夏の果て

 明治3年夏、東京府、外務省。
 「やれやれ、うちの大輔殿は大荒れだな」
 「お前の報告書の出来が悪かったからだろ」
 「まさか。いつも以上の出来さ」
 「じゃあ何だ、さっきのあの怒鳴り声は」
 「こっちまで聞こえたのか?」
 「あぁ、すごかったぞ」
 「滅多に声を上げる人じゃないだろう、あの人は。一体―――」
 「馬鹿だな、お前達」
 「寺島、」
 「そりゃアレだ。辰ノ口牢の連中のことだろう」
 「―――あぁ!」
 「箱館戦争の戦犯の一件か」
 「…やっこさん、そのことで昨夜また上とやりあったらしい」
 「また!?」
 「あぁ。今回は特に粘ったらしいが」
 「やはり駄目だったわけか」
 「お偉方はとにかく、国家の秩序を乱した者には死あるのみ、という考えだからな」
 「全くよくやるよ…」
 「上つ方とこれ以上対立を深めるようだと、いくら大輔殿でもまずいんじゃないのか」
 「長州閥での立場だってどうなるか」
 「さぁな…」
 「それにしても」
 「何だ」
 「あの人を、あれほど駆り立てるものは一体、」
 何なのか。

 外務大輔直属の部下達は、そろって首をひねった。



 その日の午後、退庁時刻が迫ると、草加は珍しくそそくさと仕事を片付け帰途についた。
 帰宅した草加はなぜか異様なほど上機嫌であった。母屋の井戸端でウリが冷やされているのを発見すると、さらに子供のようにはしゃいだ。それを夕刻、離れで食べると言い出したので、イトや女中は素直に命に従って準備を始めたが、内心では帰宅してからずっと笑顔を絶やさない草加を不審がっていた。草加は、まるで紙に描いた笑みを顔に張り付けているかのようであった。



 誰そ彼刻。
 ぬるま湯のような空気が離れを丸ごと包み込んでいた。その中へ薄暮の闇が徐々に流れ込んでいく。そんな中で白木綿に藍染めの浴衣を身につけた秋月の姿は、ひっそりと浮かぶ陽炎のようであった。秋月はいつも通り離れの窓辺に端座し、手にした団扇をゆっくりと使っていた。
 そこへ、戸を開閉する音と共に草加の声が響いた。
 「秋月さん、ただいま」
 草加の声の明るさにではなく、その足運びに伴って生じる衣擦れの音に、常との違いを聞き分けて秋月はとっさに振り向いた。次の瞬間、あっ、という声こそ無いが秋月の慎ましい口元から確かに息が漏れ、同時に秋月の手から団扇がこぼれ落ちていった。
 「驚いた?」
 草加はいたずらが成功した子供そのままの笑みを浮かべた。秋月が驚くのも無理はない。珍しいことに、そこにいたのは藍地に白抜きの浴衣をまとった草加だったのだ。その扮装も表情も留学前の草加を彷彿とさせる。草加の全身に秋月の視線が絡みついた。
 「少し、蒸してるね」
 秋月の視線を心地よさげに受け止めながら、草加は何かをはかるように天井を仰ぎ見て独りごちた。重苦しい熱気と湿気が、足裏から立ち上ってくるようである。
 「今日は趣向を変えよう。たまには外で涼んだ方がいい」
 草加は秋月の側までやってくると踵を浮かしてしゃがみ込み、やや上目遣いに秋月の表情をうかがった。吐息が頬に触れるほど、ふたりの顔が近づく。まるで臆したところの無い陽気そのものの草加の表情は、秋月から全ての反論や抵抗を奪い去った。
 「打ち水もしたし、蚊遣りも焚いてある。ここよりずいぶん過ごしやすいはずだよ」
 言うと草加はほんの少しだけ開いていた秋月の唇を、音を立てて吸った。秋月はただ黙って瞳を閉じた。

 離れの玄関脇にしつらえられた床几の上に、草加は抱きかかえた秋月を危なげなく座らせた。夕暮れ時の淡い空の色でさえ、秋月の目にとっては十分強い刺激であるらしく、秋月はすぐに目を伏せてしまう。そうして秋月は座ったまま、地面の感触を確かめるかのように右足を何度か前後に動かした。右足にだけ下駄を履いているのだ。からから、からから…と幾分湿った地面の上で下駄が軽やかに鳴る。秋月はしばらくの間飽きずにそれを繰り返していた。

 「最近また食が細くなっていたみたいだけど、秋月さんもこれならきっと食べられるよ」
 秋月がふっと顔を上げると、ウリの盛られた皿を手にした草加が立ったまま微笑んでいる。食べやすいようにと小さく切られたウリは、いかにも熟れていて食欲をそそる。秋月は思わず繊手をのばしてウリを一切れつまんだ。よく冷えている。その様子に破顔した草加はしかし何も言わず、ウリの皿を挟んで秋月の隣に座した。秋月が遠慮がちに、だが調子よく二切れ目のウリを口に運んでいくのを見届けてから、草加はそれこそ子供のように無心にウリにむしゃぶりついた。しゃくしゃく、とウリを咀嚼し嚥下する音だけがしばし、ふたりの内と外から響く。

 刻一刻と、床几に腰掛けたふたりの影が薄くなっていく。大人しやかな夏の夕陽は、決して赤々と横合いから照りつけることはしない。夏の短夜の貴重さを知っているのだろう、日輪は実にひっそりと身を退くのだ。

 秋月は三切れ目のウリを嚥下すると、ちら、と草加の表情を盗み見た。草加が妙に楽しげなのが気にかかってはいたのだ。すると草加は秋月のそんな心の動きに先回りするかのように、ウリをくわえたまま目だけで秋月に笑いかけたのだった。まるで屈託無く、とろけるように。それを目にした秋月は、なんにせよ草加の機嫌がよければそれでいいではないか、と結論した。沈黙がこれほど満ち足りていたことは、この離れに暮らすようになってから未だかつてなかった。

 折から吹き始めた風が、そこら中にわだかまっていた熱気を瞬く間に押し流していった。木の葉のざわめきも蝉の鳴き声も、薄い壁を隔てたその向こうで響いているかのように遠く、曖昧である。そればかりではない。庭内の全てのものが宵闇に溶けて、絵のように静かに広がっていた。秋月はまた、からからと下駄を鳴らした。音らしい音として認識されるのはそれだけであった。どれほどそうしていただろう、ふたりの影は自然と寄り添い、そしてだんだんと一つになっていった。永遠に思えるほど長い間、ふたつの影の間に一切の境界線はなかった。

 「雨の匂いがする、草加」
 草加は見るからに不満そうに、のろのろと秋月に巻き付いていた腕を解いた。秋月は空とにらみ合っている。木々に包まれた空はいかにも狭く、天候の変化が読みにくい。

 時雨れた。
 夕立にしてはやや遅い通り雨だ。細かい雨が撫でるように全てを洗ってゆく。雨の帳は夜の闇を連れてくる。草加は秋月を抱え上げると、慌てて玄関に逃げ込んだ。
 玄関の軒先に座っていたようなものだからほとんど濡れはしなかったものの、上がり框に腰掛けると草加は一気に脱力したようだった。壁にもたれかかって、目を閉じている。秋月はその隣でただ雨の音を聞いていた。

 草加のため息が漏れた。
 「いつも、こうだ」
 単調に響く雨の音に紛れ込んだ、小さいが異質な声。秋月は隣にいるはずの草加をうかがったが、暗がりがそれを阻んだ。

 「―――遠くへ行きたい」
 疲れた声だった。そのひどく空虚な響きに驚いて、今度こそ秋月は草加を見た。闇に縁取られて陰影ばかりが目立つ草加の顔。
 「どこへ行くと言うんだ、草加」
 「さぁ、どこだろう」
 草加は言いながら泣くように笑った。否、笑いながら泣いたのか。
 「ふざけるな」
 常とは互いの立場が逆であった。激昂するのは草加の役目のはずだ。草加に声を上げて迫りながら、秋月はそのことを妙におかしいと感じていた。
 草加は遠くを見る目つきをした。静かに降る雨の向こう。
 「どこかは分からない。…だけど」
 草加の目には一体何が映っているのだろう。
 「ここではない、どこか。」
 ひた、と草加は秋月を見つめた。
 悲しいほどに
 草加の目は澄んで、そして真っ直ぐだった。波風一つ立っていない深い湖面を思わせる。何もかもを遠く置き去りにして、吸い込まれそうだ。
 その一言で秋月はなんとなく、悟った。草加が何故今日、あんなにも上機嫌だったのか。それは全て裏返しだったのだ。なにか、草加を追い詰めて激しく落胆させるようなことが起こって、草加はそれにうまく対処できないでいるのだ。
 「ここでは駄目なのか」
 秋月は覚悟を決めて先を促した。
 「…うん。ここじゃもう、駄目だ。どこか遠くに―――、そうだな」
 草加はその時だけ、実に楽しげに思案をめぐらしていた。
 いくつもの輝ける未来へとつながる、無限の可能性を持つ少年の頃に戻ったような顔つきであった。
 「―――、『夏の果て』に」
 しかしながら、いやにきっぱりと冷静に草加は言い切った。そこしか行く当てが無いかのように。

 幸せだった、あの夏。
 ふたりが紛れもなく一つだった、あの夏の果てに戻れるなら。

 「そこに、何がある?」
 「分からない。でも…」
 草加はあっという間に口ごもり、秋月から視線をはずした。分からないというより、分かっているからこそ言いにくいのかもしれない。
 「きっと苦しみは無いと思う。そこには永遠が―――」
 (そして、そこへ行くには死が―――)
 待っているはずだ。
 「その『夏の果て』とやらへ行けば、お前の苦しみは無くなるんだな」
 夏の果てという語句の裏に隠されたものを知ってか知らずか。秋月は念を押した。
 草加は不安げに瞳を彷徨わせながらもうなずいた。まるで母親に置き去りにされそうになっている子供同然だ。草加は今、寄る辺を求めているのだ。
 「じゃあ、行こう。お前の言う夏の果てに、俺も一緒に行くよ」
 秋月は至極あっさりと言った。まるで大したことが無いかのように、その唇に笑みを浮かべてさえいた。
 草加ははっと息を呑んだ。
 「お前が苦しんでいるのが、俺にとっては一番つらい」
 それは間接的で消極的ではあるけれども、見返りを求めることのない、紛れもない愛の言葉だった。
 同時に草加の目に涙がにじんだ。
 膨れ上がった涙の一粒一粒は、横溢し、流れ、そして落ちていった。顎を伝った涙は、ぽたぽたと浴衣に染みをつくった。それらは拭う間もなく、別の涙の染みと境界を同じくしてどんどん広がっていった。
 「…ち、ちが、違うよ」
 草加は慌てて息を吸い込んだ。
 「何が」
 「こ、こ、…ここ、ではない、どこか、なんて、ありはしないって、俺も、分かってるんだ」
 草加は瞳で、そして体で秋月にすがった。ほとんどなだれ込むようにして、秋月を求めた。
 「……」
 秋月は天を仰ぎながらも、しっかりと草加を抱き留めた。草加は震えていた。どうにもならない現実への恐怖と、どうにもできない自分への怒りとで。草加の涙が今度は秋月の浴衣を濡らしていく。
 「今回こそは、って、思って、いたんだ。だけど…」
 秋月に聞かせるというより、草加は自分自身を納得させるためにそうしているらしかった。
 「昨夜も、失敗して」
 主語も目的語もない草加の言葉からは、ことの詳細は分からない。ただ秋月には、「なにかが草加を精神的に痛めつけたに違いない」という自らの予想が正しかった、ということは分かった。そして草加をそこまで追い詰めたものは、きっと秋月自身に深く関係することに違いない、ということも秋月には分かっていた。うぬぼれでも何でもなく、自分と草加はそうまで深く結びついているものと、今となっては事実として理解しているからだ。
 「……でも、もう、大丈夫だよ、秋月さん」
 嗚咽と一緒に何もかも飲み込んだらしい。草加は秋月に正対して、痛々しく笑った。
 「もう二度と泣き言言ったりしない。だから…」
 「草加」
 草加の顔に、研ぎすまされた精悍さが戻ってきた。それを秋月は、わずかに不安げに見守っていた。秋月がさらりと何でもないことのように言ったあの一言は、勿論草加を立ち直らせるための荒療治のようなものでもあったけれど、一方で秋月がその内奥に隠している真実の言葉であり、美しい絶望に彩られた欲望でもあったのだ。
 「だから、あと少しだけ時間を下さい、秋月さん」
 外務大輔の顔だった。孤独な戦いを再び始めるつもりなのだ。
 秋月は悲しげに微笑んだ。

 夏の果ては、そう、もう手の届かない夢の果て。



2005-08-20 夏嵐

お題は「夏の果て」
戻らないあの時・・・そして願う平穏な時
それは未来の届かない夢かもしれない・・・でもきっと・・・
切なさに押しつぶされそうなふたりが哀しくて・・・でも綺麗です

夏嵐さん、素敵な作品をありがとうございます


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