薄雪  −うすゆき−




暦の上ではとうに春になっているというのに、その日は凍えるように寒く、今にも降り出しそうな空模様だった。
夕方仕事を終えて岩城よりも先に家に帰った香藤であったが、7時過ぎには帰れそうだという岩城からのメールを少し前に受け取っていたため、機嫌は上々だ。
「久しぶりに岩城さんと一緒に夕飯食べられるなぁ。何かあったかいものでも作ってあげようっと。」
冷蔵庫の食材をチェックしてすばやく献立を考えつくあたりは、さすがは岩城の専属栄養士を自負するだけのことはある。ざっと調理の手順を頭の中でイメージすると、次に時計を眺めて風呂に湯を張る時間まで計算する。仕事を終えて帰ってくる岩城にできうる限りの心地よさを与えたい。こと岩城の世話となると、香藤の手際は何にも増して鮮やかだ。



鼻歌まじりで料理の下ごしらえを終え、頃合よく風呂も準備できた時に、タイミングを見計らったように岩城が帰宅した。
「岩城さん、おかえり!」
玄関に飛び出していった香藤に、岩城は嬉しそうな表情を浮かべた。
「ただいま、香藤。今日は冷えるな」
かいがいしく岩城のバッグとコートを受け取ると、ん〜、と香藤が唇を突き出す。岩城は微笑みながら香藤の顔を両手に挟むと、甘く柔らかく口付けた。暖かい香藤の唇はそれだけで、岩城の寒さと疲れを溶かしてくれるようだった。
「風呂、ちょうどお湯張ったよ、入る?」
香藤が岩城に続いてリビングに入りながら聞いた。
「お前は?」
「いいよ、岩城さん、先に入って。俺、その間に料理完成させるから」
(香藤はいつだって俺のことを一番に考えてくれる・・・。)岩城は振り返り、そのまま香藤の体に腕をまわすと、その肩に顔をよせた。
「ありがとう。香藤。いつも世話かけてすまないな」
「何言ってんの。岩城さんが毎日元気で気持ちよくいてくれることが、俺の原動力だよ」
外は寒いが、香藤がいるこの家は暖かい。岩城は改めて、香藤という生涯の伴侶を得たことの幸せを心から感じた。
「じゃ、そうさせてもらうかな」
風呂に向かう岩城を見送ると、香藤はまたシャツの腕をまくって、いそいそと料理の仕上げにとりかかった。



風呂から上がった岩城を、香藤の作った温かい料理が迎えた。久しぶりの二人そろっての夕食に話がはずむ。お互いの仕事の近況。ドラマの撮影や共演者たちのこと。試写会で見た映画の感想。業界の面白い噂話。二人にとってかけがえのない時間だった。
盛り上がった話がようやく一段落し、食事も終えると岩城が言った。
「後片付けは俺がするから、お前は風呂に入っていいぞ」
「え、いいよ、岩城さん。俺も一緒に片付けるよ」
いや、と岩城は香藤を押しとどめた。
「俺はお前のために片付けぐらいしかしてやれないんだからな。それぐらいは俺にさせてくれ」
少し頬を染めて照れたようにそう言った岩城の可憐さに、いつもながら香藤は見惚れる。
「そう、ならせっかくだから・・・。ありがと、岩城さん」
ちょっとだけ、と香藤は岩城を腕の中にくるんでついばむようなキスをした。ますます照れた岩城の顔をしばらくはうっとり眺めていた香藤だったが、ほら早く入れ、と笑って促されて、ようやく名残惜しげに岩城を離して風呂場に向かった。



風呂から上がった香藤が部屋に戻ると、キッチンはすでにきれいに片付けられており、岩城の姿はなかった。リビングに目をやると、岩城は窓際に立っていた。カーテンを少し開けて外を見ている。その顔を斜め後ろから見ることとなった香藤は、ふいに胸の奥をズキリと突かれたような気がして、思わず岩城の顔を凝視した。

―――どうして・・・岩城さん・・・そんな目をしてるの・・・。

「どうしたの、岩城さん?」
刹那感じた動揺を押し殺して、努めてさりげなく香藤は声をかけた。香藤がリビングに入ってきたことに気づいていなかったのか、岩城ははっとしたように振り返ったが、すぐにいつもの優しい笑顔を香藤に向けた。
「ああ、外、雪が降り始めたぞ」
「え、ホント?」
なぜか焦るような気持ちで香藤は岩城のところに行って横に立つと、一緒に窓の外の暗い空を見上げた。無意識に岩城の手をしっかりと握っていた。
「ワァ、ほんと雪だ。こんな時季なのに」
白い羽のような雪片があとからあとから舞い降りてきては、庭の石や木々の葉に淡い影を滲ませている。
「でもひとひらが大きいね。これじゃ積もりそうになぁ・・・」
そうつぶやいた香藤に、まるで雪遊びができないのを残念がる子どものようだと岩城は口元をほころばせた。
「そうだな。ぼたん雪だからな。春を呼ぶ雪だ」
それには答えず、香藤は外を見たまま、ちょっとの間を置いて言った。
「・・・さっき、・・・」
えっ、と岩城は香藤を見た。
「さっき・・・窓の外を・・・雪を見ながら、何考えてたの、岩城さん」

―――あんなふうに、遠くを見るような目で。

香藤は岩城の顔をじっと見た。その香藤へ、岩城はふわりと柔らかく微笑みかけると、また窓の外に顔を向け、そして答えた。
「冬の蝉のこと・・・」
「えっ?」
意表をつかれて香藤は目を見張った。
「冬の蝉?って・・・あの時の撮影のこと?」
岩城は黙って首を振った。そのしぐさはどこか幼げで、香藤は思わず岩城の手を強く握った。
「いや、映画の撮影ではなくて・・・。秋月と草加のことを」
「秋月と・・・草加のこと? って・・・どんなこと?」
岩城の顔から目を離し、香藤も外の雪に目をやった。
「二人の・・・生きた時間を」
そう小さくつぶやいた岩城の声が切なくて、香藤はたまらずに握っていた手を離すと、後ろから岩城をぎゅっと腕に抱きしめた。

―――二人の生きた時間・・・。

少し驚いた様子で岩城は香藤のほうに顔を向けかけたが、そのままの姿勢でまたじっと黙った。静かに呼吸する胸の動きと温かい体温。香藤にはそれがこの上もなく心地よく感じられて、瞼を閉じた。
ずいぶん長いような沈黙の後、岩城はかすかに身じろぎしてほうっと息を吐くと、香藤の腕に自分の両手を重ね、たくましい肩にそっとその背をもたれかけながら言った。
「・・・理屈じゃないんだ・・・」
「・・・うん?・・・」
「あの二人が正しいとか、間違っているとかじゃないんだ・・・。そうじゃなくて・・・」
「・・・そうじゃなくて?」
「・・・秋月と草加が、・・・二人の生きた時間が、・・・ただ・・・哀しくて、愛おしい、そう思ったんだ」
「・・・そう・・・」
共に生きたいと願いながら果たせなかった二人。舞い落ちては消える雪の儚さにその姿を重ねたのか。香藤は岩城の首筋にそっと顔を埋めた。

―――よかったな、二人とも。ここに、こんなにお前たちを愛してくれてる人がいて。

胸に温かいものがこみあげ、泣き出してしまいそうな気がして、香藤は岩城を抱く腕にさらに力を込めた。そうしてしばらくお互いに黙って窓の外を見ていた。
やがて香藤は顔を上げると、明るい声で言った。
「俺たちずっと幸せでいようね、岩城さん!」
びっくりしたように切れ長の美しい目を丸くさせた後、くすっと岩城が笑った。
「なんだ、唐突に。おかしなやつだな」
「いいの!俺たちは一生幸せでいるんだから。そうでしょ?」

―――あの二人の分も、ね。

岩城は花がほころぶような優しい笑みを浮かべた。
「そうだな・・・。お前と一緒なら俺は幸せだ」
「もう、そんな顔して!反則だよ、岩城さん!」
震えるほどの喜びを感じて岩城のうなじに唇をつけた。
「こら、跡をつけるなよ」
くっくっと笑いながら、香藤はいたずらなキスを繰り返す。くすぐったい、と岩城が体を捩ったが、香藤はますます岩城を包み込んで、その甘やかな匂いを楽しんだ。やがてゆっくり腕をゆるめると、香藤は岩城の顔を覗き込んだ。
「冷えてきたね。コーヒーでも淹れようか?」
「いいな。俺も手伝うぞ」
ほら、離せ、と香藤の腕をぽんぽんとたたいてはずさせ、岩城がキッチンへと向かう。
香藤はカーテンを閉めようとしてふと手を止め、もう一度窓の外に瞳を凝らした。

―――俺は・・・。この愛しい人だけは絶対に、絶対に離さない。何があっても。どんなことになっても。一緒に生きるために、幸せになるために、俺たちは生まれてきたんだ。そうに違いないから。

街灯の明かりが闇をそこだけ蒼く切り取って、降りしきる影を映している。香藤はガラスの向こうにつぶやいた。
「春を呼ぶ雪、か・・・」



それは春を呼び、春を迎えるために消えて逝く雪。薄雪。




2009.3 シャバシャバカレー