#3a Swinging lion in K’s way
一晩中雨を降らせていた雲は何処かへ去り、翌日はスズメは飛び回り、猫は散歩に出かける見事な秋晴れだった。
店内には紅茶とコーヒーの香りが漂い、昼しか用の無いスピーカーからはハンコックのピアノが流れ、土曜日ということも手伝って店は活気に溢れていた。

そんな中、コロンコロンとシロフォンを想像させる乾きに艶が混じったドアベルの音色だけが、香藤の来店を告げた。
「おっ、珍しいな洋二。こんな昼間から来るなんて。」
意外な来客にマスターは驚きの声を上げたが、
「………。」
と、香藤からは何の反応も無かった。
「っておい。無視か?」
まるで罪人が重石を引きずって砂漠を歩いている様な雰囲気が今の香藤には纏わり付いていた。
スタッフたちは皆その様子を感じ取ると、『あの香藤に何があったんだ。』と、顔を見合わせた。苦行に耐えるように歩く香藤を、いつの間にか客を含めた全員が見守っていた。香藤は空いている奥のカウンター席を見つけたらしかったが、急ごうにも体が付いていかないらしく、終始ラルゴのテンポのままで腰を下ろした。
それを見届けると客の殆どはすぐに自分たちの世界に戻ったが、カウンターの中には何故か一種の緊張感が漂っており、香藤に声をかける者はなく、そのまま2分程経った。

自然と一番香藤との距離が近い小柄な男が声をかける雰囲気が出来上がっていた。
この小柄な男の名前は本田と言う。
バーテンダー見習い兼ウエイターとして、半年前からこの店で働いているのだが、平均身長180cmというこの店のスタッフたちの中で165cm前後の身長と、20歳に成ったばかりという年齢、とどめの幼さの残る顔立ちが香藤の次にいじられる標的となっている。
雰囲気負けして何か覚悟を決めたのか、本田は香藤に近寄った。
「香藤さん、どうした…ん?……うっ!!」
本田は思わず鼻を覆い、2・3歩後ずさった。
「どうした?本田。」
見かねたマスターが近づき声をかける。
「サケクサイ。」
「あ?」
本田の籠った声は聞き取りづらかった。
本田は手を放し、
「だから、酒臭いです。香藤さん。すんごく。」
と一言。

香藤はずーっと下に向けていた顔を上げ、
「マスター。助けて…。」
と蚊の鳴くような声でポツリと言った。
「どうしたんだ?洋二。…っと、こりゃ相当飲んだな。」
鼻を覆わないまでも、息を止めてしまった。
「いゃ、さっき起きてさ。起きたらすっげー気分悪くて、病院行こうかとも思ったんだけど、きっと悪酔いしただけだろうからとりあえずこの店に来たんだよね。」
と言うのを香藤はジェスチャーで表し、マスターは全て理解した。
「成程な。とりあえず水を浴びるほど飲んでトイレ行って出すもんだして来い。二日酔いにはそれが一番だ。」
香藤はただこくりと頷き、マスターから手渡されたジョッキになみなみと注がれた水を一気に飲み干す。
「さっき起きたって、もう3時半だぞ。何軒梯子したんだ。」
マスターは独り言で言ったつもりだったが、香藤はまた手渡された2杯目を飲みながら指を3本つきたて、マスターの眼前に持っていった。
「3軒も梯子したのか?この店であんなに騒いでから?」
香藤はまたまた手渡された3杯目を飲みながら頷いた。
「若さの、愚の骨頂だな。」
またまたまた手渡された4杯目を飲みながら、片眉を上げる。
「なんだ?文句でもあんのか?」
首を横に振りながらまたまたまたまた手渡された5杯目を飲み干すと、
「トイレ行ってくる。」
そう言い残し、少々軽くなった足取りでトイレへ向かった。

しばらくして、しばらくして戻って来た香藤の顔色は少し明るさを取り戻しており、足取りはもっと明るかった。
「マスターありがと〜!!ちょい楽になったよ。
あ〜………っててて。」
自分の声が頭に響くのか、頭を押さえながら席に着く。
「話せるまでには回復したみたいだな。」
「おかげさまで。まだすっげー残ってるけどね。」
「昨日あんなに飲んでるんだ。残ってて当たり前だろ。」
「だって、みんながご馳走してくれんだもん。飲まないわけにはいかないよ。」
昨夜香藤はいつもの様に歌っていた。歌ってその場が盛り上がれば客が満足した分チップを渡したり、酒をご馳走するのが『k’s cafe』の慣習になっているのだが、昨夜はチップをくれる者が中にはいたものの、何故かご馳走してくれる人ばかりで、大量の酒を飲む羽目になってしまったのだ。
「まぁなぁ。盛り上げてくれたから、売り上げが伸びるのはありがたいんだけどな。」
「なんか俺ホストみたいじゃん。身体張ってるよね〜。」
「バーカ。ホストは潰れるまで飲むなんて事はしないもんだ。そういうのは飲む真似でいいんだよ。」
「じゃあウイスキーの変わりにウーロン茶入れるくらいの協力してよね。ホント昨日はK点越えだよ。」
「昨日は、じゃなくて昨日も、だろ?器用に酔いやがって。とりあえず1杯奢ろう。昼間はアルコール類出さないことにしてるからそれ以外でなら何でもいいぞ。」
「そういえば、俺この店で酒と水以外飲んだことないな。」
「ゆっくり考えてくれ。ほら、メニューだ。」
「ありがと。お〜、コーヒーと紅茶ばっかり。さすがカフェだね。あ、ミクジューあんじゃん。珍しいね。」
「本田がミックスジュースが無いなんて信じられんとか言ってな。最近メニューに入れたんだよ。」
「へぇ〜。じゃあミクジューにすっかな。」
マスターはいつもの調子を取り戻しつつある香藤に安堵の溜息をついた。

「マスター、マスター。」
ふと、マスターが気付くと、何時の間にそばにいたのか、本田が小声で語りかけてきた。
「ん?何だ?本田。」
思わずマスターも小声で返す。
「酔い醒ましにピッタリのカクテルはどうですか?香藤さんに。」
「昼間はアルコール出さないって言ってるだろうが。お前は何回言ったら覚えるんだ?」
「違いますよ。ノンアルコールでピッタリのあるじゃないですか。」
と、この店にあるはずの無い卵を1つ、ひらつかせる。
「あぁ。それか。そうだなぁ。」
マスターはニッと笑うと、メニューとにらめっこしている香藤に話しかけた。
「洋二。酔い醒ましにピッタリのカクテルがあるんだが、
それを飲んだら、1週間この店のドリンク全部タダにしてやるよ。やるか?」
「マジ?やるやる!!
あ〜っと、でもさ、飲めなかったら何か、ペナルティとかあんの?」
「何だ?お前がそんなに慎重な奴だとは知らなかったよ。酔ってる時の方が頭回るみたいだな。別にペナルティーは考えてないが、そうだな。飲めなかったら、明日から1週間休まずに歌ってもらおうか。」
「なんだ、そんなこと。俺の日常と変わらないよ。男に二言は無いよね?」
「当たり前だ。今、本田が作ってるからちょっと待ってろ。」

「おまたせしました。香藤さん。」
少し経ってから出てきたカクテルグラスを見て、香藤はたれ目気味の目を少し吊り上げた。
「何?これ。」
それは、見ただけで酔いが醒めそうだった。
「何って、プレイリーオイスターですよ。訳して『大草原の牡蠣』。これ出すのが夢だったんですよね〜。子どもの頃に見てたアニメの主人公が酔い覚ましにこれを飲むんですよ。かっこよかったな〜。まさか半年で夢が叶うとは思ってませんでした。
香藤さん、ありがとうございます。」
「いやいやいやいや、本田君。本当に効くの?これ。」
「さぁ。本当に飲んでる人見たことないんで、分かんないですけど…。」
「………。まぁ効く効かないはどうでもいいよ。これ何入ってんのさ?」
香藤はチラリとマスターを見やった。
「あぁ?見りゃ分かんだろうが。卵黄と…。何だったかな。本田。」
「オリーブオイルとタバスコはティースプーンに1杯ずつで、ウスターソースは2杯です。あと、塩と胡椒を少々。卵黄を潰さない様にグラスに入れるのが1番気を使うところですね〜。飲むときも卵黄を崩さないように飲んでくださいね。」
本田は少し誇らしげだった。
「嫌がらせじゃあないよね〜?」
グラスを傾け、オリーブオイルその他諸々の存在を確かめると香藤は眉をしかめた。
「もちろんです。ちゃんと世界に認められてるカクテルですよ。」
「世界ってのは案外寛容なんだね。」
「お前、やっぱり酔ってる時の方が頭回るんじゃないのか?」
「うるさいよ、マスター。ねぇ、2週間タダになんない?」
「男に二言は無かったんじゃないのか?大体飲みたくなかったら飲まなくてもいいんだぞ?お前が損することは何も無いんだからな。」
「そうだけどさぁ〜。」
飲まないと言う選択を香藤はなんとなく選べなかった。
「あっ。香藤さん。」
「何?本田君。」
「仕上げに酢かレモンジュースを入れるんですけど、忘れてました。どっちがいいですか?」
「そりゃ、牡蠣にはレモンでしょ。酢なんて入れちゃダメだよ。」
「へへへ。そうですね、了解です。」
本田は香藤からカクテルグラスを受け取るとカウンターの中で作業を始めた。
「あのカクテルは蛇みたいに丸呑みするのがコツだ。」
「マスター飲んだことあんの?」
「俺は、石橋は叩いて渡る主義なんだがな、そいつを飲んでる奴をまだ見たことがないんだ。」
「あっそ。」
「あぁっ!!香藤さん!!」
「何っ!!」
「すみません。レモン切らしてるみたいで…。2階まで取りに行ってくれませんか?」
「…2階?なんてあんの?」
「はぁ?香藤さん、それ本気で言ってんですか?」
「冗談言っても意味ないでしょ。」
「本田。酔っ払いに何言っても無駄だぞ。」
「そうですけど、でも、いくらなんでも吹き抜け部分見たら、わかりますよね。それに、外観だってどうみても2階建てだし…。2階行ったの覚えて無くても、2階があるってのは普通分かりますよね?マスター。」
「本田君、さっきから何言ってんの?」
香藤は普通じゃなかったのだった。
「ははははっ。お前本気だったのか?こりゃ、京介も救われねぇな。2階の存在さえ知らねぇんだから。やっぱり酔っててもバカはバカだな。前言撤回だ。」
腹を抱えて笑うマスターにすっと黒い影がしのびよった。
「おいおい、随分ご機嫌だな。マスター。いつまで香藤で遊べば気が済むんだ?こんなに店が混んでるってのに。」
と、スタッフの中で唯一マスターにタメ語を使えるこの男、名前は日と言う。
この店が出来てからずーっと働いてるバーテンダーで、この店のbQと言ったところだ。
面倒見がいいのか悪いのかは微妙なところだが、何故か頼れる男として慕われている。
「本田はこれをあそこのテーブル席に運んでこい。」
「日さん、そんなにドス利かせなくてもいいじゃないですか。」
「悪いな、俺は鈴希みたいに優しい子守は出来ねぇんだ。勘弁してくれ。」
「僕もう20歳です。」
「日、迷惑かけたのは謝るから、子どもをからかうのはよせ。」
初めて見るこの店の昼間の日常を香藤は肩肘をついて、
(店の雰囲気は夜と全然違うのに、マスターたちは全然変わんないんだな〜。)
なんて思いながら傍観していたのだが、
「おい、香藤。」
不意にマスターと目が合うといきなり呼び止められた。
「なに?」
「奥に扉があるだろう?そこの扉を開けたら階段があるから、10個ほどレモンとって来てくれ。」
「ん。いいよ。おっけー。」
何かとんでもない事を言われるんじゃないかと内心思っていた香藤は二つ返事で快諾した。
「一番奥の部屋にあるからな。それと、寝てる奴がいると思うが、絶対起こすなよ?近づくな。いいな?」
いつもはざっくばらんとしたマスターの念の入れように香藤は少しあっけに取られたが、
「宝石でも眠ってんの?大丈夫だよ、盗ったりしないからさ。」
少し意地悪く言い、鼻歌まじりに2階へと向かった。
「宝石か。悪い喩えじゃねぇが、嫌な喩えだな。」
マスターは香藤の背中を見えなくなるまで睨んでいた。

「マスター、香藤さん2階に行かせなくてもよかったんじゃないですか?眉間にすごいシワ寄ってますよ?」
「しょうがないだろう。客に出すレモンが無いし、誰も手を離せないんだから。」
「それならそこにありますよ。」
本田はひっそりと山の様に積まれたレモンを指差した。
「お前…。洋二に嘘ついたのか?」
「だって、酢入りのプレイリーオイスター飲ませたかったんですもん。岩城さん寝てる時間だし、マスターが香藤さんを2階に行かせるなんて思ってなかったんですよ。」
「ばーか。寝てるから行かせたんだよ。」
「知りませんよ?どうなっても。」
「あいつは大の女好きだ。大丈夫だろ。」
「絶対近づくなって言ってたくせに。大丈夫だなんて思ってないじゃないですか。」
「今何か言ったか?」
「いえ。何も。」
少しの間がカウンター内に訪れようとしていた、が、その間を見計らったかのように大きな音をたててドアが開いた。
「ちょっと、お父さん!!」
「了子!?何だ?いきなり。ドア開けるときはノック位しろ。」
「そんな悠長な事言ってらんないのよ。」
「何かあったのか?」
この店の左隣は『サンライズ』と言う洋菓子店だ。
『k’s cafe』のカウンター内には『サンライズ』の厨房と繋がっている扉がある。なんのための扉かと言うと、『サンライズ』のスウィーツを『k’s cafe』でイートイン出来るようにするためで、もちろんそれは昼間のみのサービスとして行われている。
本来はオーダーを通すための扉なのだが、今回はマスターと『サンライズ』の女性パティシエの一人娘である清水了子が殴り込みにやってきた。
「お母さんが、卵1つ無くなったって、騒いでるんですけど、お父さん、何か知らない?」
「あれ?香藤さん遅いですねえ。僕ちょっと様子見てきます。」
本田は疾風のごとく駆けて行った。
「本田!!あいつ……。しょうがねぇ奴だ。」
マスターは横目でプレイリーオイスターを見ると舌を打った。
「あいつも卵1つでよくそこまで騒げたもんだ。感心せずにはいられないな。」
「色々と間が悪かったのよ。そういうのってあるでしょ?お母さん、金子さんが涙ぐむほど怒ってるわよ。」
金子は女性パティシエの片腕として働いている。仕事中は必要以上に怒鳴られまくり、プライベートでは無理矢理演奏に付き合わされ、この夫婦の一番の被害者は間違いなく彼だろう。
「それは毎度の事だろうが。でも、今日は家に帰んの止めとくかな。」
「マスターって本当、社長に弱いですね。」
クスクスと笑い声を立てながら女性パティシエを社長と仰ぐこの男の名前は松田だ。
バーテンダーとして働く元音楽教師でピアノを特技としているのだが、優しそうな外見とは裏腹に、結構いい性格をしている。
「うるさいぞ!松田。女はなぁ、変わるんだよ。あいつも昔は可愛かったのに。フランスの修行から帰ってきたら人相変わっちまって。今じゃ魔女に見えるよ。松田も気をつけろよ?了子は魔女の血を継いでるからな。」
「気をつけます。マスター。」
「もう!!お父さん何言ってんのよ。松田さん、気にしないで下さいね。」
「大丈夫だよ。あれもマスターの愛情表現でしょ?とりあえず店に戻ってマスターが今夜家に帰れるようにしてあげてよ。」

松田はマスターの娘を『サンライズ』へと帰し、ドタバタが一段落すると突然ある話を切り出した。
「………。ねぇ、マスター。」
「何だ?」
「もう5年経つんですよ?いい加減構い過ぎだと僕は思うんですけどね。」
「何言ってるんだ。まだ5年しか経ってない。それに、構い過ぎかどうかは俺が決めることだ。ほっといてくれ。」
マスターは踵を返しその話を終らせようとしたが、それを許さない男が行く手を塞いだ。
「ちょっと待った。ほっとけないな。あんたどこかで過去との見切りをつけないと、岩城だって辛いままだ。それが分からないとは言わせないからな。吉澄はもう吹っ切ってるぞ?あんたの好きじゃない冗談言えるようになったんだから。なぁ、松田。」
「日さんの言うとおりですよ。岩城君27でしょ。もう出合った頃の彼じゃあるまいし、あんなに気に入ってる香藤君でも素面のままじゃ睨みを効かすほど岩城君に逢わせたくないんですか?マスターは気にしすぎですよ。別に何かを失ったって訳じゃないんですから。」
「何言ってるんだ。あの時に信じる心ってもんを無くしちまったよ。人間ってのは何時どうなるか分かったもんじゃねぇからな。
いい奴だが、洋二だって例外じゃないだろう………。」

静かに音も無く、しかし、確実に降ってきた重い沈黙。その空気にカウンターは押し潰されそうだった。
だが、天の救いか偶然か、スピーカーから実にいいタイミングで『ウォーターメロンマン』が流れ出した。
重い空気とその陽気な音楽のあまりのギャップに3人の男は思わず吹き出した。
「こんな辛気臭い話、今は止めとこう。ハンコックも反対してる。」
「そうみたいだな。おい、それにしても、洋二遅くないか?」
「あ〜……。もしかして、見つけちゃったかなぁ。
…宝石………。」

再び訪れた沈黙には何の救いも差し伸べられ無かったという。


2006/04/14 tenugui




サンライズの女社長と清水さんを親子関係にしちゃいました(^_^;)
ご了承下さい(笑)
(tenuguiさんコメント)