蝉(空蝉)




岩城の熱が下がらなかった。

37度2分前後の微熱だが、ここ数日続いている。

最初は勿論、風邪、と考え、風邪薬を飲んで仕事をした。このくらいの微熱で仕事を休むわけにはい

かない、と言う岩城を、香藤は睨みながら、仕方なく仕事へ送り出した。

咳が出るわけではない、喉が痛いわけでもない、ただ微熱がある、ということ意外は、いたって普通だった。

5日目になって熱が下がらないときは、さすがに岩城も香藤の言うことを聞いた。

香藤の、医者へ行って、休みを取れ、という命令は、4日間は黙って見ていたのだから、言うとおり

にしろ、と、そんな声が今にも聞こえてきそうな凄みがあった。

それは、『冬の蝉』クランクアップ後、2人が自宅へ戻り、通常生活を始めて2日目からの出来事だった。




医者から、疲労、という診断を下された岩城は、それを香藤に言えば、どんなことになるか、考えな

がら、車で自宅へ戻った。

待ちかねたような香藤の顔が玄関で待っていた。

「どうだった?」

開口一番、訊いてきた香藤へ、「ちょっと・・疲れがあるみたいだな」と、出来るだけ軽い口調で岩城は答えた。

「疲れ!!!」

そう叫んで、香藤はべったりと岩城へ沿ってきた。腕を取ろうとする香藤へ、そんな、大げさなもん

じゃない、と、言ったが、香藤は既に何も聞いていなかった。

その頭には「疲労、疲労・・」と、二文字がめまぐるしく回転していた。

「じゃ、2階で寝るでしょ、何か薬とかもらった?点滴してもらったら一発なんだけど・・」

そう言いながら、岩城の体をずいずいと、2階へ押しやった。

岩城は黙って従った。

抗っても負ける、という思いもあり、また、せっかく取ったこの休みに、直さなければ、という責務

も感じていた。

寝室に入ると、すぐ服を脱がされ、パジャマに着替えさせられると、そのままベッドへ横になった。

脱いだ岩城の服を片付け、コップに水を持ってくると、「はい」と言って、岩城が病院から出された

薬剤を水と共に差し出した。

「ああ、ありがとう」と、岩城は半身を起こしコップと薬を手にした。

その様をじっと見つめていた香藤が、それ、何かな・・とボソッと口にした。

「栄養剤みたいなもんだろ」と、岩城が飲み干して、そう口にすると、さも不満げな表情になった香

藤は言った。

「おかしいなぁ・・栄養バランスなら、絶対取れてるはずなんだけどなぁ・・」

そんな香藤を見て岩城はくすっと笑い、コップを置いてベッドへ再び横になった。

香藤が上からリネンを綺麗にかけ直し、「じゃ、またお昼ご飯に起こしたげるね」と、軽く岩城の唇

へキスを落とした。

ありがとう、と小さく答えた岩城に、横になれば、睡魔はすぐに訪れた。

ものの3分もたたないうちに、岩城は眠りに落ちた。




岩城が寝たのを確認して、香藤は、岩城の行った病院へ電話をかけた。

永年の月日が、岩城の性格をしっかりと把握させていた。

岩城が本当のことを口にしていないかもしれない、という、その可能性を確かめるためにかけた電話

の向こうで、医者は、岩城の言ったとおりの、「疲労」という結果を、香藤にも伝えた。

とりあえず安心した香藤は、昼食の準備にかかった。

ただの疲労、それは、こうやって休息と十分な栄養を取れば回復する、そう2人とも考えていた。






1日の休みを、しっかりと睡眠と食事で補ったつもりの岩城だった、が、次の日、結局、熱は下がっ

ていなかった。

香藤は体温計を見ながら、起きて仕事へ行くため着替えをしている岩城を睨んだ。

「ねえ・・」と言いかけた香藤へ「だめだ」と、すげなく岩城は答えた。

「でもさぁ・・ちょっと気にならない?」

「・・・・・」

「少し顔色、よくないし・・・」

「・・・・・」

「もういっぺん、ちゃんと検査してもらったほうが、よくない?」

「・・・・そうだな、今度休みが取れたら、な」

「今度・・って・・1ヶ月くらい、先じゃん」

「ほら、行くぞ、もう」

そう言って、岩城は玄関へと足を運んだ。

しぶしぶ香藤は後をついて行きながら、それでも胸に一抹の不安を抱えていた。

昨夜、岩城は食欲もなかった。

1日寝てたからだ、と、本人は言っていたが、今朝は、寝起きも悪く、起きたときに、体が少し汗ば

んでいた。

そんな事を頭で考えていると、清水が迎えに来た。

不機嫌そうな香藤の顔をちらっと見たが、そんな事にあれこれ口を挟む清水ではなかった。

しかし、岩城の顔色には、マネージャーとして口を挟んだ。

「岩城さん、顔色、あまりよろしくないですね」

「でしょ、清水さん、清水さんもそう思うでしょ」

ここぞとばかりに、香藤がまくしたてた、岩城の昨日からの状態を。

「そうですか・・・どうしましょう、もう1日、休まれますか?岩城さん」

「いえ、そんな、香藤がオーバーに言っているだけですから」

「そんなことないって!!本当に」

「こらっ!!もう、いい加減にしないと、本当に怒るぞ!!」

「でも、ちゃんと見てもらって」

「香藤っ!!」

「判りました!!」

見かねた清水が2人の間に割って入り、「じゃあ、今日は読み合わせだけで、午後からのポスター撮

りはキャンセルしましょう」と、続けた。

「清水さん!!」「清水さん!」

2人が同時に叫んだ声色は、真逆のトーンだった。

「いえ、いいんです。ポスター撮り、顔色が優れないときには、止めましょうね、岩城さん」

そう言われ、岩城は黙った。確かにその通りだった。

そうやって送り出された岩城は、結局、午前の仕事から、言われなくても帰宅しなければならないほ

ど、疲労していた。

家に帰り着いた岩城の顔色は、青ざめていた。





香藤は、そんな状態で帰ってきた岩城の体を、そのまま自分の車に乗せ、総合病院へと向かった。

緊急患者扱いで、半日かけて検査をしてもらい、その場ですぐに判る検査結果においては、やはり何

も異常は見られず、後は数日後の結果待ちだった。

その日、病院から帰るとベッドへ横になり、結局岩城は、その日ベッドから起き上がれなくなった。

その夜、隣のベッドに腰掛けたまま、香藤は眠っている岩城を見つめていた。

香藤の不安はピークに達していた。

もしや、何か悪い病気であったら・・・このまま岩城がいなくなるようなことがあったら・・・そん

な事を頭に抱え、しかし、岩城には笑顔で話しかけていた。自分もそうだが、岩城も不安に思ってい

る、と感じた。言葉では決してそんな事は口にしないが、香藤にはその裏にある岩城の不安を痛いほ

ど感じ取っていた。

どうすればいいのか・・・、いったいどうすれば、岩城の体が回復するのか・・・そんな事を、愛し

い者の寝顔を見つめながら、香藤は考えていた。

ふと、岩城が寝返りを打った。僅かだが、顔が向こうへ倒れた。その瞬間、何か声が聞こえた。

始めは気にもとめなかった香藤は、2度目にはっきりと、岩城が何かを口にしている、と感じ、そっ

と、岩城の顔を覗き込んだ。

「く・・・さ・か・・」

香藤の目の前で、岩城ははっきりとそう呟いた。

夢を見ている、そう思った。

『冬の蝉』の撮りがつい最近まであった。そのことの夢を見ているのだ、と、香藤は、そのとき思った。

それ以上、岩城が何も口にしないので、そのまま起こさずに、自分もベッドへ戻って、横になった。




香藤は夢を見た。

草加が夢の中で、何かを必死に訴えていた。

不思議なことに、夢の中の草加は、まさに香藤が演じた、そのままの姿だった。

まるで自分が自分に話しかけているような、奇妙な感覚の夢だった。

夢の中で、香藤が、「どうしたのさ」と、訊いてやると、また悲しそうな顔で何かを口にした。「聞

こえない」と、香藤が言うと、今度は少しはっきりとした口調で、草加が話した。

「秋月に逢いたい・・・」と。

そう言いながら、草加がそこを去ろうとするので、香藤は必死で追いかけた。

そこで目が覚めた。



目覚めた香藤は、暫くベッドの中で、ぼんやりとしていた。

今、自分が見たものは、聞いたことは、いったい・・・ただの夢、にしては、リアルだった。

ふと、何かを感じて岩城のベッドのほうを見やった。

そこに香藤は見た。

岩城の上から、その体を抱きしめている、草加の姿を。

それは、今、自分の夢で会った、草加そのものだった。

まだ夢の中に居るのか、と思った。

次第に目覚める脳が、目の前の現実を教えた。夢ではない、と。

がばっとベッドから起き上がり、岩城のベッドへと転がるように飛びつきながら、香藤は知らずに叫

んでいた。

「草加っ!!」

岩城の上の草加が、振り向いた。

そして香藤へ、ニコッと笑った。

再び、岩城へと目を向け、はっきりと香藤へも聞き取れる声で「秋月さん・・」と、さも愛しい者へ

呼びかけるごとくに、声をかけた。

そして、岩城に口付けようとした。

その2人の間へ、香藤は飛んだ。飛び乗って、「岩城さんっ!!岩城さんっ!!」と、その体をゆす

り起こした。

岩城は少しして目を開け、不思議そうな顔をして香藤を見つめると、ひと言「どうしたんだ・・?」

と、口にした。

「岩城さん・・」

香藤は、岩城が岩城であることを確認出来ると、小さな溜息をついた。

「香藤・・・いったい、どうしたって言うんだ・・?何か、夢でも見たのか?」

そう、尋ねる岩城へ、小さく首を横に振ると、僅かに笑い、うん、と香藤は返事をした。

岩城も微笑んでいた。

「こっちで寝ていい?」

香藤が訊くと、黙って岩城は横へずれてくれた。すぐにそこへと滑り込み、岩城の体をしっかりと抱

きしめて、「ごめん、起こしちゃって・・」と、小さく香藤が謝った。

そんな香藤の腕に、居心地良く収まりながら、「いいから・・寝ろ」と、岩城は返事をした。

少し目を開けて、香藤はベッドの上を見た。

もうそこには、草加の姿はなかった。





朝を迎えて熱を測ると、やはり微熱は以前、下がっていなかった。岩城を仕事へ行かせない、という

難題を、なんとか克服した香藤は、キッチンで朝食を用意していた。頭には昨夜のことが、離れなか

った。自分の見たもの、自分の姿をした、草加十馬。その草加が口にしたこと、「秋月に逢いたい」

と言っていた、訴えるような声。

「逢えてるんだろ・・・」

思わず1人、そう呟く香藤だった。

階段から足音が聞こえてきた。香藤は手にしていたトマトを置くと、小走りにダイニングを出た。岩

城がゆっくりと降りて来ていた。香藤は駆け上がり、手を貸した。

「どうしたの?起きるの?ご飯まだ出来てないけど」

「寝てばかりいると、本当に起きれなくなりそうだからな・・」

そう言って、笑顔を向ける岩城へ、「そ・・・じゃ、ソファーでゆっくりしてたらいいよ、今、野菜

ジュース作ってるから」と香藤は、同様に笑顔で答えた。

「悪いな・・」と、口にする岩城へ、何言ってんの、と、軽く受け流して、2人はドアを居間へと開

けて入った。

ソファーへ岩城を座らせ、香藤はキッチンへと姿を消した。

キッチンから軽快なゴーっという音が聞こえ、暫くすると、ジュースが運ばれてきた。

岩城へコップを渡しながら、「俺はもう、向こうで飲んだから」と、言い、岩城が飲み干すと、香藤

はコップを受け取りながら、「すぐ朝ごはん、食べれる?」と訊いた。

「ありがとう、何か、美味しいな、このジュース」と、岩城が言い、続けて、直ぐは・・ちょっと、

と、答えた。

やはり何となく元気のない岩城の隣に座って、香藤は、「じゃ、あと1時間位したら、ね!!」と言

って、コップをテーブルに置くと、岩城の体をやんわりと抱きしめて、キスをした。

えっ??と、思う間に、香藤は一旦唇を離して、「おはよう・・・のキス」と言った。

岩城は澄んだ笑顔を浮かべて「ああ・・おはよう」と、返した。

その美しい笑顔へ、再び香藤が、今度はやや深くキスを仕掛けてきた。

絡み付いてくる舌に誘われながら、岩城の腕も、自然に香藤の背に周り、抱きついていた。

何度か角度を変えた後、その唇は、名残惜しげに岩城の元を離れていった。

岩城の後ろに回した手で、ゆっくりとその背を摩りながら、「愛してる」と、香藤が呟いた。

香藤の、心地良い安心感を与えるその手の動きを感じながら「そんな事・・・朝から・・」と、岩城

は小さく口にした。

「朝も、昼も、夜も、寝てる間も、ずっと・・愛してる」

香藤の声が魔法のように岩城を満たし、体の疲れも癒されていくような、そんな気がした。

何となく照れくさい岩城は、ぼそっと「お前のその、強い愛が、俺を起きれなくしてるのかもな」と

言った。

「ええっ!!酷い!!」

即座に反応が返ってきた香藤へ、冗談だよ、と、岩城は再び、香藤のその腕の中へ、体を預けた。

その腕の中で小さく「そんなわけ・・・ないだろ」と、言い、香藤から漂う、嗅ぎ慣れた香りを大き

く吸い込んだ。

2人はしばしの間、そうやって寄り添っていた。

互いの不安は、そうやって寄り添っていることで、僅かでも薄れる、そう感じていた。




朝食を遅めにとり、暫くすると、岩城はソファーで横になった。

1人で寝室に上がるのは、寂しい気がした。香藤も、そうだと思った。

岩城の寝ている体へ、軽めにブランケットをかけ、香藤はそっと2階へ上がった。

ベッドシーツを替えようと考えていた。

ベッドメイクを終え、ついでに個々の部屋も掃除をしよう、と思った香藤は、まず岩城の部屋へ入った。

入ると、直ぐに旅行かばんが目に付いた。

撮影から帰って直ぐ、こんなことになり、1度も開けないままの状態で、それは放置されていた。

香藤は、かばんを開け、中から洗濯物、小物などを分けて出し始めた。

ほぼ空になったかばんの内側のポケットから、小さな和紙に包まれたものが出てきた。

開けることを、少し躊躇して、しかし、やはり開けてしまった。

広げると、そこから、思いもかけないものが出てきた。

それは、撮影に使った、秋月が首にかけていた子袋、だった。

そのとき、香藤は、なんともいえない感覚に襲われ、その子袋を手に、頭に描いたのは、昨夜の草加

の姿だった。

香藤は、再びそれを和紙に包み、自分の胸ポケットに仕舞った。

何故こんなものを岩城が持って帰っているのか・・・・訊かない訳にはいかなかった。





階下に降り、岩城が目覚めるのを待った。

なぜか胸がドキドキと、興奮のような、また恐怖のような、そんな奇妙な思いで、香藤は岩城の傍に

座っていた。

1時間もたたない内に、岩城は目を覚ました。

片腕をつき、起き上がろうとする岩城を助けながら、「どう?体調?」と、香藤が訊いた。

「ん・・・少し、いいかな・・」

そう答える岩城を見て、そんなことはない、と、香藤は感じた。

岩城の脳がしっかりと目覚めるのを、少し待って、香藤は切り出した。

「あのね・・・岩城さん・・勝手に旅行かばん、開けて悪かったんだけど・・・」

「え・・・ああ・・そのままになってたからな・・・」

「うん・・・でね・・・」

そう言って、香藤は胸から、先ほどの包みを出して見せた。

「これ・・・中、見ちゃったんだ」

「・・・ああ・・・それか・・」

「怒らない?」

「別に・・見られて悪いもんじゃないから・・」

そう言って、岩城は笑った。香藤は少し安心して、口調がやや元気になってきた。

「よかった!!で、何でこんなもの、持って帰ってるの?」

「いや、それは、返さなければいけないものなんだ」

「返す?誰に?」

「伊坂先生に・・」

「伊坂・・・先生?って・・・あの、冬蝉の原作者の?」

「ああ」

「ええっ!!じゃあ、これって・・・本物なの?」

「中身は抜いてあるけどな」

そう言いながら、岩城はその子袋を手にとって、じっと見つめていた。そして、香藤の手にある和紙

の上に返すと、香藤へ、言ってなかったな、と、口を開いた。

「撮影が終わりに差し掛かった頃だったかな・・・伊坂先生が、見学にいらしたんだ。そのとき、俺

に、これを差し出されて、もしよければ、使って欲しいと、言って、預けて帰られたんだ。中身はた

だの粉になってしまっているが、抜いてあるので安心して使ってくれ、と言われて・・・・・せっか

くなので使わせてもらった」

「そうだったんだ・・・先生のところに、残ってたんだ・・・・これ・・」

「ああ・・・そうらしい」

「うわっ・・・俺、そんなこと知らないから、結構、乱暴に扱ったかも・・・」

「はは・・じゃあ、お前に言ってなくて正解だったな。知ってたら、自然な演技が出来なかったかもな」

そう言って、笑う岩城へ、だけどさぁ・・・と、香藤はやや不満そうに口を開いた。

「言っててくれても良かったのに・・・」

「別に、秘密にしよう、と思ってたわけじゃない。忘れてたんだ、お前に言うのを」

でも・・・・、と香藤が小さく言いかけて止めた。

岩城が「んっ?どうした?」と訊くと、「ううん、何でもない。で、これ、返すんでしょ」と、改ま

って、岩城へ訊いてきた。

「ああ、そのつもりでいたんだが・・・」

そう言って、岩城は僅かに俯いた。そのつもりでいた、が、そう出来なかった理由は判っている。こ

ちらへ帰ってからの岩城にその暇はなかった。

「ねえ・・・これ、俺、返して来てもいい?」

岩城が「えっ」と、顔を上げると、そこにある香藤の顔が、お伺いではなく、もう決めた、と言っていた。

それもいいか、と岩城は思った。返してもらえると助かるし、また、当初のキャスト決定での成り行

きを考えれば、香藤がきちんと、伊坂に会っておくのもいいように思えた。

「そうだな、じゃ、頼めるかな・・・」

そう岩城が返事をした途端に、香藤は「じゃ、俺、返してくるから」と言って、立ち上がった。

「えっ?今から・・か?」

「うん!!こういったことは、思い立ったときに直ぐ返したほうがいいでしょ」

香藤はそう言いながら、一方では既に、携帯電話をかけ、金子に伊坂の家を訊いていた。





香藤が1人、車で訪れた伊坂の家は、ひっそりとした、しかし格式と落ち着きが感じられる、和風建

築だった。

伊坂が玄関で、「よくいらっしゃいました」と、笑顔で香藤を迎え入れてくれた。

香藤は丁寧に頭を下げて、その節は大変ご迷惑をおかけいたしました、と、神妙に挨拶を返した。

奥に通されて、伊坂と向かい合って腰を下ろすと、香藤はまず、岩城が直接、来れなかったことを詫

びた。

そして、手にしていた、子袋を取り出して、テーブルの上に出した。

「お役に立ちましたでしょうか」

と、柔かな口調でそう訊く伊坂へ、はい、と、明るく答えた。

伊坂がその子袋を手に取りながら、嬉しそうに話し始めた。

「いえね・・この子袋、以前、本が出版される折に、資料のひとつとして、写真を撮って載せたんで

す。それで、目にしていらっしゃる方も、おいでかと思い・・・老婆心ながら・・・」

そう言って、笑った。

「そうだったんですね。俺は、ちっとも知らなくて・・でも、こうやって、本物を手にしてみると、

演じた後にこう言うのも変なんですが、草加や秋月が実在していたと、改めて感じさせられました」

ほんとうに・・・・と、伊坂も感慨深げに頷いた。

そして、こう言った。

「草加が、お邪魔しませんでしたか?」

香藤の心臓が大きな音を立ててドクンと、脈打った。

まさに、求めていた答えが、今、伊坂の口から語られていた。半信半疑、しかし、もしやと、万に一

つの可能性を疑って、ここへ来た香藤だった。

「・・・先生・・・」

そう上ずった声を出して、二の句を迷っている香藤を前に、「そうですか・・・お邪魔しましたか」

と、伊坂は、呟いた。

「どうして・・・」

香藤は、何と言って、この2日の間に体験したことを説明すればいいのか、言葉を迷っていた。

そんな香藤へ、伊坂がゆっくりと、少し笑いながら話し始めた。

「いえ・・・こんなことを言っていると、頭の変な老人、と、思われてしまいますので、めったには

お訊きしないのですが・・・年に1、2度くらいでしょうか、私も草加を見ることがあります。夢・

・・かもしれません。でも、夢ではなく、草加が時々、礼を言いに来てくれているのだと、そう思う

ことにしているのです。こうやって、いつまでも、草加と秋月のことを、語り継いでいる私へ・・」

一旦、言葉を置いて、少し考えながら、また、話し始めた。

「以前、本が出るときに、この子袋を2日ですが、出版社の方へ、お貸ししたことがあります。その

折に、やはり、草加が、その方の夢に出た、と、後から聞かされました・・・・きっと、草加は・・

・・・秋月を追いかけて行ったのでしょうね・・・・その辺は・・落ち着きがない、というか・・せ

っかち・・・・というか・・・」

伊坂が声を出して、おかしそうに笑った。

「・・・草加・・・・来ました・・・俺と岩城さんのところへも・・・」

そう口にした香藤へ、伊坂は、やはり・・・という、表情をした。

「俺も・・・最初は夢・・だと・・そう考えていました。夢の中で、草加は、秋月に逢いたいと、そ

う言っていた。その後、岩城さんの寝ているところでも、草加の姿を見ました。彼は・・・・笑って

いた・・・」

「笑って・・・・」

伊坂は、香藤が話す言葉へ、熱心に耳を傾けていた。

「はい・・・。実は・・・・今、岩城は体調を崩しています。検査をしてもらいましたが、何の異常

もなく、ただ、微熱が続いています。撮影から帰ってからずっと・・・」

「それは・・・」

伊坂の表情が、少し曇った。

「いえ・・判りません。そんな、現代において、これを結び付けて考える、というのも、一寸・・・

と思います。が・・・でも」

そう言って、香藤はやや真剣な面持ちで続けた。

「俺としては、今は、僅かでも考えられる原因は、取り除いていきたい、そう考えて、こちらへお返

しに上がりました」

「そうだったんですね・・・」

伊坂が深く頷き、子袋を手に、じっとそれを見た。

「岩城さんへは、大変なご迷惑をおかけしてしまったようですね。もしや、と思い、今回は、中を抜

いてお渡ししたのです・・・中身、といっても、既に粉砕されて粉になってしまっているだけのもの

で・・・・草加も、ただ、秋月に逢いたい、その一念だったのでしょうが・・・」

「いえ、そんな・・・まだ、そうかどうかは、判らないし・・・いえ、俺としては、是非そうであっ

て欲しいんですが・・」

「きっとそうですよ、草加は、我慢の利かない性分でしょから・・秋月に対しては・・」

そう言うと、また、くすくすと伊坂は笑った。

「あっ・・・それ、ひょっとして、先生、俺と草加が似ている、と・・・」

「ええ。とっても」

香藤は笑顔で、そうかなぁ・・・と、言い、少し置いて、もうひとつ、きちんと謝らなければいけな

いことを、この場で口にした。

「草加の役、せっかく、お声をかけていただいていながら、本当に失礼なことをしました」

そう言い、頭を下げた。

伊坂が、それはもう・・・忘れましょう・・と、言い、ふと、こんなことを言った。

「あの、選考のとき、香藤さんの演技力に、私を含め皆、感動しておりました。しかし、事情が事情

で、素直に香藤さんを、と、選ぶことが出来ない風向きでした。それを、皆さんの前で両手をついて

説き伏せられたのは、岩城さんでした。お2人の関係の上で、なお、香藤さんを岩城さんが推する、

ということは、なかなか出来ません。あのときの岩城さんは、とてもご立派でした」





伊坂の家を後にして、車を運転しながら、香藤は最後に伊坂が言った言葉を思い返していた。

「岩城さんのお熱・・・これで下がってくれればいいのですが・・・きっと、草加も秋月がこちらへ

戻ったと知れば、直ぐまた舞い戻ってくるのでしょうから・・・」

ありえないことながら、普段なら、鼻で笑ってやり過ごすところを、香藤はそのありえないことに、

今は賭けていた。

ハンドルを切りながら「草加、気持ちは判るけど・・勘弁してくれよ」と、香藤は、見えぬ草加へ呼

びかけていた。





家に帰り着き、玄関を入ると、急いで靴を脱いで居間へと香藤は進んだ。

そこへ岩城の姿はなく、キッチンから物音が響いてきた。

覗いてみると、岩城がそこに立っていて、ボールを持って中身をかき混ぜながら、振り向き笑顔を浮

かべ「お帰り」と口にした。

「岩城さん!!」

驚いて駆け寄る香藤へ、「何か、熱、下がったみたいだ」と、岩城が言った。

「やったーっ!!大正解!!」

香藤は思わず叫んで岩城へ飛びついた。

「お・・おい、一寸、危ない・・何が、大正解、なんだ?」

「んっ?・・・え・・と・・何でもない」

「・・・??」

不審そうな顔つきの岩城へ、じゃあ体もだるくないの?と、香藤は訊き、岩城が、ああ、大丈夫みた

いだ、と答えると、香藤は、満面の笑顔を浮かべた。

よかった・・・と、小さく呟く香藤へ、「心配かけて悪かったな・・・」と、岩城が答えた。

「で・・・なに作ってるの?」

「・・・・・ホットケーキ・・・・」

「ホットケーキィッ〜!!!」

そう叫ぶ香藤の前で、少し顔を赤らめながら、「元気になったら、食べたくなって・・・」と、岩城

が呟いた。

「ホットケーキを?」

「・・・ああ・・・何となく・・・」

僅かに照れながら、そう言う岩城が持つボールへ人差し指をいれ、口に運ぶと、香藤は「うん・・・

美味しく出来てる!!」と、言った。そして続けて「じゃぁ、焼くのは俺が焼いたげる!!」と、岩

城の手から、ボールとミキサーを外し、カウンターへ置いた。

「岩城さん、焼くと、絶対真っ黒!!」

そう言いながら、香藤は岩城の右手を掴んで、ソファーのあるところまで引っ張っていった。

「おい・・・焼いてくれるんじゃ・・・」

最後の言葉は、香藤の唇で塞がれた。

岩城の体をソファーへ押し倒しながら、香藤は唇を離して「後で・・・ね」と、囁いた。

香藤の手が既に、岩城の内腿を摩りながら、怪しくモーションをかけていた。

「おまえ・・・何か・・・このために俺を元気にしたかったみたいだな・・・」

香藤の腕の中に体を預けながら、岩城はそう言うと、両手を香藤の背中へと回した。

岩城の中にある欲望も、正直だった。

「だって・・・」

香藤は、そう言いながら、岩城の片手を握ると、自分の股間へと導き、硬く熱を持った欲望へその手

を押し付けた。

岩城の手は、その熱に吸い寄せられるように、ズボンの上から香藤の雄を握りこんだ。

「べつに・・・これだけって訳じゃないけど・・・やっぱ、入りたい・・・岩城さんの中・・」

香藤の手が、岩城のシャツを下からたくし上げ、そこから胸へと進んでいくと、それを追うように、

舌が白い肌を縦横無尽に這い回った。

「・・俺も・・・」

そう言いかけて、岩城はのけぞった。

香藤が胸の突起を口に含んで歯を立てて噛んだ。

岩城の欲望は、直ぐに香藤へと追いつき、同じ位置で、先を欲しがる体へと変貌していった。

そんな岩城を、腕の中に収めながら、熱い息の狭間で、香藤が小さく呟いた。

「・・・草加に・・・負けてられないし・・・」

2度と秋月から目を離すなよ、秋月が居ないから岩城さん、とか言われても、俺、困るんだよ。

そんな事を考えがら香藤は、目の前にある岩城の体を、存分に愛しはじめた。

「かと・・う・・・早く・・」

そんな、たまらなく愛しい声が降りてくる頃には、香藤も草加のことなど、すっかり頭から消えていた。

あるのは、岩城が間違いなく自分のものである、という、確信に満ちた喜びだけだった。







2005.08

比類 真


お題は「空蝉」
手にしていた小袋が見せたものなのか・・・
秋月さんを追い求める草加さんの想いが哀しいです
でも岩城さんは岩城さん・・・香藤くんのそばで生きていく人・・・
それは香藤くんにとっても同じで・・・大人な香藤くんが格好いいです

比類さん、素敵な作品をありがとうございます