凪 その日岩城は一人で赤坂のテレビ局の廊下を歩いていた。マネージャーの清水が昨日から三日間の予定で有給休暇を取っており、昨日は代わりの付き人がついていたが、今日明日岩城は一人で行動することにしていた。スケジュール的に余裕のある日程だったので、なれない付き人をつけるよりも一人の方が気楽だった。 今では大分慣れたが、もともと神経質で人見知りの傾向のある岩城は、よく知らない人間と一緒に行動するのはやはりどこか抵抗がある。昨日は俳優としてではなく事務所社長として行動する予定があったので、秘書代わりに社の若い女性を連れていたのだ。 前もって、清水から誰を連れて行くか打診があったとき、男性ではなく女性の方を選んだのは、はっきり自覚はしていなかったが香藤の焼餅を恐れていたのかもしれない。 愛されているゆえの焼餅とわかっているから嬉しいと思う反面、あまり誰に対してもその手の疑いをもたれるのも、はっきり言って疲れてくる。いささか、そっちの方面では鈍い岩城も最近では、なるべく香藤の誤解を招かないよう特に男性と関わるときには気をつけるようになっていた。 だが、今日のような状況で岩城に気をつけろ言うのはいくらなんでも無理だろうと香藤以外の誰もが思うことだった。 「ご無沙汰しております。先日はありがとうございました」 岩城は自分の前を歩いている白衣の老人に気がつき、声をかけた。 「おや、岩城君だね。今日はお一人かね」 正確な年令はわからないが、古希を迎えているのは確かなようで、黒縁眼鏡をかけた温和そうな外見の老人は岩城に笑いかけた。 「ええ。たまには一人で動きますね」 人見知り傾向の岩城でも、気負わず話せるような雰囲気をこの老人は身につけている。 「おや、君のような大物を一人にするとは。君の事務所、いや香藤君の方が文句を言わないかね?」 岩城と話すこの老人はこの局の医務室に勤めている医師の一人で、その温和で明るく親しみやすい人柄から「じいちゃん先生」と呼ばれ職員だけでなく岩城たちのような芸能人たちからも慕われている。 以前、香藤が巻き込まれた乱闘事件の時、香藤の治療をしてくれたのがこの医師で、そのとき香藤を心配するあまり取り乱した姿を岩城は彼に見られていた。そのときのことを思い出してのからかいか。 「そんな心配されるほどのものではありませんよ、俺は。……矢部先生」 少し恥ずかしかったのか、岩城はうっすら頬をそめている。生真面目な岩城は他の人間のように医師を「じいちゃん先生」とは呼べず本名の矢部で呼ぶ。 いやいや、本当に凛々しく初々しい別嬪さんじゃと矢部ことじいちゃん先生、心に呟く。 「ところで、岩城君」 少し真面目な口調に改めてじいちゃん先生は岩城に問う。 「はい。なんでしょうか?」 こちらはもともと生真面目な岩城。年長者に対してきちんと答える。 「『コレー』という名のカフェに行きたいのだが、場所がわかれば教えてくれんかね?局内にあるはずなんだが、こう広くては……年寄り泣かせじゃわ」 岩城はそのカフェテリアをもちろん知っていた。最近新ビルの建替えが終わった局内に新しくできたカフェの一つである。ここからだと少し道順の説明が難しい。 「ああ、ちょうど通り道ですのでご一緒しますよ」 真面目な岩城、持ち前の優しさに裏打ちされた敬老精神で申し出る。 「いや、忙しい君を煩わせたら香藤君に締められかねんよ。行き方を教えてくれれば良いよ」 まんざら冗談でもない口調だ。特にゴシップ好きでなくとも香藤の岩城に対する熱愛執着ぶりはいやでも耳に入る。まして、じいちゃん、目の前でそれを見ている。 「いえ、仕事はもう終わりましたから」 これは本当のことだ。今日の仕事は単発ドラマの撮影だけで、それが予定より早く上がったのだ。時間に余裕のできた岩城は家に帰る前に本屋にでも寄っていこうかと思っていたのだ。 「そうか。それじゃあ、お願いするよ」 正直、道を教えてもらっても自信のなかったじいちゃん先生、ありがたく岩城の申し出を受けることにした。 これが、香藤の猛烈な嫉妬の嵐を巻き起こすことになるとは夢にも思わない岩城だった。 道々、岩城とじいちゃん先生は最近のお互いの仕事のこと等を話しながらカフェに向かった。芸能界で雑学王決定戦があればかなり上位を狙えそうな岩城と、仕事柄か元々の性格なのか、下は芸能界ゴシップから上は政治経済社会情勢等知識の幅が大変広いじいちゃん先生、話していくうち、すっかり意気投合し、結局、じいちゃんの待ち合わせ相手が来るまで、カフェで一緒にお茶をすることになった。 Vネックの白シャツにジーンズ、濃紺のジャケットを羽織ったラフな服装だが伊達眼鏡をかけているせいかいつもよりさらに知的な雰囲気を醸す岩城と、こちらは眼鏡を仕事中の黒縁から私生活での銀縁に架け替え、かえって白衣を着ていないことが普段の「じいちゃん先生」ではない、もしかしたらこちらが本当の姿かもしれないインテリゲンチャな雰囲気を持つ老紳士がテーブルを挟んで向い合わせに座っている。二人を取り巻く空間は知性と品に溢れている。 なんだかはたから見ていると芸術家と学者の対談だ。某国営放送の何とか美術館とか、歴史をもとめて何とかなどを思わせる。確かにそれに近いことも話してはいたが。 「しかし、岩城くん」 「はい。先生」 二杯目の紅茶にミルクを入れながら医師・矢部(じいちゃん先生とは呼べない雰囲気が漂っている)はのたまう。 「君は戦前の海軍のことを知っているかね? まあ、軍事的なことでなく一般的にどう見られていたかということなんだが」 「そうですね。本当に良くは知らないのですが、陸軍よりも海軍の方が紳士的だったとかリベラルだったとか。……やはり知らないですね」 岩城の返答を聞き、矢部は、はははと笑う。 「そう、いい答えだよ。陸軍は猪突猛進の田舎者ぞろい、それに較べ海軍は冷静沈着知性派の紳士揃いと見られていた面があったね。まあ、海軍の方は英国式の流儀を取り入れていてユーモアのセンスがあったとかテーブルマナーの習得をさせていた等の事実あったようさ」 「はあ」 それにだね、と少しもったいぶった口調で矢部は続ける。 「美男が多かったのさ。海軍士官には」 その話は岩城も聞いたことがあった。海軍士官といえば女学生などには花形スター扱いで、海軍士官に嫁ぐことが若い娘の夢だったとか。 実際、海軍士官が歩いているのを見かけると、普段は海軍軟弱とほざいている陸軍贔屓のむさい男どもでも隠れて憧れの目で見ていたものさ、と矢部は可笑しそうに言った。 聞きようによっては危ない言葉だが、矢部の言葉には過去を楽しそうに懐かしむ健全なものしか感じられない。 「君の出ている作品(もの)をいくつか見させてもらったが、誰かに似とると思ってずっと引っかかってね」 そこで上品に矢部医師はカップを持ち上げ、 「私の知っておった海軍士官に似ていたのだね」 そういい終わるとコクリと紅茶をすすった。 「海軍士官ですか」 岩城は微笑む。この老医師の記憶の人物に似ていると言われると、くすぐったいような照れた気分になる。 「彼は私の同郷の出身で旧制中学の先輩に当たってね。そりゃあ、文武両道を絵に描いたような優等生でおまけに学校一の美男だったのだよ。私もそう悪くはなかったがともかく別格だった。女性にそりゃもててね。負けん位後輩などからも慕われておった」 後輩以外からも興味はもたれていたようだがと矢部は笑った。 中学卒業後その同郷の先輩は海軍兵学校に行き、矢部は旧制高校・大学と進んだので再会したのは何年もあとだと言う。 やがて太平洋戦争が始まり、短期終結戦が失敗すると、戦況は泥沼化し行く一方だった。 「――学徒出陣が始まって私の周りからも学友たちがどんどんいなくなってね、私の学部はまだ大丈夫だったが、出征しないかわりに色々と働かされたよ」 空襲が始まり疎開できるものは東京を離れ、矢部は東京に残った。ある日、軍の命令で横浜に行ったとき、その海軍士官に再会したのだという。 「用事を済ませて、港をぶらついていたら名前を呼ばれたのさ」 はじめは誰だかわからなかった。背がのび大人びていたからわからなかったのではなく、彼があまりにも綺麗なまま変わっていなかったからさ、と話す。 「まあ、この後のことは何だがそれこそ映画のようなのだが、彼は私を海軍の食堂に連れて行ってくれ、りっぱなカレーを食べさせてくれてね、色々話をして……。いや私は何年ぶりかの大ご馳走に夢中だったし、彼もそんなに喋らなかった。そのあと、じゃあ、元気で、とさよならさ」 別れ際に見た彼の人は本当に美しかった。その頃の習慣どおり、ご武運を祈りますと敬礼して別れた時、彼の人は何とも言えない優雅さに満ちていて、それでいてひ弱なとこなど少しもなく凛としていた。同じ人間とは思えない。彼はこの後、どんな激戦区に行っても死なないだろう。特攻をかけても死なないだろう。そして勝利した日本を知るのだろう。 「今思うとずいぶんロマンス溢れる心境さね。若さというのは誰をも詩人にするのだろうね。後にも先にもこれほど感傷的になったことはないわな」 終戦後、矢部は何とか生き残り、大学にも戻れた。だが彼の人は戻ってこなかった。矢部と別れて、わずか三日後に戦死したのだと聞かされたのは戦後何年か経ってからだった。 「不思議だったね」 矢部の顔は笑っていたが、岩城には矢部が心の中で泣いているのがわかった。 「あんな綺麗な人がなんで死ぬのだろう。日本は負けたことを信じるより彼が死んだことを信じるほうが難しかったね。まあ、これが私の初恋だったと言えるかも、な」 カップの残りの紅茶を飲みながら、最後の方は茶化して言う。これが矢部なりの彼の人への鎮魂の方法かもしれない。岩城も少し感傷的になったようだ。 「しかし、とびきりの美男は似るものなのかね?」 茶目っ気たっぷりに矢部は岩城を見つめる。 「どこがどおと言うのではないが、やっぱり似ておるよ。あの頃の写真が残っておれば昔からこんなイケ面が日本におったと今の若いのに見せられるし、ついでに私もなかなか捨てたもんじゃなかったと孫に証明できるのにな」 空襲で全部焼けてしまった、孫は信じてくれないんだ、と悲しそうに矢部は頭を振った。岩城もそれには苦笑するしかなかった。 ちょうどその時、矢部の知人が到着し、矢部は時間つぶしに付き合ってくれた岩城に礼を述べると知人と店を出て行った。岩城もそのあと直ぐ二日前から出張ロケに行っている香藤にメールを送ると店をあとにした。 岩城は香藤が帰ってきたら、今日じいちゃん先生こと矢部医師と一緒にカフェで茶のみ話に興じたことを話すつもりだった。しかし、お互い忙しい身である。すれ違う日々が続き岩城はそのことを香藤に話すことを忘れてしまった。 仕事の合間に親しくなったテレビ局の医療室の医者と茶を飲みながら話をした、たったそれだけのことを香藤に話さなかったために岩城はとんでもない恥をかくことになるとは神様だって予想できなかっただろう。すべては香藤の岩城への愛ゆえの暴走にあるのだけれども。 ――香藤の様子がおかしい―― 岩城はここ二、三日、香藤の様子がおかしいことに気がついてはいた。 体調が悪いわけではなく、不機嫌な態度を表すということではない。だが普段よりも口数は少なく、岩城が聞けば明るく振舞おうとするが、不自然さは隠し切れない。 夜の生活の時はいつもの香藤なのだが、行為が済み岩城が満ち足りた思いで眠りに入りかけた時、妙な視線を感じ自分を抱きかかえている香藤の方を振り向くと慌てて目線を逸らす。 おかしい。確かに香藤はおかしい。何か思い悩むなら自分に言ってくれればと考える反面、長年連れ添った夫婦の感が岩城に妙な危険を告げている。 ――下手に動けば泥沼。藪を突いて大蛇(ボア)を出す―― 仕事のことでまた悩んでいるのではと念のため調べてみたがそんな事実は見当たらない。 残る可能性は一つ。原因は自分……岩城のことしかない。だが、しかし。 なんだか嫌だ。嫌な予感がする……。 香藤のためなら命も惜しくない岩城だが、あまりに馬鹿らしいことで受けるダメージから寿命を縮める羽目になるのは勘弁してもらいたい。香藤にとっては深刻なことでも岩城にとっては……の嫌な予感だ。 岩城は決断する。現状は無視だ。無視しよう。今回は香藤の動きを待つことを岩城は選ぶ。この時の判断を後々岩城は悔やむことになる。 結局、香藤が膠着状態に耐え切れず岩城に行動を起こしたのはそれから三日後だった。 「ねえ、岩城さん」 リビングのソファに行儀悪く横になっていた香藤が声をかけてくる。 「なんだ? 香藤」 岩城はダイニングテーブルで台本の読込みをしているところだった。実は香藤の出方を待つために読込みをしているふりをしていたのだ。 今は夕食後のまったりタイム。風呂は先に済ませている。特に何かしなくても夫婦の存在を確かめられる大切な時間だ。 この時、一緒にソファに座って膝枕をしたり後ろ抱っこしたりで肌を密着させている場合よりも、同じ空間にいることを感じつつ、今の岩城たちのように少し離れている方が、いい難い話をする場合かえって話しやすい空気を作る。 岩城京介、さすがに長年、年上女房はやっていない。すべて愛する香藤のための配慮だ。 だが、そんな岩城の配慮も一瞬にして吹っ飛ばすのが香藤だ。 「先週の水曜日……さ」 香藤はそこで黙ってしまう。しかし、ここで焦ってはいけない。 「ん、水曜日がどうかしたのか?」 岩城、何も気付いていないふりをして香藤に自然に問いかけ直す。落着け岩城。 「その、さ」 普段の香藤とは違う歯切れの悪さ。ここは耐えるしかないぞ岩城。 「……やっぱり、いいや」 ぐっと怒鳴りたくなるのを押さえ込む岩城。もともと沸点は高くない。 「なんだ、言いかけて止めるのはかえって気になるぞ。困っていることがあればここで言え」 やさしく諭すような口調で香藤を促す岩城。このへんやはり実力派俳優。演技に隙はない。 「……あのさ……」 「なんだ? 何があったんだ?」 「……………………………………………………やっぱり、いい…」 ピキィッと空間に亀裂が入った。室温が下がったように感じるのは錯覚か? 「――ッ香藤!!」 久々の岩城の大音声。春抱き名物一喝「香藤!」がでた。「飴と鞭は使いよう」の飴の時間は終わり鞭が始まる。元「緊縛の帝王」岩城。鞭の扱いの方が飴より得意だ! 「い、岩城さん」 いつの間にかソファの前に仁王立ちに立ち、香藤を見下ろす岩城。怒りの魔人が降臨している。怯える香藤。次は鉄拳制裁か? 予想に反し、怒りの気配(オーラ)はまだ残るが、表情を和らげ香藤の前にしゃがみ込み、諭(さと)しモードで話しかける。 「お前が何か気にしているのは気がついてはいたんだ。お前が悩んで言い出しにくいなら俺から何とかできないかと色々考えてみたんだが、正直、まったく心当たりがない。それともお前が何かしたのか?」 ここで香藤、はっとして岩城の顔を見上げると、そこにあるのは心配顔。そっか。今俺そう見えてるんだ。 さあ、ここでがんばらなければ男が廃(すた)るぞ! 香藤洋二! 「先週の水曜日、岩城さんが知らない男と二人っきりで、親しげに話しているのを見たって人が何人もいるって聞いたから」 ようやく香藤の屈託の原因が聞けた。しかし、水曜日……? 岩城には心当たりがない。 「なあ、香藤。それは誰が言ったんだ。俺にはまったく覚えがないぞ」 「俺だって最初は気にしなかったけどさ。何人もの人が自分で見たって。それも同じ内容でさ……。清水さんに聞いても清水さんその日いなかったからそんな男知らないって」 水曜日、清水さんがいない水曜日。岩城はその言葉にひっかかり、ある出来事を思い出す。念のため、きちんと確認してからにしようと香藤に再度質問する。 「じゃあ、先週の水曜日、どこで、どんな外見の男と俺が話していたっていうんだ? お前にその話をした人が本当に自分で見たなら、それ位言えるよな?」 「う……。場所は赤坂の局内のカフェ『コレー』。時間は午後三時から一時間くらい。岩城さんはブルマンブレンドのホット頼んで男の方はダージリンをポットで頼んでたって。岩城さんの格好は特に余所行き風じゃないけど、Vネックの白のシャツにネイビーのジャケット、下はジーンズで靴は茶色。変装用の伊達眼鏡をかけてった……」 もう間違いない。どう考えてもあの日あの時あの場所で……あの人と、だ。 どっと、疲れを感じた岩城に気がつかず話を続ける香藤。 「……多分シャツはこの前俺が贈ったゴルチェの新作。ジャケットは二年前の秋コレのアルマーニの……」 「あのな、香藤……」 「靴は四年前に買ったレノマのお気に入りで俺が踵の修理に持っていったやつ……」 岩城の言葉が耳に入らない香藤。完全に自分の世界に入っている。それにしても、香藤の岩城に関する記憶能力は今更ながらに凄い。仕事柄、岩城も香藤も服や靴などは一般人の何倍もの数を持っている。香藤が自分で贈ったもの以外でも、それどころか香藤の前では着たことの無い服や小物も全て杷握している。今更だが、岩城のことは岩城以上に知っている。 やはり、岩城の不在時に全部チェックしているとか? そして記録をつけているのか? 「香藤、聞いてくれ」 「……眼鏡は自信ないけど形から言ってリキエルの縁なし……」 ここまで香藤間違い無し。狙えるか?全問パーフェクト!? 「香藤! 落ち着け!」 岩城は香藤の両肩に手を置き、叫んだ。香藤の顔が岩城を見上げる。両目が驚きで全開だ。以前もこんなことがなかったか? あの時は岩城と香藤の立場が逆で、同じ局が関係していたような……。 岩城は目をつぶり、深呼吸を二回繰り返す。香藤だけでなく自分も落ち着かなくては。 だが、岩城は先ほどからの香藤が聞いたという情報のなかで引っかかる点があった。それは香藤に真相を話す前に確認したい。 「なあ、さっきからお前が聞いたことに相手の男の外見がまったく出てこないのは何故なんだ? まさか全員そろってその男のことを覚えていないわけないよな?」 香藤の顔が何ともいえない風に引きつる。こいつ、もしや相手の男のこと、まったく聞いていないんじゃ無いか? そんな怪しい話に振回されていたなら……。 もしそうならどうしてくれようと、岩城が険悪モードに入りかけたのを察した香藤は、慌てて話す。 「お、覚えていたよ、皆。まずは見たことのない人で、髪はオールバック、銀縁眼鏡で背は岩城さんより低いけど、何だか……とっても落ち着いたインテリタイプで大人のムードの……岩城さんより結構年上の男で、人見知りの岩城さんが、本当に楽しそうに話していった……て。そいつ、岩城さんが初恋の人に似てるとか何とか言って口説いてて、岩城さん、満更じゃなさそうな顔して手まで握らしていたって」 それは握手というものだ、香藤。心の中で突っ込む岩城。声を出す気にもなれない。呆れてものが言えないとはこのことだ。 岩城は目眩を感じ片手で顔を覆った。 「俺だって初めから鵜呑みにはしてないよ! でも皆同じこと言うし、うそはついていないって誓う人もいたし、って岩城さん大丈夫?!」 岩城は片手で顔を覆ったまま、今度は床にしゃがみ込んでいた。目眩は治まったが、脱力感がひどく立ち上がれない。 「勘弁してくれ、香藤。……確かにウソはついてないな」 「い、岩城さん、ま、ま、まさか!? ウソでしょ!!?」 しゃがみ込む岩城を介抱するため、伸ばした腕を止める香藤。顔色は一瞬で真っ青だ。 「香藤、俺がその時一緒にいたのは、お前も知っている人だよ」 「え、だ、誰!?」 岩城はげんなりした声で続ける。むしろはじめは香藤の方が親しかったと。香藤の頭の中で岩城と共通の知り合いリストがぐるぐると検索を始めた。 自分が知っている岩城知り合い、トップが金子、これはすぐ除外。その日は香藤と一緒に出張ロケ。確実なアリバイがある。アリバイがなければ疑う香藤。金子が聞いたら泣き出しそうだ。 宮坂、小野寺、と友情なんぞ一切考慮にいれず容疑者が浮き上がるが、皆、様々な理由で却下。あ、吉澄さんなら条件ぴったし!?と青くなるが彼は芸能人、少なくとも誰も知らないとは言えない。 容疑者?リストが終わりにさしかかり、ある一人の男が浮かび上がる。 震える声で香藤がつぶやく。 「ま、まさか……お義兄さん!?」 岩城兄・雅彦か? その呟きを耳にした岩城の身体がぐらりと前のめりに倒れ掛かる。慌てて支える香藤。 意識が遠のきそうになるのを必死で堪え、何とかこれ以上の香藤の暴走・妄想をとめなければと岩城は思う。これ以上付き合わされては本当に岩城の身がもたない。 「お前、兄貴と親しいか? 第一、兄貴は俺が生まれた時からの付合いで……。」 「あ、そっか」 香藤は岩城が指摘した事実に気がつきほっとした。 嫁・小舅問題の解決は後回し。岩城はついに疑惑の男の名を口にする。 「俺が会っていたのは矢部先生だ」 やっと香藤に伝えた岩城。これですべて解決す……。 「矢部先生!!って誰!? 俺知らないよ!」 あまりにきっぱりと否定する香藤。岩城はこのまま気絶してもいいかな、と思ったが、放って置いたら、目覚めたあとでも悪夢は続く。 「あの……な、香藤」 岩城の状態の深刻さに必死で介抱しようと抱きつく香藤の耳元に口を寄せる。 香藤は岩城さん、しっかりして!死なないで!と半泣きを通りすぎて狂乱状態だ。 俺を殺そうとしているのはお前だ、香藤。岩城はまた心の中で突っ込む。 「お世話になったお医者の先生の名前ぐらい覚えておけ!このバカ!!!」 「痛、イタタタタ。酷いよ、岩城さ、あ、い、岩城さん! し、しっかりして!?」 岩城は最後の「バカ」の叫びに力を使い果たし、気持ちよく意識を手放していた。 ベッドに横たわる岩城の顔には、冷たいタオルが乗せられている。 意識は取り戻した岩城だが一言も口を利いていない。そんな岩城を前にしゅ(、、)うん(、、)とうな垂れる香藤が一人。殊勝に床の上に正座をし、両手を膝の上に乗せている。見事な「反省」ポーズだ。反省だけなら猿にもできる。反省だけなら「香藤」にもできた。だが、学習能力が極めて低いのが香藤。以前もその嫉妬心で騒ぎを起こしているのに。今回は極め付けだ。 騒ぎの原因は香藤の度を過ぎた嫉妬心にあり、本人である香藤が酷い目に合うのは自業自得で仕方が無い。だが、その度に振り回される岩城は堪らない。 香藤の愛は岩城の美貌と若さの源である一方、岩城の寿命も縮めかねない。 ひやり、とまた冷たいタオルが取り替えられた。香藤が世話を焼いてくれている。確かにこんなまめまめしさは嬉しいのだが。この献身ぶりも岩城の周りに寄ってくる男性への嫉妬心も、根は香藤の岩城に対する深い愛情から来るものとは十分理解はしている岩城ではある。 「あのな、香藤」 「岩城さん。気がついたの? 気分はどう?」 岩城はベッドに横たわったまま香藤に話しかける。その声を聞いた途端、ベッドに走りよった香藤が岩城を覗き込んでいる気配が感じられた。岩城はまだタオルを顔にのせ目を覆われたままだが、香藤がどれほど情けない心配そうな顔をしているのかは見なくてもわかった。 濡れタオルを顔から外し起き上がろうとする岩城を香藤は慌てて支える。 「い、岩城さん、無理しちゃダメだよ。まだ顔色悪いよ」 誰のせいでこうなったんだとでも言ってやろうかと思ったが、香藤の大きなたれ目がこれ以上下げようが無いほど下がり、泣き出す寸前のウルウル目になっているのを見ると可哀想になってしまい何も言えない。やっぱり岩城は香藤に甘い。 「焼餅焼かれるのは愛されている証拠というのはわかってはいるがな、それでも限度、と言うよりどうやったらそこまで見当違いな方向に思い込むことが出来るんだ?」 「……ごめんなさい。でも……」 「誰かとお茶を飲んで少し話しをしただけだろう?」 まだ力の入らない悲しさのにじむような声で淡々と岩城に話されると、怒りをあらわに怒鳴なれるよりずっと身にしみる香藤。 「いい機会だから言ってみろ。どうして男が茶のみ話に興じているだけでそこまでお前は不安に思ったんだ? 大体、どうして直接俺に聞かない? 昔と違って聞いてくれれば俺はきちんと答えるぞ? それともそんなに俺は信用できないのか?」 岩城だって気にしてはいるのだ。自分の何かが香藤をここまで不安にさせているのではないかと。 岩城が香藤に対しではなく自分自身を責めている心境に陥りかけているのを感じた香藤は岩城に対するすまなさで一杯になる。岩城はこんなに自分を思ってくれているのに、どうしていつもこうなのだろう……。 「違うよ! 岩城さんが信用できないんじゃないよ! 俺が……俺が俺自身を信用できないんだよ!」 「どういうことだ、香藤」 岩城はベッドに身を起こしている自分を抱きかかえてくれている香藤の頭を優しく引き寄せ、額にキスをして囁くように促す。不安は吐き出させたほうがいい。小さな芽でも見過ごせば大きな傷になるかもしれない。 「俺が岩城さんを愛してて岩城さんも俺を愛しているのは信じてるよ。でも、本当に俺が岩城さんを支えきれているか、岩城さんを満足させているかが不安になるんだよ。何年経っても不安になる時があるんだ。岩城さんはいつも先を行っていて俺がそれについて行っているほど成長しているのか、今もこんな子どもっぽいことで騒いでる自分に不安があって……」 話の内容はどんどん取りとめの無いものになっていく。だが、岩城はそれを打ち切ろうと思わなかった。岩城にはわかってしまった。香藤には香藤の悩みがあってそれを自分が嬉しく感じているのだ。 「あのな、香藤」 優しく優しく明るい髪の頭をなでながら、優しく優しく話しかける岩城。 「欠点一つ無い完璧な人間なんか世界中どこにもいないだろう? 俺もお前もそうだろう? それでもお前は俺を愛してくれているし、俺だって世界中で一番お前を愛しているんだぞ?」 世界中で一番愛している、の一言に反応し、顔を上げる香藤。 そこには香藤の大好きな岩城の幸せに満ちた顔があった。 「俺が今、どんなに幸せな顔をしているかわかるだろう? 俺にこんな顔をさせることが出来るのはお前だけなんだぞ? 逆にお前だけが俺を本当に不幸にもできるんだよ。俺だって時々、本当にお前に俺でいいのかって不安に思うことが無いわけじゃないんだからな」 「そんな、岩城さん! 俺には岩城さんだけだよ!」 大好きな岩城にどんな不安な思いをさせたのかとすまなさと愛おしさでぎゅっと岩城を抱きしめる香藤。本当にお互いだけなのだ。こんなにお互いを幸福にし、また不幸にできるのも。 岩城にとっては自分が香藤より年上ということがささやかな引け目を感じることがある。 逆に香藤にとって自分が岩城より年下ということが劣等感を感じることがあるのだ。そのことが岩城が年上の男と親しげに話しているということに過剰に反応してしまうのだ。 何年一緒に暮らしているのかと、他人が聞いたら呆れるだけだろう。いい年をした男二人で何を言っているのだと。 岩城だって恥ずかしいと感じない訳ではない。でもそれが恋なのだから。何年経とうと自分たちは互いに恋をし合っているのだから。 「それにしても、じいちゃん先生の初恋の人が岩城さんに似ている軍人なんて……」 立ち直ったのか、香藤がぶつぶつ呟いている。 「矢部先生だろう。親しみをこめてあだ名で呼ぶのはいいが、本名を覚えていないのは非礼の極みだぞ」 めっと叱る岩城。 「う、わかりました。でも、変だよな。じいちゃ、じゃなくて矢部先生なら皆すぐわかる筈なのに。どうして誰も知らないなんていったんだろう?」 「ああ、それは多分……」 岩城が矢部と話したのは茶を飲んだ日が二度目だった。テレビ局内の医務室に何年も努めていると言う矢部だが、岩城だって売れっ子とはいえ毎日その局に行っているわけではないし、医務室なんてそうそう行くものではない。だから、先日の香藤の怪我で医務室に行った時に矢部とはじめて口を聞いたのだ。 香藤は以前、ちょっとした怪我をした時や、疲労で倒れた共演者に付き添い医務室に何度か行ったことから、矢部と親しくなっていたという。 医務室に医者としている時の矢部は、髪はぴっちりオールバックにまとめ時代めいたフレームの太い黒縁眼鏡にこれまた古い型の白衣と、一昔前の診療所の医者という格好で過ごしている。 それがこの前岩城といたときは、白衣を着ていないのは当たり前だが服はおしゃれな遊び心の見えるツイードの上下。髪も少し前髪をたらし、そして眼鏡が銀縁の軽いフレームのものに架け替えたことで、古い診療所の医者からテレビに出演を依頼されるどこぞの学者先生風に変わっていたのだ。 かえって岩城は矢部をほとんど知らなかったので、すんなりその姿の矢部を受け入れたが、普段の「じいちゃん先生」を見慣れている人々にはかえって矢部だと言う事がすぐわからなくても不思議ではない。いや、不思議ではないが……。何かが引っかかる。 突然、岩城はある可能性に思い当たり青ざめる。まさかそんな。でもあり得る。 腕の中で突然身を強張らせた岩城に気がつき、香藤は心配になり岩城を見る。 「岩城さん、気分悪いの?」 「なあ、香藤。お前にこの話をした人たちは何人ぐらいなんだ?」 静かにやさしい岩城の口調に疑うことなく答える香藤。 「えーと、最初に現場でメイクさんから聞いて……」 「その人だけじゃないだろう? 全部で何人から聞いたんだ?」 ここで香藤、岩城の様子がおかしい事に気がつくが今更答えないわけにいかない。 「全部だと……6,7、10……、いやもう少し?」 「お前から聞いて回ったのは何人(・・・・・・・・・・・・なんにん)だ!?」 「え、えーと、その」 目を白黒して口ごもる香藤。そんな香藤の様子を見て、岩城は自分の最悪の予想が当たってしまったのを知る。一番初めの人間以外は香藤が自分で自ら話を聞きに行ったのだ。 見知らぬ老紳士と岩城が茶飲み話に興じている姿に興味を覚え、思わずどんな話をしているのかと聞き耳を立てた者もいただろう。 だが、いくら初恋云々の話が聞こえてきたとしても、あの時の岩城と矢部に何かあやしげなものをうかがわせる雰囲気はこれっぽちも無かったはずだ。いくらなんでもそれはない。矢部は年令(とし)より矍鑠(かくしゃく)としているが戦中の学徒動員世代だ。どんなに妄想に駆られたゴシップ記者が側にいてもでっち上げる気にもならないだろう。 始めに香藤にその話をしたものも特に悪気があったわけではない。だがしかし、それで話はすまなかった。 香藤が気にするあまり、あちらこちらに聞きまわったことが話を広げてしまったのだ。 思い当たることがあった。 三日ほど前、赤坂のスタジオでインタビューの撮りがあった。 帰り際、岩城はディレクターのから軽く「岩城さんも大変ですね、いや大変なのは香藤さんかな?」と冷やかしととれる言葉をかけられたのだ。その時側でそれを聞いていたスタッフたちが何ともいえない表情を浮べていたのだ。 岩城はいつものごとく、また香藤がのろけ話でも聞かせたのかと深くは気に留めなかったが、あの時の周りにいた人々の反応はこう、もっと何というか……。 古来、噂として話が広がる時は必ず尾ひれがつく。岩城も香藤もいやというほど身にしみて分かっている。 あの場にいた人々はいったいどんな内容に膨れ上がった話を聞いていたのだろう。岩城を見る人々の目には、よく思い出して見ると、岩城を面白がって見ているというより、むしろ気の毒そうな、憐憫の色さえを浮べていなかったか? いったいどんな尾ひれがついたのか? 大体、岩城と矢部が一緒に茶を飲み、矢部の初恋の人が岩城に似ている云々の話など、普通に見聞きしただけなら一時の笑い話になるのがせいぜいなものだ。これを広めてへんなイメージを固定させたのは、妙な嫉妬心から自分で話を聞きまわった香藤だ。 「香藤、お前は……」 一時下がった怒りの熱が上がってくる。青ざめた顔が今度は赤くなっていく。 「い、岩城さん。震えているよ。寒いの?」 大きなたれ目に心配そうな表情をうかべ、岩城を見つめる香藤。 可愛い可愛い俺の香藤。そんなお前がずっと愛おしかった。分別のあるお前なんてみたくない――。 だが、ものごとには限度がある。 「香藤、お前、自分が何をしたかわかっているか?」 優しく優しく諭すように囁く岩城。 「え、え、あの?」 香藤の目の前にいある岩城の顔は優しい微笑みを浮べている、なのに怖い。 「自分からあちこち聞き回って(・・・・・・・・・・・・・)、話を広めたんだな?(・・・・・・・・・・)」 夫婦の感で危険を感じる香藤だが逃げることはできない。ようやく、自分が何をしでかし何が岩城を怒らせているか理解した香藤だった。 岩城の我慢もここらで限界がくる。 「い、岩城さん。身体に触るから、お、落着いて……」 「香藤、本当に……お前は……お前というやつは――っ」 ――このあとどうなったかは、誰もが想像できるだろう。 岩城の逆鱗に触れるどころか毟(むし)ってしまった香藤。岩城の怒りの凄まじさは敢えて語るまい。 香藤は、岩城からこの世でもっとも過酷な罰を申し渡された。 ――もっともこの世で過酷な罰(香藤にとって)、「寝室締め出しの計」(つまりH禁止令)―― その後、夜な夜な寝室のドアの前で膝を抱えてしくしく泣いている香藤の姿が見られたとか。岩城の怒りはいつ解けるのだろう。 それは誰にもわからない。 |
2008・12・21 タビネコ 何だか外しまくってます。 以前遅らせて頂いた物の 後日談ということです。 |
前回送って頂いたお話の続編になりますねv
香藤くんの勘違い・・・それにまつわる騒動・・・
それらがとっても、らしくって楽しませて貰いました
確かにソレは香藤くんにとって厳しい罰だわ(笑)
タビネコさん、素敵なお話ありがとうございます