「ブラックアウト」




「俺、ほんとにどんでもねェことしちまったんだな」
 宮坂が悄然と呟いた。呟いて、目の前に置かれておたグラスの中身をぐいっとあおる。


 俺と宮坂は、初めて俺たちが岩城さんと出会ったワインバーに来ていた。
 岩城・香籐宅へワビを入れに行き、しこりがなくなった訳では無論ないが、ぎこちなくはあるものの4人でそれなりに和やかな暫くを過ごした後の帰りである。
 わざわざこの店をチョイスしたのは宮坂だった。自虐的と言えなくもない選択の理由を、宮坂はリセットするためだと俺に告げた。
 初めて岩城さんに出会った日に気持ちをリセットしたい。香籐の悪友、岩城さんはあくまでも悪友の想い人。それ以上でもそれ以下でもない、そのスタンスに自分をリセットしたい、するのだと。

 宮坂が香籐宅を後にしてすぐ、走り出した車の中で至極真面目にそう言い出した理由は問うまでもなかった。

 じゃあそろそろ、と、俺たちが腰を上げた帰り際だった。
 宮坂がもう一度最後に詫びようと、先に立った岩城さんを呼び止めるため手を伸ばした瞬間、岩城さんがビクッと大きく身を竦めたのだ。
 一瞬で色をなくした顔は紙よりも白く、きつく噛み締められた唇はわずかにわなないて。
 過剰すぎる岩城さんの反応に、俺たち3人は一瞬で凍りついた。
が、すぐに我に返った岩城さんが一気に絶対零度まで降下した空気を取り繕おうと、震えの残る掌を握り込んで気まずげに言い訳を探し、真っ先に解凍された俺が未だ固まったままの2人を茶化すことでフォローを入れた。そしてなんとも微妙な空気を振り切るように暇を告げてきたのだ。

 あれは無意識の反応だった。条件反射と言っても良い。
 岩城さんが宮坂を許した、その気持ちに偽りや裏はないだろう。たぶんそんなことができるほど器用な人ではない。許しを請いにきた宮坂を厭うとか蔑むとか、そういった負の感情に基づくものでもたぶんない。おそらくは、すりこまれた戦慄からくる、純粋に身体的な、反応。
 PTSDとか、フラッシュバックとか言われる類の。

 宮坂が手を伸ばしたのは何も下心があってのことではなかったし、それは誰もが承知している。が、ヤツの気持ち云々が問題なのではない。岩城さんにとってあれは予想外の行動で、それ故に咄嗟の反応が抑え切れなかったに違いない。逆に言えば、宮坂の行動が予想さえできていれば、岩城さんは出迎えてくれた時から終始浮かべていた穏やかな微笑でもってそれに応えたのだろう。宮坂が岩城さんに与えてしまった心の傷はきれいに覆い隠して。
 あの瞬間まで俺たちにはそんなそぶりさえ欠片も覗わせなかった岩城さんに俺は舌を巻いていた。芯が強いというか、さすが演技派というか。
 あの時の凍りつき様からして、香籐さえそれは例外ではなかったはず。きっと今頃はそれをサカナにベタベタに岩城さんを甘やかしているのだろう。いや、甘やかされているのか。



 埒もないことを考えている俺の横では、宮坂が奈落の底まで落ち込んで更に深く深く穴を掘りかねない勢いでうなだれていた。

「なんで俺なんか許せるんだよ。信じられねェよ、あの人」
「ま、いーじゃん? 他ならぬ岩城さんがもういいっつってくれてんだし?」
 あえて殊更軽い口調で俺は宮坂をいなした。そうして宮坂の空になったグラスにこのところの気に入りであるシャブリをゆっくりと注いでやる。

 いくら宮坂が落ち込んだところで、結局はそれに尽きるのだ。
 今、宮坂にできることは己のしたことから目を逸らさないこと、そしてその結果どれだけ心が波立とうとも、あの2人にだけはそれを必要以上に悟らせないこと、それだけだ。
 どんなに後悔しようと、してしまったことが今更なかったことになるわけではない。一番の被害を被った岩城さんが宮坂を許し、伴侶たる香籐もそれを受け入れた。反省も後悔も当然するべきものではあるが、あの岩城さんの反応によってそれが加速されてしまうことはきっと岩城さんの本意ではない。だからこそ終始笑っていたのだろうし、却って余計なモノを見せてしまったと人のいい岩城さんは気に病むだろう。
 そういう人だ、きっと。あの人は。

 
 そこまで考えて、はたと気付く。

 俺はあの人を嫌っていたのではなかったか。

 おキレイなだけのおヒメサマ。折り目正しくて当たり障りのない人間。香籐という守る腕のあるのをいいことに、清廉のみを好み、非の打ち所のない正義を振りかざし、人の暗部からは都合よく目を逸らし、優しさを勘違いして他人を傷付けていても気が付きもしない、綺麗事だけで生きている人間。
 少々辛口の自覚はあったが、岩城さんのことを俺はそう思っていた。
 香籐の伴侶でなければ――香籐で遊ぶという目的さえなかったら、最もお近づきになりたくないタイプ。正直言って香籐はおろか宮坂まで、何を好き好んで、しかも男なのにと思っていた。
 思っていたのに。

「とんでもねー人だよな」

「は?」
「岩城さん。あの人、相当とんでもねーよ」
 一体何を言い出す気だ、こいつ。宮坂の顔にそう書いてある。ふふ、警戒してる警戒してる。

「とんでもねェって、おまえ・・・すごい人だとは思うけどよ、色んな意味で」
「捻くれてるって」
「おまえ?」
「そう」
「・・・・・事実じゃん」

 そう、事実だ。
 そんなことは自分自身が一番よく知っている。しかしその事実を悪口でも非難でもなく一片の嫌味すら交えず、真正面から肯定してみせた人間はそうはいない。バカ正直2人組と、あとは――姉貴くらいのものか。

「でも面と向かって言わねーだろ、普通。しかもイヤミでもねーのににっこり爽やかに笑って」
「まー・・・言えねェな、普通は。怖くて」
 俺の言わんとした意図が分かったのだろう、宮坂は少し目を見張り、ビミョーにずらした応えを返して寄越した。そしてこの店に来て初めてニヤリと笑う。
「ド肝抜かれたんだろ」
「おまえじゃあるまいし」
 ド肝抜かれてマジ惚れしたやつに言われたかねーよ。

 優しげに言葉を濁すかと思えばスパッと本質に切り込んでくる刃物のような鋭利さ(しかも本人は無自覚と見た)。ニアミスだけで震えが走るほど傷付けた相手すらあっさりと許してしまえる鷹揚さ(これは香籐のためというのが大きなウエイトを占めているのだろうが)。そしてざっくりと口を開けたままの傷を全く悟らせなかった精神力と演技力――最後のは関係ないか。

 いや。

「そろそろ帰るわ、俺」
「えーこれからだろーつきあえよー」
 少し浮上してきたらしい宮坂の抗議を無視して席を立つ。
「あいにくと明日からまた岩城さんの弟だから。俺」
 あの人に全力で演技をされたのでは今の俺では到底太刀打ちできない。そして岩城さんがどんな仕事にも決して手を抜かないのはこの業界では有名な話。経験値の差は如何ともし難くとも、せめて気力体力で負ける訳にはいかない。
「折角の主役、兄キに食われる訳にはいかないっしょ」
 ここはおまえのおごりな。宮坂に払いを押し付け、ひらひらと手を振る。
 宮坂がくくっと笑った。
「なんだかんだ言って、おまえも岩城さんにのめってんじゃん」
「俺の好みは香籐だっての」
 あれぐらいのバカでなければ苛め甲斐がないのだから。
 らしくもないお節介を焼いたのも、全ては俺のおもちゃのため。
 おもちゃで遊ぶのが楽しい、俺のため。


「小野塚ぁ」
 ドアノブに手をかけたまま振り返ると、宮坂が今日初めて、まっすぐに俺を見ていた。
「どしたよ?」
「サンキューな、見捨てないでいてくれて」
「あん?」
「俺、あんなに岩城さん傷付けて香籐もマジで怒らせちまったけど、最後の最後で大事なモン失くさずに済んだの、おまえのおかげだと思うから」
 口調だけは軽く、目はどこまでも真剣に宮坂は言った。

 ったく、昨日かららしくねーったら。
 おまえのおかげ?
 岩城さんに至っては誠実な子?
 やめてくれ。腹黒いと警戒されるほうがよっぽどかマシだ。

「ンなカユい台詞マジで言ってんじゃねーよ」
「ああ?! おまえが言えっつったんだろうがよ!昨日!!」
「真に受けちゃって、かわいいねー宮ちゃーん」
 あくまでもからかいモードに徹する俺。宮坂は更に言い募ろうとして、しかし、やめたとぷいと横を向いた。
「いーよ、もう」
「何だよ」
「感謝してんのはホントなんだからよ」
 つめてーやつはさっさと帰れ、と、宮坂は追い立てるようにシッシッと手を振った。

 バカ正直な奴らめ。
 どこかすれてなくて、純粋なままで。
 他人の裏ばっか読んで、隙あらば誰も彼も足を引っ張って蹴落とすことしか考えてないような人間ばっかのこの業界で、何でこんな奴らがのうのうと生きてるんだ。おかげでこっちまで調子が狂って仕方がない。

 その筆頭が岩城さんか。


「宮坂。おまえ、振られてよかったかもよ?」

 不意に、そんな言葉が口をついて出た。自分でも言うつもりのなかった台詞だったが、不意打ちを食らって痛そうに顔をしかめた宮坂にぶぶっと噴出す。
「うっせーよ、おまえ。早く帰れ」

「バカになりきれなかったのがおまえの敗因だな」

 香籐くらいあの人にバカになりきれるのでなければ、あんなとんでもない人の相手などできるはずもない。まぁそのとんでもない人も、対香籐においては負けず劣らずバカになってしまっているようではあるが。
 ―――そうか。
 香籐をエサに岩城さんで遊んでみるというのもアリかもな。

「小野塚、おまえまた黒いこと考えてるだろ」
 宮坂がさっきとは比較にならないぐらい心底嫌そうに顔をしかめた。
「おもちゃが一つ増えそうだからな」
「おもちゃ?」
「おまえともまた遊んでやるから、さっさとリセットしてふつーのバカに戻れ」
「何だよそれ?!」
 
 わめく宮坂をムシして、じゃーなと今度こそ店を出た。
 夜風は未だ冷たいが身を切る程ではない。むしろ程良く酔いの回った身体には心地よく感じられた。
 あぁ、明日からまた楽しくなりそうだ。
 
                  (了)


2005/7/7 もみじ 拝



あのお話の後のふたり・・・ですね
焼き肉パーティーとの間・・・ぐらいでしょうか
小野塚くんの視点で語られる宮坂くんとそしてあのおふたりv
口とは裏腹に良く人を観察している彼の性格がすごく伝わってきますね
香藤くんをエサに・・・という件ににやりとしてしまいましたv

もみじさん初投稿作品ありがとうございます
宮坂くんが可愛いいですv