うたかた
 



 快楽の終焉と同時にきつく抱きしめてきた草加の身体を、秋月はそっと抱き返し、それに気がついた。
 自分の首筋に顔を埋めるように伏せた草加が、微かに震えているのが重なりあった身体から伝わってくる。
「……草加?」
 まだ整わぬ息の中で、秋月が問い掛ける。しかし、それに応える草加の声は無く、かわりに一層強く抱きしめられた。
 より間近で聞く、秋月と同じように乱れたままの吐息の中には、草加の小さな嗚咽が潜んでいた。
「泣いて…いるのか?」
 行為の最中、力の限り縋ってしがみ付いていた男の背を、今は幼子を抱くように抱きしめ、宥めるように撫ですさった。秋月のその仕草に、嗚咽はさらに強まる。
「草加…」
 広い背中から柔らかな髪へ指を滑らし、頬を包み込むように触れてその顔を起こす。
 抗わずに顔を上げた男の顔は、思っていた通り涙に濡れていたけれど、その瞳はいつものように苦しさを湛えたそれではなく。あの日と同じ、優しい穏やかなものだった。
 視線が重なった瞬間、草加はふわりと微笑みを浮かべ、それを見て秋月もまた同じものを唇の上に刻んだ。
「泣くのと、笑うのと…どちらかにしろ」
「…だって。嬉しくて。嬉しすぎて、涙が止まらないんだ。秋月さんが、やっと…やっと俺に微笑んでくれたから」
 微笑みを乗せた秋月のそれを、確かめるように草加の指先が辿って行く。その指先を、秋月は一度だけ柔らかく食むと、己の指先に優しく絡め取った。
 
「ごめん…秋月さん」
「なぜ、お前が謝る?」
「ずっと、ずっと思っていたんだ。俺はあの日、日本を…秋月さんの傍を離れるべきじゃなかったって」
 
 幕末から、明治へと流れた時間は余りにも早かった。「攘夷」と言う一筋の流れは、ほんの僅かな隙間から流れ出し、瞬く間に時代を征する本流となり全てを飲み込んでいった。抗う事は勿論、その行き着く先がどこであるか確かめる事も出来ず、ただ時代に押し流されて行った。
 その勢いのままで…。立ち止まる事もしないで。
 
 もっと違う道を選ぶ事が出来た…それに気がつく余裕すらない程に。
 
 
「勿論、俺が日本にいたからって時代の流れを変える事など出来なかったって言うのはわかっている…。けれど、少なくとも……こんな形になる事は、なかった。傍にいれば、秋月さんを守る事も出来たのに…っ」
「…もう良い、草加」
「でもっ!」
「……良いんだ…お前が、悪いわけじゃない」
 きつく、絡めあったままの指先をそのままに。空いた片手で、再び零れそうになっていた草加の涙をそっと拭う。
「秋月さん……」
「誰かが悪いわけじゃない…。誰も悪くはないんだ。俺達幕臣も、新政府の人間達も。ただ…時代の流れが早すぎただけだ」
 愛し気に草加の頭を引き寄せた秋月は、なお零れ落ちようとしている涙に唇を寄せて吸い上げた。
「俺は、お前を恨んだ事など、一度もない……。草加.」
 秋月のその仕草に、草加の胸の内に暖かなものが込み上げて来る。今までの、冬の厚い雪のように互いの間にあった時と思いの隔たりが、一度に融けて。いつか共に生きる事を約束したあの日が、戻ってきたかのような。
「今度こそ俺は、秋月さんを守ってみせるよ」
 囁きながら、秋月に落とした触れるだけの口付けは、誓いのそれのようだった。
 間近で見詰め合う瞳の中に写る互いの顔には、悲しみを湛えた表情や、苦しさを堪えるような表情のかけらすら伺えはしない。
 
 
 
 とさり、と積もった雪が落ちる音が、障子の向こうから聞こえてきた。
 降り始めた雪は、さらにその勢いを増しているのかもしれない。
「…雪は、止みそうに無いな」
「寒い?秋月さん」
 火の気の無い部屋は、夜が深まった事でまた一段とその室温を下げたようだった。
 自分の身体の温もりを分け与えるように草加は、より一層秋月に覆い被さった。互いの吐息を、唇に感じる程に。
 新たな熱が、身体に灯る。
「……夜明けが来るまで…こうして、お前の温もりを確かめさせてくれ。草加。お前が、あの頃と何一つ変わっていないと」
「良いよ。…好きなだけ、確かめて。俺は、何も変わっていないから…」
 離れたくないと言葉で語るよりも強く、抱きあう腕に力がこもる。
「愛している、秋月さん。これからもずっと、何があっても俺のこの思いは変わらない…」
「ああ…。俺もだ」
 穏やかな瞳でふわりと微笑みを浮かべた秋月に、誘われるように草加は口付ける。
「どんなに、時代が変わろうとも、お前を愛する思いだけは変わらなかった」
 啄ばむようなものから、貪る様なそれに変わるのに時間は掛からなかった。
 与えられるだけではなく、自分も欲しているのだと言うことを知らしめるように、秋月も草加のそれを貪る。
 吐息をつく為に、僅かに唇が離れる度に。
 「愛している」、と。
 幾度も囁きながら………。
 
「…これからも、この思いとお前の温もりを、俺はずっと忘れないだろう」
 深まる口付けに伴って、互いの身体に触れていく。確かめるように、その名を呼び合いながら。
 決して消える事はない、身体の内の炎にまた新しい火が灯るようだった。

 
 
 
 雪が降り止まぬとは言え、夜明けが間近い頃になれば、東の空から明るくなってくる。
 その僅かな明るさの中で、秋月は傍らで眠りについたばかりの草加の顔を見詰めていた。
 
 規則正しい呼吸を繰り返すその表情は、穏やかで、出逢って間もない頃…今では自分達にとって一番幸せであった頃を思い起こさせた。
 それは、自分が心を閉ざしていた頃には決して表に出さなかった、本来の草加の表情だった。
 今、それを目の当りにして秋月の心は苦しく、痛かった。
 
 もっと早くに、お前に微笑んでやれたら。
 
 もっと早くに、愛していると言ってやれたら。
 
 今日までのこの二人の日々も、また違うものになっていたのかもしれない。
 
 草加を責める事で、生き延びた罪悪感から逃れようとしていた。
 自分の弱さがなければ。
 
 
「……すまない…草加」
 
 秋月の密やかな声に気がつかぬ程に、草加は今穏やかな眠りの中にいる。
 その姿がふいにぼやけて滲んで見えて、秋月は溢れ様としている涙を手の甲で拭った。
 
 ―――もう間もなく、夜明けが来る。
 
 夜が完全に明けてしまうそれまで、自分の心に刻みつけるように。この愛しさを魂に抱いて、いずれ訪れるであろう未来へとこの恋を繋ぐ為に。
 少しでも…。一秒でも長く、草加の姿を見詰めていたかった。
 
「愛している……」
 草加の腕の中で、幾度も囁いた言葉を秋月は微笑みを浮かべながら、呟いた。
 一夜だけでもあの日の続きのような時を過ごせて、草加のあの頃のままの囁きを瞳を、微笑みを見れて、それだけでもう充分だ。
 
「…愛している、草加」
 これが最期であるとわかっているから、何度でも繰り返そう。
 
 
 「お前だけを……愛している。…これからも、ずっと」
 
 
 
 
 
 夜明けは、静かに。
 けれど確実に。
 訪れようとしていた―――。


 

                     〜 終 〜

02.11.11 あずま ゆみ 

★「冬の蝉」のお話です・・・
静かな雰囲気の中の激しい想い伝わってきます