ドント ビ アフレイド
「ええっ!!死んだ!?」 香藤の高い声に、ソファーに座っていた岩城も、顔を上げた。 それは、ある朝、突然、香藤に入った、同級生の電話だった。 電話を切ると、やや暗い顔で、香藤が岩城の傍に座ってきた。 「・・・・どうしたんだ?」 そう心配して尋ねる岩城に、香藤は、ウン・・・と、言って、ぽつぽつと説明を始めた。 香藤の高校の同級生である、柳井道治、その妻である柳井希恵が死んだ。希恵も同じく、香藤の同級 生であり、2人は卒業後、ずっと交際を続け、そのままゴールインした。 そのどちらとも、香藤は在学中からの友人で、結婚後も、親しくしていた。 「・・・すごく・・・いい夫婦、だったから・・・」 そう言う香藤に、岩城は、ふと、その名前を思い出した。 「・・・・この家を建てたとき、花をくれた・・・?」 香藤は、うん、と頷いた。 岩城は、少し置いて、死因を尋ねた。 「・・・・それが・・・信じらんないようなこと・・・2人で旅行してて・・・希恵が落ちたんだって ・・・橋から・・・・」 「・・・・・」 岩城は返す言葉がなかった。 橋から落ちた・・・それは、忘れもしない、自分にもあったことであった。 「・・・・どうして落ちたか、詳しく訊けなかったんだけど・・・・それで、川に落ちて・・・直ぐ助 けに入ったんだけど・・・・落ちたときに、頭を打ってて・・・駄目だった・・って・・」 「・・・そうか・・・」 岩城がそう呟き、それきり2人で黙り込んでしまった。 少しして、香藤が気を取り直したように、「ごめんね、岩城さん、気にしないで!」と、口にした。 「あっ・・ああ・・いや・・・でも・・どちらも気の毒だな・・・死んだ彼女も・・・」 そう言いかけて、口をつぐんだ。 死んだ彼女も、そして、残された彼も・・・と、岩城が言いかけた言葉が、まるで聞こえてくるよう だった。 そうだね・・・と、小さく頷き、香藤は岩城に、「だから、俺、今日、ちょっと行ってくるから、柳井 んち、今夜、通夜だって言ってるから、明日は仕事、抜けられないし・・・」 「ああ、そうだな」 そう言うと、また、2人で黙っていた。 なんともいえない沈鬱な気分が、2人の心に重くのしかかっていた。 その日、昼過ぎまで仕事をした香藤は、一旦自宅に帰り、喪服に着替えると、自分の車で柳井道治の 家へ向かった。車で1時間ほどの所で、3年前に柳井夫婦が引っ越してきてからも、香藤はその家へ 何度か行った事があった。 いつも飲んで、最後は岩城ののろけになる香藤を、柳井は嫌な顔ひとつせずに、聞いてくれていた。 そんな柳井の傍で、無口だが、優しく沿っていたのが、今回死んだ希恵、だった。 2人は本当に、いいカップル、だった。 家へ着くと、親族達が集まり、通夜の準備に追われていた。 そこに柳井の顔がなかったので尋ねると、2階の部屋に居ると、誰かが教えてくれた。 香藤は上がり、暫く悩んで、外から声をかけた。 「道治・・・俺・・・香藤だけど」 暫くして、中からドアが開けられた。 そこから覗いた柳井は、一目で憔悴しきっている様子が伺えた。 「・・・来てくれたのか・・・すまん」 そう言う柳井に、うん・・、とだけしか、香藤は答えられなかった。 「・・まあ、入れよ」 柳井はシャツにジーンズ、喪服に着替えることもしていなかった。 どうしようかと迷っている香藤を、柳井は、部屋へと迎え入れた。 そこは、夫婦のベッドルームだった。 カーテンの閉まった薄暗い部屋で、香藤は、柳井と向き合って、ベッドへ座った。 ベッドサイドテーブルに、希恵と2人で笑っている写真が立ててあった。 香藤は胸が、ズキンと、痛んだ。 なんと言葉をかけようかと躊躇している香藤へ、柳井が、「驚いただろ」と、言った。 「・・・驚いたよ・・・今朝、恭二から電話もらって・・・」 恭二とは、共通の友人だった。 「・・・希恵と週末、旅行に出て・・・木で出来た橋・・・・手すりがちょっと低くて・・・俺は危 ないから止めろ、って言ったんだけど・・・大丈夫大丈夫って・・・・・それで、2人で渡ってたら ・・・あっという間に・・・いなくなった・・・何かにつまずいたみたいだった・・・手を伸ばした けど・・・捕まえられなくて・・・それで・・・直ぐ助けに降りた・・・・落ちた時・・・強く頭を 打ってて・・・」 そこまで、ゆっくりと思い出すように語っていた柳井は、ひと言最後に「駄目だった・・」と口にす ると、後は嗚咽で言葉にならなかった。 香藤は、膝の上に置いた両手を、力いっぱい握り締め、静かに肩を震わせていた。 どんなにか辛いだろう・・・、それを慰める言葉など、ない、と思えた。 「俺が・・・俺がちゃんと、止めてれば・・」 そんな事を、何度も口にする柳井に、香藤は、何とか「・・・そんな事、思うな」と、言えただけだ った。 何度もそんなやり取りを繰り返しているうちに、柳井が口走った「お前だって・・・お前だって絶対 そう考える!!もし・・・もし岩城さんが」と・・・・。 そしてすぐに、「すまん」、と、柳井は呟いた。 「謝るなよ」、と、香藤が答えた。 「・・・ほんとに・・・・情けないよ・・・俺は・・・ちゃんとあいつを見送ってやることも出来な い・・・とても・・・あいつが死んだことを、考えられない・・・信じられない・・・今でも、その ことから、何とか逃げようとしてる・・・」 香藤の胸が、ズキズキと、音を立ててきしみ始めていた。 心臓にひびが入ってくるような切迫感に追い立てられていた。 そんな香藤の前で、柳井が涙に溺れながら言葉を吐き出した。 「・・・いったい・・・いったい、どうやって、これから・・・あいつが居ない生活を・・・生きて いけばいいのか・・・・判らないんだ・・・こんなこと・・・考えたこともなかった・・・あいつが 俺の傍から・・・居なくなるなんてっ・・・」 香藤は、そこから逃げ出したい衝動に駆られていた。 通夜を終え、柳井の家から帰宅する道を運転しながら、少しすると、香藤は、呼吸が出来なくなるほ どの息苦しさを感じはじめた。 わき道に反れて、車を止めた。 ハンドルに頭をつけて窓を全開にすると、香藤は肩でハアハアと荒い息を吐き出し、酸素を求めた。 じっとりと背中が汗ばんでいた。 今日、目にした柳井の姿、それが自分に重なった。 伸ばした手が掴めた未来と掴めなかった未来・・・・そこには紙一重の隙間しかない。 もしものときの自分の姿、それは、余りにも残酷で、救いのない絶望だけの姿だった。 家に帰れば岩城がいる、それを知りながら、車のなかでこうしている自分が酷く独りぼっちに感じら れた。 「・・・・岩城・・さん・・」 香藤は小さく呼んでいた。 柳井の姿から与えられたショックは、自宅へ帰り着いても、香藤の体から離れてはくれなかった。 別れは突然訪れる。それは予期できない、未来図でもあった。 玄関で、岩城が用意していた清めの塩に迎えられ、香藤は家へと入った。 「どうだった?」 遠慮がちに訊いてきた岩城へ、香藤は弱く笑った。 「・・・もう・・・何にも言えなかった・・・」 弱く口にした香藤へ、そうか、とだけ岩城は答え、風呂に入ったらどうだ?と、言った。 黙って頷くと、香藤は重い体と心のまま、風呂へ入った。 風呂から上がった香藤に、岩城がキッチンから「ビールでも飲むか?」と、訊いてきた。 「そうだね。ありがと」 答えて、香藤はソファーへ座った。 いつもなら、自分もキッチンへ入っていくところだった。 そんな香藤の前に、岩城がビールを持って来ると、それを手渡し、ゆっくりと横に座った。 「ありがと」 再び香藤はそう言うと、岩城に続いて、缶ビールを開けた。 一口、喉に流し込むと、香藤は自分が、とても喉が渇いていたことを知り、続けて一気に半分ほど飲 み干した。 それを見て、岩城も、静かにビールに口をつけた。 「・・・なんか・・・見てらんない感じ・・・でさ・・あいつ・・・自分がどうしていいか・・・ま だ希恵が死んだことなんて・・・全く受け入れられてない・・・って感じだった・・」 ぽつりぽつりと、今夜のことを告げる香藤だった。 「・・・・・そうだろうな・・・・当分・・・苦しいだろうな・・・かわいそうに・・・」 岩城が小さく答えた。 互いに、同じ事を考えていた。 しかし、そのことは口にしたくなかった。 静かな沈黙が少し続くと、香藤が、残りのビールを飲み干し、その缶を片手で握りつぶした。 メキメキと、音を立てて潰れた缶を、香藤はテーブルに置いた。 香藤は暫くじっとフロアを見つめていた。岩城は黙って、そんな香藤を見守っていた。 不意に香藤が、俯いたまま小さく呟いた。 「・・抱いて・・・岩城さん」 岩城が、少し驚いて、えっ?と、顔を香藤に向けると、香藤も、床に落としていた顔を上げ、岩城を 見つめた。 泣いてきた香藤の目は、少し赤く充血していた。 ふわりと、香藤は岩城の肩に両手を投げると、そのまま抱きついて耳元で再び、願いを口にした。 「俺を抱いて・・・岩城さん」 帰宅したときから、岩城がさりげなく施してくれる気遣い、それに、香藤は、もう少し甘えていたい と、感じていた。 そして、そんな香藤の想いを、岩城は瞬時に感じ取ってくれた。 何も言わず、自分のビールをテーブルに置くと、岩城はゆっくりと、香藤の唇にキスを落としていっ た。それは優しい、慈しむようなキスだった。 香藤は眼を閉じたまま、その唇の感触と岩城の匂いに酔っていった。 岩城の体に押され、そのままソファーで重なると、岩城の手が、香藤のパジャマの裾から這い登って きた。 丁寧な愛撫、思いやる手順・・・・言い尽くせないほどの幸せを、体中に感じながら、香藤は岩城に 抱かれた。 岩城が自分の中に入ってくると、そこから生まれる一体感に、香藤は、今更のように感動した。 感動し、そして、今日の柳井の姿を思い、胸が焼けた。岩城が生きているからこそ、生まれる一体感 だと思った。 愛する者から愛される喜び、それを、もう2度と感じることが出来ない、そう知ったとき、人はどう するのだろう。 柳井は・・・・どうするのだろう。柳井は・・・もう2度と希恵に会うことは出来ない。それも、あ んなに突然に・・・・・明日言おうとしていたことさえ何ひとつ告げる間もなく・・・。 岩城の肩にしがみついた香藤の腕が不意に震え、その背から突然、苦しい嗚咽が漏れ聞こえ始めた。 驚いて、動きを止める岩城に、「いい・・続けて・・岩城さん・・いいからっ!!続けてっ!!」と 香藤が泣きながら叫んでいた。 そんな香藤の頭を肩から外し、その顔を優しく見下ろしながら、岩城は濡れる頬に舌を這わせ、唇を 覆った。 そして何も言わず腰を再び進め始めた。 あっ!と、香藤の喉を突いて出る声と岩城の名を呼ぶ声が、しがみついた耳元で繰り返され、2人は 当然のように一体感が生む幸せに抱かれ、彩られた快楽の海を泳ぎながら、同じ地点を目指し、次第 に息を上げ、そして、果てた。 その夜、香藤がベッドへ入ろうとすると、岩城が、自分のほうへ香藤を呼んだ。 呼ばれるまま、香藤は岩城の胸に治まった。 「腕、痛くなるよ」 そう言って、頭を外そうとする香藤へ、岩城は、「・・・いいから」と、小さく口にした。 香藤は、うん・・・と言い、両手をしっかりと岩城の腰に回し抱いて、目を閉じた。 岩城の匂いを胸いっぱいに嗅ぎとりながら、何とか自分で、「安心」を得ようと努力した。 精神的にも肉体的にも疲れていた香藤は、暫くすると、岩城の胸で、寝息をたて始めていた。 今日、香藤が何を思い、何を考え帰って来たか、日頃は判っていても、向き合うことのない事柄、そ れが、ふとしたことで現実味を帯びて襲ってくる、そのときの気持ちは、耐え難い、恐怖にも似た感 情だということを、岩城は随分前に、既に体験して知っていた。 そのときは香藤が、上手に自分を救ってくれた。 岩城は、自分があのときの香藤のように、うまく言葉を作り出せないことが、辛かった。自分が感じ た安心感を、今、香藤にも与えてやりたい、と、心から思った。 つくづく、自分は不器用だ、と、腕の中の香藤の寝顔を見ながら、心の中で詫びた。 悪いことは重なる。 岩城が運転する車が、事故に巻き込まれた。 車は、後方が損傷したが、ボディの僅かなへこみだけで、数日で修理可能な程度、岩城自身にも何ら 影響はなかった。 追突してきた車が、スピードを出していなかったことが幸いしていた。 本来なら笑って済ますところだった、が、タイミングが悪かった。 それは、香藤が、柳井希恵の通夜から帰ってきて、僅か2日後の出来事だった。 出来れば、自分の体にも何ら影響がなかったのだから、香藤には知らせずにおきたい、と、岩城は思 った、が、何せ、車自体が家に帰らないのだから、その理由が必要だった。 点検に出したことにした。 その夜、タクシーで帰宅した岩城を、玄関で香藤は迎えながら、「えっ、車は?」と、案の定、訊い てきた。 「ああ、ちょっと、調子がよくなくてな・・・点検に出したんだ」 さりげなくそう答え、岩城は笑顔を造った。 「ふーん・・どこが?」 そう訊かれるだろうと、岩城はその答えもちゃんと用意していた。 「バッテリーが、そろそろ駄目なんじゃないかな・・・替えないと・・・エアコンが少し、効きが悪 いし・・・」 そう言いながら、香藤の先に立ちリビングに入っていった岩城の後ろで、香藤が立ち止まっていた。 えっ?と、岩城が振り向いた。 そんな岩城に向かって、香藤がひと言、口にした。 「うそ」 岩城の心臓が、ドクンと、飛び跳ねた。が、「なに言ってるんだ、そんな、嘘なんか・・」と、何と か口にしかけた。 その岩城へ、香藤は、静かに告げた。 「・・・岩城さんには言ってなかったけど、バッテリーなら、3週間前に、俺が自分のを替えるとき に、一緒に替えてる」 あっ・・・という表情で、瞬時に困惑の色を浮かべる岩城に、「ほんとはどうしたの?」と、香藤が 見つめて口にした。 その表情は、もう、嘘は何も通用しないよ、と、言っていた。 「・・・あ・・・いや・・その・・大したことじゃないんだ・・今日、車を運転していたら・・」 「事故ったんだね」 岩城のたどたどしい弁明を、香藤はひと言で切り捨てた。 そのまま、すたすたと、岩城の前を通り抜け、ソファーに座ると、「岩城さんも、座って。そして、 ちゃんと説明して!」と、言った。 岩城は黙って、香藤の横に腰を下ろした。 そして、今日起こった事故について説明した。 勿論、それが、どれ程些細な事故であったか、また、自分自身にも何ら支障がなかったことを強く訴 え、最後に、嘘をついて悪かったと、静かに落ち着いて、述べていった。 香藤は、それを黙って聞いていた。 全てを聞き終わり、ポツリと、香藤が呟いた。 「・・・そういった事故って・・・こっちからは防ぎようがないよね・・・」 岩城は香藤を見て、「なに言ってる、そんな・・・こんなこと、滅多にあることじゃないんだから、 気にするな」と、軽く答えた。 答えながら、全く、何ひとつ安心を与えない応対だな・・と、岩城は思った、が、今はそれしか頭に 浮かばなかった。 そんな、どこか困窮している感の見える岩城に、香藤は笑顔で、「うん!!でも、よかった!!とに かく岩城さんに何もなくて」と、元気に口にした。 「ああ、悪かったな、心配かけて」 香藤の言葉に少し安心して、岩城もそう答えた。 表情を和らげた岩城に、思いっきり抱きつくと、再び、「ほんと・・・よかった・・」と、香藤は呟 いた。 岩城が自分についた嘘、それは、愛情の裏返しだと、香藤は知っていた。 岩城が自分に言えない、と判断した、それはすなわち、岩城も事故というものが、見えない惨事を引 き起こす無限の可能性を持つものである、ということを、十分知っているからだと思った。 考えれば切りがない、また、何もなければ、日ごろは忘れていることでもあった。 その日、2人で夕食を食べた後、香藤は、岩城が風呂へ入っている間に、柳井道治の家へ電話を入れ た。 仕事で葬儀に出れなかった侘びと、その後の様子も気になっていた。 電話には、柳井の母親が出た。 事情を説明して名乗ると、母親が香藤に、今、柳井は寝ている、と言った。そして、こう続けた。 あれから、一睡も出来ず、食事もろくに食べない。周りが見かねて、医者から睡眠薬をもらって、今 さっき、やっと寝たところなので、申し訳ないが電話に出ることが出来ない、と。 香藤は、起きたら電話があったことを伝えて欲しい、と、言い、電話を切った。 自分が話をしても、柳井を救うことは出来ない、と、香藤は感じた。希恵が生き返る、そんな奇跡で も起きない限り、柳井は、誰からも救われることはないだろう、とも思った。 互いに風呂を出て、岩城が、今日の仕事の話をし、香藤も、自分の仕事の話をしながら、そうやって 2時間余りを、ソファーで過ごした。 どちらからともなく、寝よう、と言い、2人で2階に上がった。 寝室に入って、岩城が羽織っていたカーディガンを脱ぎ、それを持ってベッドへ向かった、その足が 手にしていたカーディガンの、床に落ちた端を踏んだ。 片足が踏んだ端にとられ、体が傾いた。 あっ、と、岩城が声を上げた、その体が、一瞬で、香藤の手でドン、と突かれ、ベッドへ飛んだ。 香藤も、岩城の体へ手を伸ばした状態で、体がベッドへ半分倒れ掛かっていた。 なにが起こったのか、何故、香藤が自分を突き飛ばしたのか、岩城の頭は混乱していた。 そんな岩城の傍で、ベッドに両肘を突いたまま顔を上げると、香藤がひと言、「岩城さんっ!!」と、 叫んだ。 そして、そのまま続けて声を荒らげた。 「岩城さんっ!!気をつけてよっ!!そのまま転んでたら、頭、テーブルの端にぶつけてるよっ!!」 言われて、岩城は初めて、自分がどうなっていたかを悟った。 そのまま倒れていたら、ベッドサイドテーブルの縁に、頭をぶつけていた・・かも、知れなかった。 「悪い・・足を・・」 そう言いかけた岩城に、香藤は、怒涛のように、言葉を投げつけ始めた。 それは岩城が、全く言葉を挟む余地がないほどの、息もつかない勢いだった。 「岩城さんっ!!もっと、ちゃんと日頃から、自分の行動、気をつけてよっ!!いつも、俺が一緒にい れるわけじゃないんだからねっ!!自分で気をつけなきゃ、誰も、周りは、助けてなんかくれないん だよっ!!判ってるのっ?何かあっても、後から反省したって、もう遅いんだからっ!!大体・・大 体、不注意が多すぎるよっ!!岩城さんは!!あのときだって・・・あの撮影のときだってっ!!も っと気をつけてっ・・・」 そこまで一気に言葉を吐き出し、香藤は、はっとして、口を閉じた。 そして、「ごめん・・・俺・・」と、小さく呟いた。 岩城は、そんな香藤の勢いに、倒れたままの姿勢で香藤を見つめていた。 しかし、岩城は、別にショックを受けていたわけではなかった。香藤を襲った苛立ちと怒りは、別の ものが後押しして出た言葉、と、重々理解していた。 ベッドとベッドの間に座り込んでしまっていた香藤が、再び、「・・・岩城さん・・・ごめん・・・」 と、情けない声を出した。 「・・・いや・・・気にするな・・・注意不足の俺が悪い・・・今後はもっと気をつけるよ」 そう言いながら、岩城はベッドで体を起こした。 「ほら、そんなとこに座り込んでたら、風邪ひくぞ」、と、岩城が香藤の腕を掴んで、引き上げた。 差し出された手に引かれて膝を起こした香藤は、そのまま岩城と一緒のベッドに入り、リネンの中で も、ごめん、と、何度か口にしながら、そうするうちに、岩城の体にしっかりと抱きついて眠った。 香藤が寝たことを確認して、岩城も眠る努力をした。 今、香藤が抱える、はっきりとしない暗い闇、その闇が少しでも、目が覚めたときには晴れていれば いい、と、そう願って目を閉じた。 何時間、寝ただろうか。 香藤のうなされる声で、岩城は目が覚めた。 見ると、酷く汗をかいた香藤が横で、苦しそうに、聞き取れない呻きにも似た声を上げていた。 「香藤・・・・香藤・・・・」 何度か体をゆすって、香藤を起こした。 ふっと、目を開けた香藤は、一瞬、ここが何処なのか、判らない顔をして天井を見つめていた。 そんな香藤に、大丈夫か?と、岩城は声をかけた。 香藤は声のするほうに目をむけ、岩城を認めると、岩城さん・・・と、呟いた。 「夢でも見たのか?酷くうなされていたぞ」 そう言う岩城の言葉に、はじかれたように、香藤は横の岩城に抱きついた。 岩城にしがみつく力は、まるで失いそうなものを必死で掴んでいるような、岩城が息をするのも苦し いほどの力だった。そうやってしがみついたまま、「嫌だ・・・絶対、嫌だ・・・」と、香藤は、同じ 事を繰り返し口にしていた。 不安定に揺らぐ香藤の体を、岩城はなだめるように抱きしめながら、「・・香藤・・・落ち着け・・」 と諭し、その背を摩りながら「・・・いいから・・・判ってるから・・・」と、優しく声をかけた。 しかし香藤の頭は、そう簡単には言うことを効いてはくれなかった。 自分がいったい何を夢見ていたのか、そんな事も思い出せない。 しかし、それが、あの数日前に、柳井の通夜から帰る車の中で味わった息苦しさ、焦り、切迫感、そ して恐怖、それら全てを思い出させる、岩城を見つけることが出来ない暗い闇を彷徨う夢であったこ とは、確かだった。 「・・・岩城さん・・・俺・・・嫌だ・・・・絶対に・・・耐えられない・・」 どうする、いつかは来る、この人と別れなければいけないときが・・・・残すのか、残されるのか、 時間はあるのか、自分がこの人を愛する時間を、十分与えられるのか・・・、言い残したことはない のか・・・自分がどれ程愛したかを・・・どれ程必要だったかを・・・その存在こそが自分の生きる 糧だったと・・・そして、何よりも、愛されたことがどれ程幸せだったかを・・・・。 「・・・耐えられない・・・・こんな思い・・・怖くて死にそうだ・・・・」 希恵の死から2人が触れることを避けていた事項を、混乱した香藤の神経が封印を解いてしまった。 香藤は、しがみついた手を、緩めることも出来ないでいた。 「・・・ああ・・・そうだな・・・」 岩城は静かに、香藤の背においた自分の手の力を、僅かに強めた。 耐えられないことなど、とっくに知っていた。 もし1人になれば、世界は全て変るだろう。 見る景色も、耳に響く音色も、かつてそれを2人で体験した全てのものが、そのときからは、ただの 苦い思い出に変化するだろう。 喜びは、もう生まれない、なにからも。 「・・・・・どうした?お前らしくないな・・・そんな判らない先のことなんか、考えても仕方ない って、言わないのか?」 そう、今こそ、香藤の爽快でポジティブな姿勢が欲しかった。 「ほら・・・そんな、しがみついてたら苦しいだろ・・・・ちょっと手を緩めろ、香藤・・・」 何とか今の空気の流れを変えようとする岩城だった、が、香藤は、何も聞いていないようだった。 香藤は不意に岩城の胸から顔を上げると、岩城の頬に、自分の頬を擦り付けた。何度も何度もそうや って、感触を確かめるかのように、頬を頬で撫で、温もりを感じていた。 自分の顔の横で揺らぐ香藤の髪を、岩城はゆっくりと指を差し込み、すいた。 いつもの、柔かな、心の休まる感触だった。 岩城の耳に、香藤の心臓の中心から生まれ出た声が響いてきた。 「・・・・2人でいたい・・・・・・ずっと2人で・・・・」 「・・・いるじゃないか・・2人で」 「・・・・明日は?」 「・・・いるさ、2人で」 「・・・・・判らないよ・・・・そんな事・・・誰も保障なんかしてくれないんだ・・・あいつだっ て・・・道治だって・・・次の日も希恵と一緒にいるって・・・絶対そう思ってた・・ちがう・・思 ってもいなかったさ、きっとそんなこと・・当たり前すぎて・・・でも・・・・来るんだ・・・自分 達が知らないだけで・・・・・・」 そう言って、香藤は、一層強く岩城に回した両手で、その体を縛った。 「好きになったから・・・岩城さんを愛したからっ!!こんなに怖いんだっ!!どうしようもないっ ・・・・ほんと・・・どうしようもないんだよっ!!」と、香藤は言葉を吐き捨てた。 岩城も胸の中でそっくりそのまま、同じ言葉を叫んでいた。 シンとした、重たい空気が部屋中に充満していた。 以前、自分が同じ不安を口にしたとき、香藤が自分を可愛い、と言った。岩城も、今、同様に、不安 を口にする香藤を愛しく思い、これほど愛されていることに、幸せも感じていた。 岩城が小さく、「愛している・・」と言うと、香藤の肩が少し揺れた。 「・・・・岩城さん・・・・」 香藤の小さな呼びかけに、岩城は、んっ?と、その髪に唇をつけた。 「・・・・岩城さんはどうするの・・・?」 腕の中で香藤がポツリと呟いた。 出来れば訊かれたくない、と思っていたことだった。 「・・・なにが・・・だ?」 「・・・もし・・・・・俺がいなくなったら・・・」 そう言った香藤は顔を上げ、じっと岩城の眼を見つめた。 岩城は、黙ってその香藤の、自分を見つめる眼を見返していた。 見返すその瞳は穏やかで、温かな、そして僅かな悲しみを含んだ色をしていた。 岩城の心の中で、そのことへの答えは、随分前から既に出ている。 ひとり残されたときは、その苦しみに、到底自分が耐えられる、とは、考えられなかった。また、自 分がそれ程強いとも思えなかった。人間の力の及ばないところで、誰かを愛した者は、同じだけ苦し む時がくる。苦しみを回避するには、手段は限られている。 しかし、それを今、言葉にして香藤に伝えたくはなかった。 ただ岩城の中で、そのことを助けにして、生きている、それだけだった。 「・・・・・そんな先のこと・・・考えてどうするんだ・・」 「寂しくないの・・・?」 「・・・・寂しいだろうな・・・」 「苦しくないの・・・?」 「・・・・死ぬほど・・苦しいだろうな・・・」 「岩城さんが・・・どっかへ行っちゃうとき・・・・着いてきて欲しくないの・・・俺に・・?」 「・・・・着いてきて欲し・・・・・くない」 その瞬間、ぱっと香藤が岩城の体から離れた。 狭い隙間で見つめる香藤の目は、まるで子供のような聞き分けのない表情をしていた。 「どうして」 ひと言、香藤は口にした。 「どうしてって・・・・そんな・・・・当たり前だろう・・・着いていくとかいかないとか・・・そ んな問題じゃない・・・」 「・・・じゃ、岩城さんは、俺がっ!!どっかへ居なくなっちゃうときもっ!!着いてきてくれない んだねっ!!」 「・・・・・・・!!」 岩城は答えられるはずがなかった。 それを口にする、ということは、すなわち、ひとつのことを香藤に望むことになる。 岩城は、そんな事を告げ、今、香藤の将来を縛りたくはなかった。 黙る岩城に、香藤は再び苛立ちを募らせ始めた。 岩城の両腕を荒く掴んで、香藤は半ば泣きそうになりながら叫んでいた。この数日が見せた現実に夢 の中にまで追いかけられ、平常心を無くした香藤の頭はすっかり混乱しきっていた。 思い通りの答えが得られないことで駄々をこねる、岩城が、たとえ死んでも、いつまでも、そして何 処までも2人は離れない、と、そう口にするのを聞くまで、香藤の苛立ちは治まることを知らない。 香藤はいまだ夢の出口を彷徨っていた。 「何でだよっ!!何で・・・・そんなこと言うのさっ!!」 それは・・・もし、お前がひとりになっても、その先を生きぬく強い力と生命力があれば、生きてい って欲しいからだ。 「ねえっ!!判ってるのっ!!顔も見れなくなるんだよっ!!声だって聞けないし・・・どうするの さっ!!そんなことになってっ!!こんなに毎日一緒に生きてるのにっ!!誰よりも・・・他の誰よ りもっ・・・一緒に居るのにっ!!ねえっ!!・・・・」 そう・・・判っている・・・きっと俺は駄目だろう・・・そんな状況に耐えられないだろう・・・し かし、お前は・・・その前向きな明るさと突き進む力があれば・・・・香藤、お前なら・・・。 「岩城さんっ・・!!俺っ!!俺、嫌だっ!!着いてくるなって言われても!!着いてくっ!!絶対 にっ!!1人になりたくないっ!!1人になんかっ!!なりたくないよっ・・・・!!」 「香藤っ!!落ち着けっ!!」 「落ち着いてなんかいられないよっ!!生きてる限り、いつか来るんだっ!!だからっ!ちゃんとど うするか、考えとかなきゃ・・・・考えとかないから・・・道治みたいに苦しむんだっ!!」 「彼だって、時間が経てば、きっと立ち直る。希恵さんのためにも、立ち直ろうと思うさ」 「なんで、それが希恵のためなんだよっ!!」 「・・・それは、彼女もきっと、そう願っている、そう思うからだ」 「なんで、それが判んのさっ!!誰が希恵に確かめたんだよっ!!」 「・・・・・・・・」 言葉に詰まる岩城だった。 確かに、誰も確かめたわけではない。ただ、希恵達を自分に見立てている今の香藤には、そう言うし かなかった。 「いいよっ!!じゃあっ!!岩城さんっ!!絶対、死ぬときに、俺に何も、言わないでよっ!!俺に 着いてくるな、とかっ・・・1人で頑張れ、とかって!!絶対にっ!!言わないでよっ!!俺っ、好 きにするからっ!!俺のことは、俺が自分で決めて好きにするからっ!!それなら・・・それならい いんでしょっ!!文句ないよねっ!!俺が・・」 岩城の口が香藤の口を覆い、言葉を飲み込んだ。 んっ・・、と、呻く香藤の口から、強い力でその舌を言葉と共に絡めとった。 愛しい香藤。 どんなことになっても、何処に旅立つことになっても、お前を離したくはない。 この手を繋いだまま、そのままずっと俺のそばにいて欲しい・・・・永遠に・・・・。 岩城に仕掛けられたキスに、香藤は異常なまでに執着し、貪った。唇の隙間から息を注ぐ、その岩城 の口を覆い、いつの間にか香藤は岩城を跨ぎ、その体の上にのし上がっていた。 唇を離すと、互いに、ハァハァと、息を上げ見詰め合っていた。 息も切れないその口で、香藤が、「誰に・・・いったい誰にっ、こんなキス、してもらうのさ」と、 言い捨てた。 「・・・香藤・・・」 お前がどれ程俺を愛してくれているか、それを俺はちゃんと判っている、だからもう、追求するな、 と、岩城の表情が、無言で訴えていた。 しかし、錯乱した香藤の頭には、そんな訴えは届かなかった。 岩城の股間に自分の右手を伸ばし押し付けると、香藤はさらに攻め続けた、「誰に抱いてもらおうっ ていうのさ・・俺が・・俺がいなくなってから」・・・・と。 「・・・お前は・・・」 岩城は小さく溜息を吐き、そして言葉を続けた。 「・・・・お前は・・・どうしても、俺に、言わせたいのか?」 「・・・・・・・」 「俺の口からそれを聞けば・・・安心できるのか?」 「・・・・・・・」 「それを、今、聞かなければ・・・・どうしてもお前が安心できない、と、言うなら・・・」 「・・・・岩城・・・・・さん・・・・」 「1度だけ言う・・・もう2度と口にはしない」 そう言うと、岩城は香藤を下から静かに抱き寄せた。 そして耳元で、柔かな決心が響いてきた。 「俺は・・・違う人生を生きるつもりは、もうない。お前との人生・・・それが全てだ・・・それが 終われば・・・・もう何も未練はない・・・また何処かでお前に逢いたい・・・ただそれだけだ」 抱かれた香藤の胸がドクドクと、鼓動が音を立てて脈打った。 聞いてはいけないことを聞いてしまった、そんなショックが、香藤を襲った。 望んで、いざその言葉を岩城の口から聞くと、今度は、自分がそんなことを望んでなどいないことを 知った。 いや、望んでいないわけではない。 岩城の口から、岩城の「死」が語られた、そのことがショックだった。 自分はいったいなにを望んでいるのか・・・。岩城に死んでくれ、と、自分はそんなことを岩城に訴 えていたのか・・・・。 違う・・・・そうではない・・・、そうではない、が、しかし・・離れたくもない・・・。 どう答えればいい・・・?何かを言わなければ・・・・岩城がせっかく口にしてくれたその想いに、 何か答えなければ・・・・そう・・・納得できる何かを・・・。 岩城の言葉によって引き出された冷静さは、そうやって香藤に、ただのひと言も言葉を送り出せなく していた。 そんな香藤の困惑した頭に、「・・・ばかだな・・・お前は・・・・」、と言う、岩城の声が響いてき た。 「だから・・・もういいから、と、言っただろ、こんなこと・・・・」 岩城の手が静かに香藤の背を摩った。 「口にして、言うほうも、それを聞くほうも辛い・・・だから、ただ胸に置いておけばいい・・・それ で十分・・・・明日を生きる位の安心は得られる・・・・そうだろ?」 岩城の胸で、香藤が小さく「岩城さん・・・・俺・・・」と、やっとそれだけ呟いた。 僅かにクスッと、岩城が笑ったような気配がした。 少し置いて、岩城が口を開いた。 「・・・・死が2人を別つまで・・・・か・・、そういって、お前と式を挙げた・・・・あれから・・ もう何年だ・・?」 岩城は、懐かしむように言葉を口にし、胸にある香藤の顔を両手で挟むと、上を向け、その瞳を静か に見つめた。見つめながら、ひとつの結論を控えめに口にした。 「・・・・・死が2人を別たなければ、いいんだろ?」 そう言って、優しく目の前にある唇にキスを落とした。 魔法にかかったように、岩城の唇に吸い寄せられ、舌を絡め、そうやって香藤は、やっと呪縛から解 き放たれた。香藤はその頭を岩城の胸にゆっくりと寝かせ、脱力した。 横を向いて、耳に響く心臓の鼓動を感じながら、香藤は呟いた。 「大好き・・・絶対に離れない・・・絶対に・・・なにがあっても、どんなことになっても・・・」 そう言い、香藤は手を伸ばして、自分の髪に忍んでいる岩城の右手を取り、頬に当てた。 「・・・どんなことになっても・・・・絶対に離さない・・この手を・・・」 「・・・香藤・・・」 香藤の中にある岩城の手が、強い力で握り返されてきた。 握り合った手を頬に摺り寄せながら、「・・・・俺が見つけた・・・俺の1番大切なもの・・・」と、 香藤は独り言のように呟いていた。 互いに見つけ、見つけられて、言葉では言い表せないほどの幸せを得た。 それがなければ、こんなことに思い悩むこともなかったかもしれない。 出合った事が幸せであることは、勿論、疑うべくもない、が、しかし、それと同時に、失う怖さも手 に入れた。 選ぶことは出来ない、必ず着いてくるこの道を避けるために、どうすればいいのか、それが判りなが ら、自分には、なに迷うことなく当てはめることが出来ても、互いにそれを相手に望むことが出来な い。 着いていきたい、着いてきて欲しい、その想いは、何処までも一抹の混沌とした苦しみと迷いを伴う 希求でもあった。 「・・・ごめん・・・俺が・・岩城さんを、そうしたんだ・・・」 胸の上で、突然ポツリと、香藤が口にした。 「・・・なにを・・・だ?」 「・・・・ううん・・・なんでもない・・・」 そう言って、香藤は胸の上から脇へとずれ、今度は岩城の頭を自分に引き寄せると、しっかりと、自 分の腕の中にかき抱いた。 腕の中から、「・・・寝れそうか・・?」と、岩城が訊いてきた。 「勿論・・・腕の中に岩城さんがいる・・・・そんな安心感、他にはないよ・・・」 そう口にした香藤は、もういつもの姿へと戻り、腕の中の岩城の額に唇を押し当てて、ごめんね、心 配かけて、と言いながら目を閉じた。 小1時間、複雑な経路で入り乱れていたこの部屋の空気も、やっと静けさを取り戻した。 暗闇の中で、岩城を体で感じながら、香藤は思っていた。 もしもこの先、自分が岩城をひとり残して行かなければならなくなったとき、自分は決して、岩城に 着いてきて欲しい、とは思わないだろう。 着いてきて欲しい、のではなく、連れて行きたい、と、切に願うだろう。 自分は岩城を決してひとりにするつもりはない、しかし、もしそんな事が不本意にも訪れてしまった ら・・・・・ ひとり残された岩城が、どれ程苦しみ、辛い思いをするか、悲しみに暮れ寂しさに身を震わせ、そし て、この家でどれだけ自分を求め、彷徨い、泣くか・・・・・目に見えるようなその様を思い描くだ けで、胸が潰れそうだった。 自分が岩城をそうした。 とてもひとりで置いていけない。 声をかけ、抱き寄せて優しくキスをする、もう大丈夫だよ、と、俺はここに居るから、もう安心して と、自分が慰めれば・・そうすれば、また岩城は、あの、少し照れたような笑顔を浮かべる。 そして、その体に、ありったけの愛で、最上級の悦びを与える。 恥じらいながら乱れる岩城に、可愛い、と告げ、我を忘れ陶酔する岩城を、綺麗だ、と教え、全ての 不安から脱出できた岩城を、再びしっかりと腕に抱いて、そして、眠る。 自分のほかに誰が、出来るだろう。 ・・・・・なにを馬鹿な・・・。 いったい自分は何に怯えているのだろう・・・・・。 いつか岩城が言った、なくならないと思うものに不安を覚えることはない、と。 少なくとも今、自分の腕の中には岩城が居る。 その幸せ以上の不安など、あるはずがない。 自分達は今を生きているのであって、先にある見えない未来を生きているのではない。 それならば、今与えられているせっかくの幸せに満ちた時間、それを、わざわざ不安で薄めることは ない。 香藤は腕の中の岩城を見た。 自分の腕の中で、静かに寝息をたてる、その穏やかな寝顔を見つめ、自分が岩城に与えている安心を 思い、幸せを感じた。 いつまでもこの温もりはなくなることはない、と、今ならそう思える香藤だった。 それは、ひとつの次元を超越した安心感、でもあった。 ボーダーラインさえ引かなければ、何ひとつ恐れることはない、と。 2006.03 比類 真 |
香藤くんの想い・・・岩城さんの想いが
胸に迫ってきて泣きそうになりました
非常にデリケートで、そして答えの出ないテーマだと思います
これは二人に限らず、全ての人に・・・
それでも今彼らは共にいます
それが出るはずのない答えを指し示しているのかもしれません
比類さん、素敵な作品をありがとうございましたv