止め、覗き込むのは圧倒的に女性客が多かった。香藤にとっては初体験であったが、これまでのところ、売れ行きはまずまずといった手応えがある。
「ほら、香藤!」
振り向いた正面へと飛んで来た物体を、香藤は難なくキャッチした。缶コーヒーだ。手の平がひんやりとして気持ちいい。気温は昼になってぐんぐんと上がってきている。半袖でも汗ばむほどだ。
「喰いもん、仕入れてきたぞ。」
しばらく出歩いていた遠藤が、ごちゃごちゃした小物を避けるようにしてシートの奥の定位置に戻ってきた。早速ぶら提げていた買い物袋から中身を取り出す。ソースの香ばしい匂いがふわっと広がった。渡されたプラスチックの容器はまだ温かい。
「いただきます。」
二人が大盛りの焼きソバを掻き込んでいる間にも、引っ切りなしに手前の狭い通路を人々が行き交い、時に足を止める。家族や友人同士など、連れ立って歩いている様子が多く見受けられた。
午前10時から午後3時までの開催ということで、丁度折り返しの頃合いになる。人出は、今がピークのようだった。時に5人6人と客が店先に溜まっても、応対を後輩に一任したつもりでいるらしく、遠藤は奥の方に座ったまま動こうとしない。それで正解だった。麦藁帽に丸いサングラス。ド派手な赤い花柄のアロハシャツにビーチサンダルの装いは、あまりに胡散臭すぎた。交渉相手を探す女性客たちの視線は、すっとアロハシャツの上をかすめて通り過ぎ、そして香藤に留まって、好意的に緩むのだった。
「ハァ……暑いっすね。」
蒸れるキャップを外し、パタパタと扇ぎながら香藤がこぼす。
エアポケットのような時間帯になっていた。
先ほどまで、あんなに混み合っていた人波が、ぱたりと途絶えていた。出店者たちの顔にも多かれ少なかれ疲れが浮かんでおり、大きな声で話す者もほとんどいない。
腕時計に目をやる。1時40分をいくらか過ぎていた。あと一時間と少々。
香藤は額に貼りつく髪の毛を鬱陶しげにはね退け、キャップを目深に被り、つばを後ろに回した。陽が移動して、後頭部を直撃する。
「そうだな。」
涼しい顔で遠藤が答えた。その顔は、麦藁帽に守られた影の中にある。
何か、理不尽なものを感じながら、香藤は息を吐き出した。Tシャツにカーゴパンツで通気性は悪くないはずだが、肌は湿って不快感がある。パーカーとスニーカーは、とうに脱ぎ捨てられていた。
「散歩でもしてくるか?」
気を利かせて、遠藤が促した。
「あー…いや、どうせ後もう少しだから…。」
時間と売り物、両方の意味をひっくるめて、香藤が返す。
パイプハンガーに吊るしていた、あれほど大量の衣服は、ほぼ完売状態である。残り一着となったワンピースをすっぽりと覆う透明ビニールの裾が、わずかな風に揺れている。小物にしても、買い手が付きそうにないおもちゃの食器や、ショッキングピンクに塗られた、人形しか座れないだろう小さな椅子、アニメのキャラクターがプリントされたビニール製の財布、などなどが、閑散と並んでいるだけだった。
「あれ、あのプライスは無理じゃないかなぁ。」
1万2千円の値札の付いたワンピース。それを、香藤はちょっと遠い目で見遣った。女物に詳しくなどないが、好い感じのデザインだとは思う。実際、手に取ってみたお客は少なくなかった。ただ、他の品物との値開きは如何ともしがたい。その一枚を除けば、並んだ品々は高くて千円かそこらである。
加えて難点がもう一つ。造りが、かなり細身なのだ。価格面とサイズ、双方のハードルをクリアする強者は、なかなか現れそうにない。
値引きは、基本的に一割までなら香藤の裁量でしてよいことになっている。もっとも、「すんげぇ似合ってる!」と褒めちぎられたり、「勘弁してよぉ〜」と困り顔で微笑まれたりした女性たちの多くは、詰まるところ、値札通りの金額を財布から抜き出した。
そして、より以上の値段交渉を迫られた場合にのみ、遠藤に判断を仰ぐわけだが。件のワンピースだけは例外で、ビタ一文負けぬよう、最初に言い渡されていた。
「いいんだ、あれは。当人が承知しないから。」
「当人って、これ、ほとんど女物ですよね。…彼女とか?」
「いや。姉貴。」
「お姉さん?」
香藤は手近の、可愛いんだか不気味なんだか判断の付かないグニャリとした蛙の縫いぐるみを掴み上げ、へぇぇ…と声に出した。まぁ、趣味は人それぞれだし。
「そういえば、香藤は妹がいるんだったか。」
「ええ、まあ。」
「どうだ、お兄ちゃんからのプレゼントってのは。内緒で千円負けるぞ。何でも、元はあの10倍はするらしい。」
10倍、ってことは12万?!
とんでもない。香藤は首を振った。
「うちのなんて、まだまだガキっすから。」
やんわり断ると、遠藤もそれ以上は勧めてこない。
他にすることもなく、残っている品物を並べ替えてみたり、空になったハンガーを纏めて縛ったり、向かいの店の売り子の秋波に無邪気な笑みを返したり。そんなふうに暇を持て余している香藤に、
「そろそろ店じまいするか。」
遠藤が言い出した。香藤に否やはない。時刻は2時20分。
「そうだ。お前、もうすぐ誕生日だよな。どれでも欲しいもん、やるぞ。」
誕生日って。なんで。
疑問が過ぎったが、サークルに入るときに提出した入部票に生年月日欄があったのをすぐに思い出した。遠藤ならば、あれに目を通していて不思議はない。それよりも、がらくた…のような売れ残りが放り込まれたダンボールを目の前に差し出されたことの方に困惑する。
「気持ちだけ、貰っときます、先輩。」
「遠慮するなって。」
それって、がらくたを一つでも減らしたいってことですかぁ?!
つい勘繰ってしまいたくなる。
更に勧められて、仕方なくダンボールをかき回し、中からミニチュアの急須を取り出した。片手に握り込めるほど小さい。これなら荷物にならないし、第一、他は女性向けばかりだ。
「じゃ、これを。」
「お、目が高い。そいつは紫砂急須だ。」
「しさきゅうす?」
「中国の官窯…平たく言うと、伝統ある工芸品だ。」
「え、でもこれ、おもちゃでしょ?」
「俺らの感覚からしたら相当に小さいけどな。実際に使うものだよ。」
撤収作業は10分と掛からなかった。パイプハンガーとダンボールを少し離れた駐車場まで運び、ワゴン車の後部に積み込めばそれで終いだ。
エンジンをかけ、煙草をくわえたてから、遠藤は思い出したようにウインドウを下ろし、車外の香藤を手招いた。
「バイトの件、たぶん来週には確返できるから。」
「そうすか。助かります。」
「こっちこそ、今日は助かったよ。じゃな。」
送ってくぞ、との申し出を、香藤は断っていた。
遠藤を乗せたワゴン車が、見る間に遠ざかってゆく。
「…さて。」
リュックを背負いなおし、ぶらぶらと歩き出す。自然、足が木陰の方へと向かっている。広い公園は、遊歩道を隔てて幾つかの区画に分かれていた。噴水広場、子供向けの遊具を配した「児童のもり」、鬱蒼とした木々が池を取り囲む一帯、ドッグランと球技練習が入り乱れて無法地帯と化した運動場…。香藤が辿り着いたのは、そのどれでもない小さな空間だった。遊歩道を外れたところにある程よい木の陰。ひんやりとした土の地面と、まだらに生えた雑草。木製のベンチが一つきり。辺りに人の姿はなく、喧騒も遠い。
ほっとして腰を下ろす。同時に、何かがぶつかる音がした。
…あぁ、ポケットに入れた急須だ。
香藤はカーゴパンツのポケットを探った。一応、貰い物である。
検分したところ、壊れた様子はない。しかし、見れば見るほどおもちゃじみている。形も、何やらカボチャに似てなくはないか。色はグレー掛かったこげ茶色で、おまけに薄汚れている。これが実用品と言われても。
「…使う気にならないよな。」
肩をすくめつつ、無意識に、Tシャツの裾で汚れをこすっていた。




**2**

「ご主人様。」
そう呼びかけられて、どんな反応を返せばよいのだろう。
香藤はとりあえず目を擦ってみた。月並みなリアクションだが、目の前の様子に変化は一切ない。
男は、急須から湧き出したかのように見えた。それだけでも奇怪にすぎるというのに、いでたちまでが奇怪なのだ。どちらがより受け入れがたいか、咄嗟に判断がつかない。
大別するならチャイナ服だろう。男が身に纏っているのでチャイナドレスと称するのは憚られるものの、イメージとしては割りと近い。
青い、おそらくは絹地の衣装は、足元に届くほど長い。チャイナドレスほどピッタリとしておらす、ゆるやかに体の線を蔽っている。広めの袖も長く、指先までをすっぽりと隠して余りあった。艶やかな黒髪が、肩を滑って膝の辺りまで流れ落ちていた。
そこまではいい。
男は、頭の上に飾りをつけていた。それも、某有名なアメリカ産ネズミのキャラクターの、黒く大きく丸い耳を模した被り物を。
「それって反則だろ。」
香藤は力なく呟いた。何もかもが信じがたいが、何よりその不恰好な耳が信じがたい。というか、嘘だと叫びたかった。
「もしかして、テレビの企画? どっきり?」
隠しカメラがないかと、周囲を見回す。冷静に考えれば、一般人の香藤にどっきりを仕掛けるメリットなど、テレビ局にあるはずがない。
「いいえ、ご主人様。」
教え諭すように、静かに首が振られる。
そして男はふわりと身を持ち上げた。
上半身が、香藤の頭上に覆い被さる高さで宙に浮いている。腰から下は、先がすぼまって急須の注ぎ口にキュッと吸い込まれていた。
「おわっっ…!!」
香藤は大きく仰け反った。手から放り出された急須が土の上を転がる。男はといえば、何事もない様子で元の場所に佇んでいた。2メートルほど先の地面に。
「心臓に悪いって!」
「得心して戴けたでしょうか。」
「するかっ!」
香藤の異議をよそに、まったく表情を動かすことなく男が続ける。
「これよりは、あなた様の忠実なるしもべ。何なりと御下命くださいますよう。」
「だったらまずその耳をとれ!」
「それをお望みならば。」
「そうだ…いや、ちょっと待て! もしかして、願いはたった3つだけ、なんてことはないよな?」
「よく御存知でいらっしゃる。」
「まんま、アラジンとランプの精のパクリじゃないか。」
「ランプの精…はて聞き覚えのあるような、ないような。さておき、この身のことは急須の精とお呼びください。もしくは、精霊とのみ。」
「精霊だって?」
むしろネズミ男だろ。
そんなふうに内心ツッコミを入れてしまった香藤は、言い換えれば既に相手のペースに嵌められていた。
「で、さっきのだけど。カウントされんの?」
「実行前でしたから。」
「よし。」
何がよしなんだ。もうちょっと、疑って掛かるとか、気味悪がるとかの反応はないのか。
そんな自問が脳裡をかすめたとしても、あまりに微弱すぎた。驚くほど、香藤は適応能力が高く、かつオープンマインドだった。
「よく見れば似合ってないこともない、というか、個人的趣味にまで俺は口出ししないから。ネズミ男でよし。」
自らに納得し、香藤は急須と蓋を拾い上げた。更に汚れてしまったが、欠けた箇所は見当たらない。
「では他に、お望みがあれば。」
「望みね…う〜〜ん…。って、もしかして、一度出てきちゃったら、望みを叶えない限り戻れない、とか?」
「ご主人様のお心に副うことこそ、この身の務め。」
「図星なんだ。」
ちょっと意地悪く香藤が言う。
「当方に、不都合は一切ございません。いついかなる時も、主が身辺に侍るは、むしろこれ無上の喜び。朝から晩まで、起きている時も寝ている間も、湯浴みをされていようと用を足されていようと、女人と睦み合われていようと、お傍を離れるものではございません。何処までも付き従って参ります。なに、心配されずともこの姿、余人の目に曝すなどの愚は犯しようもなく、」
「――ストップ!」
香藤はパッと手を開いて相手に向け、立て板に水の台詞を遮った。
「それ以上、言うなよ。」
「何か、お気障りがございましたか。」
「すっとぼけんな。これ以上無駄口叩いたら、急須に茶っ葉突っ込んで熱湯ぶっ掛けるぞ!」
人質だ、と解らせるよう、香藤は小さな急須を掴んでぐっと前面に押し出した。
「新茶の出揃う時季ですのに。どうせなら、良い茶葉を吟味して戴きたい。おおはしり、などと贅沢は申しませんが。新茶の清清しい香り、これは揮発性で容易に散じてしまいますから。熱湯など、とんでもないことです。いったん茶杯に空けて湯冷ましをした、そう、せいぜい摂氏70度ほどの湯が適当かと。」
「中国の急須なんだから淹れるなら中国茶だろ! 烏龍茶とか、熱湯じゃなきゃダメだろうが。ひよってんじゃねぇよ!」
「急須の分際で茶葉に物言うなど、滅相も。」
「よく言う。言いまくってたくせに。」
と、そこでハッとした。
論旨が滅茶苦茶ずれまくっている。
そしてこのまま不毛極まる舌戦を延々と繰り広げたところで意味がない。
業腹だが、香藤は打開策を提示した。
「わかった。とにかく『お願い』ってのをすればいいんだろ。そうすれば、この問題は一応カタが付く、んだよな?」
「仰せのまま。」
「…ったく。」
フン! と盛大に鼻を鳴らし、腕組みする。そしておもむろに考え始めた。そのあたり、切り替えの速さは天下一品の香藤である。
さて、何を『お願い』しようか。
前期テストのヤマ…なんて小さすぎる。
いっそ車の購入代金とか、車そのものとか。
中古の予定だったけど、それなら新車も夢じゃない。車種は何がいいかな。
いやいや、ここはもっと慎重に…。
「あ〜〜〜いざとなるとコレってのが思いつかない!」
俺って実は結構、欲がなかったりして。
とは言え、ネズミ男…もとい急須の精霊に四六時中ストーカーされるのだけは、断じて願い下げだ。
「こうなったら世界征服。でも世界なんて貰ってもうれしくないかも…。あ、あ、あ、なんで俺がこんなことで悩まなきゃならないんだ、くそっ。どうせなら、何かしてほしい時に出てきてくれたら良かったのに……と、そうだ。」
香藤は横目で精霊を見遣った。
「条件とか、あるのか。」
「条件、とは。」
「だからっ。こういうのはいいけど、あんなのはNG、てのだよ。例えば……モノ関係ならありだけど、テストとか資格とか、俺自身の能力に関わるものは無理、みたいな。…限定条件?」
「さよう…我が力の及ぶ事象ならば、何なりとも。」
「あぁ〜?」
よく分からないけど。どうも怪しくなってきたぞ。
『力の及ぶ』って、ネズミの耳つけたトンチキな精霊じゃ、どう贔屓目に見ても能力値高そうじゃないし。ここは、簡単なお願いにしておいた方が無難かも。
香藤はベンチの肘掛に右肘をつき、右手に頬を乗せた。左手で、無意識に急須をもてあそぶ。
やっぱりモノ関係かな。
車か。でなけりゃボードか。
…そういえば、ここのところ海に行ってないな。
そうだ。ゴールデンウィーク以来。
「…………。」
そのキーワードが、苦い思いを甦らせた。
ゴールデンウィークの賑やかな海岸で。最後のデートをして、彼女と別れた。
高2の時から丸二年付き合った、同じ高校の彼女だった。
香藤はどうにか東京の私大に引っ掛かり、彼女は地元の短大に進んだ。
互いの生活圏がずれて、ほとんど自然消滅した形になる。
別れたことは仕方ないし、彼女に未練があるわけでもない。
そんなことではなくて。
ほんの、一ヶ月かそこらだ。
ほぼ毎日顔を合わせていた生活から、ほとんど会わない生活に変わって。急速に、想いが褪せていった。
その呆気なさが、傷ひとつ残さなかった自分の薄情さが、香藤を少し凹ませた。
別に、ドラマに出てくるような、運命的な大恋愛を夢見ているわけではない。
ただ、どんなに離れていても心は離れない、色褪せてゆかない、そんな恋愛感情を嘘臭く思う反面で。あったなら、どんな感じがするものなのか。
ふと、そんなことを考えてしまう時がある。
「何を、願われますか、ご主人様。」
精霊が問いを投げ掛けたのは、香藤がまさに『そんなことを考えて』いた最中で、だからすべてはタイミングだ。
――運命の恋。
もはやドラマの煽りにもならないようなクサいフレーズ。
それが舌を滑り落ちて。
香藤こそが驚き、目をパチクリさせた。
その様子を、精霊は真面目くさった顔で見守っていた。もっとも、現れた当初からずっと、表情は固定されたままであったけれど。
「……運命の恋、か。」
自らの答えを吟味するように、香藤はその言葉を再度舌にのせてみる。
先程よりも、いくぶん冷ややかな響きが声に滲んだ。
「なあ、これってアリなのか?」
話を振ったところで、すぐに返事は得られなかった。
精霊の瞼が静かに下ろされてゆく。あとはそのまま、微動もせずに立っている。
長いな、と感じるくらい。
実際には、秒針が文字盤を半周するほどの時間を経て。閉ざされていた双眸がゆっくりと開く。そして、
「出来ぬことではございません。」
と答えが返された。
「…へぇ、そうなんだ。」
「定められた、その御方に、あなた様はめぐり逢われる。運命であるからには。…遠からず。」
「えっ?」
「されど御心を通わせ合うのは、更に幾年か先のこと。」
「っておい、いきなり予言モードかよ。…もしかして、遠回しに拒否ってる?」
「運命の恋、と望まれたのはご主人様。」
「だから何、」
「ですから申し上げているのでございます。」
それきり、精霊は口を閉じてしまう。その取り澄ました様子に、香藤は少しイラっとして、眉根を寄せた。
「…散々前振りしといて、言うことがそれか? 俺はね、未来を占ってくれって頼んでるわけじゃない、出会わせてくれって言ってんの。それも今。…出来るんだろう?」
「……出来ぬことではございません。」
「ならやって見せてくれ。」
結構意地になってるな、と自覚しつつ、香藤はその台詞を引っ込めようとはしなかった。望みを言えと最初にせっついてきたのは向こうなのだ。
「――運命は運命。」
謡うような抑揚で、精霊が言葉を紡ぎ出した。
「ならば必ず出逢われましょう。如何なる時、如何なる所、如何なる形であったとしても。…謹んで拝命つかまつります、ご主人様。」
長い袖をはらって、精霊の白い指先が虚空にするすると印を刻んだ。




**3**

「今日はつくづく公園に縁があるよな。」
香藤は呟いた。
植え込みを囲う低い鉄柵に、彼は腰掛けていた。
目の前の砂場では、男の子がスコップを片手に、無心に穴を掘っていた。
その向こうのジャングルジムはドーム型で、なぜかオレンジ色に塗装されている。四つ並んだブランコは、順番待ちの状態だ。
香藤の背後、植え込みのすぐ外には、狭い路地が通っている。時折、自転車の走り去る音がよぎってゆく。
公園と一続きの敷地に、建物が見える。それは香藤のいる場所から右手奥に、少し離れて建てられていた。
公民館か、児童館か。或いはスポーツセンターか地区体育館かもしれない。黒い袴の、おそらく剣道衣姿だろう少年少女が建物に出入りするのを、何度か見掛けていた。
「……。」
香藤はキャップのつばをぐっと下げて顔を隠した。
先程から、思い過ごしでなくジロジロと見られていた。今も、子供の手を引いた母親らしき女性の、ぶしつけなほどの視線に曝されている。
そろそろ夕刻で、陽が傾いてきていた。子供を迎えに来る母親の数が、先程よりも増えている。
もしかして、と香藤は考えた。
幼児を狙う変質者かと警戒されている? ……だとしたらヤバイ。
万一警察に通報されでもしたら面倒になる。
リュックを肩に掛けると、さりげない風にその場所を離れた。
このまま公園から立ち去るのが無難だとは分かっていたが、そうは出来ない理由があって、仕方なく右手方向へと移動する。奥の建物の敷地と公園とを分ける一応の目安として、フェンスが張られていた。もっとも、それは中途半端なところで途切れていたので、どちらへも、往き来はまったくフリーである。
香藤は公園側のフェンスに背を預けて座り込んだ。無骨な水色の仕切りを目立たなくするためだろう、付近には木が多く植えられており、程よい死角となっていた。
「こんなんで大丈夫かなぁ…。」
思わず溜息が漏れる。
気が付けば、この場所に放り出されていた。
勿論、精霊のしわざである。
公園の隅にひっそりとある公衆トイレの裏、などというポイントにわざわざ落としてゆくのが、いかにもあのネズミ男らしい。
だがとにかく、問題はこの場所だ。ここにこうして連れて来られた意味、それを考えると。他に算段のない香藤は留まるしかなかった。
ふと、近くで人声がした。それも複数の声が。
子供の声。男の子の声だ。
肩越しにフェンスの向こうを覗くと、ひと塊の少年の姿があった。目で数える。6人。
5人で、ひとりの少年を取り囲んでいるように見えた。皆、揃いの剣道衣を身に着けている。
背丈からして小学生だろう。耳に届く声も変声前のものだ。取り囲まれている少年は、他の子たちに比べて少し小柄である。
少年たちは言い争っていた。というより、言い掛かりをつけている感じだ。5人の声が打ち寄せる中で、小柄な少年はじっと黙って立っている。
彼らは自分たちの係りごとに夢中で、香藤の存在に気付いていなかった。フェンスが半ば遮蔽となっていたし、距離も少しある。
「答えろよっ。」
ひとりが小柄な少年の肩を押した。
「なんで今度の大会で5年のお前が大将なんだよ。おかしいだろ。」
「そうだよ。」
「佐野の方が強いんだから、佐野が大将になるべきだろ。」
「絶対におかしいよ。」
「ヒイキだ、ヒイキ。」
「なんで黙ってるんだよっ。」
大将…剣道で大将と言えばあれだな、団体戦で、両チーム5人がひとりづつ戦う、その5人目。ラスボスが、確か大将だ。
聞くともなしに、香藤の聴覚は彼らの言い分を捉えていた。傍からすれば、微笑ましいような難癖のつけ方だった。
子供の喧嘩に首を突っ込む趣味はないが、なにしろ5対1だ。手が上がるようなら止めに入ろう、くらいの冷めた目で、様子を眺めやる。
と、ある拍子に、小柄な少年の視線がすっと動き、それは偶然にも香藤とぶつかった。
少年はちょっと驚いたように目を瞠ったが、周りはその反応に気付かなかった。
次にあの子はどう出るか、助けを求めてくるか…そんな予測を立てながら香藤が窺っていると。少年は一瞬だけこちらを睨みつけてから、すぐに目を逸らした。
ヒュ、と香藤の唇から、息だけの口笛がもれる。
「おい、何をしてるんだっ?」
唐突に、男の声が闖入した。
「花村二段!」
「どうした、喧嘩か。」
「いえ、違いますっ。」
「話し合っていただけです。」
多勢で取り囲んでいた少年たちが、慌てて男の方に向き直る。
香藤と同じくらいの年恰好の、剣道衣をつけた男だ。背が、香藤ほどではないがそこそこ高い。
男はその場から少年たちを散らすと、最後に残る形になった小柄な少年の背中に手を当て、引き寄せるようにして話し掛けた。
香藤の視界のなか、二人は連れ立って建物の方へと遠ざかってゆく。
「そんなところで何をしてるの?」
いきなりの声に、香藤はびくりと肩を揺らした。
植え込みを隔てた路地に女が立ち、こちらを窺っている。その姿が、木々のつくる隙間の向こうに見えた。
「ちょっとね。」
香藤は女性向けの笑みを唇に浮かべた。ここで慌てたり取り繕ったりしたら、却って挙動不審と警戒されてしまう。
女は古めかしいラインのワンピースをさらりと着こなしていた。ゆるいウェーブのかかった長い髪と薄化粧。右手に買い物袋。30才前後だろうか。色が白く、かなり美人だ。
「ちょっと?」
「そう、ちょっと。」
「あなた、この辺りの人じゃないわね。」
「うん。旅行中。」
女は植え込みの柵に手をつき、身を乗り出すようにして香藤の方を覗き込んだ。
「旅行中なのに荷物はそれだけ?」
「貧乏旅行なんだ。」
香藤は中身がすかすかのリュックを軽く叩いた。
「そんな感じね。」
一応納得したように女が頷く。それから指を伸ばし、
「ね、その髪。とても目立つわ。外人さんみたい。」
「よく言われる。」
実際、いわゆる『バタ臭い』顔立ちの香藤は、ハーフなの? と訊かれることがたまにある。
「東京の人?」
「そう。」
出身は千葉だが、東京に在学中なので100%の嘘ではない。
「今晩、泊まるところは決まってるの?」
「ない。」
「来る?」
「………いいの?」
「来ないの?」
香藤は立ち上がって尻をはたき、植え込みの鉄柵を目で測った。膝より少し上の高さだ。おもむろに第一歩を踏み出す。鉄柵を足掛かりに、弾みをつけて植え込みを跳び越した。
「きゃっ、」
女が驚いて首をすくめる。その横に、悠然と着地した。結構大柄に見えたのに、こうして並ぶと、女の背丈は香藤の肩ほどの高さしかない。
「……無茶をするわ。」
「遠回りするのが面倒だった。」
「あなた、すごく背が高いのね。」
「まあね。」
「行きましょう。こっちよ。」
「持つよ。」
「いいわよ。軽いから。」
「女性には親切にしなさいって、うちの親が。特にキレイな人には。」
言いながら、買い物袋を奪い取る。
「嘘ばっかり。」
クスクスと女が笑った。




**4**

路地をひとつ折れて、五分ほど歩いたろうか。ひっそりとした住宅街に建つ、ひっそりとした家だった。
周囲にも、似たような家が並んでいる。ブロック塀で囲ったこぢんまりとした土地に、小さな庭。その奥の、ありふれた木造家屋。門の脇に庭木が植えてあるところまでよく似ていた。
「美和子さん、か。」
表札に目を留め、香藤が読み上げる。
世帯主だろう男性名の横に、ひと回り小さく『美和子』と記されている。
名を呼ばれた女が、おざなりに「ええ」と答えて鍵を回した。
「美和子さん、旦那さんがいるの?」
「旦那さんなんて言われると、私はお妾さんみたいね。」
「え、そんなつもりじゃないけど。」
さっさと上がりなさいよ、と美和子は香藤を促し、玄関を閉める。
灯りを点けていないので、少し薄暗い。
「いるけど、いない。」
「えっ?」
「北海道へ単身赴任中。今は涼しくていいでしょうね。」
サンダルを脱ぎすて、こっちよ、と美和子が手招いた。


「もしかして出掛けるの?」
ベッドに横たわったまま、香藤は首を捩じった。
畳の和室に、セミダブルのベッド。観音開きの鏡のついた、深い色の木製ドレッサー。同色の箪笥。襖の色に合わせたカーテン。レトロモダンな趣味だと、香藤には感じられる。
シャワーを終えた美和子が、服を着け始めていた。
先程とは違う、黒いワンピース。喪服にしては、肩と胸が開き過ぎている。ファスナーを上げると、身体のラインが綺麗に現れた。裾はレースで、白いふくらはぎがちらちらと透ける。
「週に3日だけ、友達のお店を手伝っているの。」
その服装を見れば、どんな種類の店かは想像がつく。
「……おそくなるの?」
「真夜中過ぎ…明け方になるかしら。」
ドレッサーの前に座った背中が答える。
「旦那さん、知らないよね。」
「…だって他にすることがないわ。」
「俺がいるのに。」
ようやく、美和子がこちらを向く。
「ちょっとした予定外よ。洋二くん、あなただってそうでしょ。」
「……運命の出会い、なんてのかもしれないじゃん。」
「ありえないわ。」
「…旦那さんがいるから?」
「運命なんて信じてないの。だから洋二くんのお相手は別の人。」
やわらかく笑みを浮かべた顔が、鏡へと戻される。
慣れた手付きで髪を結い上げる後姿を、香藤は眺めやった。
運命なんて信じない、と美和子は言う。
だったら自分はどうなんだろう。そもそも、運命を信じているのだろうか。
「…どう?」
すっかり身支度を整えた美和子が、目の前に立っていた。
「すごくきれい。」
「ありがとう。」
美和子はバッグから財布を取り出し、「結局お夕飯を作れなかったから…これで何か食べてきて」と紙幣を抜き出した。
「いいよ、別に。適当に食べるし。」
「着替えだって困るでしょ。それともうちの旦那さんのを着る?」
「それは…ちょっと嫌かも。」
「じゃあ、鏡台の上に置いておくから。合鍵も。駅の方のお店なら、晩くまでやっているわ。さっきの、公園とは反対方向。一本道だからすぐに分かるはずよ。」
「知り合ったばかりの男を一人で家に残したり、鍵を預けちゃったりして平気なの。」
「どうかしら。洋二くん次第だわ。」
「…いってらっしゃい。」
香藤は頬に軽くキスして美和子を送り出した。


Tシャツに袖を通すと確かに汗臭かった。食事はともかく、着替えは手に入れたい。
一応自分の財布を覗いてみたが、どうにも心許ない厚みだった。ここはありがたく、厚意に甘えさせてもらおう。
そして香藤はドレッサーの上の紙幣を取り上げ、
「………。」
3秒ほど固まった。
昔懐かしい聖徳太子の絵姿がこちらを見返していた。
「……うそ。」
我知らず呟きが漏れる。
「諭吉、のはずだろ?」
一万円札の肖像が聖徳太子だったことは知っている。知っているどころか、小学生の頃までは流通していた。当時には、『聖徳太子』こそが万券の代名詞だった。
ただ、年齢が年齢なので、香藤にはあまり馴染みのないものだった。そしてそれはとうに市中から消えたはずだ。実際、もう何年もお目に掛かっていない。
――――嫌な予感がした。
寝室を見回したが、カレンダーはない。
廊下に出て、突き当り。すりガラスの引き戸を開ける。先程、買い物袋を置いたダイニングのテーブル。買い物袋は既に片付けられていたが、取り込まれたままの夕刊は、まだそこにあった。
「そんな…。」
呆然としながら、何度も目で確かめる。新聞の日付は、十年以上も前のものだった。しかも8月になっている。夏休みのさなかだ。
「タイムトリップ…いやタイムスリップ…?」
SFを読まず興味もない香藤に、違いなど分からない。
ぱさりと新聞がテーブルに落ちた。
「本当なら俺、5才? 6才?」
とにかくそれくらいの年齢だ。
「なんかまずくない? まずいだろ。どーすんのっ。」
思わず頭を抱え込む。
「あンの野郎っ! レクチャーもせず放っぽり出しやがって!!」
自分が出した無茶な要求は棚に上げ、忌々しげに毒づく香藤だった。




**5**

結局、香藤は買い物に出ることにした。
一晩中、誰もいない家で悶々としていても仕方がないし、おやじ(推定)のパンツなんか死んでも穿きたくなかったからだ。
駅前の洋品店で、下着とありきたりなボタンシャツ、丈の心配のないハーフパンツを購入。選択性のなさは諦めるとして、店員のおばちゃんが、安全距離を取りながらも始終後ろに付いて回るのには閉口した。「いくらです?」と聞いたら、「あら、日本語上手だね」と返ってくる。
仕方ない。今は大昔なのだ。
しかも、ここは何でもありの東京ではない。新聞は、新潟版だった。こんな頭の人間がふらふら歩いているのは珍しいのだろう。多分。
食事も済ませたし、さっさと引き上げよう。香藤は荷物を小脇に抱え、ほとんど店じまいしている寂しい通りを逆にたどる。一本道までくれば、あとは迷いようもなく真っ直ぐ進むだけだ。時に擦れ違う人がじろじろ見たり、振り返ったりするが、知らぬふりで足早に歩いた。
時計を見る。8時を少し回っていた。
足の運びが、段々と鈍くなる。そしてついに、香藤は立ち止まった。
左手に、美和子の家へと続く小径。このまま真っ直ぐに先を進めば、あの公園に行き着く。
フェンス越しに見送った大小二つの後姿が、頭の中で、映像のように呼び起こされる。
男は、少年の頬に唇で触れそうなほどに身を屈め、話し掛けていた。
内容のすべてを聞き取れたわけではないが、「公園」と「8時」の二言が、はっきりと耳に残っている。
再度確かめる。8時12分。
香藤は駆け出していた。


「うっ…ぐ、……や…っ!」
男は、声を上げかけた少年の口を乱暴に塞いだ。
半ばまで引き下ろされたズボン。剥き出しにされた腿の、痛々しい白さ。
常夜灯の光りが、わずかに届く木陰だった。
大きな手が、白い腿を鷲掴み、下肢を割り開こうとする。
精一杯の抵抗を表わし、細い足が空を蹴った。
香藤の目に飛び込んできたのは、そんな光景だった。
頭の中で何かがブチ切れる。
「てっめ――――――ぇッッ!!」
植え込みを一気に跳び越えた。
ぎょっとして振り返った男の顎を渾身の力で蹴り上げる。
一発KOだった。
「大丈夫かっ、おい?!」
香藤は放心したままの少年に声を掛けた。事態がどう動いたのか分からず、ただ目を見開いている。
ちっ、と舌打ちして、香藤は少年を掬い上げた。乱れた服はそのままだ。ついでのように気絶した男の脇腹を蹴りつけ、その場を離れた。
とりあえず、砂場近くのベンチまで運ぶ。ここまで来れば、転がしておいた男の姿は目に入らない。
この時間、公園はほとんど闇に沈んでいた。
常夜灯がいくつか、狭い範囲を鈍く照らしているだけで、真っ暗な隅が無数に転がっている。だからだろう、他に人影はない。裏の路地も、人通りは絶えていた。
香藤がよそを向いている間に、少年が身なりを直しているのが音として伝わってくる。
音が止み、しばらくして、香藤はベンチを見遣った。そこは、ぼんやりと灯りに照らされている。
少年は強張った顔をしていながらも、泣いてはいなかったし、恐慌を来たしている様子も見られない。ただ、香藤の方を向こうとはしなかった。
「家、どこだ。」
少年は答えない。
「送ってく。…それとも迎えに来てもらった方がいい?」
少年は俯きがちに首を横に振った。
「だったら送ってくし。家、どこだよ。この近所か。」
また、首が振られた。ベンチの脇に立っている香藤からは、少年のつむじが見下ろせる。
「あのなぁ…ずっとそこに座ってるわけにいかないだろ。」
香藤は途方にくれ、髪をわしゃわしゃと掻き混ぜた。
こういう事態にどう対処すれば良いか、見当が付かないし、特に今は、厄介事に係われるほど贅沢な身の上でもない。
少年は一瞬だけ香藤を見上げ、すぐに目を背けた。
「…もしかして警戒してる?」
くるりと絡みつく髪から手をどける。
そうだった。ここでは、こんな髪の色をした人間を、普段見掛けないのだ。
思い至り、香藤はカーゴパンツのポケットから財布を取り出した。中に、学生証が入っている。
「ほら、な?」
さりげなく発行年のところを指で押さえ、少年の前に差し出した。
その動きに、少年がびくりと反応し、咄嗟に体を退く。香藤は構わず話しかけた。
「東京から来た、一応大学生。旅行してるんだ、夏休みで。」
少年の目が、カードの氏名欄の上で止まる。
「かとう。ちょっと変わってるだろ。…あんたの名前は?」
お前、と呼びかけるほど身近でなく、きみ、は香藤自身の柄じゃない。
少年が、ゆっくりと顔を上げた。
香藤と、真っ直ぐに視線を合わせる。
香藤もまた、少年を見詰めた。ほとんど初めて、その容貌を近くではっきりと網膜に捉える。
きつい、目をしていた。眦がすっと吊り上がっている。黒い瞳には、強い光りが籠もっている。
しかし、それよりも何よりも、あまりに整った顔立ちに、香藤は目が離せなかった。
こんなきれいな子供を、これまでに見たことがない。映画の子役と言われでもしたなら、すぐに納得するだろう。すべらかな額と頬。寸分の狂いなくバランスの取れた形良い目鼻。色白の肌には、思わず指を伸ばしたくなる瑞々しさがある。
少年は、ふくりと柔らかそうな唇を噛み、やはり首を横に振った。癖のない髪が、耳の上でさらさらと揺れる。思わず詰めていた息を、香藤は吐き出した。
「そうか。…じゃあ仕方ない。警察に、」
「駄目だっ!!」
予想外の、激しい拒絶に出くわした。
「なんで。…知られるのが嫌?」
「…違う。」
「まさか、あんなヤツ、庇ってるの?」
「そんなんじゃない。」
「じゃ、どうして。」
「……。」
「話してくれないなら、警察呼ぶしかないよ? それは分かるでしょ。」
「……か。」
「え?」
「話せば、黙っていてくれるのか?」
「それはまあ…話しによる、かな。」
「……。」
「話してくれなきゃ即通報。」
少年は少し迷ってから、
「こんな事、知られたら、やめさせられる。」
とだけ、答えた。
「やめさせられたくないわけだ。」
「……。」
「何?」
「……。」
「剣道?」
「――ッ!!」
反応はあからさまで、黒い瞳が香藤に向けて、大きく見開かれる。
「さっき、あそこで、」
公園と奥の建物とを仕切る、フェンスの辺りを指差す。
「話してたよね。他の子たちと。みんな、あんたも、剣道衣を着てた。…あいつも。」
「あの時の…、」
「そう。すごい偶然。今も、買い物の帰り。」
言ってから、荷物がないことに初めて気付く。多分、植え込みの近くに落ちているのだろう。後で拾えばいい。
「…黙っていてくれるのか。」
「そんなにやめたくないんだ、剣道。」
「当たり前だ!」
「だからって黙ってていいことじゃないよ。また同じような目に遭ったらどうするの。」
思い出させたくなかったが、言わずにいられなかった。
「………。」
少年がまたもや黙り込む。ボタンの飛んだシャツの襟元に、鬱血の痕が覗いている。
本当のところ、何をされたのか、されそうになったのか。小学生くらいの、しかも男の子では、完全に理解しろという方が無理なのかもしれない。性情報も、自分の育った頃ほど氾濫していないのだろう。
そう考えて、香藤はもやもやするものを嚥み下した。
「とにかく、家まで送る。遠くてもっ! 話はそれから、」
「…合宿。」
「え?」
「今、あそこで合宿中。」
少年は奥の建物を指差した。確かに、窓のいくつかに明かりが点っている。
「合宿って、まさか、あの野郎も一緒にかッ?!」
「違う。…たまに、講師の手伝いに来るだけで…。」
その答えに、香藤は少なからずホッとした。
「そっか。…じゃあとにかく、合宿の責任者だが指導者だかに、」
「駄目だ、言わないでっ! …言わないで、ください。」
これじゃ堂々巡りだ。
「じゃさ、名前教えてよ。家を調べて、親にチクったりしないからさ。」
「……。」
「俺は、学生証だって見せたのに。不公平だと思わない?」
「……いわき。」
ぼそりと呟かれた。
「下の名前は、」
「……。」
「もう、強情だなぁ。…ま、いっか。いわき少年、とりあえず、今夜は誰にも言わないでおく。それでいい?」
「……はい。」
今度は、随分と素直に頷いた。それから、
「あの、助けて頂いたのに、お礼も言ってなかった。ありがとうございます。それと…失礼な口の利き方して、すみませんでした。」
きっちりと頭を下げる。
躾けに厳しい家の子に違いない。
「…あの、今何時ですか。」
「9時、3分前。」
香藤は腕時計の文字盤を相手に向けた。
「俺、もう戻ります。9時半消灯だから。」
「うん。おやすみ。」
「おやすみなさい。」
少年が駆けてゆく、その後姿が建物の中に消えるまでを、香藤は見届けた。

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