**6**

この時空に飛ばされて二日目の朝。
香藤は手軽く朝食を済ませ、いそいそと家を出た。
昨夜帰りの遅かった美和子は、まだ就寝中だ。
8月の青く澄み渡る空に、入道雲が浮いていた。陽射しは既に強い。
日除けのキャップは、明るい色の髪を隠すのにも役立った。肩につくほど伸びているが、たくし上げてキャップに詰め込むと、ほとんど目立たなくなる。
公園は、午前の清しい光と子供たちの姿で満たされていた。夜の暗々しさとの、この落差はどうだろう。
植え込みを跳び越せば近道だが、人目を引くことになりかねない。わざわざ100メートル程先の入り口に回った。そこから、公園の真ん中を突っ切るようにして奥の建物へと、何気ない足取りで歩いてゆく。
『市民スポーツセンター』
エントランスに、プレートが掲げられていた。
出入りは自由のようで、短い階段を三段登り、そのまま進む。
入ってすぐのところに案内板があった。
館内平面図によれば、1階には第一から第四までの運動場が、2〜3階には研修室やら準備室やら会議室などが配置されている。
隣の黒板には、使用中の設備と利用者名の書き出しがある。
『第三運動場・島峰剣友会』
これだ。
館内図が分かり難かったので、通り掛かった男性に第3運動場までの道順を尋ねる。いとこが合宿中で、稽古の様子を見学しに来たのだと話したら、疑いもせず教えてくれた。なかなか親切なおじさんだ。
廊下を進む。それらしい物音が、遠くに聞こえる。
竹刀を交える音。甲高い掛け声。
剣道衣姿の少女が、廊下をこちらへとやって来る。中学生くらいだろうか。美少女、の部類に入るだろう。香藤は声を掛けた。
「ちょっと訊いていいかな。花村さん、花村二段、こっちに来てない?」
昨日、フェンス裏で言い掛かりをつけていた少年たちが、あの不届き野郎を確かそんなふうに呼んでいた。
「花村さん、ですか?」
少女は少し不審そうにしながらも、香藤のさわやかな笑顔に、すげない態度を取ることが出来ないようだった。
「うん。家に電話したら、多分ここだろうって教えてもらったんだけど。」
「あ、そうなんですか。でも今日は、みえられないですよ。」
「えぇ〜〜そうなのぉ? じゃあ俺、無駄足じゃん。」
その、情けない声と表情に、少女がくすりと笑みを漏す。
「ね、きみもしかして遠藤さん? あれ、江藤さんだったかな。あの人言ってるんだよね。可愛い子がいるって。お気に入りだって。」
「……違いますけど、」
「なんだ、違うんだ。残念。」
少女の目に、警戒の色がありありと浮かび上がる。
「でも、気を付けた方がいいかも。ここだけの話し、あの人、かなり手が早いから。…それに大人の女がダメなんだよね。」
声を落とし、意味深に目配せする。
香藤の話が終わるか終わらぬかのうちに、少女は脱兎のごとく駆け去って行った。
その後も、二人ほど女の子を捕まえて、同じ話を吹き込んだ。
多分これで、噂が広まることだろう。話の内容自体は出鱈目であったが、根も葉もないことではないのだ。
香藤がフェンス越しに目にした情景――少年の背に手を添え、耳に語りかける男の仕種の中に、不穏な何かを見い出したように。日頃の些細な言動、そこに含まれるわずかな違和感を、特に子供は敏感に嗅ぎ取るものだ。それらを裏付けとして、花村という男に対する疑惑が、急速に意識されることだろう。
子供は勿論、その親や関係者も警戒するようになるだろうし、そうなればあの男も軽はずみな行動を起こせなくなる。
それが、香藤の目論見だった。
話を少年ではなく少女に限定したのは、花村の性癖と、いわき少年とを関連付ける万一の危険性を避けるために他ならない。
「なんか俺、結構性格悪かったんだ。」
それに、こっちに来てから嘘のつき通しだ。
けれどやっぱり、何かせずにはいられなかった。あの少年を、あのまま放っておくことが出来なかったのだから。
「仕方ない、か。」
目的は、一応だが成し遂げた。これで用は済んだのだけれど。
「折角だし、見学しよっかな。」
第三運動場は、もう目と鼻の先にある。
言ってみれば、小振りの体育館だ。バスケットコート一面よりいくらか広いくらいで、観客席のようなものは一切ない。中にいるのは、ざっと見たところ、30人に満たないほどか。ほとんどが子供だった。大人は、主に指導員らしい。
香藤はスニーカーを脱ぎ、手に持って中に入った。咎め立てする者はいない。他にも、父兄らしき見学者の姿がいくつかあった。それに倣うように、邪魔にならない隅の方でおとなしく腰を下ろす。
場内を見回すと、探すまでもなくひとつの姿に視線が吸い寄せられた。
小柄な少年。
防具も面も着けているのに、ひと目で彼だと判るのが不思議だ。
胴の下に垂れている布地のところに、白文字で岩城と記されている。
『いわき』は、『岩城』なんだな。
岩城少年が竹刀を携えて前に出る。打ち合いをするようだった。相手は、ひと回り体が大きい。
香藤には、剣道の知識がないと言っていい。剣道まんがを何冊か読んだことがある程度だ。
二人の少年は、竹刀の先を軽く触れ合わせた。挨拶みたいなものか。それから一歩退いて構える。
「始め!」の掛け声で、先に動いたのは相手の方だった。上段から、面を狙って打ち下ろす。岩城少年は、最初の一撃を鍔元近くで受け止め、払い除けた。その動きの流れで、相手の胴を窺う。躱された。
両者退き、構え直す。相手が猛然と連打を繰り出さしてきた。一打が面を叩いたが、浅かった。身長差を生かし、面狙いでくるつもりのようだ。
足捌きは、岩城少年に分があった。力任せに放たれる相手の攻撃を、右に左に受け流している。
それに焦れてきたのか、相手は体当たりを仕掛けてきた。鍔がガッチリと咬み合い、胴が激しくぶつかる。小柄な少年にとって、これは堪らない。大きくバランスが崩れた。すかさず面打ちが来る。どうにか凌ぎ、相手の右に回る。その隙に体勢を立て直した。
今度は、岩城少年から誘いを掛ける。中段に構えた竹刀をゆらゆらとさせながら、間合いを計っている。足先が、絶えず小刻みに立ち位置を変える。ボクシングのフットワークに似ていた。
相手は、攻めあぐねているようだった。遠間に距離をおき、じりじりと、岩城少年の左手に回りこむよう移動しながら隙を探っている。
そしてふいに踏み込んだ。甲高い気合の声。
面…! しかし岩城少年が迎え撃つ。頭上に迫る剣先をパシンと薙ぎ払った勢いにのせ、がら空きとなった相手の胴へ竹刀を斬り返す。それは、先程とまったく同じ反撃パターンだった。相手は読んでいたか、或いはわざと誘ったのかもしれない。
…まずい!
香藤は観ていてそう思った。案の定、相手は胴に来るのを待ち構えていたかのように、打ちかかる岩城少年の小手目掛けて竹刀を振り下ろす。
と、その時。
岩城少年は両手持ちしていた竹刀を左手一本に持ち替えた。相手が狙っていた右小手が、寸でのところで鋒(きっさき)を逃れる。
みごと空振りになった。その間、防ぎようもなく上体に隙が出来てしまう。
岩城少年の左手によって繰り出された一撃が、相手の面をパシンと叩いていた。
「面あり、それまでっ!」
指導員の声が告げた。
両者は肩で息をしたまま、向かい合って立礼を交わす。
すぐに次の少年たちが前に出て、打ち合いの準備を始める。
岩城少年は稽古場の端に引っ込み、膝を折って床に座った。年長の少女が隣に来て、何か話しかけている。それを聞いているのかいないのか、淡々とした様子で小手を脱ぎ、面を外した。
額から首筋へと伝い、汗が光っている。頬が、ほんのりと紅潮している。目は、どこか虚ろな様子…いやむしろ微かに陶酔した様子で、ぼんやりと宙を見詰めていた。
その視線が、しばらくのち、向こう正面に座っている人物へと焦点を結んだ。初めて、そこにいると気付いたのだと、表情からありありと読み取れる。
香藤はちょっと親指を立てて挨拶を送った。唇を、笑みの形にニッと引き上げる。
そして静かに第三運動場を後にした。


建物から出た途端、強烈な夏の光が照りつけ、香藤は目を細めた。
そろそろ昼前である。
これから行く当てもないし、とりあえず美和子の家に戻ろうか、と鈍い足取りで公園へ向かう、その背中に、
「あの、…香藤さん!」
声が掛かった。
岩城少年が小走りに駆けて来る。公園との境のフェンスの手前で、彼は香藤に追いついた。
「…よお。」
「……。」
「どうかしたのか。」
「どうかって、」
「なんかあったから、追いかけて来たんじゃないの?」
「別に…、」
何も…と少年が口の中で呟いた。
香藤としては、不届き野郎があの後何か言ってきたのではないか、自分に相談があるのではないか、と水を向けたつもりだったのだが、言われた方は違うように取ったらしい。俯きがちに地面を睨んでいる。見下ろす位置にある髪は、汗でしっとりと湿っていた。
「おい、少年!」
その頭に、香藤はポンと手を置いた。岩城少年が、びっくりして見上げてくる。更に二度、ポンポン、と軽く叩くと、相手は煩そうに頭を振った。
「子ども扱い、するなっ。」
「しないよ。」
「してる。」
「してないって。これは親愛の情を示しているだけ。」
「親愛の情…、」
流石にクサい台詞だよな、と自己ツッコミしつつ、香藤は続けた。
「なんて言うかさ、さっきの、カッコ良かったし、ドキドキした。…強いんだな、あんた。」
「…そんなことない。」
少年が、ぷいとそっぽを向く。けれど、露わになった首筋が、薄っすらと染まっていた。
照れているのだ。そんな様子を、可愛いな、と思ってしまう。
香藤には、高校生の妹がいる。仲は良い方だし、それなりに可愛がっているつもりだが、なにしろあちらも微妙な年頃だ。兄にべったりと引っ付いてくることなど、もう久しくない。そろって独立心が強く、干渉を嫌う性格も相まって、さらりとした兄妹関係だった。
だがもし、こんな弟がいたなら、あれこれと構って、口煩く手出ししてしまうかもしれない。可愛くて可愛くて、そして心配で仕方なく、つい過干渉になってしまう、そんな自分を想像できなくはない。
当人はまったく無自覚なようだが、剣道衣の袷に隠れるか隠れないかの所に、鬱血の痕が見えている。稽古の度にあんな打ち込みをしていれば、小さな痣の一つや二つ、誰も気に留めないのだろうが。
それは、少年剣士の凛とした立ち姿や、人形めいて整った白い貌にほんのり上る朱の色との、凄絶な対比だった。
「…なんだよ。」
穴が開くほどにじっと見詰めていた香藤に気付き、岩城少年が上目に尋ねた。
「兄弟、いるのかな。」
「…兄が。」
答えはしたが、なんでそんなことを訊くんだ、という顔をしている。
「お兄さんと仲良い?」
「……。」
「悪いの、」
「悪くなんかない。」少年が否定した。「でも…、」
「でも?」
「兄さん、近頃剣道に反対するんだ。どうしてかな。道場だって、最初は兄さんが通ってたのに。それで俺も…。なのに、変なんだ。合宿に来るのも、すごく反対された。結局、父さんが許可してくれたから良かったけど…。」
ああ、それでか。
剣道をやめさせられる、とあんなに激しく反応したのは。
「じゃあ以前は、お兄さんも同じ道場に通ってたんだ。」
「去年まで。今年は、受験なんだ。」
「それで今年は合宿も不参加、か。」
「夏休みの間は、夏期講習があるからって。」
「…なるほどね。」
その兄貴は、もしかしたら気付いてるんじゃないのか。弟を狙う下種野郎が道場にいることに。自分の目が行き届かなくなった今、可愛い弟を独り狼の巣穴に放ってなどおけない、と。
そんなふうに、香藤は勘繰ってみた。
「香藤さん…、」
言い出し難そうに、少年が言葉を溜めた。
「なに。」
「…言わないよね? 昨日のこと、言ったりしないよね。」
細い手が、香藤のシャツの袖を握る。
「……それを確かめに、追って来たのか。俺が、告げ口しに来たんじゃないかと?」
きつい口調になるのを止められなかった。
ショックだった。
何がどうショックなのかは分からない。
告げ口すると思われたことなのか。それとも、追い掛けて来たのが、そんな理由だったからか。
「安心しろ、言ってないから。」
少年の手を振り切るように背を向けて、香藤は足早に歩き出した。




**7**

美和子の家の門をくぐる。
美和子は、もう起きているらしい。
庭の隅、家の壁が死角となって目立たぬところに、物干し台の端だけが覗いている。洗濯物が何枚か、ハタハタと風に揺れていた。見慣れた香藤自身のTシャツが、その中にあった。
「おかえりなさい。」
美和子は昼の用意をしていた。
「簡単にお素麺。それでいいかしら。」
「うん、ありがと。」
キッチンのテーブルに向かい合って、素麺を啜った。それから美和子は後片付けを始める。後姿を、椅子に座ったまま、香藤の目が追いかけた。
美和子は、今日もワンピースを着ている。淡い水色の、シンプルで着易そうな一枚だ。長い髪を、襟足でゆるく留めている。剥き出しの肩に、小窓からの光が当たり、産毛を金色に照らしている。
「何よ、さっきから。」
振り返り、美和子が微笑った。
「え、…何?」
「ずっと、子供みたいに目で追って。」
「そっか…。」
「物欲しそうな目で?」
「……そんな目、してましたか。」
「どうでしょう。」
くすくすと、美和子が香藤の頬に触れる。水仕事の後の指は冷たく、気持ち良かった。
「ちょっと、考えてた。」
「そう。」
「例えば十五年後に会ったら、分かるかなって。」
「……。」
「どう思う?」
「分からなくて、いいわ。」
「それは、分からないってこと?」
「そうね。…ちょっと違うかしら。洋二くんは、きっとすごく変わってるでしょう。分かるかもしれないし、分からないかもしれない。でも、私には絶対に気付かないはずよ。」
「俺って記憶力悪そう?」
「そんなことじゃないの。十五年後じゃ、私、れっきとしたおばさんよ。気付いて欲しくなんかないの。だから、そんな未来のこと、考える必要ないわ。」
「…今を楽しめばいい?」
「その通りよ。」
美和子の手に引かれ、ベッドになだれ込む。
白い肌からは、香水石鹸の匂いと、僅かに汗の匂いがした。乳房には、昨日つけた痕が、まだ赤く残っている。見えないところなら構わないと、美和子が言ったのだった。
その、小さな痕跡が、香藤を興奮させた。
「だめ…、」
と発される言葉も聞かず、首筋に喰らいつき、たわわな乳房を鷲掴む。
美和子があえかな声を上げた。
最初の時よりずっと丹念に、執拗に、香藤は唇で白い肌を辿った。辿りながら、別の感触を思い起こそうとしていた。…いや、その感触は知らないはずだ。
すべらかな太腿を、少々強引に割り開いた。そこにも、強く吸い痕を残す。びくり、と腿が痙攣した。思わず噛み付きそうになり、寸でのところで押し留まる。
指先を湿ったところに這わせ、擦り上げた。美和子の喘ぎが喉に絡む。汗の匂いが濃くなった。
指を進めると、ねっとりと温かい、圧迫感に包み込まれる。
丸い胸の間に浮いた汗を、香藤の舌が舐め取った。舌先に感じる微かな塩辛さが、頭の中で、額から頬、顎先へと伝い落ちる透明な雫にすり替わってゆく。あの、茫洋と宙を見詰める黒い瞳が、ゆっくりとこちらを振り返る…。
その場面をなぞった瞬間、局所が痛いほどに張り詰めた。
「くっ…そ…、」
香藤はバサバサと頭を振った。
指を引き抜くと、美和子の体が小さく跳ねた。黒い瞳が、もの問いたげにこちらを窺っている。
違う。それは美和子の瞳ではない。
吸い痕の付いた太腿を肩に担ぎ上げた。細い足が、痛々しく闇を蹴る。大きな手が、その足を掴んで、自由を奪った。あの手は、誰の手だ。…俺の手ではないのか?
黒い瞳が、恐怖に瞠られている。肌は緊張で強張っている。
ダメだ! そんなことがしたいんじゃない。
もっと優しく。怯えさせたりなどしないように。
ゆっくりと背を撫でさすって。強張りが解けるまで。
……ふくりとした唇は、柔らかいだろうか。
肌は、どんな感触だろう。
耳に触れる声は? 吐息は?
中は、気が遠くなるほどキツくて熱い…。
「ああっ…!」
上がった艶声に、香藤の体が硬直した。
数呼吸、荒く息を吐いてから、潜り込ませた先端をずいと引き抜く。
美和子が小さく呻いた。
その裸身を半ば押し退けるようにして、香藤は寝室を飛び出した。


トイレで始末を終えると、香藤は風呂場に立ち寄って、棚からバスタオルを拝借した。垂れ下がったそこが、情けなくて仕方ない。
美和子は、スリップ一枚でベッドに腰掛け、脚を組んで煙草をくゆらしていた。ちらり、と視線を流してきたが、何も言いはしない。
ベッドサイドの小さなテーブルに、煙草とマッチと灰皿が載っていた。香藤は断りもなく煙草を一本抜き取り、片手で器用にマッチを擦った。高校の頃、そんな他愛もない遊びが仲間内で流行り、何度も練習したのだ。
美和子と並んでベッドに腰掛け、二人の間に灰皿を置く。
煙草が全て灰になるまで、どちらも口を利かなかった。
その沈黙の数分間が、香藤を随分と落ち着かせた。
先に吸い終えた美和子が、吸殻をもみ消しながら口を開いた。
「うちの旦那さん、ね。」少しおどけた様な口調だ。「真面目一方の技師なのよ。だからかしら、結婚した時、ほとんど女性経験がなかったみたい。あっちの方も、当然てんでダメ。」
だから気にするな、と慰めてくれているのだろうか。
だが、香藤が狼狽したのは、出来なかったからではない。
なぜ出来なかったか…その原因の方だった。
「じゃあ、美和子さんがリードしたんだ。」
「私だって玄人さんじゃないもの。でも、努力はしたわよ。だって、一緒に暮らしてゆく相手でしょ。堅物で、割りに気位の高い人だから、色々と気を遣いもした。それが、癇に障ったみたい。」
「そんな…、」
「商売女の真似はやめろ、とまで言われたことがある。結局、そりが合わなかったってことなのね。転属の話しが出た時も、一言の相談もなく単身赴任を決めて、さっさと行ってしまったわ。きっと清清したでしょうね。」
「酷いな。」
「あら、お互い嫌々顔を突き合わしているよりも、そっちの方がまだましよ。帰ってくるのはお正月休みの時だけ。」
「…お盆は?」
もうすぐ、その時期になる。
「隣の市に、彼の母親が独りで住んでいるの。きっとお義母さまのところへは、帰っているんじゃないかしら。」
美和子は脚を組み替え、香藤の方に少し身を寄せた。
「だからね、私にとって、気持ち好く抱き合うことは、心が通じ合うことと同じくらい、幸せなの。失敗したとかしないとか、そんなの関係ない。」
「…ありがと。」
「独り言よ。」
美和子はベッドから腰を上げた。
「今日もお店があるけど、明日はお休みなの。お天気なら、どこかへ出かけましょうよ。」
「うん。いいね。」
「夜には、町内で小さなお祭りがあるし。神社の境内や参道に夜店がたくさん立つの。でも、洋二くんには退屈かしら?」
「そんなことない。」
シャワーを浴びにゆく美和子の背に、香藤は答えを返した。




**8**

市民スポーツセンターは、通常午後6時に閉館する。
その後の出入りには脇の通用口を用いるわけだが、内側から施錠されているので、手引きする者でもない限り、侵入するには難がある。
というわけで、夕方のうちに、香藤は館内に忍び込んでいた。
いや、その表現は正確でない。堂々と館内に入り、けれど閉館時間になっても出て行かなかったのである。
幸いなことに、香藤の潜む用具倉庫は運動場と同じく1階にあり、剣道合宿の面々が寝泊りするのは2階にいくつかある研修室だった。
今、時計の針は10時10分を指している。岩城少年の言によれば、9時半消灯とのこと。皆が寝静まるまでには間があろうが、1階まで降りてくることもないだろう。
膨らんだリュックを抱え、そろりそろりと香藤は用具倉庫を抜け出した。
1階には、他にロッカールームがあり、シャワーが備え付けられているところまでは、事前にチェック済みだ。ボイラーは落とされただろうが、ぬるま湯くらいは出るに違いない。まあ、最悪水でも浴びないよりはましだ。
洗ってもらった服一式と失敬してきたタオルをリュックから出し、格子状に仕切られた棚に置く。
美和子には書置きすら残さなかったが、許してくれるだろう。
タオル一枚盗んだ男。そんな記憶も、すぐに薄れ、忘れられる。それでよかった。
電気は点けられないが、用具倉庫にあった懐中電灯が役立った。シャワールームまで入ってしまえば窓がないので、光が漏れぬよう覆っていたシャツを外す。
シャワーは最初のうち温いくらいだったが、最後には水になった。冷水に間断なく肌を打たれ、全身が粟立つ。シャンプーなどと贅沢は言っていられない。頭からシャワーを浴び、さっぱりしただけで儲けものだ。なにしろ閉め切った用具倉庫は暑く、蒸せて、臭かった。それでも布団代わりのマットがある分、ねぐらとしては悪くない。
タオルで体を拭き、ロッカールームへ戻る。夜間に守衛がいるかどうか知らないが、こういう施設ならば、いておかしくない。とにかく、誰かに見咎められないうちに、手早く服を着てしまおう。
そう考え、アンダーウェアに手を伸ばしたところで。
ロッカールームの扉がカチャリと音を立て、開いた。
「……ッッ!」
香藤の手から下着が落ちる。
懐中電灯の明かりに照らし出されていたのは、パジャマ姿の岩城少年だった。
「お願い、騒がないでっ。俺、香藤だから。」
声を上げ掛けた少年の口を咄嗟に塞ぎ、後ろ手でドアを閉じる。そうしてから、まずい、と気付いた。
抱き込んだ薄い背中が、瘧に罹ったように震えている。
昨日の今日だ。同じくらいの背格好の男に、暗がりの中で押さえつけられ、口を塞がれていたのは。
「ごめん、何もしないから。手、離すから。出来たら大声出さないで。」
香藤はゆっくりと手を退いた。入れ違いに、岩城少年の手が、震えを押さえるように口を覆う。
「ごめんね。濡らしちゃって。」
香藤の髪から落ちた雫が、パジャマの肩辺りに大きく染みを作っていた。少年は口元を押さえたまま、目を瞑り、吐き気を飲み込むようにして、かぶりを振った。
香藤がおろおろと見守る中で、何度も息を吸い込み、呼吸を整え、ようやく目を開く。
その目が香藤の顔を確認し、次いで下へと落ちた。
「わ…っ!」
自分の格好を思い出し、香藤は慌てて服を着込む。着終えた時には、岩城少年もどうにか通常の状態まで回復していた。
「あの、えっと…岩城くん、なんでここに来たの?」
どちらがどちらに発するべきか首を捻りたくなるような質問を、香藤が口にした。
「……忘れ物。」
答えたことで、思い出したらしい。少年が棚のいくつかを手探りする。香藤は懐中電灯をそちらに向けた。
手が掴み上げたのは、小さな守り袋だった。
「お守り、だよね。」
「…母さんが、持たせてくれたんだ。昨日の夜から、ずっと身に着けていたはずなのに、なくなっていたから…、」
昨日の夜から。
あの事があってから。
母親から渡されたお守りをずっと身に着けていた、という言葉が、香藤を堪らない気持ちにさせた。
お守りを握って、眠ろうとしたのかもしれない。
そして枕元でないことに気付いて。あれこれ考えて、ここまで探しに来たのだろうか。
「良かったね、見付かって。」
そう言葉を掛けると、少年の目が真っ直ぐに見上げてきた。
「香藤さんは、どうしてここにいるの。」
「えっ、俺は、その…知り合いの家を出て来ちゃって。貧乏旅行の最中だから、他に泊まる所がなくって。」
アハハハハ…笑って誤魔化すしかない。
「でも、ここにずっとは泊まれないよ。」
「うん。今夜一晩だけ。…他の人にはナイショな。」


岩城少年が2階への階段を上ってゆくのを見送り、香藤は用具倉庫へ戻った。
内側はほぼ密閉状態だが、壁の高いところに通気用の小窓がいくつかある。
ままよ、と跳び箱を踏み台に、それらを開け放った。空気がすっと流れ込む。濃紺の夜天には、四分の三の月が架かっていた。センターの周りに配された常夜灯と相まって、周囲の物の形がはっきりと見分けられるくらいには、夜目が利いた。
運動マットを2枚重ねに敷き、丸めたパーカーを枕にして横たわる。
こちらの世界に来て(というのが香藤の感覚だ)2日目が終わろうとしている。
戸惑いというものは、不思議とあまり感じなかった。
むしろ、あっと言う間に過ぎた気がする。そして勿論、終わりはやってくるのだ。
「ホント、どうする気だよ、俺…。」
突き詰めて考えると、頭を抱えて喚きたくなる。香藤とて、心臓に毛が生えているわけでも、モラルを端からゴミ箱行きにしているわけでもないのだ。
そうして輾転反側しているさなかに、聴覚が、廊下をこちらに近付いてくる足音を捉えた。
…まさか、守衛?!
跳ね起きて身構えるが、その危惧はすぐ打ち消された。
軽い、足音だった。しかもペタリペタリと裸足で床を踏んでいるようなのだ。
足音の主が誰かは、分かるような気がした。
ギギッと音を立て、倉庫の扉が30センチほど横に滑る。
開いた隙間から、小さな体がするりと入り込んだ。腕に、夏掛けを抱えている。
「扉は、ちゃんと閉めてくれよ、少年。」
軽い自嘲を噛み砕いて、香藤は小さな侵入者を請じ入れた。
―――俺が運命と言い、あいつが運命と応じたのだ。
だったら、受け入れるしかないよな?
「どうしたの。眠れない?」
「……。」
岩城少年は突っ立ったまま、マットに座る香藤を見下ろしている。もしかしたら、なぜこんな行動に出たのか、自身にも理解し切れないでいるのかもしれない。
香藤は「ほら、」と両腕を広げ、招き寄せる真似をした。
おずおずと、少年が隣に腰を下ろす。白っぽい生地にチェックの入った襟付きのパジャマを着ていた。抱き寄せると、さらりと良い手触りがする。少年の体にわずかな緊張が走るのが分かったが、そのまま二人、倒れるように横になった。
猫の仔でも撫でるみたいに、強張った背中に優しく手の平を当て、ゆっくりと撫でさすった。指に、背骨の節々が感じられる。髪にはまったく癖がなく、つるつるサラサラだった。そこに鼻先を埋める。好い匂いが鼻腔に広がった。
撫でているうちに、段々と、少年の体がやわらかく弛緩してゆく。ほぅ…と吐かれた息が香藤の首筋をくすぐった。無意識に、少年が体をすり付けてくる。
「ん? もしかしてホームシック?」
白い額に掛かる前髪を掬い上げ、香藤は甘い声で尋ねた。
「……。」
「違う?」
答える代わりに、少年は香藤のTシャツの胸の辺りをキュッと握った。そして間もなく、とろとろと瞼が重そうに開け閉てを繰り返す。
「安心して寝ていいよ。俺が、こうして守っているからね。」
その囁きは、果たして届いたのだろうか。少年の唇からは、微かな寝息が漏れ出していた。




**9**

三日目の朝。
岩城少年はまだ早いうちに、そそくさと倉庫を後にした。
6時の起床時間の前にちゃんと寝床に戻っておかなければ、姿が見えない、と同室の少年たちに騒がれる恐れがある。
香藤は香藤で、寝起きの下半身がヤバイことになっていたので、慌しく立ち去ってくれたのは、却ってありがたかった。
合宿は今日が最終稽古日で、明朝には解散、帰宅。そして今夜は特別に、9時まで外出が認められているそうだ。町内の夏祭りに行ってよし、との計らいだった。
そんな情報を、岩城少年は口早に残していった。
だから一緒に行こう、と素直に誘わないところが、あの意地っ張りな少年らしくて微笑ましい。
「大丈夫だったよな、俺。」
香藤は自分の右手、昨夜小さな背中を撫でさすった手を見下ろし、呟いた。
あの子を、怖がらせたりしなかった。
優しく触れてあげられた。
ちょっとおかしな気分になりはしたけど、それを表に出さずにいられた。
自分の欲望に、引き摺られることがなかった。
「……よかった…。」
しみじみと、そう思った。
そう、良かったのだ。そこまでは。
「………。」
視線を右手から、下方へと移動させる。服の上からでも、明らかに、異様を呈しているのが見て取れる。
「……体って、ホント正直。」
そろりそろりと、香藤は右手をズボン中に潜り込ませた。


剣道合宿の少年少女たちが神社の境内に現れたのは、午後7時を回った頃だった。人数は様々だが、皆グループを作っている。当然ながら、こういう場所ではグループ行動が原則だった。
岩城少年は、男女混成の一行の中にいた。仕切っているは、昨日、打ち合い稽古の後に傍に寄ってきた年長の少女らしかった。彼女は岩城少年の横に並び、オーバーアクションで頻りと話し掛けている。少年の方は、どこか上の空だった。
太鼓やお囃子の音が、時に遠く、時に近く流れてくる。
香藤は少し距離を置き、一行の後を追った。
グループ行動でありがちなのが、最初多人数でも、時間を経て、或いは移動するに従い、細分化されてゆくことだ。岩城少年の一行も、7人が3人と4人に分かれ、4人が、更に二人づつに引き離されようとしていた。
先を行く二人に、なんとなしの風情で付いて歩く岩城少年を、年長の少女が呼び止めた。進行方向とは逆の場所にある夜店を指差し、行ってみようと誘う。少年は困惑げに前を行く二人を目で探した。その姿は、人ごみの中に紛れようとしている。
「ね、行こうよ、岩城くん。」
「でも…、」
少女が強引に少年の手を引こうとした、その瞬間。
「あっ、ごめん。」
香藤は通行人のふりで彼らにぶつかった。そのまま擦れ違う。
背後で、岩城少年がこう話すのが聞こえた。
「あの、俺、少し気分が悪いから、先に帰ります。」
「えっ、大丈夫なの? 一緒に帰ろうか?」
「平気です。失礼します。」
香藤は振り向きもせず、二人のいる場所から遠ざかった。


縁日の夜店の定番といったら、綿菓子とヨーヨーと金魚すくい。そしてなぜか、お面だった。
高い棒に差し渡した何本かの紐に、様々なキャラクターのお面が、所狭しと掛けられている。
「あ、あった。」
見上げながら、香藤は言った。
「おじさん、あれ。セブンじゃなくて、ウルトラマンの方。」
取ってもらったお面を手に、そうか、この時代にもウルトラマンのお面はあるんだな、と奇妙な感慨に浸る。
「ほら、やる。」
香藤の姿を見つけて駆け寄ってきた少年の頭に、買ったばかりのお面を乗せた。
「…何、これ。」
「知らないの? ウルトラマンのお面。」
言いながら、少年の手を掬い取り、歩き出した。
「それは分かるけど、こんな子供っぽいもの…、」
「でも、役に立つよ。」
「これが?」
「例えば、」
香藤はそのお面を無理矢理少年の顔に被せた。少年が嫌がって外そうとするのを押し留め、すぐ横の店先を視線で示す。
「……。」
「…ね?」
彼らは素知らぬふりでその店先を通り過ぎた。合宿仲間の少年たちは気付きもせず、金魚すくいに興じている。
くすくすと、岩城少年が笑う。その快い気配が、繋いだ手を通して伝わってくる。
「ね、どこ行きたい?」
「どこでもいい。…みんながいない所。」
「うん。」
しばらく歩くと、比較的人の少ない一角に行き当たった。何より、辺りに子供の姿がほとんどない。
飛び飛びに構えられているのも、矢場や射的など、どちらかと言えば大人向けの店ばかりだ。
木々の枝伝いに吊り下げられた提灯の派手な色が、却ってうら寂しい感じを募らせている。
岩城少年がお面を脱ぎ去った。ここでなら、見付かる心配はないだろう。
額に汗が浮いていた。あんなものを被りどおしで、暑苦しかったに違いない。
香藤は指を伸ばし、優しく拭ってやる。
「カキ氷屋さんでもあれば良かったのにね。」
「別に、大丈夫。」
少年は首を振って、香藤の指から身を退いた。
「そう…。」
指先を濡らす汗ごと、手を握りこむ。
触れたがっている自分に、香藤は苦笑をこぼした。
「この辺、見て回ろうか。」
促すと、岩城少年は黙って付いてきた。二人並んで、幾つかの店をひやかす。
「あ、これいいかも。」
他の射的の店では、煙草やミニチュアボトルなど、大人の喜びそうな景品ばかり並んでいたが、ここには、子供向けの品々も置かれている。
百円玉を何枚か払い、おもちゃのライフルもどきを受け取った。銃口に、弾丸に見立てたコルクの栓を詰め込む。引鉄を引くと、空気圧でコルク栓が飛び出す仕掛けだ。
「やってみる?」
「いい。」
否定の『いい』だった。
「じゃ、どれがいい? どれでも獲ってあげるよ。」
「お、兄チャン大きく出たね。」
店のおやじが茶々を入れる。
「子供の時から、こういうの得意だったんだ。」
もう一度どれがいいか尋ねると、少年はあれ、とオペラグラスを指差した。
「よおし、見てろよ。」
コルク栓の弾は、6発あった。
そのうちの5発までが、あさっての方向に飛び出し、奥に張られた紅白の幕を揺らした。
「なんだよこれ、全然まっすぐ飛ばないじゃん!」
「兄チャン、自分の腕を弾のせいにしちゃいけないよ。」
香藤の文句は軽くいなされた。
仕方なく、最後の弾を摘み上げる。
銃口に詰める前に、手の平で転がしてみた。
なるほど…。
指先で探ると、コルクには、小さな錘のような物が埋め込まれているのが分かる。それも、重心を外れたところに。
思い通りに飛ばないはずだ。
香藤が横目で見遣ると、おやじはニヤニヤ笑っていた。
「…やってやる!」
憤然と、香藤は最後の弾を詰め込み、カウンターに肘をついて狙いを定めた。
パシュッ、と小気味の良い音。続いて雛壇の上に景品が倒れる鈍い音がした。
「………あちゃ…。」
射止めたのは、オペラグラスとは程遠い、デフォルメされたうさぎの置物だった。
しかも、二体一対である。片方が蝶ネクタイをして、もう一方が花束を持っているからには、雌雄一対なのだろう。
しかし、こんなもの…。
「ごめんっ。」
香藤は岩城少年に謝った。
「オペラグラスが、うさぎに化けちゃったよ〜。」
「ううん、ありがとう。」
差し出された景品を、けれど少年はうれしそうに受け取った。


境内の裏に広がる疎らな林の中を、二人はそぞろ歩いていた。
空に浮かぶ月と、境内を照らす灯篭から漏れ来る光のおかげで、足許に迷わぬくらいの仄明るさが得られている。
祭りの喧噪は、薄膜一枚に濾過されたかのように、どこか別世界の出来事めいて遠く感じられた。替わりに、虫の音が、夜気を小さく震わせている。
門限の9時に遅れぬよう送り届けるならば、8時半にはここを離れなければならない。スポーツセンターまでは、少し距離があった。
「あっ、」
岩城少年が木の根に足を取られ、つまずいた。
香藤は咄嗟にその肘を掴む。転ぶことはどうにか免れた。
「暗いからね。」
言って、香藤は少年の手を引き、いざなうように、再びゆっくりと歩き出す。
繋いだ手は暖かく、吸い付くようにしっとりとしていた。
痛くないぎりぎりの強さで、香藤はその手を握り締めた。
すると、岩城少年も同じ強さで握り返してくる。
何か狂おしいものが、香藤の中で唸りをあげた。
胃の腑の底で渦巻くそれを、宥めるように息をゆっくりと深く吸い込む。
「例えば、十五年後にさ。」なるべく軽い感じに聞こえるよう心掛けて、香藤は言った。「もしまた会えたとしたら…俺がわかるかな。」
「うん。」
それはほとんど即答だった。
「なぜ。」
「すごく目立つから。」
「髪の色、とか?」
「それもあるけど…でもそうじゃない。なんだろう…、……特別なんだ。だから、すぐにわかる。」
「でも、すごく変わっているかもしれないよ。」
その可能性について推し量るように、少年の視線は暫し宙に放たれ、そしてまた香藤を見上げた。
「この何日か、気が付くと香藤さんがいた。別に探していたわけでもないのに、気が付くと目の前にいたんだ。だから、次に会う時も、気が付いたら目の前にいて、あ、香藤さんだってわかると思う。」
「そうか…。」
「でも、香藤さんには俺がわからないかもしれないね。」
そんなこと、あるはずがない。
香藤は胸の中で答えた。
声に出せば、違うことまで言ってしまいたくなる。だから、まったく別のことを口にした。
「…そろそろ、帰らないとね。」
時間的には、まだいくらか余裕があったが、自制心の方も同様とは言い切れない。
そんな香藤の危惧とは裏腹に、答えをはぐらかされたと感じたのか、岩城少年が繋いだ手をきゅっと引っ張り、足を止める。
見上げてくるもの問いたげな目に、香藤はもはや苦笑を返すしかない。
しかも、苦味の成分が相当に色濃い苦笑を…。
聡い少年は、香藤の表情に何かを読み取ったのかもしれない。帰ろうか、と再び促すと、素直に頷いた。とぼとぼといった足取りで後に付いてくる。
「香藤さん、今夜はどうするの。…またセンターに泊まるの?」
その問い掛けは、聞きようによって、『まだ一緒にいたい』とも受け取れる。
香藤は固く目を瞑ってから、答えるべく口を開いた。
「いや。俺は…、」
続く言葉が舌に張り付き、どうしても押し出せない。
俺は。
本当は、どうしたい。
答えは二つに一つだろ?
「……香藤さん?」
驚き、目を瞠る少年の腕を、香藤は力強く引き寄せた。




**10**

公園に続く暗くて狭い路を、彼らは走っていた。
ときおり擦れ違う人が、何事か、と振り返るその脇を、速度を落とさずに走り抜ける。
香藤の背で、すかすかのリュックが絶えず弾んでいた。
右手にしっかりと岩城少年の手首を掴み、決して放そうとはしなかった。
手の中で、ドクドクと少年の脈拍が刻まれているのだ。
これ以上にないリアルさだった。
最初は驚き、どうしたことかと声を掛けてきた少年だったが、今は切れ切れに息を吐きながら、どうにか香藤の足についてきている。
途中、お面を落とした際に、少年は拾おうとしたのだが、手首をがっしりと掴む香藤が足を緩めないものだから、地面にポツンと落ちたそれは見る間に遠ざかっていった。少年は、二度三度振り返り、諦めたように前を向く。残されたうさぎの置物を、尚更しっかりと抱え込んだ。
例によって、日没後の公園に人影はない。
センターに用がある者は、わざわざ公園を経由する遠回りなどせず、センター裏門に続く近道を使う。だから、合宿関係者も滅多に公園の方へは足を伸ばさない。子供が遊ぶ時間帯を除けば、ほぼ無人なのだった。
「わっ…!」
岩城少年をひょいと横抱きに抱え上げ、何度も飛び越した植え込みを、香藤はこの度も楽々と飛び越えた。
着地し、公園内を尚も走る。
「精霊っ!」
夜空へ向け、大声で呼ばわった。
すると、中空にぼんやりとした光りの輪が突如として現れた。
「……!!」
香藤が驚き足を止めたのは、その光の輪ゆえではなかった。
腕の中で、岩城少年がぐったりと意識を失っている。
「ど…して?!」
狼狽しながらも、近くのベンチに少年を横たえた。名を呼び、揺すぶっても目を開こうとしない。
「―――無茶を為されましたな。」
「てめぇの仕業かッ…!」
振り返ると、案の定精霊が立っていた。
「滅相な。ただ、結界に触れた衝撃で、昏倒されたのでしょう。」
「つまりはてめぇのせいだろうが!」
「この場合、不用意にこの方を結界内へと引き込んだ、ご主人様の落ち度ではないかと。」
「…お前な、」
「心配されずとも、この結界を解けば、おいおい目を覚まされることでしょう。」
しれっと答える。
二日半ぶりに会った精霊は、相変わらず煮ても焼いても食えなかった。
「さて、では戻ると致しましょうか、ご主人様。」
「お前…この状況を目の当たりにしながら、よくそんなことが言えるな?!」
半ば脱力しつつ、香藤が食って掛かる。
「申し上げました通り、彼此の次元を繋ぐ通路を維持できるのは、今宵、月が南中するまで。ちなみに、あなた方の時間に直せば、あと2時間足らずです。」
確かに、こちら側に放り出される直前、タイムリミットについては念を押されていた。
「だからって…!」
「ご主人様は、その御方をどうされるおつもりなのでございますか。お聞かせください。」
「俺は、この子を……。」
そこで言葉を切り、自らに否定するかのようにかぶりを振る。
香藤はベンチの前に膝をつくと、岩城少年の、青白く見える頬をそっと撫でた。
「この子の事を、まだ何も知らないんだ。下の名前すら、教えてもらってない。出会ったばかりなのに。それでも確信できたのに……もう離れなくちゃならないなんて…!」
「最初からの、それが決まりでした。そして刻限に至れば、是非もなく通路は閉ざされる。」
「わかってる…!」
「差し出たことを申しました。」
精霊が、僅かに頭を下げる。
湿度を帯びたぬるい夜風が、彼らの間を通り抜けた。
香藤は敗残者のように項垂れ、拳を握って額に当てていたが、ぐっと唇を噛み込むと、迷いを振り切るように精霊を見上げた。
「もしも……もしも仮に、俺が、この子と離れたくないと言ったら?」
「具体的には。」
「この子を、…連れて行きたいと言ったら……できるのか?」
「それは、ご主人様の次なる願いと取ってよろしいのでしょうか。」
「そうだ。」
精霊は、香藤が突きつけた内容を斟酌するように瞼を閉じ、暫し後にそっと開いた。
「あなた様の運命は、本来この過去ではなく、未来に結ばれてあるべきものでございます。今、この方を無理にお連れなさらずとも、遠からずお二人は出逢われる。」
「でも、この子じゃない。」
「この方です。未来の。」
「未来の…その人を、この子と同じように好きになれるか、わからないだろ? それに、変わってしまっているかもしれない。俺が好きになったまんまじゃなくなっているかもしれない。その可能性だってあるだろう?」
「否定は致しません。」
「俺は、今のこの子を好きになったんだよ…だから、この子がいい。―――できるのか?」
「出来ぬことではございません。」
「だったら!」
「ですが、代償も小さくはないと、承知おきくださいませ。」
「代…償、」
思いもしなかった言葉を聞かされ、香藤はハッと少年の、意識のない顔を顧みた。
「この方をお連れするということは、取りも直さず肉親から、慣れ親しんだ環境から引き離し、見知らぬ世へと奪い去ることです。そして本来この方の未来に結ばれていたご主人様との縁を、すべて解き去り、結び替えるということです。この方とご主人様、お二人のあらゆる未来と、それに関わってくる事象の一切を書き換えるということです。……よろしいでしょうか?」
「…っ! それは、」
「もうあまり、猶予は残されておりません。」
「……。」
香藤は空を仰ぎ見た。
満月に少し足りない丸みを帯びた月が、まどかに光を放っていた。あれがどこまで動けば南中なのか、わからないが、迷っている暇がないことはわかる。
連れて行っても行かなくても、どちらでも後悔はする気がした。
たとえば元の時間に戻り、未来にもう一度、成長した同じ相手と出会って…同じように好きになる。
そんな都合のいいことが、本当に起こるだろうか。
「保証なんて、ないよな。」
「保証が必要ですか。」
「……保証がなくちゃできない恋なんて…。」
香藤は精霊を見返し、苦く笑った。
何の保証かを尋ねないあたり、聞くまでもなかった、ということか。
「俺、この三日でストーカーまがいや、変質者みたいなことまで経験して、あんまりいつもと違う自分だったから…ちょっとネジが外れてたかもな。…危うく誘拐犯になるとこだった。それに…、」
目を精霊から、ベンチに横たえられた少年へと移す。
「自分の未来ならともかく、この子の未来まで変えたなんて知れたら、それこそ未来の俺に無茶苦茶どつかれそうだ。」
香藤は腰に結んであった自分のパーカーを、少年の体に着せ掛け、顔を覗き込んだ。
閉ざされた目元。細く通った鼻梁。やわらかそうな唇。まだふっくらと丸みを残す頬のあたり。いとけなく愛らしい面様を形作っている細部の一つ一つを、指先で愛撫するように目でなぞる。
「ちょっと想像がつかないけど…この子…この人は、本当は俺より年上なんだよね。」
飛ばされた年数分を加算すれば、そういうことになる。
「…第二の願い、聞いてくれる?」
「急須はお持ちでしょうか。」
香藤はリュックを引っ掻き回し、ようやく内ポケットに入れっ放しのまま忘れ去られていた急須を探り当てた。
「これ?」
手の平に乗せ、前に差し出す。
月と、精霊のネズミの耳と、カボチャを模した急須とが、香藤の視界の中で段違いに並んだ。
「なんか…こうして見ると、シンデレラみたいだな。カボチャの馬車に、ネズミの馬。12時の鐘が鳴って、魔法は解ける。」
「生憎と、ガラスの靴は取り揃えてございません。」
精霊がそんな冗談を飛ばす。
誰が履くんだよ、と香藤が返した。
「それでは、次なる望みをお聞かせくださいませ、ご主人様。」
「忘れさせてくれ。こっちに来てからのこと、全部。」
「よろしいのですか。」
「後悔したくないんだ。…運命の相手に出会った時に、やっぱりあっちにしておいた方が良かった、なんて後悔は、絶対にしたくない。」
「承知致しました。」
「第三の願い。この子にも忘れさせてくれ。…できるか?」
「造作もないことでございます。」
「そ、か…よかった。」
そう口にしたものの、よかった、という表情からは随分と遠い。
「納得がゆかれましたならば、そろそろ。」
「…でも、この子をこのままにしてはおけないよ。」
幼い少年を夜の公園に置き去りにするなど、事情の如何に拘らず、道義的に許されることではない。
「結界さえ消えれば、程なく気付かれます。また、辺りに不穏な気配は露ほども窺えません。当夜、この方が危害を加えられる虞れは一切ございませんが…なんでしたら、この身が保証致しましょうか?」
「…いや。信じるよ。」
香藤はようやくベンチの前で立ち上がり、けれどすぐには立ち去りかねて、少年を見下ろしていた。
そして、ある物に目が留まる。
「…ガラスの靴は、必要ないよね。」
少年の胸に抱き込まれたうさぎの置物は、無かった事として処理される記憶を構成する、小さなピースであるはずだ。ならば取り去っておいた方が、後々矛盾も生じないだろう。
けれど、それは意識を失って尚、しっかりと両手に握られている。無理矢理取り上げるのは、なんだか可哀想な気がした。
「ま、子供の頃のおもちゃとか、知らないうちに無くなっちゃうもんだしね。俺も、おもちゃやゲームなんか、どこへやったか憶えてないし。…これだって、いつまでも残ってやしないか。」
きっと何年もしないうちに、どこかへ紛れて忘れ去られるに違いなかった。
「ねぇ…こんどは未来で、俺を見付けてよ。さっき言ったよね、俺がすぐにわかるって。気が付いたら目の前にいるから、わかるんだって。そんな風に、俺を見付けてよ。…待っているから。」
おそるおそる指を伸ばし、香藤は初めて、その幼い唇に触れた。
「忘れてしまっても、ずっと待ってるから。」
キスは、こんど出会った、その時に。




**11**

香藤はどかりとベンチに腰を下ろし、ほっと息をついた。
しばし虚脱しながら、ベンチの背に頭を凭れて、程よい緑陰を差し掛ける木々の梢の、所々で陽の光に縁取られた葉裏に目をやった。
何かを、忘れている気がする。
無意識に、手をポケットに入れて、ハッとした。
「急須が…、」
遠藤から貰ったばかりの急須がない。
確かに、カーゴパンツのポケットに入れたはずなのに。
「…えっ、」
それどころか、腰に結んでいたパーカーも、見当たらない。
「えぇ?! なんでっ…どこで落としたんだろう…さっき自販機に寄った時かな…。」
思い出そうとしてみても、記憶は曖昧だ。
「あ〜〜〜モヤモヤして、なんかヤな感じ!」
とは言うものの、来た道を戻ってパーカーを(ついでに急須も)探す気にはなれない。
フリマなんて、と甘く見ていたが、予想外にハードで、もうクタクタだった。
「ま…いっか。」
自己申告しなければバレないし、遠藤も急須のことなど訊いてはこないだろう。
香藤にしたって、なくしてどうという物ではない。
ちょっとした不注意。それで片付けてしまおう。
とにかく疲れていて、これ以上何かをする気が起きなかった。


「香藤!」
4限の講義が定時に終わり、教室を出たところで、香藤は呼び止められた。
ちょうど隣の教室から吐き出された人波の中に遠藤がいて、こちらに近付いてくる。
「先輩、どうも。」
ぺこりと頭を下げた、その目の前に、
「ほら、これ。」
名刺が一枚、差し出された。
「なんすか、これ。」
「約束の。誕生日に間に合って良かったよ。」
確かに今日が香藤の誕生日だ。
「バイトの、連絡先だ。…割りはいいが、ちょっとヤバめではある。」
名刺には、『STプロデュース』とある。
肩書きは、『制作担当・チーフ』
「これって、どういう会社なんですか。」
「AV。」
端的な答えに、流石の香藤も二の句が継げなかった。
「一応、顔と名前は出さない、本番は入れない、と約束は取り付けてある。それにバイト代の基本線も。最初はその他大勢のひとりってことで、そんなに破格とは言えないが、あとはお前の働きと交渉次第だな。ちなみに、バイト代は時給ではなく、本数換算だ。一本撮って、いくら。…質問は?」
「ええと…、」
「香藤の写真を見せたら、向こうは大乗り気だったけど、もちろん気が進まないなら断っていい。興味があるなら、そっちの携帯番号の方に直接掛けて、詳しい話を聞かせてもらえ。時間は、何時でも構わないそうだ。」
「…ありがとうございます。」
「まあ、がんばれよ。」
軽く肩を叩き、遠藤が去ってゆく。
香藤は廊下に佇んだまま、呆然と窓の外に目をやった。
頭の中では、様々なものが去来している。
空は高く、どこまでも見通せそうに青かった。
香藤洋二。本日もって19才。
まだ何ものとも知れぬ未来が、彼の前途に茫漠と広がっていた。




2006/05/28

エイリ



パラレルの春抱きですねv
しかも岩城少年(^.^)・・・可愛いでしょうねえ
20歳前の香藤くんにも会ってみたいものです〜はぅv
現実とは違う年齢設定もすごく新鮮でした
香藤くん、これから貴方は素敵な人と出会うんだね・・・・v

エイリさん、素敵ななお話ありがとうございますv