今宵は、雲一つない満月であった。 小半時も前に山間から顔を出した月は、そろそろと全貌を見せ始め、藍染の空 を隅々まで照らしていった。月の光は地上を余すところなく降り注ぎ、その足元 に、漆黒の影を映し出す。くっきりと映しだされた影は、夜の中にさらに闇を持 つといったような、どこか落ち着かない気分にさせた。確かに自分の影でありな がら、自分のものではないような・・・その闇から、何か別な世界の住人が足元 を掴み、どこかへ取り返しのつかない場所へ引き摺りこまれてしまうような・・。 思わず、自分の足元を注視してしまう癖が、どうやら未だ抜けなかったらしい。 気がつくと、目の前には、小柄な少年が佇んでいた。 身なりの良い、利発そうな少年である。少年は、こちらが自分に気づくと分かると 人懐こい笑みを浮かべ、叩頭し口上を述べた。 ――お約束のとおり、お迎えにあがりました。我が主人がおまちでございます。 彼は困惑した。 ――私は、そなたとも、そなたのご主人とも面識はない。誰かとお間違えでは ないか。 そう言うと、少年も困ったような笑みを浮かべる。その表情を見ていると、大 人びた外見が、年相応に幼く見えた。 ――私も主人に命じられてこちらに参りました。お連れしなければ叱られてしま います。 言葉だけでなく、本当に困りきった表情からはこちらを謀ろうという気配は感 じられなかった。 気がつけば、彼は少年の後に続いてススキの原を歩いていた。 見渡すほど一面のススキ野原である。ススキの丈は背高く、少年はおろか彼の 背をゆうに越すものもあった。 ススキの合間、わずかに空いた道を縫って彼らは進む。 まるで大海原を泳いでいるようであった。 大人が辛うじてまっすぐに進めるくらいの道を進みながら、彼はこうして足を 踏みしめて歩くのが随分久しぶりだということに気づいた。 この道を歩く自分と、前を歩く少年。降り注ぐ月は闇に沈んだこの世を隅々ま で照らし、何でもないススキ野原をひどく幻想的で非現実なものに映し出す。 (・・・・?) 自分を取り巻く状況に、軽い違和感を憶えたが、それが何を指しているのかは、 彼には分からなかった。 その考えも、横合いからきた強い風に絡めとられ、霧散した。 ――そうして、いつの間にか目の前には少年の姿はなく、彼は、ススキ野原の 中央、少し開けた場所に腰を掛けて月を見上げていた。 周りよりも少し小高い丘になっているその場所には、茣蓙が敷かれ、上座には、 切り取ったススキと、お供え物の団子が添えられていた。 さあ、と杯を差し出されて脇を見れば、唐風の衣装をまとった美しい女性がこ ちらを見つめている。 さも当然のように差し出された杯を受け取り、透明な液体を飲み干した。とろり とした御酒はなぜか清々しく、体の隅々を清めてくれるような気がした。 ふと我に返り周りを見渡す。先ほどの女性の姿はなく、足元には子狐が一匹、 彼の膝元に仰向けに寝そべり、気持ちよさそうな寝息をたてていた。その枕元に は、小さな椀が転がっている。あまりと言えばあまりな状況に、彼はぽかんと口 を空けた。目の前の状況に頭の理解が追いつかない。呆然と子狐を見下ろすと、 少し離れた場所から、楽しげな笑い声が響いた。そうして、彼はようやく、この 座には一人ではなく、同席者がいることに気がついた。 「こやつは、近くに棲む稲荷神のせがれでな。」 供え物のススキを前にして、見事な口髭を蓄えた老人が対座していた。 「時折こちらにやってきては、小間使いの真似事などしよる。が、何分子供なも のでな、欲に弱く本性が容易に現れやすい。そなたを連れてきて勺をしたまでが よいが、酒の匂いに我慢がならなかったらしいな。」 老人は、彼と同じように杯を傾け、くつくつと楽しそうに笑った。彼は、ぼん やりとその声に耳を傾けた。 時折、強い風が、辺りを吹き抜けた。 老人は、その強い風にも、意に介することもなく、時折目を細め、気持ちよさ そうに受けている。どうと言うこともない、身なりは良いが、どこにでもいる普 通の老人のように見えた。どこかで会ったような気もするが、思い出せない。 見つめているうちに、胸の奥に切なさにも似た郷愁が沸き起こってきた。 老人は、再び彼と目が合わせると、眸を月のように細めにっこりと笑った。 『忘れたのかね?』 「あ・・・」 唐突に彼は理解した。 理解?いいや違う。彼は思い出した。 「ああ・・・・」 思わず声が漏れる。 「思い出したか?」 この世界の唯一の住人であり主人である老人は、こちらを見透かしたようにそ う声を掛けた。 彼はそれに答えることができなかった。 杯を取りこぼす。既に空であった杯は音を立てて茣蓙を転がった。両手で顔を 覆い、唐突に胸に沸き起こった感情の嵐を押さえつける様に、歯を食いしばり嗚 咽をやり過ごす。 彼は思い出した。 自分が何者なのかを。 何を思い、何を待ち続けていたのかを。 そして、思い出す。 自分の命の潰える瞬間。最期の時を。 月は、そろそろ南中になろうとしていた。 地上より最も遠い位置に到達した月は、星のささやかな光を打ち消し、自分が 唯一の光点であることを主張して、その輝きを存分にひけらかす。 まるで深海の奥底で輝く宝石のように。 ――ここは、あの世なのですか 激情が去り、随分落ち着きを取り戻した彼は、老人に薦められるままに杯を重 ね、唐突にそう問いかけた。 老人は、ふぉっふぉっと眸を細め、笑った。 「どちらでもない。」 ここを訪れた人間が、必ず通る儀式のように、同じ質問をかさね、同じ答えを 繰り返す。人間とは、自分のいる状況を理解せねば安心できぬ種族のようだ。 「この世でも。あの世でもない。ここはそのどちらでもあり、どちらでもない場 所じゃ。ごくたまにこちらに迷い込む人間がいて、知らず舞い戻る人間がいる。 妖の世界というものもおり、桃花源の世界と言うものもいる。どちらも正しく、 どちらも正しくない。ここはそういう世界じゃよ。」 そして、彼は、あらかたの人間がしてきたように、理解できたような、はぐら かされたような、困った顔をした。 老人はまた笑い、杯を飲み干した。 「心配せんでも、時が経てば自ずとあるべき場所に向かうことになろうよ。まし て、そなたは一度生を終えた人間じゃ。次の世に生まれる時期が来れば道は開け、 進むべき道が記される。それまで、のんびりと月を楽しむのも良かろう?」 最近、共に呑んでくれるものがおらなんでな、と笑うと、彼は、先ほどとはま た別の意味で苦しそうな顔をした。 ――それは、生まれ変わると言うことですか。 どうやら、前の世によほどの心残りがあるらしい。 老人は幼子に言い聞かせるようにゆっくりとうなずいた。 「さよう。人は死なば輪廻を巡り、六道界を行き来す。それは鳥が空を飛び、魚 が水に棲むのと同じくらい、必然的で恒久的なものじゃ。誰もその定めから逃れ ることはできぬし、無理に逃れようとすれば、人としての理から外れることにな る。」 わしのようにな。と老人はなんでもないことのように笑った。 「だからな、若いの。大それた事は考えぬことじゃ。人それぞれ分と言うものが あり、世の流れと言うものがある。流れに逆らうことがあっても、流れから脱し てはならぬ。分不相応な望みは身を滅ぼす。」 「・・・・」 彼はそれに答えず、じっと手の中の杯を見つめた。 分不相応・・・か。 生きていたときのことが脳裏に浮かんだ。 決して長いとは言えぬ人生。少なくとも飢えに苦しむこともなく、恵まれてい た生であったといえよう。 それでも。 手の中には朱塗りの杯。並々と注がれた酒には今宵の満月が揺らめいている。 不意に沸き起こったやりきれなさを再び心の奥底に押し込めるように、彼は一気 に杯を飲み干した。 「会いたい、人がいるのです。」 彼は意を決したようにつぶやいた。 「恋人かね?」 からかうような声音に、彼は照れることなくこくりと頷いた。 「ほう・・・?」 老人は意外そうに目を見開いた。 事実、意外でもあった。理知的な面差しや、目元涼やかで見惚れるほどの立ち 姿は、彼が相応の身分のものだと言うことが容易く窺い知れた。望めば、それな りのものを手に入れることができたであろうし、また、一つのものに焦がれ望む ほどの妄念を溜め込む人柄には見えなかったからである。 山頂から流れる風が、わずかな水気を含んで、彼の髪をかき乱した。 「何年先になるか分からなくとも、相手が自分のことを覚えていなくとも、どう しても会いたい。一目だけでいいのです。ご老人。それまでここに置いていただ くことはできませんか?」 「・・・・・その者の寿命が尽きるまで、ここにいるつもりかね?」 彼は、目に力を込めて頷いた。まるで祈るような眼差しだった。 それでも、ここに来るかどうかは分からぬぞ?と老人は淡々と語った。 「ここは、この世でもなく、あの世でもないが、同時に人としての殻から脱した そなたらは、人であって人でない人間じゃ。必ず生前の姿を保っているとは限ら ぬ。生きた殻を破り、魂のみの存在になった相手に、そなたは気づくかね?」 何度か似たような望みを抱いた死者に対面してきたのだろう。老人は、よどみ なく言葉を続けた。 「事実、そなたは生前、失ったものを取り戻した。」 彼は、無言で左足を撫でた。久しく忘れていた感触。大地を踏みしめる音。 「魂のみの存在となった者は、生きていたときのことを覚えているものは皆無に 等しい。そなたとて、ここに来て、ようやく昔を思い出したほどであろう?万に 一つ、出会えたとしても言葉を交わせるとは思えぬぞ?」 彼は、俯いた。老人の言わんとしていることも、自分の言っていることが、い かに突拍子で望み薄のことなのかも、良く分かっていた。 それでも・・・。 「それでも、かまわない。」 自分は、待ち続けたい。 自分がいなくなった後、幸せになったであろう彼の姿が、どうしても見たかっ た。 「私は、生前、その人間の足枷でしかありませんでした。力も才能もあり、もっ と上を目指せるはずだったのに、私のせいでできなかった。」 彼の優しさに、つけこむような真似をした。自分の存在が彼を縛り付けた。 もっと自由に、雄々しく生きていける人間だったのに。 自分のせいで彼が犠牲にしたものの大きさを思うたびに、堪らなかった。 だから・・・。 「俺さえいなくなれば、あいつも好きに生きているはずなんです。」 それを、見届けたい。 彼にとって、自分は害を及ぼすだけの人間であったけれど。 俺にとっては、お前がすべてだった。 お前が生きて、幸せになれるのならば、この身などいらなかった。 「・・・・相手が、お前さんのことを、忘れてもかね?」 彼は苦しげに眉根を寄せた。それでも、彼は、はっきりと頷いた。 「それは・・・少しは哀しんでくれるでしょう。情に厚い男だったから。でも・・・・」 彼は、それ以上に強い男だった。それは自分が良く知っている。 「きっと立ち直っているはずです。あいつは、誰よりもこの国を憂えた人間です 。この国にはなくてはならない人間となり、この国を支えていってくれるに違いない。」 自分を匿い、守り、支えてくれたのと同じように・・・。 例え、俺の後に、いや、俺以上に愛する人を見つけ、その人と子を生そうとも ・・・・。 俺のことをかけらも覚えていなくとも・・・。 自分が彼を見落とすことはない。見間違えることはない。 「だから・・・」 お願いです、と言葉をつむごうとしたとき。 不意にすべてを奪い取ろうとするような強風が彼らを襲った。 「!!」 とっさに身を庇った。花瓶が倒れ、ススキが宙を舞った。目を開けていられな いほどの風であった。強い風の音が鼓膜に突き刺さり、彼は身をかがめてそれら をやり過ごした。 突風にしては長すぎる風が通り過ぎると、目の前の供え物は跡形もなく、辺り のススキは横倒しに倒れ、嵐の後のような残骸があたりに散らばっていた。 「やれやれ、また来おったか。」 身を起こした老人のつぶやきに誘われて風が通り過ぎた方角を見れば、そこに は、巨大な竜が、身を躍らせ、辺りを襲っていた。 まるで、錦絵に登場するような見事な竜であった。鬣は月の光を浴びて白金の 炎のように燃え上がり、その鱗は、一つ一つが真珠色の輝きを放ち、時折眩いば かりの光を反射する。 竜は、辺りの草木をなぎ払い、近くの木々を打ち倒した。それによって自分の 鱗が傷つくのも厭うことなく、周囲を暴れまわる。 咆哮は、どこか泣いているようであった。 「あれは・・・」 彼も、身を起こし、乱れた身なりを整えることもなくその方角を凝視する。 見開いた瞳はどこか呆然としているようであった。 「あれも、死者じゃよ。」 お前さんと同じようにな。 「よほど、大事なものを失くしたようじゃ。失ったものを見つけ出そうと、ああ やって辺りを探し回るうちに、体は人の殻を脱し、見つけられぬ慟哭から、その 身は竜に変化した。時折、思い出したように、ここにきては、周囲を暴れ回る。 困ったものじゃが・・・」 何せ言葉が通じなくてな、と老人は少しも困った様子なくふぉっふぉっと笑った。 その間も竜は周囲の風景を荒らして回った。捜すというよりは、自分を痛めつ けるような振る舞いに、見ているこちらが痛ましくなる。身を削るような咆哮か ら伝わる絶望に、胸をかきむしられるような息苦しさを覚えた。 老人がこちらの顔を覗き込んでいるのは分かったが、彼は意に留めなかった。 視線は竜に張り付いていて、一瞬たりとも、逸れることはない。 やがて、見開いたままの瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。 「・・・・・彼は、いつここへ?」 老人はすべてを知っているようだった。 「お前さんが来た、すぐ後に。」 「―――!」 彼は、弾かれたように、老人の顔を見た。 「何故!?」 「信じられぬかね?」 竜を見守る老人の顔はどこまでも穏やかだった。まるで、子を見守る親御のよ うな眼差しで、諭すように告げられ、彼は、ぐっと言葉に詰まった。 信じられる、わけがない。いや、信じてはいけない。 「あいつは、こんなに早く死ぬ男ではなかった!!これからの未来、多くのことを行い、 たくさんの人を幸せにできる男だったのに!なのに・・・・」 どうして・・・とつぶやきかけたとき、最悪の事態が頭に浮かんできて、激情のまま に彼は老人に食って掛かった。 「まさか・・・!!」 「誰にも弑されてはおらぬよ。あの男は、自分の意思で命を絶ち、ここにきた。」 そこで、老人はゆっくりと彼のほうを振り返った。 「お前さんの後を追ってな。」 彼は大きく目を見開いた。 自分が、最も聞きたくなくて、でも、どこかで予想した答えであった。 何か言葉を紡ごうとしたが、それは声にならず、微かに唇を振るわせただけだ った。体中から力が抜け、糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちる。 竜の叫びが、いや、彼の慟哭が聞こえる。 顔を覆った。涙は流れない。そんな資格はない。ただ、自分自身への怒りで、 憎しみで、気が狂いそうだった。硬く目を閉じた。歯を食いしばる。髪をかきむしる。 彼は、迸る絶望のままに絶叫した。 「くさかあああああ――――!!!!」 彼は、己の罪深さを漸く理解した。 04.10.26 まあ |
・・・最初に読ませていただいたときに
頭の中でぱああっとビジョンが浮かび上がってきました・・・そんなお話・・・
不可思議で切なくて・・・そして哀しい世界
闇と満月と魂と荒れ狂う竜の姿・・・・
まあさんの不思議な世界に取り込まれてしまいました
「冬の蝉」の最後を受けてのお話です
秋月と草加の対照的な姿・・・・・それは何を意味しているのでしょう・・・
秋の夜長、想いを馳せてみたいと思います
まあさん、素敵なお話ありがとうございますv