雪解け



 その白銀の野で、ふたりだけが異物だった。

 相沢陸軍少将は、圧倒的な虚無の前にただ立ち尽くしていた。恐ろしい静寂をまとったその虚無は、相沢のそんな反応を無言であざ笑っているかのようだった。その上その虚無ときたら、相沢自身がつくりだしたも同然だというのに、もう決して相沢の手の届くところにはないのだった。事態は相沢の手のひらなどとっくの昔に抜け出して、幾星霜も彼方へと駆け去ってしまっていた。
 あるいは、相沢の心は凪だった。心の襞が麻痺しきっていて、新たな感情の波がまるで立たないのだ。轟々と耳をつんざく風の叫び声も、ところかまわず嬲るように触れてくる雪の感触も、このとき相沢によって認知されてはいなかった。目の前の光景に対して、相沢は生まれたての赤ん坊以上に無力だったのだ。
 仰向けに横たわる元幕臣・秋月景一郎に覆い被さるようにして、外務大輔・草加十馬が絶命している。どちらのものとも知れぬ血が、どす黒い不気味な光沢を放っている。既に息がないふたりの肌は、凄絶な青みを帯びてさえいた。しんしんと降りしきる雪は、飛び散った命のかけらを貪欲に吸い取って、憎らしいほど生き生きと、その白さを増していくかのようだった。

 どれほどの間、無為に相沢はそこで時を過ごしていたことだろうか。
 さく、さく、と雪を踏み分ける音が相沢に向かって近づいてきた。相沢の五歩ほど後方で止まる。
「お帰り下さい。私があなた様に対して、無礼な言葉を吐かないうちに」
その声がもしも、主とも息子とも思う存在を失ったという悲しみのあまり、嗚咽に縁取られた声であったなら。あるいはその事態を引き起こした原因とも言える相沢を責め、なじり、糾弾し、その上で怒りに震えるものであったなら。そうであったなら、どれほど相沢は救われたことだろう。
 しかし実際はそうではなかった。老いた乳母の声音は、眼前の壮絶な光景に不釣り合いなほど冷静で、口調は慇懃にして静かだった。だからこそ一切の容赦がなかった。相沢は振り向くことすらできなかった。
 イトから顔を背けるようにして相沢は歩き出した。ひたすらに草加邸を出るための門を目指し、歩きにくいはずの雪上でひどく小走りになった。なにもかもから逃げ出した。



 相沢は歩き続けた。吹き付ける雪に追い立てられるようにして、ただ右の足と左の足を交互に前へ出す。心も体も彷徨っていた。何処から来て何処へ行くのかなんて、そんなことは相沢本人にも皆目見当がつかなかった。
 歩くことによって相沢の体内で発生した熱は、頭部や肩やその他の部分に降り積もっていた雪を、じわじわと溶かしていく。

 相沢はさらに歩き続けた。めぼしい変化は、雪がみぞれを経て雨に形を変え、風が弱まったことくらいだった。糸のように細く長い雨が流れるように降ってくる。それらはたださらさらと相沢の体表を滑り落ちていった。
 道行く人々は誰も相沢を見ようとはしない。寂れているわけではないのだが、雨のために人通りが少ないのである。稀に通り過ぎていく人も、そのほとんどがうつむき加減に傘をかざしつつ、足早に歩いていくばかりだった。
 相沢ばかりが軒下に入るでもなく、雨にその身をさらしながらただただ歩き続けているのであった。

 ―――雨なのか霧なのか靄なのか―――

 急速に相沢の視界は遮られつつあった。にじんだ鉛色の幕が下りてくるようであった。
 雨に打たれているというより、いつの間にか相沢は雨に抱き込まれていた。彼と雨との境界線はだんだんとぼけて混じり合い、一つになっていくかに思われた。

 相沢とて、今現在の己の行為が虚しいだけのものであることくらい、よく分かっている。無益なだけでなく、下手をすると自己満足さえ生みかねない危険な行為であることも、重々承知している。それでも足は止まらない。立ち止まるのがひたすら恐ろしいのだ。疲労感も忘れて歩き続け、風雨にさらされていないと、暴走する思考を抑えることができない。

 雨足がほんの少しだけ弱まった。
 相沢が顔を上げると、煙雨の向こうには鬼の口腔のごときぬれぬれとした闇が、ぽっかりと口を開けていた。いつの間にか夜になったらしい。明かりも持たぬ相沢はまるで目が利かなかったが、磯の香りが鼻先をかすめたせいで、どうやら自分は海岸沿いの道を歩いているらしいと判断した。

 辿り着いたのは、品川宿。
 御殿山が、見えた。

 薄墨を流したかの如く、幾重にも折り重なった紗のような闇が、相沢の眼前に在る。それに紛れて、旅籠の灯りがぽつりぽつりと頼りなくけぶっている。どやどやとした喧噪も、雨滴に阻まれて相沢の所までは押し寄せてはこない。相沢は生ける幽鬼さながらに歩いた。
 相沢は通りを曲がって小径に入った。特に当てがあるわけではない。相変わらず、雨粒に洗われている。

 ……のォ………はァ……とも、……

 相沢は立ち止まった。顎を上げる。
 相沢はその音を、その声を、耳でしっかりと捉えた。

 ツンツン、シャン。シャン、ツンツン。

 高く低く。遠く近く。突き放すように、それでいて誘うように。雨音の間をぬって、三味線の音が相沢を取り巻く。相沢は、切れ切れに流れてくる音の、その一つ一つを丁寧に拾い集めた。その調べは嫋々たる哀切が過ぎて、いっそ虚しいほどだった。
 相沢は再び歩き始めた。
 先程までのあてど無い無益な歩みではない。相沢は音曲の糸をどんどんたぐり寄せた。
 そしてそれは逃げずに相沢を待っていてくれた。
 ぴしゃぴしゃと雨水を蹴散らしながら、相沢はとある町屋の軒下に駆け込んだ。

 ―――儘ならぬ…

 何の因果だろうか。細い格子柵のはまった窓。雨だというのに格子の奥の障子は大きく開けられている。屋内では、格子柵にもたれかかるようにして、三味線を手にした女が一人座っていた。襟足が驚くほど長く、つぶし島田に結った髪に銀の簪を一本だけ挿しているその姿は、すっきりと粋だ。けれどもほんの少しだけ年増のようでもあった。うなじに落ちた影がくすんでいる。

 …此の世の縁は…

 くすんでいるのは、相沢も同じだった。ぼやぼやしていると相沢の全てが雨に溶けて流れ出していってしまいそうだ。ひっきりなしに降ってくる雨から軒下に逃れたとは言っても、濡れた頭髪から、肩から、袖から、じわりじわりと湿気が相沢を侵しに来る。

 …薄く共…

 女は相沢に気づかない。行灯さえない三畳の暗がりの中で、うずくまるような声で、女は女だけの世界で吟じている。

 …未来は一ツ蓮葉の…

 額にべっとりと張りついた前髪の先が、ひっきりなしに相沢の目をちくちくと刺す。その先端から漏れ出す雨滴は、相沢の瞼の裏に吸い込まれていく。相沢は冷えて血色の悪くなった指を伸ばし、格子柵に触れた。つッと上から下へなぞる。再び上から下へ。雨だれのように。さらに、また。

 …蓮の台に弐人連れ―――

 相沢の目から、なにやら水が大きく膨れ上がったかと思うと、ぱたぱたと彼の頬を伝って顎から下へ流れ落ちていった。

 「…ってくれ」
 女の、かろうじて眼窩にはまっているだけの虚ろな眼球が、ぎょろりとすべって一瞬だけ相沢を捉えた。
 「もう一度、歌ってくれ」
 声の出し方を忘れてしまったみたいに、相沢の声音はかすれていた。
 それでも
 女はばちを握り直した。相沢は格子柵を強く握った。
 ぢゃン、と三味線が強く鳴った。びぃん、と空気が震え上がる。
 ばちはまるで鋭利な刃物のようで、この世の全てに斬りつける代わりに弦をはじいているらしかった。女は相沢に頼まれたからというより、自分のために三味線をかき鳴らし、喉をも裂けよと放吟しているのであった。女の声が、荒々しく伸び縮みするにつれて、相沢の嗚咽もどんどんひどくなっていった。

 少し、思い上がっていたのかもしれない。維新という大業を成し遂げたものの一人として、自分の手のひらが大きくなったように錯覚していた。全てを見通す眼など、誰も持っていないというのに。他ならぬ相沢が持ち込んだ火種は、相沢の思いも寄らぬところで、想定していなかった大きさで爆発し、果てた。相沢はただ置いてけぼりを喰らっただけだった。
 一方で相沢はそのことを、自分のしたことを、罪だとは思っていない。それはきっと死ぬまで変わらない。相沢は相沢なりに新政府の高官として、従うべき律・尊重すべき信念に則って行動をとったつもりだ。私的な、抗いがたい感情に押し流された部分も確かに大きい。けれどもそれが全部ではないのだ。

 相沢は格子柵から手を離すと、女を見た。女は相沢を見ようとはしない。ひたすらにばちを動かし続ける女の手は、切なくなるほどに小さく、そして骨張っていた。

 恨むなら恨め、と思う。祟るなら祟れ、と相沢はそう思う。罪を償う、とは言わない。元に戻れはしないのだから、発端をつくった者として、その結果を全てありのままに受け止めるしかない。一生涯、己の業(ごう)としてその全てを背負って生きていくしかない。相沢にできることはきっとそのくらいなのだ。

 相沢は、長く息をついた。寒空の下、白い塊が形成されたかと思うと、みるみるうちに流されて色も形も失ってしまう。相沢は何度もそれを繰り返した。白い煙を吐き出しては、その消失する先を追う。
 女はまだ、そう使命づけられたからくりのように、何度も何度もその曲を吟じていた。繰り返すごとに女の声は、限りなく高く細く伸び、夜空を信じられない速さで駆けていった。
 相沢は黙礼すると、そっと格子柵のそばを離れた。一歩軒下から出ると、相変わらず降り続いていた雨がやはり容赦なく相沢にたたきつけてきた。相沢は一度大きく頭上を仰ぎ見ると、確かな足取りで歩き始めた。もと来た道を行く。帰るのだ。

 地上にわだかまっていた雪は雨粒を吸い込んで、ゆっくりと弛緩し始めていた。




2005-04-01 夏嵐



雪の中で散っていったふたりの姿を見た相沢・・・
その事を自分の罪として生きたであろう、後の人生・・・
あの頃誰もが自分の中の正義を信じて生きていたんだと
今更ながらに思わされます
願わくば全ての魂が安らかであらんことを・・・・

夏嵐さん、ありがとうございますv