水無月 〜回想〜
その日、夕方から予定されていた仕事の日時が急遽変更となり、思いがけず早い時刻から身体の空いた岩城は、清水との短時間の打合せを終えた後に帰宅した。 「流石に俺の方が早かったか。」 静寂の満ちる居間の扉を開けながら小さく呟く。 外は、雨。 幾種類かの灰色に覆われた空から細い銀色の無数の線が静かな音を立てて降りてくる。そして、その無数の線が、ガラスの向こうに見える景色の輪郭を柔らかく滲ませていた。 「あいつ、傘…持ってるよ…な…。」 岩城は、窓辺に佇んでただ何となくガラスの向こうを眺めながら、ふと思い浮かんだことを口に出してみた。 そして、すぐに、この時期に傘を持たずに出掛ける筈はあるまいと思い直し、自分自身に対して苦笑いを浮かべる。 その唇の緩みが、ふと記憶の糸を手繰り寄せたらしい。雨、傘、…と思いが連なっていく。 「ただいまー。やっぱり帰ってたんだ、岩城さん。」 鍵を開ける音に続いて、明るい香藤の声が耳に飛び込んできた。岩城は、佇んでいるガラス戸の前からゆっくりと振り返った。 「あぁ。お帰り、香藤。」 最愛の相手に迎えて貰えた幸福感に微笑みながら、香藤が帰宅の挨拶のキスをねだり、そうやって最愛の相手を微笑ませてやれたことの満足感に唇を緩めて岩城がそれに応える。 「あれ?」 「ん?どうしたんだ?」 首を傾げながらしげしげと自分を見つめる香藤に、岩城が尋ねた。香藤は、僅かに上目遣いになりながら、まだ思案しているようだ。 「ん〜と、岩城さんこそ、どうかしたの?」 「何故だ?」 「だって、何だかとっても幸せそうな顔してる。」 「それは…予定より早い時間からお前と一緒にいられるからじゃないのか…。」 少々照れながら、しかし正直な思いを岩城が口にした。それを笑顔で受け止めて、だがそれでもまだ思案顔で香藤が言う。 「それは勿論だけど、う〜ん、それだけじゃなさそうなんだよね…。岩城さん、誰かと楽しい話をしたとか、何か面白いものをテレビで見たとかした?」 香藤のその言葉に、暫し思いを巡らせ、そして思い当たる原因を見つけた岩城がきれいに微笑んだ。 「あぁ…、もしかすると…。」 「え?何々?」 「雨を見ていたら、お前が傘を持っているかがふと気になって、そんなことから始まって何となく昔のことを思い出した。」 そう穏やかに話し始めた岩城の手をそっと引き、香藤は二人並んでソファに腰を下ろした。 「俺がまだ小さかった頃、兄貴が、傘を忘れた俺を迎えに来てくれたことがあったんだ。俺は小学校の1年生か2年生だったかな、靴箱の所で途方にくれていたら兄貴が現れた。」 「ホント、お兄さんって岩城さんのこと可愛がってたんだね。」 「そうだな。でもな、その時、兄貴は自分の傘しか持っていなかったんだ。俺の分まで持っていた訳じゃない。だから、その傘を差して二人で帰った。」 「相合傘じゃん。」 「馬鹿、兄弟だぞ。でもな、兄貴は俺の方にばかり差し掛けるから自分は半身が濡れてしまって。帰ってから母さんや久子さんに呆れられてたっけ。」 「自分が濡れても、絶対に岩城さんのことを濡らしたくなかったんだね。分かるなぁ、その気持ち。」 「あぁ、確かに、過保護じゃないかっていうくらいに俺に構ってくれていた。…そう言われれば、お前にちょっと似ているか。」 「う…ん、そう言われるのってちょっと複雑だね…。でも、その思い出は岩城さんにとって幸せなものなんだね。だから、さっきあんなふうに微笑んでたんだ。」 岩城はそう言われてもう一度記憶を探り、すぐに結論に達して再び微笑んだ。 「幸せ…そうなんだろうな。大事にされていたなぁ、と懐かしく思い出したよ。本当に有難いと思う。そう思えるようになった。」 「じゃ、今度、その気持ちをちゃんとお兄さんに伝えなくっちゃね。」 「そうだな。…香藤、ありがとう。」 不意にそう言われて、香藤の目が丸くなる。 「え?どしたの?何で?」 その、いつもながらに素直な反応に笑いさえ誘われながら、岩城は香藤の明るい色の髪にそっと手を置いた。 「お前がこの前してくれた雨についての話を思い出していたら、何となくそんな感じになったんだ。…そう、雨もいいかな、と思えるような優しい気持ちに。」 「岩城さん…。」 「いつもと違う目で雨を見ることができて、そうしたら、思い出したんだよ、小さかった頃のこととか、いろいろと。」 「よかったね、いい思い出が沢山あって。」 「あぁ、そうだな。」 本当に嬉しそうに、満足げに微笑む岩城を見て、香藤も同じように柔らかな表情になる。 見つめ合いながら、揃って穏やかな微笑を浮かべる二人。 その二人を外界から隠すように、穏やかで優しい雨がそっと降り続く…。 2006.05 翔子 |