夢幻
*前回の拙作「月のムコウへ」のつづきとなります



―――美しい、男だと思った。
その立ち居振る舞い、潔い眼差し。ゆるぎない信念をたたえた瞳はいかなるときでもそらされることはなく、苦境に立ちながら、己の信ずるままに動くその行動力を、うらやんだことも一度ではない。
連綿と続いてきた家のしがらみに縛られた自分と違い、因習に囚われない精神の輝きが、
―――いとおしかった。
いつからだっただろうか。
自分に向ける眼差しに、ひどい熱っぽさを感じるようになったのは。





あのまま、遠くへ行ってしまうというお前を、身勝手な告白のみを残して去ろうとしたお前を、突き放せばよかったのか。行くなと引き止めればよかったのか。
それとも、
共に連れて行けと、追いすがればよかったのだろうか。
今となっては、考えるのもおこがましい。
いずれにせよ、俺は、一つの道を選びとった。そのことにより起こった結果を恨むつもりはない。後悔しないとは言わないが、悔やんでも詮無い事である。

だが、許してほしい。
お前を追い詰めるつもりはなかった。
俺は、お前の命まで奪うつもりはなかったのだ。








何故だ、草加。
何故、俺などを愛したのだ。








     *        *          *

叫びは、風を呼び、月の光を切り裂き、その世界の光源を奪った。この世でも、あの世でもないといった老人の言葉は偽りではなく、一瞬にしてあたりは闇と化し、あの場にいた自分たちのみが残される。
まるで、夢から覚めたような一瞬であった。
いや、夢から別な夢に飛び込んだとでも言うべきか。
空間的な広がりはなくなった世界を目のあたりにした彼は、愕然と辺りを見回した。しかし目の前に求める魂を見つけると、迷うことなくその身を抱き寄せた。
「草加・・・!」
かれは、呆然と生すがままになっていた。
己を抱きしめている彼の存在も、自分の存在さえ、分からなくなっているに違いない。
自分の、死すら。
幼子のように無垢で無防備な姿に、胸が痛んだ。
「・・・くさか。」
彼は腕に力を込めた。溢れそうになる嗚咽を歯を食いしばってやり過ごし、震えそうになる体を必死に抑える。しっかりと腕の中に閉じ込めた温もりが、まごう事なき求める相手であることに、言いようのない安堵を憶えた。
ようやく、会えた。
抱きしめることができた。
俺の―――。




「やれやれ、無茶をする」
不意に傍らから起こった声に、彼ははっと我に返った。老人は心なしくたびれた衣服を整え、身を起こすと、いつになく厳しい表情で彼を見つめた。
「この場は、狭間である分少々不安定である。あの世と、この世の、どちらの影響もたやすく受けやすい。感情の揺らぎがそのまま情景に影響を与え、思いを込めた叫びがそのまま衝撃となってあたりを傷つけることが間々ある。あまり、激してはならぬよ。この場を壊すだけでなく、己の魂に傷つけることになる」
「魂に、傷・・・?」
「さよう。そなたたちは肉体がなく、魂の存在であるということを忘れてはならぬ。あたりを壊すほどの叫び、それは己の魂から直接もたらされた力に他ならぬのだ。それは己の命を削って力を発揮しているに等しい。魂の傷はなかなか癒されぬ。肉体があれば外部から得られる滋養も、魂のみとあっては受け付けぬのじゃ。――だが」
老人は、そこで一旦言葉を切って、しっかりと抱きしめた腕の中の顔を覗き込んでふぉっふぉと笑った。
「正気をなくしたその者を一発で沈めるとは、おぬしを呼んだ甲斐があったというもの。ここまで効果が上がろうとは、人間の結びつきというものは分からぬものじゃな」
そう言われて、彼はようやく老人に呼ばれた意図に気がついた。
「では、先ほどの茶会は・・・」
「―いや。勘違いしてはならぬよ」
老人は彼の言葉を遮って言葉を続けた。
「わしは、そこまで気を回してはおらぬ。確かにこの世界が破壊されるのには困ったが、人間一人が暴れまわったとして、この世は揺らがぬ。たとえその者が、魂尽き果てるまでこの世界を荒らして回ったところで、いつかは修復するものじゃ。大したことではない」
魂、尽き果てるまで――。
彼は、老人の言葉の意味するものを悟って微かに顔をこわばらせた。
「では、何故・・・?」
「なあに・・・」
老人はまたふぉっふぉと笑った。
「ただの気まぐれじゃよ」




    *        *          *

―――かれは、呆然としていた。
今、自分がどんな場所にいるのか、今まで何をしていたのか。自分の置かれている状況さえ理解できなかった。ただ、自分の中に埋めようのない大きな空洞があって、それを埋めてくれる何かを探していて、探し回って、でもそれがどうしても見つからなくて・・・・。
今の今まで自分が何を求めているのかさえ、分かっていなかった。
自分を包み込んでくれる温もりが懐かしい。
くさか、と呼ぶこのひとの声が、とても、涙が出るほど懐かしかった。
かれはようやく思い至った。
自分が何を求めていたのか。
何に、渇いていたのか。
砂漠を歩く旅人が、ひとたび水を口にすれば渇きを覚えるように、自分もまた、飢えていたのだ。
手を伸ばす。(手を動かしたことで、かれはようやく自分の四肢を感じることができた。)
自分を見つめる瞳、光を吸い込んで、一層の輝きを増す、見るものすべてを魅了せずにいられない瞳。
このひとを見つめる目を、すべて潰してしまいたいと、思ったこともあった。
頬に触れる。すべらかな肌、すっきりとした鼻梁、薄紅のくちびる。
そして、自分の手に重ねられた掌。宝物のように掌にくちづけてくる、その憶えのある感触に、かれはびくりと首をすくめた。
「・・・・・・・」
ゆっくりと、両手を彼の背中にまわす。身じろぎすらせずにいる彼の体を、壊さないように、確かめるように、自分の腕の中に引き寄せる。
顔を埋めた首筋から、懐かしい優しい香が漂った。
「―――――」
噛み締めるように温もりを抱きしめる、かれの閉じられた眦から、涙が零れ落ちる。
「会いたかった・・・・」
かれはようやく探し当てた。
他の何も分からなくとも、もう自分は飢えることはない。
いとしいひと。
自分を置いて一人静謐世界へと旅立ってしまった、残酷でうつくしいひと。
ようやく、このひとに追いついた。
もう、はなさない。
(あいしている――――)








こころからの、つぶやきが、聞こえたのだろうか。
それまで身動き一つしなかった腕の中のひとは、不意に包み込む腕に力を込めた。抑えきれぬ激情を必死で堪えるように、強く強くかれを抱きしめる。
すがりつくような腕の強さが、このひとの思いの深さを現しているようで、かれは幸せをかみしめた。
―――なぜだ。くさか。
響くこの声は、このひとの言葉か。こころの声か。
―――なぜ、後を追ったりなどしたのだ。
分かりきっていることを聞かないで。
おれはあなたとともにある。
あなたに出会えた瞬間、おれはおのれにその役目を課し、全うする事を無上の悦びとした。
おのれの存在意義に逆らうことはできない。
―――許してくれ。
追い詰めたのはおれ。あなたが詫びを入れなければならないことなど、何もない。
―――お前をそこまで追い詰めたのは、俺のわがままのせいだ。





「それは、違うよ。秋月さん」






追い詰めたのは、むしろおれのほうだった。
あなたを誰にも渡したくなくて、誰にも見せたくなくて、こころに何者も映したくなくて、自分以外のすべてを排除した。
生きるためには、おれの力がなくては生きていけないようにした。
あなたがおれから逃れようとするには、死しか選べなくするように。
究極の2つしか選択肢を残さなかった。
あなたがおれから逃れようと死を選ぶのは、分かりきっていたことだった。






「ばか・・・・」

彼の声が、震えていた。





―――そんなに急いで追ってこなくとも、俺はお前を何十年でも待つつもりでいたのに。





かれは目を見開いた。
思わず、彼の顔を両手で包み込み、その瞳を食い入るように覗き込む。
「ほんとう・・・・?」
「・・・草加?」
「あなたは、ほんとうに、待ってくれてた?何十年でも、ずっと?」
「当たり前だ。」
彼の言葉は簡潔で、それゆえに真実であった。
「ずっと、何年でも。お前が俺のことを忘れてしまっても、何があっても。おれは、お前以外のものを――」
続きの言葉は、かれの唇の中に、消えた。
まるで、その言葉を、自分以外のだれにも聞かせまいとするかのように。
このひとの深淵に潜むすべての思いを、自分の内に取り込もうとする様に。
やわらかで、懐かしいみずみずしい感触に、涙が流れた。





いとしいひとよ。


あなたが待つというのならば、自分はどこまでも追いかけよう。
決してあきらめることなく、
背を向けるあなたに絶望することなく、

いつかあなたが、おれの思いを、臆することなく受け止めることができる日が来るまで。










おれのすべては、あなたに捧げる。






       *        *          *

「・・・・・草加?」
不意に、腕の中の感触が、崩れるように消えた。
「草加!」
「心配するな」
老人はなんでもないことのように告げた。
「人でしかないその身を竜に変化し、些少とはいえこの界を破壊する力を使ったのじゃ。その魂は、このまま長い休眠に入る。永い永い時間をかけ、復活のための英気を養い、気力を整え、新たな生への扉を開けることとなろう」
そこで老人は彼に目をむけにっこりと笑った。
「案じずとも、次の世でもそなたたちは、また出合うことになろうよ」
どれだけ離れていても、互いにそうとは望まなくとも。
「縁とは、そういうものじゃ」
その縁を、どう結ぶかはそなたたちの心がけ次第だがね。
「―――――」
彼は、目を閉じた。







輪廻は巡る。
今生での善事は、前生での徳(良い行い)であり、
同様に禍は、前生での業(報い)であるという。

ひとは、何度も生を巡り、
何度も同じ過ちを繰り返し、そうしながら
ひとつひとつの因縁を、断ち切っていくのだ。



(ならば――――)
俺にできることは、何か。






彼は決断する。
己の決めた決断を反芻し、心の中に迷いがないのを認め、彼はゆっくりと目を開けた。
「――行くのかね」
老人は、彼の心を見透かしたように、そう声をかけた。
彼はうなずく代わりに微笑した。
「草加は――この男は、俺を追いかけると言いました。有限実行を地で行く男ですから、その言葉に偽りはないでしょう。」
たとえどれほどの犠牲を払おうとも、おのれの立場を悪くしようとも。
自分の望みは、なりふりかまわず叶えてきた男だ。
「ならば、俺にできることはひとつです。」

草加。
お前が俺を追うというのならば、俺はお前の先駆けとなろう。
追いかけるお前が、要らぬ罪をかぶらぬように。
ひとつのものを追いかけるあまり、人としての道を外さぬように。
降りかかる火の粉を払うとは言わないが、それでも、風除けぐらいにはなれるように。
そのために、俺は強くなろう。
それまで、俺の涙は、お前に預けるよ。







次に、お前と、出会える日まで――。









風が、吹いた。
いつの間にか辺りの景色は深く、奥深い雪景色の庭に変わっていた。
その庭を見つめるのは、老人と、眠り続けるかれの姿しかない。
老人は目を細め、先刻までここに存在した眩いばかりの魂を思い、一人感嘆の息を漏らした。
「なんと潔い、鮮烈で美しい魂であっただろうか。人の世に、あれほどの魂を持つものがおったとは。」
そこで老人は、眠り続けるかれの顔を覗き込み、独白とも言える口調でこう言葉をかけた。
「心してかかるのだな、若いの。あれほどの魂、活かすも殺すもそなた次第。生半可な心根では、あの者を捕らえることなどできぬよ」
その言葉に、答えるものは、ない。
時折吹く風が、深く降り積もった雪をとらえ、舞い上がる音が、
微かに、響くのみである。






05.01.22
まあ

※まあ様の前作「月のムコウヘ」は展示室にございます



・・・読み終わって深いため息をついてしまいますね・・・
そして2人は出会った・・・それがとても嬉しいです
激しいほどの情念がふたりの間にあったからこそ
また出会ったのだと歩めるのだと思います
文中、草加が秋月を追いつめた・・・と言う台詞が印象的です

まあさん、素敵なお話ありがとうございましたv