ゆめうつつ まほろばの
 

 境内へと続く長い石段を、登り切ろうと言うところで聞こえてきた声に、秋月は顔を上げた。
 はしゃいでいる子供達の笑い声の中に、聞き覚えのある声が交じっている。無論、その声も子供達同様に楽しげなものだった。
 
 ……この声は…
 
 石段を登り境内に足を踏み入れた秋月は、思わずその足を止めた。
 視線の先では先程から聞こえている笑い声に相応しく、数人の子供達が無邪気な笑顔を見せながら遊んでいる。
 その輪の中に、草加十馬がいた。
 秋月がいる事に気がつく様子もなく、草加はまだ10歳にも満たないであろう男の子に、せがまれるままコマ回しを教えているようだった。子供と目線を合わせる為に、しゃがみ込み小さな手を取ってひとつひとつ教えているその姿に、視線が引き込まれていく。
 
 草加と時間を共用するようになってから、まだ日は浅い。
 その短い時間の中で語る事と言えば、諸外国の事や互いの思想と言った類のものばかりだったが、草加と言う男が、どれだけ広い視野と深い思慮を持っているのかと言うことは、その会話や態度の端々で伺い知る事が出来ていた。時代を変えていくには、このような人間こそが必要なのだ、と思える程に。
 しかし今、幼い子供達を慈しむような暖かな瞳と、優しい微笑みを湛えている姿は、ただ一人の人間としての草加の本質を表す姿で。
 そんな草加を目にするのは、今日が初めてだった。
 
 
 境内に、ふいに歓声が湧き上がった。
 草加の教えでコマ回しをしていた子が、何度目かの挑戦で回す事に成功したようだ。
「出来たよ、お兄ちゃん!!」
 
 初めて回せたのであろう、満面の笑みを浮かべた子供は、勢い良く回転するコマと背後の草加とを交互に見やりながら、喜びを露にする。それにつられるように、一緒にいる子供達も手を叩いて喜んだ。
「よしよし。上出来だ。今のやり方、忘れるんじゃないぞ」
「うん!ありがとう!!」
 そう言って再び自分が回したコマを嬉しそうに見詰める子供の姿に、満足そうに頷くと草加は立ち上がり、そして視線を感じ……固まった。
「あ、秋月さんっ!?…い、いったい、いつから、そこにいたんですか?」
 と、問い掛ける草加の語尾が徐々に小さくなっていく。
 その姿に、秋月は吹き出してしまった。
「秋月さん!」
「いや、すまんすまん。お前が余りにも情けない顔をするから、ついな」
 駆け寄ってきた草加にそう詫びながらも、秋月の口元からは中々笑みが消えなかった。
 その秋月の姿を呆けたように見詰めていた草加だったが、我に帰ると慌てて視線を逸らす。
「…全く、人が悪いですよ秋月さん。声、掛けてくれれば良かったのに」
 バツが悪そうに、頭を掻く草加の姿に微笑みを誘われながら、秋月は子供達へと視線を注いだ。
「子供達がとても楽しそうだったからな。邪魔をしたくなかったんだ。…あの子達は、お前の縁のものか何かなのか?」
「いいえ。この界隈の子供達ですよ。…はは、恥ずかしい所を見られちゃったな」
「恥ずかしい?どうしてだ?」
 秋月が思わず草加を見ると、彼は少し苦笑するような表情を浮べて言った。
「藩の連中には、良く言われるんですよ。“この大事に子供と一緒に遊んでいるとは武士の風上にもおけん”ってね。…俺に言わせて見れば、やみくもに攘夷だ天誅だと唱えて暴挙に及ぶ姿こそ、武士と言えるか…と言いたいところですけど」
 草加の言葉には、そうと分かっていながら仲間を止められない、自分の不甲斐なさが含まれていた。けれどそこには、他者への批判や己の卑下だけでは終わらない、強い意志の力を感じ取れる。
 だからこそ、“そんな時代の流れを変えたい”と言う草加の思いが、伝わってくるのだろう。
 
 止まったコマを再び回す事が出来た子供が、草加に向けて笑顔で手を振りかけてくる。
 ちゃんと回せるようになったんだよ、とでも言うようなその笑顔に草加もまた笑って手を返す。
 
 そんな横顔からそっと視線を外すと、秋月は再び遊ぶ子供達の姿に瞳を向けた。
「子供が笑う声と言うものは、良いものだな。楽しげな姿を見ていると、今の世情が嘘のような思いがしてくる。……安らぐ、とでも言うのかな」
「ええ、そうですね。本当に」
「……ああやって、子供達に笑顔を浮かばせる事が出来るお前が、何を恥じ入る事がある。お前は何も間違ってはいない」
 
 幼ければ幼いほど、子供は世の中の空気と言うものに敏感だ。
 徐々に薄雲がさすように暗さを帯びてきている中で、笑顔を無くし怯えて過ごす子供の姿は、今では珍しくない事となっている。
 そんな子供達が、今無邪気で明るい笑顔を浮べている。
 おそらくそれは草加の本質に触れ、安堵したからに違いないと、秋月は思った。
 
 草加の眩しい程の笑顔を目にするだけで、心が和らいだ自分と同じように……。
 
「?どうした、草加?」
 呆然とした風情で、こちらを見ている様子に気づき、秋月が声を掛ける。
 先程同様、秋月に目を奪われていた草加は、我に変えると今度は真っ直ぐに秋月を見詰めた。
「ありがとう、秋月さん。秋月さんにそう言って貰えて、俺凄く嬉しいよ」
 そう言って笑う草加の笑顔は、子供達のそれよりも一層、秋月の心に安らぎを与えてくれる。
 この笑顔を浮かばせたのが、自分自身の言葉であると言う事に秋月は嬉しさを感じていた。
 
 そして、それが自分にだけ向けられていると言う現実に………。
 
 
 
 感じた思いは、確かに「幸せ」だった。
 
 



 
指先に、触れるその感触。
 首から下げた匂い袋の中に潜ませたそれが、カサリと僅かな音を立てる。
 
 瞳を開けて映るのは、闇に包まれた室内。
 月明かりを受け、その白さを際立ててせている、閉ざされた障子。
 そこに落ちる格子柵の影。
 そして傍らの、微かな吐息と確かな温もり。
 
 その全てが、今が現実だと告げていた。
  
 共にいたいと。
 離れたくないと。
 ずっと、ずっと祈って。
 いつか再び巡り会う日を願って。
 そして、願いは叶ったのに……。
 
 繰り返し繰り返し、遠い日々を夢見ては目覚める。
 
 
 秋月は眠りに付いている草加の顔を、そっと見詰めた。
 閉じた瞼に苦悩の翳りが見える。
 そこにはあの微笑みの面影を、見出す事さえ出来なかった。
 
 額に掛かる前髪をそっとかきあげて、梳く。
 柔らかな髪のその感触も、温もりも、何一つ変わってはいない。
 今、こうしている現実こそが悪い夢のように思える程に。
 
 草加の、悲しさ苦しさを堪えるようなその顔を思い出し、秋月は再びその瞳を伏せた。
 もう二度と戻れない、あの日の夢を求めて。
 
 
 
 
 
 



夢を、見よう。
 懐かしい、あの夢を。
 
 
 
 
 夢の中のお前は、いつも笑ってくれるから………。
 




〜 終 〜

2003・02・06
あずま ゆみ