ねがい 

灰色の空から真っ白な雪が次々と舞い落ちる。
微かな音を立てながら地面に木々に降り積もる。
そしてやがては体温を失った俺の身体にも…。


昨夜草加に抱かれた後、目を閉じ眠った振りをしていた。
外が少し明るくなってきた頃そっと目を開け草加の顔を見つめた。
少し癖のある柔らかい髪、すっと通った鼻筋。
忘れないようにしっかりと全てを目に焼き付ける。
微かに足音が聞こえてきた。
とうとう陸軍が草加の屋敷に来たのだな。
近づいてくる足音を聞きながら目を閉じ草加に背を向けた。
イトさんの知らせに草加は離れを飛び出して行った。
戸を閉める音は聞こえなかった。
良かったここから離れることができる。
急いで身体を起こし隠しておいた手紙を整えた布団の上に載せた。
相沢に渡された短刀を握り締め外へ這い出して草加の屋敷とは反対の方向に向かう。
雪の冷たさは感じないが衰えた身体は思うように動かない。
それでも少しでも遠くへと必死に手足を動かした。
どれくらい進めたのか判らないが行く手を阻むように固まって生えた木々の根元を最期の場所に選んだ。
短刀を鞘から抜きしっかり両手で握って切っ先を腹に当てる。
そして残された力の全てをその腕にこめた。


気づくと自分の身体を見下ろしていた。
そうか、俺はちゃんと死ぬことができたのだな。
もうこれで草加を苦しめることもない。
一時は悲しむかもしれないが、時が経てば癒えるだろう。
そして前途有望な外務大輔夫人たるに相応しい女性と結婚し幸せになるだろう。
草加の幸せを願いながら将来その隣に立つまだ誰とも分からぬ女性に嫉妬を覚えた。
死してなお嫉妬心を抱く自分の草加への執着の深さに嘲笑がもれた。
この恋心を捨てきれなかったせいで長く草加を苦しめてしまった。
本気で命を絶とうと思えばたとえ火も刃物も遠ざけられようとも方法はあった。
しかしここでの暮らしを自ら終わらせるには草加を愛しすぎていた。
そして甘受するには穏やかだった草加を仲間を手にかける鬼に変えた俺は罪深すぎた。
草加を悲しませるとを知りながら全てを拒絶することでしか二つの思いのせめぎ合いに壊れそうな心を保つことができなかった。
雪の上に横たわる自分の骸を改めて見下ろす。
醜い傷跡を残す砲弾に奪われた左足。
着物に覆われて見えないが全身に戦の傷跡が残っている。
初めて抱かれた時に草加が綺麗だと言ってくれた肌はやつれその面影は微塵もない。
そのかさつく肌にはあばらが浮き出ていたはずだ。
草加はこんな身体を抱いて満足していたのだろうか?
こんな身体に欲情したのだろうか?
違う、そうではない。
草加が俺を抱いたのは決して自分の色欲のためではなかったはずだ。
離れに連れて来てから俺の身体をいつも気遣ってくれていた。
それでもせっかく運んでくれた食事もろくに摂らなかった俺の体力は落ちる一方で。
そんな状態での交合は俺の身体に大きな負担になることを草加は分かっていただろう。
実際に草加が俺を抱いたのは俺が死を望む言葉を口にした時だけだった。
草加は抱くことで俺に考える余裕をなくし死への願望を忘れさせようとしたのかもしれない。
与えられる熱に身体で歓びを感じながらも心は苦しくてならなかった。
しかし昨夜の最後の交合だけは初めて肌を合わせた時のように身も心も満ち足りていた。
草加もそうであったと願いたい。


目の前の景色が揺らぐ。
もうこの世には留まっておられぬのだな。
草加に仲間を手にかけさせ苦しめた俺はきっと地獄に落ちるのだろう。
雪が舞い落ちてくる灰色の空を見上げ最後に願う。
もっと、もっと激しく雪を降らせてくれ。
そして俺の残してきた跡を消してくれ。
草加が俺を追って来れぬよう。
この骸を覆ってくれ。
草加の目に触れぬよう。
草加の記憶に残るのが昨夜の笑顔であるように。




降りしきる雪の中を走った。
降り積もった雪に秋月さんが残した跡を辿って。
冷たい空気を吸い込み肺の腑が痛む。
走り続けて心臓が痛む。
だがそれ以上に愛する人を失う恐怖に心が押しつぶされそうに痛む。
どうか間に合ってくれ。
そう心の中で祈りながら走り続けた。


俺が離れを出てから戻るまでどのくらいの時が経ったのだろう。
陸軍のやつらはどのくらいの時間屋敷にいたのだろう。
秋月さんの置手紙を握り締めて離れを飛び出すと雪の上にその跡ははっきり残っていた。
左足を失った秋月さんが這った跡が。
秋月さんの着物は部屋にきちんとたたんで残されていた。
ということは身に纏っているのは昨夜俺が着せた寝巻き用の白い単だけ。
その薄着で雪の上に横たわる冷たさを思い身体が震えた。
降りしきる雪にも消えない跡が残っていることに今だけは感謝しながらそれを辿って駆け出した。
食事も満足に取らずあの部屋の中で殆ど動かずに過ごしていた秋月さん。
そんなに体力はないはず。
ましてこれだけ雪が積もっていれば思うように進めないはずだ。
途中で身体がもたなくて動けなくなっているかもしれない。
そうでなくても全力で走れば追いつけるかもしれない。
そんな望みを胸に走り続けた。


昨夜の秋月さんが脳裏に甦る。
俺がイギリスに渡る前の幸せだった頃の笑顔を見せてくれた。
俺は有頂天になってその笑顔の裏に隠された秋月さんの決心に気づかなかった。
自分の迂闊さを呪い、身勝手さに憤りを感じる。
やっと取り戻した愛しい人を失いたくない。
秋月さんを守るためなら鬼にでもなれる。
その思いこそが秋月さんを一番苦しめているとこの手紙を見るまで気づきもしなかった。
あの戦場から救い出した後、秋月さんは何度も自殺を試みた。
離れに閉じ込めてからは心を閉ざし死を望む言葉を度々口にした。
それは全て幕府軍の同胞への罪悪感ゆえだと思っていた
ようやく一緒に暮らせるようになったのに罪悪感にばかり囚われる秋月さんに嫉妬心から苛立ちを感じた。
そしてその苛立ちをぶつけるように秋月さんを抱いた。
それが弱りきった秋月さんの身体に大きな負担になると分かっていても止められなかった。
たとえ身体だけでも受け入れられ求められていることを感じたかった。
俺は自分の気持ちを押し付けてばかりだった。
秋月さんはずっと外務大輔としての俺の立場を按じていてくれたのに。


林の中の少しばかり開けた場所で秋月さんの姿を見つけ駆け寄った。
しかし肩を揺さ振り名を呼んでも返事が返ることは無かった。
すでに冷たくなっている身体が秋月さんの死の事実を俺に突きつけていた。
どうしようもない喪失感に胸が張り裂けそうに痛みその身体に取り縋って泣いた。
泣いて泣いて、もうこの涙は止まらないだろうと思った時にふと匂い袋が目に付いた。
秋月さんがずっと大事に持っていたその中身は蝉の抜け殻。
「あの日」二人で見つけた蝉のさなぎが抜け殻になったもの。
長い時を土の中で過ごした後、羽化して飛び立つ蝉に俺たちを準えていた秋月さん。
いつかまた必ずともに歩ける日が来ると信じ離れている間もこれを見ては俺を思い出してくれていたのだろう。
そうだあの時の蝉のように俺たちは生まれた時が悪かったのだ。
もっともっと先の時代ならば二人並んで日の下を歩けるようになっているに違いない。
それまで俺も眠ることにしよう。
俺が後を追うことを秋月さんは望んではいないだろう。
だけど許して欲しい。
秋月さんのいない世は俺にとって何の意味もないのだから。
血に染まった身体から短刀を抜き取り手紙で包んで刃先を腹に当てた。
死への恐怖は全くなかった。


意識が途切れた後、気づくと自分と秋月さんの身体を見下ろしていた。
俺の行き先は間違いなく地獄なのだろうな。
秋月さんはあの優しい人はきっと極楽に行くだろう。
たとえ地獄と極楽に分かれても生まれ変わった世で必ず秋月さんを見つけてみせる。
雪が舞い落ち続ける灰色の空を見上げ最後に願う。
どうかもっと激しく雪を降らせてくれ。
そして俺たちの骸を誰にも見つからないよう覆い隠してくれ。
短い間しかともに居られなかった今生でせめて身体だけでも二度と引き離されないように。






軍部に戻り草加邸には戦犯はいなかった。
密告の情報は間違いのようだと報告した。
上官は不満そうだったが敬礼して踵を返し部屋を後にした。
その足で再び草加の屋敷に赴いた。


俺を出迎えた老女中は草加の不在を告げた。
あの時飛び出して行ったまま戻らないと。
あれからかなりの時が経っている。
未だに戻らないとなれば草加の取った行動は想像に難くなかった。
老女中も同じことを思っているのだろう。
先日俺を追い返した時の矍鑠さは感じられなかった。
屋敷を後にし離れに向かって歩く。
たどり着いたそこは戸が開け放されていた。
降り続ける雪に消えかかってはいたが屋敷とは反対方向へ痕跡が残っていた。


二人の残した跡をゆっくり踏みしめながら歩く。
俺は昔から草加を妬んでばかりいた。
剣術も勉学も何をやってもあいつの方が一歩先を進んでいた。
加えて俺にはないあの快活な性格。
藩の方針が攘夷に傾くまではあいつはいつも仲間の中心にいた。
ご家老たちからも目をかけられていた。
俺がどんなに努力をしても立てない場所にいるあいつが妬ましくて仕方がなかった。
長州藩が俺たちが地獄を見ていた時期にあいつは洋行していた。
それなのに新政府が成立するとその経歴が認められ高官になった。
なぜあいつばかりが恵まれる。
俺の欲しいものを全て持っている草加が憎かった。
だからあいつの一番大切にしているものを奪ってやろうと思った。


かなり歩いてやっと二人を見つけた。
秋月に不自由な身体でここまで来させたものは何だったのだろう。
ここまで来る間何を思っていたのだろう。
草加は秋月の身体を膝の上に乗せ自害していた。
どんな思いで秋月の残した跡を辿って来たのだろう。
外務大輔という要職にある身を躊躇うことなく後を追わせたものは何だったのだろう。
二人を動かしたものはおそらく互いへの強い愛情。
きっと互いのことだけを思いながらここまで来たのだろう。
草加が最後に俺に見せたあの鬼のような顔。
穏やかで争いごとの嫌いだった草加があんな顔をするなんて。
互いのためなら己が命さえも捨てることができる。
そんな深い愛があるなど草加のあの顔を見るまで俺は信じていなかった。
草加と秋月の望みはただともに居たいと言うささやかなものだったのに。
俺は醜い嫉妬心でそれを打ち砕き二人を引き裂いてしまった。


まだ雪を落とし続ける灰色の空を見上げて願う。
もうこれ以上雪を降らせないでくれ。
二人の身体を覆い隠してしまわないでくれ。
俺が己が罪から目を背けてしまわぬように。




04.12.29  グレペン







唯一無二の存在・・
互いに互いのことを思い合っているのに
時代の流れの中で甘い時間を許されなかったこと・・・
そんなふたりを見つめながら
相沢もまたその時代の中で必死に生きていたんだと
今更ながら思います・・・・
降り積もる雪に自分の罪を隠そうとしない彼の想いが辛いです

グレペンさん 切ないお話でした・・・ありがとうございますv