雛の家



一、


5月も下旬になり、忙しかった家業もひと段落がつく。
店頭に飾られていた人形も鯉のぼりも箱に収められ倉庫に運ばれる。
段飾りの棚も然りだ。
年末から約5ヶ月間、華やかに飾りつけられていた店内も今は殺風景で、引っ越した後の
ガランとした事務所のようだった。
まるで今朝までのことは夢だったのだと言わんばかりに。少し淋しいような気がした。

店内は方々の窓もドアも開け放たれていた。汗の滲んだ額を、風が撫でていく。
その心地よさに暫し心を委ねていると声をかけられた。
店の奥から妹の洋子が出てきたのだ。
「お兄ちゃん、お疲れ!お母さんがお茶入ったからって。」
「おう、わかった。汗を流したらいくよ。」
これでようやく力仕事から解放される。
首から提げたタオルで軽く汗を拭うとサンダルを脱いで階段を上がった。

「洋二、お疲れさま。お茶飲んで一息入れてね。」
ズズッと音を立てて出されたお茶を飲んでいると母が言った。
「なんだ、その“一息”って、まだ何かやることあんの?俺もうシャワー浴びちゃったよ。」
「いいのよ、こっちの方はね。お店の掃除や倉庫の方の細かい整頓は従業員で出来るから。
あんたはお父さんが話があるって。事務所に行ってちょうだい。」
「げっ、マジ?何だろ、改まって事務所なんてさー。俺なんかしたっけ?」
「えへへー、アレのことじゃないの?しゅ・ぎょ・う。」
別室の休憩室へと従業員にお茶を出しに行っていた洋子が戻ってくるなりそう言った。
「そっか・・・。しゃぁねーな。」
湯飲みにお茶を半分ほど残して席を立った。


* * * * * * * * * *


香藤人形店 ─── 船橋市で80余年続く雛人形店。
自分が物心つく前に他界した曾祖父が若い頃浅草で雛人形制作の修行をして開業した店で
ある。雛人形店としては歴史がある方ではないが広い店舗を構えていて県内でもトップ
クラスの規模を持つ雛人形の製造直売店だった。
祖母は他界していて、寡黙な祖父はこつこつと作業場で人形を組んでいるが父は雛人形の
製造と店の経営の両方を一人でこなしていた。
香藤洋二はその店の長男、つまりは四代目ということになる。

地元の商業高校を卒業したらどこか別の店で見習いとして修行してくることになっていた。
今時修行なんて、と学校の同級生には散々言われたが結構こういうことは商売ではある
ことだった。家業が呉服店を営んでいる息子も京都で・・・などという話を聞く。
板前だったらそれこそ中学を出て、なんていう話はテレビなどでも聞く。
だからそんなに現代でも取り立てて珍しいことではないだろうと思うのだが、サラリー
マン家庭の人間から見ると一世紀古い話に思えるらしい。
まあ、当の本人である自分でもそう思っていた。
そのため、別の店で修行という話が先延ばしになっていたのだ。家を手伝えばいい、と。
両親も暫くはそれで様子を見ようということで納得した。

ところが卒業して約2ヶ月、本格的に家を手伝うようになって次第に考えが変わってきた。
いくら生まれてからずっとこの仕事を見ているとはいえ、親に言われて片手間に手伝う
のと実際に一生の仕事として手伝うのとでは勝手が全く違っていた。
大体世間一般では就職時期は4月が当たり前。その後新入社員は研修などをこなし仕事の
イロハのイから学ぶ。
ところがこの雛人形の業界、イを学んでいる暇がないのだ。
3月に桃の節句、5月は端午の節句、春が忙しいことは当たり前。常識だ。
つまり1年のうちで一番忙しい、いわば書き入れ時と就職時期が見事にぶつかる。
いきなり実戦、しかも個人店で人手に余裕などある筈もないから最前線に配置だ。
接客から配達、飾りつけ、はたまたクレーム処理に至るまで。
とてもじゃないが付け刃の知識では追いつかないことが多かった。
在学中から仕込んでもらっていれば良かったと思うが、それは後の祭りだった。
実家だから、親だから何とかなるという甘えが自分にも、また親の方にもあったのだと
いうことが判った。
結果、やはりどこかに出た方が良いだろうということになった。

しかし、時期を外してしまったため、どこの店でも今更預かるのは・・・と難色を示した。
それはそうだ、どこの店でも受け入れられるというものではない。製造から販売を一手に
行う人形店は意外と少ないのだ。看板には『手作り有余年』と書かれていても。
しかも製造を行うといっても大体は家内制手工業なので「さあ、ひとり若いのを。」と
言われても受け入れる余裕がない。
そこで東京、埼玉、京都の老舗と呼ばれる大手に全国から見習い修行の依頼が殺到する。
既にこの時期空きが無いのは当然だった。
父親も忙しい合間を縫ってそこかしこのツテを頼って見習い先を探していたのだが、
なかなか見つからなかった。


先ほど片づけをしていた1階の店舗の隅に事務所がある。といっても店舗のフロアに天井
から間仕切りをして、そこに『事務所』とプレートが貼られているだけの簡素なものだ。
僅か10畳余り、一般家庭のリビング以下のスペースに事務机と応接セットがあるだけの。
個人の店なんてそんなものだ。

ドアがないので仕切りの壁をノックする。
「親父、俺だけど。」
「洋二か、そっちに座れ。」
机に向かっていた父親が応接セットのソファに座るように促す。
「うん、・・・もしかして修行の話?」
座りながら訊くと「お、いい勘しているな。」と言われた。
そんなことしか褒められることはない。頭の回転は悪くはないと思うのだが、どうもそれ
は勉強には向かないものだったらしい。
おもむろに父がソファに座り、手にしていた書類をテーブルに広げた。
「洋二、お前は来月からここで世話になることになったから、分かったな?」
「あ、うん。分かった。・・・で、どこ?浅草?岩槻?」
大体自分で予想していた地名を挙げる。が、父は首を横に振った。
「S市だ。」
「・・・は?」
余りにも予想と違っていた場所を言われ聞き返した。聞き間違いではないのかという期待
を込めて。
「だからS市だよ。ここはウチと同じくらいの規模の店だがな、やはり製造から販売まで
きちんとやっているところだ。」
「えっ?えっ・・・ちょっと・・・。」
「しかもお前と似たような年頃の息子さんもいるからその子のいい刺激になれば、とまで
仰ってくれている。ありがたいことだ。」
「ちょっと・・・待っ・・・」
「何だ?」
「何でそんなとこなの?こっから遠いじゃん。しかも・・・」
「しかも・・・何だ?」
「しかも・・・田舎だ・・・。」
「そんなことないぞ、S市は県庁所在地だ、新幹線だって止まるぞ。大体田舎とは何だ、
行ったこともないくせに。S市は結構な都会だぞ。」
「そんなこと言ったって・・・やっぱり遠いじゃないか。新幹線で往復なんて時間も金も
かかるよ。」
その言葉を聞いて父は深い溜息をつく。そして言った。
「だから良いんだ。おいそれと帰って来られない、それがな。」
言い終わると背もたれに体重を預け、顔をじっと見る。
「お前は見てくれも良いし、まあ性格もそこそこだと思っているよ。社交的で商売に
向いているとも思っている。」
今までになく父が自分のことを褒めている。内心驚きながらも喜んでいたが、そこから
続いた言葉が酷かった。
「そのおかげで女の子はとっかえひっかえだっただろう。お前、私が知らないとでも
思っていたのか?」
ガクッ!
思わずテーブルについていた肘が落ちそうになった。
「だから家から近い所じゃいかんと思ったんだ。田舎?結構じゃないか。不自由な思いを
して来い。それが修行ってもんだ。」
初めから父親の決めた修行先を変えることは出来ないだろうとは思っていたが、とどめを
刺された気分だった。
仕方なくテーブルに広げられたその店の広告やら地図などの資料を手にして項垂れたまま
事務所を出た。


修行先には来月・・・6月には行くことになっている。
残された約半月の時間を荷物整理と旅行ガイドでの下調べ、そして両手に余るほどの
女友達への挨拶に費やした。





*のそのそとつづきます;
‘04.03.10.
ちづる



★ちづるさんのパラレルSSの第1回目ですv
どうやら雛人形の世界が舞台のようです(^o^)
修業に出ることになった香籐くん
修業先で・・・・出会うのでしょうか??
楽しみですねv

ちづるさん連載大変でしょうが
無理はなさいませんよう・・・
でもこれから宜しくお願いしますvvv