千年櫻

香藤はドラマのロケでとある田舎町に来ていた。
撮影も無事終了し一行は丁度見ごろだと言う桜の古木を見に行く事にした。
その桜は国の天然記念物に指定されているほどの古木で樹齢は千年を越えるとも言われているらしい。
地元の観光協会の人に案内され山道を登ること30分。
目の前が開けたかと思うとその桜が姿を現した。
衰えの見え始めた老木を守ろうと枝を支えるためと根を保護するために人が近づき過ぎないように幹の周りに櫓が組まれていた。
そんな姿になりながらもその桜は見事な花を咲かせ春爛漫を体現していた。
その巨木振りと咲き誇る花の美しさに皆言葉を失う。
香藤も想像以上のその大きさに圧倒されていた。
(凄く綺麗だ。岩城さんにも見せてあげたいなぁ。)
舞い散る花びらの中に立つ岩城の美しい姿を思い浮かべ香藤の顔が思わず綻ぶ。
その時突風が吹き地面に降り積もっていた花びらをも舞い上げ一瞬目の前が薄紅色に覆われた。
「凄い風だったねー。」などと口々に言いながらまた舞い落ちる花びらを目で追っていた一人が声を上げた。
「香藤くん?どうしたの!?」
皆がそちらに目を向けると香藤が倒れていた。


香藤は皆の呼びかけにも目を覚まさず救急車で近くの総合病院に担ぎ込まれた。
しかしいろいろ検査したにも拘らず倒れた原因は全く分からず意識も戻らないままだった。
香藤が倒れたとのニュースに多数のマスコミが小さな田舎町に押しかけた。
都会の大病院などと違って情報の漏洩などは避けられず、香藤の倒れた原因が全く不明な事や未だ意識が戻らない事などが報じられ大騒ぎとなった。
もっと設備の整った病院に移す事も検討されたが原因不明とあっては途中で何が起こるか分からずもう暫くここで様子を見る事になった。


その頃香藤は、いや香藤の意識は不思議なところにいた。
香藤が突風に思わず瞑った目を開けると景色が変わっていた。
一緒にいたはずの人達の姿が消え、桜の周りを囲っていた櫓も消えていた。
更に辺りを見回すと眼下に見えていた集落までも消えてしまっていた。
「なんだこれ、どうなってんだ?」
「ここは私が創りだした幻想の世界だ。」
予期せず返された返事に香藤が驚いて振り向くと桜の樹の下に平安貴族のような衣装を纏った男が立っていた。
「あんた誰だ?創りだしたってどういう事だよ?」
香藤は警戒心を剥き出しにして訊ねる。
「私は人間の言葉で言うなら桜の樹の精だ。」
「桜の樹の精だと。ふざけた事言ってんじゃねえ。誰がそんな事信じるんだよ。」
男は香藤の言葉にも気分を害した様子もなく穏やかな顔で言葉を続けた。
「信じられぬのも無理はない。私が生まれた頃ならまだしも、長い時の流れとともに人間たちは私たちを見る事ができなくなってしまったのだから。」
「じゃあ人間には見えないはずのあんたが何で俺には見えてんだよ?」
香藤は当然そんな言葉を信じる事ができるはずも無く更に質問をぶつける。
「先程も言ったであろう、ここは私の創りだした世界だと。私がそなたの魂をここに引き込んだのだ。この景色は人間であるそなたのために私が創りだしたのだ。」
男がそう言って手にしていた扇を振ると今まで見えていた景色がかき消すように消え、辺り一面薄紅の靄に包まれたように何も無くなってしまった。
「………」
香藤は目の錯覚かとごしごし擦ってみたが辺りは変わらず薄紅に包まれたままだった。
「…魂を引き込んだって、俺の身体はどうなってんだよ?」
香藤はこれは本当かもしれない思い始めていた。
それほどに男は稀有な美しさを湛え不思議な雰囲気を醸し出していた。
「そなたの身体は周りにいた人間が大騒ぎしてどこかへ運んで行った。」
「運んで行ったって…。その後どうなったんだ?」
「さぁ、そこまでは私にもわからぬ。ただ魂の抜けた身体はただの抜け殻でしかないから、やがては呼吸も心の臓も止まるであろうな。」
香藤はその言葉に呆然とする。
「……それって死ぬって事じゃないか!?」
「そういう事になるな。だが身体は死んでもそなたの魂はここでずっと生きられる。たいした問題ではないであろう?」
とんでもない事を事も無げに言う桜の精に香藤は怒りを感じた。
「冗談じゃない!何がたいした問題じゃないだよ!問題おおありだよ!!こんな何もないとこに魂だけが留まってたって生きてるなんて言えないんだよ!!」
怒りを露に怒鳴り散らす香藤にも桜の精は鷹揚な態度を崩さなかった。
「何もないのが気に入らぬのか?それなら先程の景色をもう一度見せてやっても良いぞ。それだけではない。ここは私の世界なのだからそなたの望むものを何でも創りだす事ができるぞ。例え私が見た事のないものであってもそなたの心の中のイメージをそのまま映し出すこともできる。」
桜の精が扇を振ると最初に見えていた景色が再び浮かび上がってきた。
「そなたの望みも何でも叶える事も可能ぞ。ほれこんな風に。」
扇が再び振られると桜の樹の傍にゆらりと人影が現れ岩城の姿を模った。
「そなたの想い人なのであろう。ここならば誰にも邪魔されず二人で過ごす事もできるぞ。」
岩城の姿をしたものが微笑みながらゆっくりと香藤に近づいてくる。
「来るな!お前なんかが岩城さんの振りをするなんて許せない!消え失せろっ!!」
香藤が拒絶の言葉をぶつけると岩城の姿をしたものは悲しそうな顔をしたかと思うとゆらりと陽炎のように消えてしまった。
それを見た桜の精は始めて困惑したような表情を浮かべた。
「何が気に入らぬのじゃ。そなたが寂しかろうとせっかく創ってやったと言うのに。」
香藤はそんな桜の精を冷ややかな目で見た。
「あんたさっきなんでも望みを叶えてやるって言ったよな。でも、ここはあんたの創りだした世界なんだろう。こんな幻の世界で望みを叶えてもそれは夢を見て
るのと一緒なんだよ。あんたそんな事も分からないのか?」
視線と同じくらい冷ややかな香藤の言葉に桜の精は扇で口元を覆い目を逸らす。
「岩城さんにしたってそうだ。あんたの創りだした岩城さんなら俺の望むとおりに愛の言葉を囁いてくれたり俺を求めてくれたりするんだろう。でもそんなのは岩城さんじゃない。」
岩城の事を思い浮かべる香藤の表情は優しいものに変わっていた。
「本当の岩城さんはこっちがひやひやするくらい自分の魅力に無自覚で、なかなか自分の気持ちを素直に表せない不器用なとこもあるけど、そんなとこも全部ひっくるめてそれこそ魂ごと岩城さんを愛してるんだ。」
桜の精には岩城の事を語る香藤の魂が輝きを増しているのが見えた。
「そなた、その岩城という人間を心底愛しているのだな。そなたの魂がそんなに美しく輝いているのはその岩城を愛しているからこそなのだな。その美しく輝く魂に惹かれたからこそ、そなたをここに引き込んだというのに…。」
桜の精はなんとも言い表せないほど寂しそうな悲しそうな顔をしていた。
「あんた…」
香藤はその顔を見てさっきまで感じていた桜の精に対する怒りが消えてしまった。
「私はあまりにも長い時間をここで過ごしてきた。昔はいつもたくさんの人や動物たちが私の周りにいた。しかし時の流れとともに動物たちは減り人間も花を咲かせる時にしか来てくれなくなった。そして挙句にこんな櫓で私を囲い遠くから眺めるだけになってしまった。私は寂しかったのだ。」
桜の精は俯くと力なく座り込んでしまった。
「そなたたちが近づいて来た時たくさんいる人間の中でそなただけが眩しいほどに輝いて見えた。そしてそなたから溢れ出す暖かい気を感じた時傍にいて欲しいと思った。」
「それで俺の魂を取り込んだのか?でも俺は岩城さんがいないと輝けないって分かっただろう?分かったなら今すぐ俺を帰してくれ。」
香藤は桜の精に歩み寄ると膝をつきその肩に手を掛けた。
しかし桜の精は俯いたままで、暫くの沈黙の後やっと返された答えは衝撃的なものだった。
「…できぬのだ。」
「……え?」
「帰してやりたくてもできぬのだ。」
香藤は耳を疑った。
「今…なんて言った?帰せないって言ったのか!?」
どうか聞き間違いであって欲しいという香藤の願いは桜の精の返事によって打ち砕かれた。
「そうだ。お前の身体が傍に無いと帰してやる事はできぬのだ。」
「……それってどういう事だ?」
香藤は何とか平静を装って訊ねる。
桜の精はそんな香藤に哀れみを含んだ目を向けた。
「そなたをここから解放する事は容易い事だ。しかし迷子が家に帰れぬのと同じように身体の在り処が分からねば戻る事はできぬのだ。」
「…そんな…。ここから出て身体に戻れなかったら俺はどうなるんだ?」
半ば呆然としながら訊ねた香藤に桜の精は言いにくそうに口元を扇で隠しながら答えた。
「彷徨ってそのうち消えてしまうか悪くすれば…悪霊に取り込まれてしまうだろう。」
「……そんな…」
香藤は言葉を失いがっくりと地面に両手をついた。
桜の精もそんな香藤にかける言葉を見つけられなかった。
無言のままの二人の上に尽きる事の無い薄紅の花びらだけが舞い降り続けていた。


連ドラの主役を抱えていた岩城が香藤の許に駆けつける事ができたのは5日も経ってからだった。
その間なかなかスケジュールの調整がつけられず度々詫びる清水に「大丈夫ですよ。香藤が俺を置いていなくなるはずありませんから。」と言って気丈に仕事を続けた。
香藤、岩城の両事務所の計らいにより病院周辺にマスコミの姿は無かった。
医師の話によると僅かずつではあるが脈などが弱くなっていてこのままの状態が長く続くと危険だとの事だった。
病室に入った岩城がゆっくり香藤に近づく。
皆が望みをかけていた、岩城が来れば香藤は目を覚ますのではないかと。
岩城が香藤の頬にそっと手を添え静かに呼びかける。
「香藤、香藤目を覚ませ。」
しかし皆の願いも空しく香藤の目は開かなかった。
「香藤いつまで寝てるつもりなんだ。早く起きろ。」
岩城は香藤の髪を撫でながらもう一度呼びかけるとそっと唇を合わせた。
それでも何の反応も示さない香藤からゆっくりと唇を離し身体を起こすと岩城は金子を振り向いた。
「金子さん、香藤が倒れたところに連れて行ってもらえませんか?」
その顔は清水も見た事が無いほど緊張していた。
岩城のただならぬ様子に金子も清水も緊張する。
「それは構いませんけど。でもどうして?」
岩城は少しの逡巡の後意を決したように口を開いた。
「信じられないとは思いますが香藤の意識はここにはありません。」
「え…?」
そこに居合わせた者全員が岩城の言葉を理解できなかった。
「意識が戻らないと言う意味ではなくて、例えるならここにあるのは抜け殻のようなものです。この言葉が正しいのかは分かりませんが香藤は魂が抜けてしまっているんです。」
「……」
信じられないといった表情の人たちを岩城は確信に満ちた目で見回す。
「皆さん信じられないでしょうね。でも俺には分かるんです。どんなに深く眠っていても香藤の意識がここにあるなら俺は感じる事ができる。でも今はどうしても香藤を感じる事ができないんです。」
香藤と岩城の結びつきの強さを知っている金子と清水はこの二人ならきっとそうなんだろうと思った。
「分かりました。岩城さんを信じます。でもなぜ倒れたところに?」
金子の言葉に岩城の顔に僅かだが安堵の微笑が浮かんだ。
「魂が抜けるなんて何かの力が働いたとしか思えません。香藤が倒れたのはかなりの古木の傍だと聞きました。そんな古い樹なら何か不思議な力が宿っていてもおかしくないと思うんです。」
「僕にはよく分かりませんが、そうですね。あの樹の傍で倒れたんですからそこに何かあるかもしれませんね。僕たちには分からなくても岩城さんなら何か分かるかもしれません。行ってみましょう。」
香藤から甥の洋介が産まれる時に岩城の身に起こった異変を聞かされていた金子は岩城の言葉を信じてそれに賭けてみようと思った。


桜の樹に囚われた香藤は衝撃的な話を聞かされ言葉も無く沈み込んでいたが暫くするとすっと顔を上げ桜の精に問いかけた。
「なあ、俺迷子と同じだって言ったよな?それなら身体のある場所が分かれば戻れるって事だよな?」
沈み込む香藤を黙って見守る事しかできなかった桜の精は突然の問いかけに困惑する。
「確かにそのとおりだが…。誰かが教えてくれぬ限り私もそなたも身体の在り処を知る事などできぬ。しかしそなたがここにおる事を誰も知らぬのだぞ。誰が教えてくれると言うのじゃ?」
香藤は一片の迷いも無い瞳で答えた。
「岩城さん。他の誰に分からなくても岩城さんだけはきっと俺を見つけてくれる。」
「そなたの想い人か。確かに美しい姿をしているようだがなぜそこまでその岩城とやらを信じられるのだ。」
桜の精には香藤が岩城に寄せる絶対的な信頼が理解できなかった。
「岩城さんは容姿だけじゃなく心も純粋で綺麗な人なんだ。俺はそんな岩城さんの全てを愛してるからたとえ岩城さんが魂だけになってしまっても岩城さんを感じる事ができる自信がある。だから岩城さんも同じように俺を感じて見つけてくれると信じられるんだ。」
香藤の岩城に対する揺ぎ無い信頼と深い愛を見せつけられ桜の精は寂しげに目を伏せた。
「そなたが羨ましい。そのように深く愛せる相手と巡り会えて。もしその岩城の魂も取り込んだならそなたたちはずっとここにいてくれるか?」
桜の精のとんでもない問いかけにも香藤は怒る事無くゆっくりと首を横に振った。
「確かにここなら誰にも邪魔されず二人きりでいられるかもしれない。でも俺たちにとってそれは生きてる事にはならない。だから岩城さんと一緒でもここには留まれない。」
桜の精は泣き笑いのような顔になって小さくため息をついた。
「そうか。そなたの一番の望みは岩城と二人で生きて行く事なのだな。」
桜の精が扇をふわりと振る。
すると周りの景色が香藤が取り込まれる前に見ていた現実の景色に変わった。
「さあ、これで岩城が来ればすぐに分かる。来てくれると良いな。」
桜の精は香藤に優しく微笑んで見せた。
「来るよ。岩城さんは絶対に来てくれる。」
香藤はまっすぐな瞳で下の集落へ続く道を見つめた。


問題の桜の樹には香藤が倒れた当初マスコミやたくさんの野次馬が押しかけた。
しかし今は多くの人が地面を踏み荒らす事で桜に影響が出るのを恐れた地元の自治体により立ち入り禁止の措置がとられていた。
それでも登山口には少数ではあるがまだ野次馬やマスコミがいたため岩城は地元の人に案内され別の場所からその樹に向かった。
桜を目の前にした岩城はその想像以上の大きさと美しさに暫く見惚れていた。
「岩城さん、何か感じますか?」
金子に呼びかけられ我に返った岩城はゆっくり桜に近づいた。
「金子さんこれから何が起こっても騒がずに暫く見守っててください。お願いします。」
岩城はそう言うと地面近くにまで伸びている枝にそっと手を添えた。
(香藤ここにいるのか?)


香藤が自分が登って来た道を見つめていると桜の精が声をかけてきた。
「あちらから誰かやって参るぞ。」
香藤が桜の精の指し示した方に目をやると待ち焦がれていた岩城の姿が見えた。
「岩城さんだ。岩城さんやっぱり来てくれた。岩城さん、俺はここだよ!」
香藤は嬉しさのあまり夢中で岩城を呼んだ。
「いくら呼びかけてもそなたの声は聞こえはせぬぞ。さて岩城はそなたを見つけてくれるかの?」
桜の精の問いかけに香藤は自信に満ちた笑みを見せた。
「大丈夫、岩城さんはちゃんとここまで来てくれた。絶対に俺の事も見つけてくれるよ。」
香藤と桜の精が見つめる中、岩城はゆっくり近づいてくるとそっと枝に手を触れた。
途端に枝を伝わって岩城の意識が流れ込んでくると香藤たちの前にその姿となって現れた。
「香藤!」
「岩城さん!」
二人は吸い寄せられるようにしっかりと抱き合った。
「岩城さんありがとう俺を見つけてくれて。」
「ここに来た時お前の声が聞こえたような気がした。枝に触れた時お前がここにいると確信した。」
二人は暫くそのまま抱き合っていたが岩城が気配を感じたのかふと顔を上げ桜の精を見た。
「あなたは…?」
「私はこの桜の樹の精だ。暖かい気と魂の輝きに惹かれて私が香藤をここに引き込んだ。」
岩城はその言葉にも驚く事無く桜の精をまっすぐ見つめた。
「香藤は俺のものです。香藤だけは誰にも譲れない。返してください。」
岩城の強い意志のこもった視線を受けて桜の精は微笑む。
「そなたが来た途端に香藤の魂の輝きが増した。そなたは香藤の暖かい気とはまた違う清浄な気を纏っておる。そなたは本当に香藤ともにあるに相応しい人間なのだな。」
「俺たちはお互いがお互いの隣にいるのに相応しい人間でありたいといつも思っています。並んで立った時に相手に対して恥ずかしくない自分でいられるための努力は惜しむつもりはありません。」
熱く見つめあい頷きあう二人の魂は相乗し合ってより輝きを増しているのが桜の精には見えた。
「香藤すまない事をしたな。私はここから二人がいつまでもともにいられる事を祈るとしよう。私の枝を一枝分けてやる故にそれに宿って身体の在り処まで帰るがよい。」
そう言うと桜の精は扇を振った。
途端に香藤は目の前が真っ白になり意識が途切れた。
岩城の目の前からは桜の精と香藤の姿が消えた。


金子と案内の人が固唾を飲んで見つめる中ゆっくり桜に近づいた岩城はその枝に触れた途端ピクリとも動かなくなった。
「岩城さん?」
呼びかけても返事が無い事に焦った金子だが岩城の言葉を思い出し信じて見守る事にした。
そして15分が過ぎた頃岩城の身体がぴくっと揺れた。
ほっとした二人が駆け寄ると岩城が触れていた枝が突然折れた。
岩城は上着を脱いでその枝を包み込み大事そうに抱えて立ち上がると驚いている二人を振り返った。
「金子さん大丈夫香藤はここにいますよ。早く病院に帰りましょう。」
金子には何が起こったのか全く分からなかったが岩城の嬉しそうな顔が安堵をもたらした。
さっぱり事態を飲み込めていない案内の人に丁寧に礼を述べ急ぎ病院ヘ向かう。
その車の中で岩城は大事に腕の中に抱えた桜の枝を愛しげに見つめ続けていた。


病室に戻った岩城は桜の枝を香藤の胸の上に置くとその手にしっかりと握らせその上に自分の手を重ねた。
「香藤、着いたぞ。早く戻って来て目を開けろ。」
岩城は優しく声をかけそっと口付けた。
すると香藤の瞼が震えゆっくり開く。
香藤は何度か瞬きを繰り返し岩城の姿を認めると何か言おうと口を開きかけた。
しかし5日も眠り続けたせいか上手く声が出ないらしく乾いた咳をした。
皆が息を詰めて身動きもできず見守る中、岩城はサイドテーブルに置いてあった水を口移しで香藤に飲ませた。
その水をこくりと飲み干した香藤は大きく息を吐くともう一度岩城を見つめた。
「岩城さん、本物だよね?俺ちゃんと帰ってこれたんだよね?」
「ああ、お前は本当に帰ってきたんだ。」
岩城はそう言うと香藤の手を引き寄せ自分の頬に触れさせた。
「ほら、ちゃんと感じるだろ?」
「うん、岩城さん。岩城さんの頬温かいね。」
香藤の目から涙がポロポロと零れた。
「香藤、お帰り。」
岩城の目からも涙が溢れその頬を伝わっていた。
金子も清水もそして岩城の言葉を信じきれていなかった医師や看護師たちまで病室にいた全員が泣いていた。
香藤の意識が戻ったというニュースは事務所の記者会見によりマスコミに伝えられたが倒れた原因は結局判明しなかったと発表された。
たとえ真実を発表したとしても誰もが信じられはしなかっただろう。
一部には真相を探ろうとする者もいたが大多数には何はともあれ意識が戻って良かったと受け止められて騒動は幕を下ろした。


そして騒動から1カ月ほどがたったある日、香藤と岩城は連れ立ってあの桜を訪れていた。
初夏を迎えて桜は青々とした葉を茂らせていた。
二人は暫く感慨深げに桜の樹を眺めていたが手を繋いでゆっくり近づくと岩城がそっと枝に触れた。
「あなたは香藤に寂しかったと仰ったそうですね。でもあなたは決して一人ぼっちなんかじゃありませんよ。」
岩城に続いて香藤も微笑みながら語りかける。
「地元に人達に聞いたんだ。皆あんたを守ろうと一生懸命努力してるんだよ。あの時は知らなかったけどこの櫓だって踏みつけられて根が傷まないように弱っている枝が折れてしまわないように作ったんだって。」
二人の声が届いているのかいないのか桜はただそよ風にさわさわと葉を揺らしていた。
それでも二人は桜に話し続ける。
「ここの人達は皆あなたの事が大好きなんです。あなたにいつまでもここにいてもらいたいと思っているんですよ。」
「俺たちもそう思ってるから。毎年は無理かも知れないけどまた必ず二人で会いに来るから。だからずっとここで待ってて欲しいんだ。」
香藤に腰を抱き寄せられ岩城は素直に身体を預けた。
その時一陣の風が通り抜け桜の樹はザワッと大きく葉を揺らす。
岩城と香藤には微笑んだ桜の精の姿が見えた気がした。




                                   04.3.23      グレペン



★ファンタジーですね
でもとっても現実感も帯びていて・・・・v
桜の精が全てを理解するには未だ時間が必要だと想うけれど
でもきっとふたりの思いと人々の思いは
桜の精にも伝わると思います

グレペンさん個人的にツボな設定(笑)
素敵なお話ありがとうございましたv