トーク トゥ ミー、アンド タッチ ミー







「・・・ちょ・・ちょっと、待って・・・岩城さん・・・」

熱い息に、焦る気持ちが言葉になって、香藤の可愛い唇から流れ出る。

抱かれるときに見せる、年下の顔。

「・・もうできない・・・我慢・・・できない!!」

肢体をからませ、必死で岩城の体にしがみついてくる。

抱くときの、あの強い香藤はそこにはいない。

「もう少し・・・・我慢しろ・・・」

そんな岩城の声に、香藤の顔が左右に振られる。汗に濡れた髪が、その頬を打つ。

「・・・だめっ!!・・・・あぁっ!!・・岩城さんっ!!・・・」

香藤の境界線を越えた体は全てを放棄し、岩城を引き連れ怒涛のように崩れ去る。

荒い息をつきながら、抱かれた後の香藤は、いつも何処となく照れている。

その姿を、岩城は心から愛しく、また可愛くも感じる。

こんなに誰かを心から愛し、大切に思う、自分の中に見つけることが出来た感情。

愛した人間に、お前は十分に愛されているのだと、知らせたい。

腕の中の、目を閉じた香藤の少し湿った髪をすきながら、愛している、と、岩城は呟いた。

「・・・その100倍・・・愛してる・・」

香藤が濡れた呟きを返してきた。










晴れ渡った次の日、2人の重なった休日は、ドライブに使われた。

桜がほころび始めた時期、2時間余り車を走らせ、行きついた場所で、2人で景色を眺めた。

少し風が強く吹き、そのたびに2人の髪がそよいだ。

「岩城さん、寒くない?」

そう言って、自分のジャケットを岩城にかけようと、そんなそぶりを見せる香藤に、「大丈夫だ、あ

りがとう」と、岩城は笑顔で答えていた。

2人で柵に体を寄りかからせながら、ひっついていた。

「幸せって・・・」

ぼそっと、香藤が口にしかけた。

んっ?と、香藤を見る岩城に、香藤がまた、言葉を続けた。

「岩城さんといて、いっつも幸せだから、俺、改まって幸せって、考えることないんだけど、こんな

とき、あぁ・・・俺、幸せなんだなぁ・・・って、思うよ、凄く」

そんな事を口にする香藤をやや見つめた後、岩城は正面を向きなおした。そして、ボソッと言った。

「お前は・・・ほんと・・・いい奴だな・・」

「うふっ・・・・ありがと!!でも、岩城さんも、いい奴、だから、俺達、幸せなんだよ」

クスッと笑った岩城が、そうだな、と、答えた。



少しして、車に戻った。

道路沿いのパーキングに止めていた車に向かい歩いていると、岩城の後ろにいる香藤が突然、声を上

げた。

「岩城さんっ!!ほらっ!!凄い、あっち側、咲いてるよ、桜!!」

岩城がゆっくりとその声に振り向いた、そのとき、香藤は既に道路反対側に向けて走り出していた。

対面通行の狭い道路だった。

香藤が道路を渡りきり、その桜を見上げて指差している、そんな姿に眼をとられながら、岩城の足は

前へ、知らず1歩を踏み出していた。

香藤が目線を岩城に戻した、そのとき、左から斜めに走りこんでくる車を香藤の眼の端が捕らえた。

見えた瞬間、「岩城さんっ!!危ないっ!!」と叫ぶのと、走るのが同時だった。

自分の危険を知り、岩城が体を引っ込めた、その体を香藤の両手が突き飛ばし、伸びた香藤の体側面

に車体が当たり、はじかれた香藤はフェンスに体ごとぶつかる、それら全てが、ほんの瞬時の出来事

だった。

車は急ブレーキで止まり、岩城は土に転がり、そして香藤は、フェンスの下で動かなかった。

岩城の頭の中では、一度に万の事が駆巡っていた。

ドクドクと脈打つ心臓の音と共に体を起し、香藤っ!!と叫びながら、走り寄った。

外傷は見られず、砂埃に少し汚れた香藤の体が、微動だにせず岩城の目の前で横たわっていた。

夢なら覚めてくれ、と、岩城は心の中で叫んでいた。

その日のうちに、香藤の体は救急病院に運ばれていた。








CTで見た香藤の体は、打った頭部以外、全くの損傷はなかった。

スノーボードなどの転倒でよくある事故、後頭部を強く打つことで発生する急性意識低下。

医師は一通り説明をおこなった後、こう言った。

「打った直後、ということは少なく、次第に意識低下が見られ、吐き気、眩暈などとともに意識がな

くなる、ということが多い。香藤さんの場合、頭部に血腫は見られないので、手術の必要はないと思

われる。意識が戻らない、ということについては、強いショックからの急激な脳内機能低下と考えら

れ、明日意識が戻ることもありえる、が、1ヵ月後、ということもありえる」

そして、岩城の、「でも、必ず戻るんですね」という問いに、医師はこう答えていた。

「それは、判りません」

その答えに、その場にいた岩城は勿論、金子、香藤の母親、妹も言葉をなくしていた。

岩城には到底訊く勇気がなかったことを、妹が訊いた。

「先生・・・それって、もしかしたらこのままずっと・・っていうこともあるってことですか?」

「絶対ない、とはお答えできないのです」

「じゃあ・・・じゃあ先生・・・お兄ちゃんがこのまま・・・もしかしたら・・・死」

「洋子!!」

母が言葉を遮った。

この場に岩城がいることが、なによりも辛かった。

「とにかく、最善の努力は施してまいりますので、前向きに考えましょう」

医師の言葉が、台本のセリフのように岩城の耳に聞こえていた。

無言でたたずむ岩城のそばで、皆、岩城にかける言葉を見つけることができなかった。












その日から、岩城は香藤のいる病室で夜を過ごし始めた。

香藤の母親、妹の洋子が交代で日中は付き添い、夜間は岩城と入れ替わった。

2人は夜間の泊まりを交代で、と申し出たが、岩城は感謝の意を述べるにとどまり、決して、夜、家

へ帰ろうとはしなかった。

家で着替えなどの身支度は済ませ、遅くなっても必ず病室へ現れる、そんな岩城に、誰もその行動を

無理に止めることはできなかった。

事故にあった香藤の入院、その入院先に通う岩城の姿を、メディアは、連日報道した。

しかし、どの局も、節度をわきまえた、思いやりのある報道の礼儀を守っていた。

世論が完全に味方になっているということ、それはとても大きな要因だった。

岩城をかばい事故にあった香藤、その香藤の意識回復を待つ岩城、その姿はひとつのドラマのように

強く皆の胸を揺さぶっていた。











10日が過ぎた。

医師から、1週間がひとつの目途、と言われていた。

香藤の意識は戻らないままだった。

岩城はその日も、仕事を終え一旦家に帰り、シャワーを浴び、着替えをし、当然のように香藤のいる

病院へと向かった。

病室に入れたのは、夜間11時を過ぎていた。

香藤の母親のもとへ、おおよその仕事の終了時間を事前に伝えてあった。

それは毎日のことだった。

岩城が訪れたときには、母親、洋子、そのどちらかがいることもあった、が、既に帰っていることが

殆どだった。

それは、互いの気遣い、だった。

顔を会わせないほうが楽だろう、と、岩城が訪れるおおよその時間を見計らって、その前に帰ってい

てくれる、そのことは、心からありがたいと、岩城は思っていた。

仕事で決められたことを話す以外は、今は、何ひとつ礼節に沿った言葉を話す自信がなかった。

いつも、病室にさりげなく飾られている花、岩城のために用意されている食事、それらを前に、岩城

は心の中で頭を下げていた。





いつものように、香藤の眠っているベッドのそばに行き、椅子を引き寄せて座った。

外傷のない顔は、本当にただ眠っているように見えた。

岩城は香藤の手を取り、さすった。

そして、とつとつと、小さな声で、今日の1日を伝え始めた。

「今日は・・・朝8時からロケで・・・・寒かった・・・風邪をひくと、また、お前に怒られるから

ちゃんと今日は、休憩には暖かくしてた・・・・・昼は・・・・余りお腹が空いていなくて・・コー

ヒーだけだった・・・それからずっと・・・さっきまでかかった・・・」

そこまで話すと、右手で香藤の髪をゆっくりと撫でた。

頬に触れると、暖かな感触が伝わってきた。

岩城はそうやって、また、口を開いた。

「・・・・昼からミスを連発してしまった・・・・どうしても1箇所・・・上手くセリフがまわらな

くて・・・・駄目だな・・・1回つっかかると、何度も同じ所でつっかかって・・・」

シンと静まり返った病室に響く岩城の囁く声は、答える者のいない場所で、空を舞っていた。

「・・・・そういえば・・・今日のロケ先で・・・・咲いてたよ・・・・」

そこまで口にすると、岩城の頬に、つっと涙が伝った。桜が・・・と、小さく震える岩城の声が続い

てきた。

どれだけ泣いただろう。

こうやってここで、物言わぬ香藤に話しかけながら。

震える声で、岩城は「・・・お前は・・・勝手だ・・・」と、口にした。

−何が?岩城さん

「勝手に・・・黙って・・・こんな・・・こんな・・」

−そうだね・・・ごめん

香藤の肩に顔を埋め、岩城は背中を震わせていた。

−泣かないで・・・岩城さん・・・

香藤の体からは、いつもの香藤の匂いがした。

岩城はそのままの姿勢で、何度かうとっとしながら、香藤のそばで朝を迎えた。

眼が覚めても、香藤は同じように眠っていた。













「岩城さん、では、これはお断りになられる、ということで・・・・いいんですね」

「はい・・・・すみませんが、ちょっと企画内容に気持ちが動かないので・・・」

「・・・そうですか・・・」

香藤が入院して2週間が過ぎ、3週間目に入っていた。

清水は岩城と向かい合って、スケジュールについて話し合っていた。

今日、伺いをたてた秋スタートの連続ドラマへの出演、岩城が打診を断るのは、これを入れて3本目

になる。

それでも清水は、前の2本に関しては、バラエティがらみの企画物への出演だったので、岩城の意思

を受け入れることに、然程、不満はなかった。

が、今回は違う。ストーリーも主役という設定も、断るには惜しい仕事であることは、岩城自身も判

っているはず、と、清水は思っていた。

企画内容に気持ちが動かない、と、もっともらしい岩城の言葉、それは、永年岩城についている清水

には、とてもそれが本心とは考えられなかった。

「岩城さん・・・」

そう呼びかけて見た岩城の表情は、穏やかで、深い苦悩と悲しみを刻んでいた。

「・・・岩城さん・・・では・・・この返答は、保留にしておきますので、来週まで考えてみてくだ

さい。無理に、とは申しません。でも・・・・時間が経てば、お考えが変ることもあるかもしれませ

んから・・・」

岩城は何も答えなかった。

清水は判っていた。

今、抱えている仕事、それら全てが終了するのは、5ヵ月後、それ以降の岩城のスケジュールが、今

のところ真っ白である、ということを。

そして、それが何を意味しているのか、確かめなければいけない、と思いながら、岩城の顔を見るた

び、追求できないでいた。

数日前、清水は香藤の病室を早朝、覗いた。

そこには、香藤の手を握ってベッドに半身を預け眠る岩城がいた。

清水はそのまま静かに病室を後にして、廊下を歩きながら泣いた。

「神様、お願いです。香藤さんを目覚めさせてください」と、祈ったこともない神に、必死で願って

いた。












20日が過ぎた頃、病室に入る岩城は、そこを後にしようとしていた香藤の父親に出会った。

事故の後、初めてのことだった。

互いに咄嗟に何かを口にしかけ、そして、黙った。

先に口を開いたのは父親だった。

「毎日、来られているそうですね、岩城さん」

「・・・はい・・」

岩城には言わなければいけないことがあった。

そして、父はそれを岩城が言わなければならない隙間を造りたくなかった。

「それでは、お体に触りますよ。どうぞ、内の者と交代で家で休んでください」

「・・・・ありがとうございます。体は・・・大丈夫ですから・・どうぞ、ご心配なさらないでくだ

さい。・・・・それよりも・・・今回は、洋二くんに大変なことを私は」

そこまで口に仕掛けた岩城を、父は遮った。

「座りませんか」

そう言って、椅子を勧め、自分も腰を下ろした。

岩城はやや戸惑いながら、しかし、自分も続いて腰を下ろした。

眠る香藤のいる空間で、その香藤を心から愛する者同士が静かに向き合っていた。

続けて岩城は口を開いた。

「申し訳ありませんでした、俺は・・」

「岩城さん・・・・、私は今さっきまで、洋二に、こう話していました。お前はやっぱり素晴らしい

人間に成長してくれていたんだな、と」

岩城は顔を上げた。父親は優しく笑みを浮かべていた。

「岩城さんを救うことが出来た・・・・、咄嗟でもそんな行動をとれた息子を、私は誇らしくさえ感

じます。よくやった、と、褒めてやりました。洋二はきっと・・・愛する者を守ることが出来た自分

を、自分でも褒めていると思いますよ」

俯いた岩城は両手を膝に押し付け、肩を震わせていた。膝に雫がポタリポタリと、落ちては吸い込ま

れていった。

「・・・俺が・・・俺が不注意なばかりに・・・」

「何を言っているんです。岩城さん、人間なんて何が起こるか判りませんよ。それに、洋二は生きて

いるんです。生きて、必死に目覚めようとしているんです。岩城さんが、元気にしていてくれなけれ

ば、洋二が眼が覚めたときに、困ります。そうでしょ?」

岩城は何も言えなかった。

周りの優しさ、それが、一層岩城を苦しめ追い詰めた。

いっそ誰かに思い切り罵倒されたほうが、楽かもしれない、そんな刹那的な思考が、胸に渦巻いてい

た。

洋二は生きている、という父親の言葉、それが強く胸に突き刺さってきた。

息をして、暖かい、目覚めないこと以外は、何ひとつ変らない姿。

岩城はこの部屋でいつも思っていた。

香藤がこのまま眼を覚まさないのなら、自分も香藤と同じように眠りたい、と・・・。眠って、香藤

が彷徨っている同じ場所へ行って、そこで息をしたい、と。




暫くして父は、岩城に、このまま帰宅することを勧めた。岩城は勿論、頷かなかった。

それでも岩城の体を気遣い、どうしても、と、譲らない父に、岩城は小さく呟いた。

「・・・帰れないんです・・・・すみません・・・・帰る勇気が・・・情けないんですが・・」

父親は、そんな岩城を静かに、わが子を見守るかのような眼差しで見つめながら言った。

「岩城さん、それでも、帰ってください。きっと洋二も同じ事を言うでしょう、あの家に帰って、休

んで欲しい、と」

岩城は、少し考えた。そして、「ありがとうござます・・・・では、今夜は帰らせていただきます」

と、答えた。

香藤の顔を数秒見つめ、おやすみ、と、岩城は心の中で告げた。そして、何かあったらいつでも電話

をしてください、と頼んで静かに帰って行った。

父に深く頭を下げて病室を後にしフロアを歩く、そんな岩城の姿は、誰にもその心を救うことは出来

ない、と、その背中が語っていた。救えるのは、香藤だけだと。










岩城は家の鍵を開け、中に入り、事務的にシャワーを浴び、何もせずに2階へ上がった。

3週間ぶりに入る寝室だった。

自分のベッドに潜り込み、少しの間、目を閉じていた岩城は、おもむろにベッドから起きると、再び

階下へと降りた。

ひとりで赤ワインを開け、コップに注ぐと、まるで水のように飲み干した。1度息を吐き、再びワイ

ンを注ぎ、2杯目も同じように飲み干した。

ふと、先は気がつかなかった、電話の留守の点滅が目に入ってきた。

どうしようかと考えながら、結局ボタンを押した。

「京介・・・俺だ・・そっちに行こうかと・・・考えていたんだが・・今はお前も大変だろうから・

・・無理をしないように・・・体に・・・体を大事にして」

戸惑いながら話す兄の声は、そこでピーという音と共に途切れた。

久しぶりに聞く声は、残酷なほど優しく、愛情に溢れていた。

逃げるようにその場を離れ、また寝室へ上がり、ベッドへ潜り込んだ。

隣のベッドに眼が行きそうな自分を、体の向きを替え、ここが何処であるかを考えないようにしなが

ら、目を堅く閉じていた。

事故のあった前日の夜、このベッドで自分は香藤を抱いた。

岩城を抱くつもりで、このベッドへ入り込んできた香藤と、ふざけあっているうち、何故か自然にそ

うなった。

いつもそうであるように、その気配を知ると、香藤は直ぐに抱かれる側に自然体で移行する。

そんな香藤に、岩城はどうしようもなく愛しさを感じ、日頃は忘れている雄の貪欲な渇望が沸き起こ

ってくる。

自分に足を開く香藤は、言葉では言い表せないほど初々しく、可愛い。

−その100倍・・・愛してる・・・

香藤が囁いた言葉が、そのままの声色で蘇ってきた。

色香の残るこのシーツが、岩城の閉じた瞼の内で、香藤の肢体を匂い立たせていた。

何度も何度も溜息と寝返りを打ちながら、それでも疲れきっていた体は、アルコールの力を借りて眠

りにつくことが出来た。





その夜、岩城は夢を見た。

明るい病室で、満開の花に囲まれ、その中央のベッドに香藤は起きて、笑っていた。

両親や洋子、そして岩城に囲まれ、笑顔で話していた。

「そんなに寝てたの?俺」

そんな事を言う香藤に、岩城が、「ああ、もうどれだけ心配したか・・・」、と答え、「そうよ、お

兄ちゃん、岩城さん、毎日泊まってくれてたんだから」と、言った。

「ごめん、岩城さん、体、大丈夫?」と、香藤が言い、「入院してるお前に心配してもらわなくても

いい」と岩城は笑って答えていた。

明るい部屋で、香藤が目覚めた幸せと喜びに、岩城は体が浮き上がるほどに満たされていた。

嬉しくて嬉しくてたまらなかった。


有頂天になった気分で、明日は家に帰れるな、と、口にした・・・・と、思った瞬間、暗闇に眼が覚

めた。

岩城は、香藤を隣のベッドに探した。

暗闇に慣れた眼が、隣のベッドが空であることを確認し、トイレにでも起きたのだろうか・・と、数

秒考えた。

そうではない、と、知った途端、岩城は強い力でシーツを握り締め、顔をそこに押し付けた。

そして、呻き声を上げながら、嗚咽に体を震わせた。

心がどうにかなってしまいそうだった。

胸が苦しくて苦しくて、張り裂けそうだった。

誰はばかることのない自室で、岩城の嗚咽は次第に大きくなり、最後は声を上げて泣いていた。

「・・・香藤っ!!・・・頼むから・・・・俺とっ・・・話をしてくれ・・・・」

そう叫んでいた岩城は、もう自分がどうしていいか判らなくなっていた。

香藤は必ず目覚める、そう信じていながら、そうならなかったときの不安と恐怖、それは今まで岩城

が考えていた感覚以上の脅威だった。












次の日、岩城は香藤の家族へ電話を入れた。

今夜からまた、同じように病室に泊まっていいですか?と、伺いをたてる岩城に、母親は優しく答え

ていた。

「勿論、そうしてやってください。岩城さんが、今は洋二の第一の家族なんですよ。それに、洋二は

岩城さんにいてもらうのが、1番嬉しいでしょうから。でも、もしお疲れのときは、遠慮なくおっし

ゃってくださいね」と。

家に帰っても、思うほどには休めていない、と、母親も判っていた。





その夜、9時ごろ、宮坂が見舞いに訪れた。

「小野塚は、退院してから会うからいい、って言うんで・・・」と、ひとりで来た事を告げ、「ここ

の美味しいから・・・岩城さん、朝にでもって、思って」と言いながら、遠慮がちにパンの入った袋

を差し出した。笑顔で、ありがとう、と答え岩城は受け取った。

「どう・・・ですか?香藤」

「うん・・・まだ、眼が覚めなくてね・・・」

すぐに会話は途切れた。

「・・・大丈夫ですよ、香藤は。強運!!抱えてますから!!」

強運・・・・確かに、今はその言葉にすがりたかった。

宮坂は、ゆっくりとベッドの傍に進み、香藤を見下ろした。

「・・・ほんと・・・全然、普通だ・・・・・」

そうボソッと言う宮坂に、そう、眠ってるだけみたいだろ、と、岩城は小さく答えた。

少しの間、そうやって香藤を見つめていた宮坂は、気を取り直したように、香藤に話しかけた。

「おいっ!!早く起きねえと、知んねえぞ!!俺が岩城さん、もらっちゃってもいいのかよ?」

−んな訳ねーだろっ!!お前、性懲りもなく、まだそんな事言ってんのかよっ!

そんな香藤の声が、2人の耳に聞こえてくるようだった。




宮坂が病室を後にしたのと入れ違いに、岩城の携帯電話の着信が光を放った。清水だった。

「すみません、突然で・・・今、病院の駐車場にいるんです。宮坂さんが入るのを見かけたもので、

お帰りになるのを待っていました・・・・・ちょっと、今から部屋へ伺ってもよろしいですか?」

そう言って伺いの電話をかけた後、3分もしないうちに清水は病室に顔を出した。

「明日の撮りの変更があって・・・・その変更部分のものをお届けしようと・・・」

そう言って清水が差し出した書類は、明日渡されても十分間に合うものであった。

しかし、岩城は何も言わず、ありがとうございます、と言って受け取った。

清水は、直ぐには帰ろうとせず、静かに香藤のベッドの傍に行き、その姿を見つめていた。

岩城も黙って、その姿を見守っていた。

返事を保留してあるドラマ出演への、きちんとした断りの返事をしておかなければ・・・と、岩城が

口を開きかけたときだった。

「香藤さんは・・・」

そうぽつりと、清水が口を開いた。

「香藤さんはきっと・・・・懸命に目覚めようと・・・なさっているんでしょうね・・・眠りながら

も、必ず岩城さんの所へ戻ろうと・・・戻ってまた・・幸せな生活を送ろうと・・・・」

清水の横顔を見つめている岩城の胸の鼓動が、ドクンと脈打った。

「・・・・それがたとえ1ヵ月後でも・・・1年後でも・・・戻れば必ずそこには、岩城さんが待っ

ていてくれる、と・・・・」

そこまで口にした清水は、顔を上げ、岩城を見た。そして続けた。

「そのことを信じて、こうして頑張って目覚めようとしていらっしゃるんですね」

2人は黙って互いの眼を見ていた。

「・・・・清水さん・・・」

岩城が呟き、その岩城に清水は少しだけニコッと笑みを浮かべた。

「では、私は帰ります。こんな場所まですみませんでした。また、明日、お迎えに上がります」

そう言った清水は、そのまま病室を後にした。

清水の足音が消えていくのを耳にしながら、岩城は脱力したように、椅子に腰を落とした。

清水は釘を刺しにきたのだ。

不甲斐ない様に・・・岩城の情けない姿に・・・・・。

岩城が何を考え、仕事を断っているのか・・・・。

もし香藤がこのまま、目覚めないまま、居なくなるようなことが起こったとき、そのときのために仕

事を整理しようとしている、そんな岩城の心中を、清水はしっかりと見抜いていた。

岩城は今始めて判った、自分は、香藤が目覚めることよりも、目覚めないことを・・居なくなること

を・・・・ただそれだけを考え、怯えていた、ということを。

自分は・・・自分はなんと愚かなことを・・・・。

岩城はベッドの香藤に手を伸ばし、その体を両手で掴み、その脇に崩れ落ちた。

「すまない・・・・香藤・・・・ほんとうに・・すまない・・」

岩城は何度も口にした。

お前は生きて、頑張っているのに・・・・

ーそうだよ・・・岩城さん・・・・・

俺は・・・お前を失うことが恐ろしくて・・・ひとりになった時の事ばかり、考えていた・・・・

ーそんな岩城さんだから・・・ほんと、ひとりにしとけないよ・・・

お前は必ず目覚めてくれると、信じていたはずなのに・・・いつの間にか・・いつの間にか俺は・・

ーいいんだよ、判ってるから・・・・

逃げて・・・全てから逃げて・・・・現実と向き合うのが・・・怖かった・・・・

ー全部判ってるから・・・岩城さんが・・・どれだけ俺がいなくて寂しいか・・・辛いか・・・

ただ・・・・お前と同じところへ行きたいと・・・・・それだけを願っていた・・・

ー悲しませて・・・ごめんね・・・・話をしてあげられなくてごめんね・・・・抱いてあげられなく

てごめんね・・・・

岩城はそっと手を香藤の頬へ添え、香藤の温もりを感じ、確かに香藤が生きて、そして息をしている

と、そのことを確かめながら、胸で香藤に告げた。

香藤・・・・待っているから・・・いつまでも・・・信じて待っている・・・それがたとえどれだけ

先だろうが、お前がまた俺に話しかけてくれるのを・・・・。

岩城の手の中で香藤の顔が少し頷いたような気がした。












次の日、岩城は清水に、保留してあるドラマ出演の返事をした。

「やらせてもらいます」と、岩城がそう口にした、そのときに、清水は瞼が熱くなるのを必死で堪え

ながら、「わかりました」とだけ答えた。そして、小さく「ありがとうございました」とも言った。

こちらこそ、と岩城は答えていた。

何も解決はしていなかった、が、とりあえず、今日は家に帰ったら香藤の所へ行く前に、部屋を掃除

しよう、と、岩城は思っていた。

いつ香藤が帰ってきてもいいように、全てが変わらないままで、笑って香藤を迎えられるように。










それから2日、同じように仕事から病室へ岩城は通い、3日目に病室を訪れたとき、そこには香藤の

母親と妹がいた。

夜7時を過ぎた頃だった。

互いに会釈をし、岩城は、いつも気遣ってもらっている食事の礼を述べた。

「岩城さん、お仕事、大丈夫ですか?お疲れなんじゃありません?」

「・・いえ・・・もう大分慣れました・・・それに、家に帰るよりも、ここで過ごしたほうが、どう

も休めるみたいで・・・」

「でも、いつまでこんな状態が続くのか、判らないのですから・・・・ご無理をなさらないでくださ

いね」

「・・・無理は・・・してません。当然のことですから・・・」

そんなことを口にする岩城を見ながら、母親は、「・・・こんなに岩城さんに想って頂いて・・洋二

も・・・どんなにか・・幸せ・・・」と、言いながら、言葉に詰まり目頭を押さえた。

「ほら、お母さん、だめでしょ、泣いたりしちゃ・・お兄ちゃんも岩城さんも頑張ってるんだから」

そう言って、妹は香藤に、「もう・・・おにいちゃん、早く起きてよ・・・」と言った。

香藤が入院してから約1ヶ月になろうかとしていた。

皆の胸に、誰も口にはしないが、次第に暗く重い、よからぬ考えがめぐり始めていた。

岩城は毎晩、微動だにしない香藤に話しかけながら、いつの間にか、日を数えることを止めていた。

いつも、たった昨日、香藤はここにやってきただけだ、と、そう考えて、この部屋での時を止めて過

ごしていた。

そうしているうちは、2人で桜を見たのは昨日のことで、香藤は歳もとらず、まだ時間もたっていな

い、まだまだ希望がある、と、そう思えた。

「岩城さん、美味しいサンドイッチがあるんですよ、一緒に食べません?」

そう洋子が話しかけた。

「あっ、ありがとうございます・・・頂きます。じゃ飲み物・・・買ってきます」

そう言って、岩城はその部屋を出て、売店に向かった。






岩城が売店から飲み物を片手に、エレベーターから香藤の病室のフロアに降り立った、そのとき、ば

たばたと、医師や看護士達が走る気配がした。

緊迫したムードが漂うフロアに足を踏み入れた瞬間、岩城の体は、瞬時に固まった。

恐怖と期待で、胸の鼓動が一気に高まっていた。

何だ、何があった、香藤なのか?いや、違うかもしれない・・・

そんな立ち尽くしている岩城に、看護士のひとりが近寄り、告げた。

「岩城さん!!眼を覚まされました!!香藤さん、眼を覚まされましたよ!!」

そう興奮した声で告げると、早くいらしてください、と言いながら、小走りに去っていった。

そうするうち、病室のある方向から、「岩城さんはっ?はやく岩城さんにっ!!」と言う、洋子の声

が響いてきた。

その声を耳にした瞬間、岩城は、背後で静かに開いたエレベーターに再び乗っていた。

エレベーターで、俯いた岩城の、缶を持つ手が小刻みに震えていた。

そのまま1階まで降り立ち、表ドアから外へ出た。

夜の空気の中へ歩き出し、パーキングに停めてある自分の車に乗り込むと、脱力したかのように腰を

落とした。

誰もいない暗闇の中で、岩城は手にしている缶を放り、両手で顔を押さえた。

そして、泣いた。

こんなに号泣したことなどなかった。

「あああっ」と、声をあげながら、その指の隙間からは、次から次へと雫が流れては落ちていった。

熱くこみ上げる感動と喜び。

香藤は戻ってくれた・・・これは夢ではない!!今度は夢ではない!!

堪えていたエネルギーが一気に流れ出て行きながら、岩城の体中が歓喜に震え叫んでいた。











香藤が目覚めたとき、「岩城さんは・・?岩城さんは・・大丈夫?」と、それが最初に口にした言葉

だった。

自分があの時、果たして岩城を救えていたのかどうか、岩城は無事にしているのかどうか、それに対

して、大丈夫だ、と答えをもらうと、香藤は心から、良かった、と呟き、笑顔を浮かべた。

「岩城さん、見当たらない・・・何処へ行っちゃったのかなぁ・・こんな大切なときに!!」

洋子が興奮したように口にしていた。

病室では、目覚めた香藤を医師と看護士が囲んでいた。

「・・・そんなに?嘘・・・」

「そうですよ、香藤さん、1ヶ月近く寝てらしたんです。ずっと」

経過を聞いた香藤は、狐につままれたような、とぼけた顔をしながら、それでも、視線はひとりの所

在を探していた。

それに気がついた母親が、「岩城さんなら、直ぐ戻られると思うわ。さっきまでここにいらしたんだ

けど」と、言った。

「あ、それなら、私、先ほどエレベーターの前でお会いしました」

そう看護士が答えていた。

「えっ、じゃあ、どうして?」と、洋子が不審そうな声をあげると、「ええ、香藤さんがお目覚めに

なられたことは、そのとき、お伝えしたんですが・・・」と、看護士が答えていた。

「私、もう1度探してくる」と、洋子がそう言った、とのとき、ベッドから香藤が「いいから・・・」

と口にした。

えっ?と不思議そうに覗き込む妹に、香藤は続けた。

「・・・探さないでいいから・・・・・・岩城さん、放っておいてあげて」

目覚めてから聞かされた、自分のこうなってからの十分に永い時間。

岩城が毎晩泊まっていた、ということ。

香藤には判っていた。その間、どれ程、岩城が苦しみ、悲しんでいたか。

そして、やっと訪れた回復のこの瞬間に、岩城は、とても皆の中で冷静にその事実を受け止められな

い、と、そう思ったに違いない。

1人になりたい・・・・・1人になって、今、どこかで泣いている・・・。

香藤の耳には、その声が聞こえていた。











規定の検査を施された後、1時間ほどして、病室には香藤ひとりになった。

体から、あらゆる管が外され、目覚めてしまえば、香藤の体は健康体に近い状態になっていた。

母親と妹は、気を利かせ直ぐに病室を後にした。

香藤は、ベッドの上で半身を起し、薄明かりの中で静かに待っていた、岩城が訪れるのを。

ややして、病室のドアが静かに引かれる音がした。

遠慮がちに進んでいる足音を聞きながら、香藤は小さく呼んだ、岩城さん、と。

1ヶ月ぶりに耳にする香藤の声だった。

岩城は、香藤が見えるところまで進むと、はっとして、立ち止まった。

香藤がベッドで起きている。起きてこちらを見ている。

「・・・か・・とう・・お前・・・もう起きて・・・そんなに・・・もうそんなに・・」

岩城の声は上ずっていた。

言いたいことや訊きたいこと、そしてなによりも動くその手で自分の体に触れて欲しい、と、多くの

渇望に攻め立てられながら、岩城は、余りに突然訪れた変化に、焦りうろたえていた。

あれほど、車で気持ちを落ち着けたはず、だった。

赤く目を泣き腫らしたそんな岩城の顔を、優しく香藤は見守りながら、「おいで、岩城さん」と、左

手を差し出した。

その手に導かれるように、岩城の体はおのずとその中へと引き寄せられていった。

一旦、その手に触れてしまうと、もう全てが起動を始めた。

崩れるように、香藤の体にすがりかかる岩城の体を、香藤の両手が、しっかりと抱きしめていた。

自分を支え抱きしめてくれる腕の力、これをどれ程求めたか。

「香藤・・・香藤っ・・・」

腕の中で、ひたすら名を呼ぶ岩城を、香藤は強く抱きしめながら口にした。

「ごめん・・岩城さん・・ほんとうに・・ごめん・・・話してあげられなくて・・・・触れてあげら

れなくて・・・・辛かったよね・・・・苦しかったよね・・・」

自分に置き換えてみれば判ること、どれ程辛い時間だったか、と。

待つ側が、待たせる側より、どれ程苦しいか。

抱きしめた岩城の体が少し細くなっている、その感触をやるせない思いで、香藤は感じ取っていた。

ただしがみついて泣く岩城に、「ほら・・・ちゃんと、顔、見せて」と、香藤はその体を起した。

ゆっくりと顔を上げた岩城は、目の前にある香藤の笑顔を見て、呟いた。

「すまない・・・香藤・・・・俺が・・・俺があの時・・・」

「・・馬鹿・・・」

さらに言葉を続けようとする岩城の唇を、そっと香藤の手のひらが抑えた。

そしてその頬を指でなぞり涙を拭いた。

「もう1度謝ったら、許さないよ」

そう言うと香藤は、岩城の体をしっかりと抱き上げながら、「キス・・しよう・・・岩城さん」と、そ

の唇に唇を重ねていった。

その唇に、まるで初めて触れたかのように、岩城の体内から全てのエネルギーが抜けていった。

朝には思いもしないことだった。こんなキスで幸せに満たされるなど・・・

暫くそうやって、何も言わずに2人、ただしっかりと抱き合っていた。

少しして、「岩城さん、上着脱いで、ここ、入って」と、香藤がベッドで少し寄り、空いた場所へ誘

った。

「・・・なに・・言ってる・・・病院のベッドなんだぞ・・・お前・・・」

「うん・・・岩城さん、今夜も泊まってくれるんでしょ?」

「それは・・・そうでも・・・俺は簡易ベッドで・・・」

「さっき、先生に訊いたから大丈夫だよ」

「なにが・・・」

「このベッド、2人乗っても大丈夫かって」

「おまえっ!!・・・」

「俺達の3倍、体重がある人間が乗っても大丈夫だって、さ、だから、ねっ・・何もしないから・・

ほら、早く」

そう言いながら、リネンをめくり誘う香藤を前に、岩城は戸惑っていた、が、気持ちは既に香藤の隣

に移行していた。正直な気持ちに体が少し恥じている、ただそれだけだった。

やや照れながら上着を脱ぎ始めた岩城を、香藤は笑顔で見つめていた。

ギィっと少し音を立て、ゆっくりと岩城は香藤の横に体を滑らせた。

待っていたように、香藤の腕と足が、直ぐ、その体を抱きこんできた。

ああ、なんという安心感・・・充足感・・・・他のものでは決して補えないこの感覚、まさにこれを

欲していたんだ、と、岩城は心で叫んだ。

「体・・・・もう、大丈夫なのか・・・?」

小さく訊いてくる岩城に、「うん、凄い健康体。休息取りまくりだし」と、答えが返ってきた。

答えが返ってくる、そんな事もかなわない1ヶ月だった。そんな、普通のことさえ・・・

永い時間を越えて話したいこと、訊きたいことが互いにあった。しかしそれよりも、今はただこうし

て寄り添っていたかった。寄り添い、その感触と温もりを確認したかった。

「ちゃんと・・・・」と、岩城が呟いた。

んっ?なに?と、訊き返す香藤の腕の中で、岩城が言った。

「ちゃんと・・・起きて・・・起きろよ・・・」

岩城の不安が未だ消えぬことを、そに声に感じながら、「起きて、おはようって、言うよ」と、香藤

が答え、再び唇を重ねてきた。熱に浮かされたように互いの舌を求め、離れてはまた重なり、しばら

くしてそれらは、名残惜しげに離れていった






シンとした中で、小1時間、香藤の腕の中で、岩城は眠った。

ふと目覚めると、目の前に、目を閉じた香藤の顔があった。

今度は夢ではない、と、確信するまで岩城はじっと香藤の顔を凝視していた。

岩城は、迷っていた。迷いながら、しかしどうしても確かめたく、おずおずと手を動かし、香藤の顔

に触れようとした、その時、目の前の唇が、「大丈夫だよ、ちゃんと起きるから」と岩城に告げた。

かとう・・・と、驚いて呟いた岩城を、その腕にしっかりと抱きなおして、香藤は言った。

「もう2度とひとりにはしない、だから・・・・安心して眠って」と。

今、目を閉じても、また香藤は眼を開けてくれる、と、信じることが出来た岩城は、そうやって朝ま

で1ヶ月ぶりに熟睡を得た。

この1ヶ月、岩城が満足な睡眠を取れていないであろう事など、その性格を考えれば、想像に安く、

どれほどこの人を苦しめただろうか、と、改めてその寝顔を見ながら、香藤は思った。





そんな岩城を腕に、香藤は、自分に起こったことを考えながら、何となく眠るでもなく起きるでもな

い時間を過ごしていた。

夜中3時過ぎ、看護士が見回りに訪れた。

「血圧と心拍、測らせてくださいね」

そう言いながらベッドに近寄る看護士に、香藤は黙って笑いながら腕を差し出した。

横に岩城が寝ていることに、然程驚きもせず、看護士は小声で言った。

「ほんとうに・・・・・目覚められて・・・良かったですね、香藤さん」

そうして仕事をしながら、看護士は、静かに言葉をぽつりぽつりと重ね始めた。

「・・・どんなに遅い時間でも岩城さんはいらっしゃってました・・・・・何度も・・こうやって香

藤さんのお体、私も診に参りましたけど・・・・岩城さんが来られて少しすると、お部屋の外に小さ

な話し声がそれとなく漏れ聞こえて・・・・最初は私も、何か問題でも、と思って、そっとお部屋を

覗いたんです・・・・でも、それは・・・・岩城さんが香藤さんに話しかけていらっしゃるお声でし

た・・・・ベッドの傍で・・・・」

香藤の目尻から頬へ、一筋ツッと涙が伝った。

「どんなに・・・この日を待ち望んでいらっしゃったことでしょう・・・・」

優しい微笑を残して、看護士は部屋を後にした。








次の日、早朝5時過ぎごろ、岩城は目覚めた。

そこには自分を見つめている香藤の顔があった。

「おはよう、岩城さん」

そう言われ、岩城は、おはよう、と返しながら、本当にあの1ヶ月は終わったのだ、と、やっと心か

ら確信することが出来た。

香藤は自分に話しかけている、そして、抱きしめてもくれている、もう、ひとりで話すことはない、

と、そう岩城は思った。

「いっぱい、話しよう、岩城さん」

笑顔で言う香藤の、暖かな体に包まれながら、「ああ・・・そうだな」と、岩城も笑顔で答えた。

話したいことが沢山ある、いや・・・・聞いてもらいたいことが・・・・そして答えてもらいたいこ

とが・・・・

時間はある、今日からは望むだけの十分な時間が・・・・










2006.03

比類 真







・・・もう読み終わった時、いえ途中から涙で画面が見えなくなってしまいました
そして溢れ出る岩城さんの想いがバンバン伝わってきて・・・
切なくて悲しくて・・・でも優しくて・・・
ふたりもそうですが、彼らを見守る人々の優しさも胸に来ます
今はただこぼれた涙の余韻に浸っていたいです・・・・

比類さん、素敵なお話ありがとうございますv