水無月 〜反語〜
ゆったりと炎が揺らめく。 特別な日だけ灯の点される蝋燭が、久し振りの出番を喜んでいるように穏やかにその炎を揺らしていた。 そして、その蝋燭を載せている、よく磨き込まれた燭台の置かれたダイニングテーブルには、その蝋燭に相応しい特別な料理が並べられている。 蝋燭の温かな灯りに照らされながら、岩城の手になる心づくしの夕食を、香藤はその作り手と共にゆったりと楽しんでいた。 ふ…と、岩城が耳をそばだてた。 「また降ってきたな。」 「そだね。」 「…?ちょっと意外だったな。きょうが雨になって、もっと悔しがるかと思った。」 「え?何で?」 「いや、外に行けない〜とか、さ。」 「俺、言わないよ、そんなこと。だって、こうして岩城さんと一緒にいられるんだから、俺としては全く問題なし、だもん。」 「そう…なのか?お前のことだから、『折角の誕生日、岩城さんと一緒にあそこに出掛けようと思ったのに〜!』とか言うかと思ったんだけどな。」 「あはは、岩城さんたら。もう、いい加減に覚えてよ。俺にとっての最高の誕生日は、岩城さんと一緒に二人だけで1日過ごせることなんだよ。何処に出掛けるかってのは二の次なの。それに…。」 「それに?」 「俺、あんまり自分の誕生日に出掛ける予定を入れたことないと思うよ?」 「そう…か?」 「うん。だって、この時期なんだから、雨が降る可能性が高いじゃん?だから、大体二人揃ってオフにして貰って、前の夜からずっと二人だけで家の中、っていう方が多いと思うんだけど。もし仮に出掛けるとしても、多分、屋内。」 「確かに、もう梅雨に入っているこの時期は、すっきり晴れるより天気が崩れることの方が多いが…。」 「でしょ?それが分かってるんだから、わざわざ出掛けたりしないって。俺にとっては、こうして最愛の岩城さんが俺と二人だけで過ごしてくれて、俺の誕生日を祝ってくれるのが最高なの。だから、俺、今、最高に幸せ。」 「香藤…。」 リビングに場所を移し、とっておきのワインを開ける。グラスを口許に運びながら、また、岩城が言った。 「しかし、よく降るな。」 それを聞いて、グラスを手にしたままの香藤も耳を澄ませて外の様子を窺う。目を閉じてみると、控えめに流している音楽の向こうに、外界を潤す雨の音が微かに聞こえた。その音に身を委ねるように瞼を閉じたままで、静かに言う。 「そうだね、今年は結構降ってるよね。」 そうして、二人はまた無言でグラスを傾け続ける。 微かに触れ合う距離に、温もりを感じ合える距離に最愛の相手がいる、という満足感を噛み締めながら。温かな静寂に満ちた室内に、静かに降り続く雨の音が優しく訪れていた。 「『水無月』…か。空から降って来ている水がこんなに有り余るほど存在しているのをわざわざ『水無し月』と表現するとはな。そう言い出した昔の人たちの、長雨に困惑している顔が目に浮かぶようだ。」 窓の外を窺いながら岩城が口にした言葉に、くすり、と香藤が笑う。 その香藤の反応に、岩城が不思議そうな表情になった。幼ささえ感じさせるほどの素直な反応に、香藤がまた微笑む。 「岩城さん、それ、ちょっと違うと思うよ。『水無月』の元々の意味は、水が無い月ってことじゃないんだ。」 「え?そうなのか?」 「うん、違う。あのね、水の月って意味なんだよ。『水の』の『の』の意味の昔の言葉が『な』で、それに『無い』って字が当てられてるだけ。」 「それじゃ、実際にはうんざりするほど沢山水があるのを皮肉ってわざわざ水の無い月って言ってたわけじゃないのか。」 「あ…、もしかするとそういうちょっと遊び心みたいな部分もあったかも知れないし、実際にそういう俗説もあるみたいだけど、元々は素直に『水の月』って言ってるんだ。」 「そうなのか…。って、お前、なんでそんなに詳しいんだ?」 「だって、自分の誕生月だよ?やっぱり興味があるじゃん。」 「そうか。おれは…あまり自分の誕生月なんかにも愛着があるわけじゃないからな…。」 「岩城さん…。」 ほんの一瞬だけ寂しそうな表情になった岩城を優しく見やる香藤の声は、小さいが温かかった。それをちゃんと感じ取った岩城が、でも今は違うかな、という意味を込めてにこりと微笑むと、香藤も満足そうに微笑み返した。 「俺は、自分が生まれたこの月が好きだよ。だから、雨が沢山降るのも全然嫌じゃない。この雨だって、必要だから降ってるんだし。」 「必要?」 「そうだよ。だって、この時期にこうして雨が降るから、沢山の作物とか木の実とかが実れるんだし、厳しい夏を迎える前にちょっと一休みして穏やかに過ごすってのも大事だと思わない?そういうことのための雨だと、俺は思ってる。そう考えると、雨って、嫌な感じだけじゃなくなると思うよ。」 「そんなふうに考えてるなんて思いもしなかった。」 本当に意外そうな岩城の声に、香藤がくすくすと笑った。 「それに、昔の人だって、そんな大切な長雨に対して、困惑していただけじゃないんじゃないかな。きっと、何て言うんだろう、昔の人の独特の言い回しでさ、『いやぁ、参っちゃうよなぁ、こーんなに水が無いんだもんなぁ』って、本当は沢山あって嬉しいっていうのを表してるんじゃないかって思うんだよね。」 「反語的表現、か。」 「そう…言うんだっけ。ほら、百人一首にもあるじゃない、桜が綺麗で嬉しいっていう気持ちをわざわざ逆に詠ってるやつ。」 「あぁ、桜がなければ心穏やかにいられるのに、という歌だな。」 「うん、それ。それって本当は、美しい桜にこんなに心を乱されてしまうよ、って桜を称えてるでしょ。だから、『水無月』に『無い』っていう字が当てられたのも、そんな思いも入ってるかも知れないよね。」 「そう…だな。だとすると、なかなかに複雑な感情表現だよな。」 「そうだよね、ちゃんと在るのに無かったら、なんて複雑…。でも…、俺は…出来ない…。」 そう呟くと、香藤は改めて、隣に座る岩城を見つめた。最愛の人の存在を確かめるように見つめた後に、視線を動かさないままでふと眉を寄せる。 そうして眉を寄せたままで香藤が力なく浮かべた微笑は、岩城の胸に微かな痛みをもたらすような寂しげなものだった。 自分と共にいながら何故そんな表情をするのかと怪訝に思いながら岩城が香藤を見つめていると、つい…と視線を逸らした香藤が睫毛を伏せ、口許に浮かんでいた微笑みが薄らいだ。 「香藤?」 岩城が静かな声で呼びかけた。 その穏やかな声にそっと背を押されたように、香藤が小さな声で続ける。 「俺には、出来ない…。」 「何がだ?」 「そんな、複雑な表現…。沢山あって嬉しいのに『無い』って逆の言葉を使ったりするなんて…。」 「香藤…。」 視線を床に落としたままで、不意に硬くなった口調の香藤が続ける。 「俺は、絶対にそんなこと言わない。岩城さんのことを本当に本当に愛してるし、大切だし、こうして側にいてくれて嬉しくて、嬉しすぎてどうにかなっちゃいそうなくらいだけど、でも、それを『岩城さんがいなかったらきっと心は穏やかだ』なんて言い方で表現したりしない。『岩城さんがいてくれて嬉しい』としか言わない。…いなかったら…なんて、考えない…考えたくもない…。」 そう言いながら、「冬の蝉」の撮影中の事故でも思い出したのか、長い足をソファに引き上げて両膝を抱きかかえるようにして顔を埋めてしまった。 岩城は、そんな香藤の背にそっと腕を回して軽く抱き締めてやる。 暫くの間、そうやって背を丸めて縮こまってしまった香藤を抱き寄せたまま、岩城は静かな雨の音を聞いていた。 そして、肩の小さな震えが収まった頃、香藤の栗色の髪に大きな掌を当て、温もりを伝えながらそっと撫でた。 「香藤…ほら、顔を上げろ。」 岩城の声に促されるように、香藤がゆっくりと顔を上げた。 僅かに潤んでいるその明るい色の瞳に向かって、岩城は優しく微笑みかけた。両手で香藤の頬を包みこみ、親指で目尻を拭ってやる。 「俺だってそうだ。そんな小難しい言い方なんかしない。…香藤、お前がいてくれて嬉しい。こうしてお前が俺と一緒に生きていてくれることが何よりも嬉しい。…生まれてきてくれてありがとう。俺と出会ってくれてありがとう。俺を愛してくれてありがとう。」 「岩城さん…。」 「…愛してるよ。これまでも、そして、これからもずっと。」 「…うん…、…うん…。」 そして、さっき拭ってやったはずの目尻に触れている両方の親指が新たな雫に濡れるのを感じながら、岩城は胸の底から湧いてくる愛おしさの全てを込めて唇を重ねた。 2006.05 翔子 |
「岩城さんがいてくれて嬉しい」しか言わない・・・と言う
香藤くんが印象的で・・・v
穏やかに静かに・・・でも幸せに満ちた光景で心が温かくなります
瞳を潤ませる香藤くん・・・・可愛いv
後日談も読めて嬉しいです!
翔子さん、素敵なお話ありがとうございます