狂女の恋

 

「―私(わたし)、行きます。」姉さま…。
 真新しい卒塔婆に向かって手を合わせる。
 俗名も戒名もないそれにはただ、狂女、と。
 自慢の従姉妹だった彼女、誰よりも幸せになるはずだったのに。
 美しく聡明で、優しかった彼女の婚約者は、これもまた我が藩自慢の俊英で。彼、吉田
 稔麿様も、そう、二人並ぶとまるでお雛様のように美しい殿方でした。

 その吉田様が池田屋で新選組に切られておしまいになって、彼女は狂ってしまいました 。いいえ、その知らせだけなら、吉田様への想いを抱いて、姉さまは生きてゆくことが 出来たでしょう。そしていつの日か、他の方へと継いだかもしれません。
 けれど、時代の流れがそれを許しませんでした。
 新しい縁談が来たのは吉田様が切られてしまったという知らせからまだ、半年も立たぬ 内のこと。いくらご時勢だとはいえ、お年のこともあったかも知れぬとはいえ、いくら なんでも、早すぎる。 
 しかも、お相手はその家柄からも、人となりからも、彼女に相応しいとは思えませんで した。

 ―最初は、本当ではなかったのだろうと思います。まだ、彼のことが忘れられないのだ と 、その、意思表示でしかなかったのだろうと。けれど、それがきっかけとなって、 彼女 の心は壊れていってしまったのです。
 ―日がな一日、稔麿様のお着物を縫い、うたかたのように正気に戻って引き裂かれたり して。お屋敷の離れでひっそりとお暮らしになる日々。
 世が移り、それまでお世話をなさっていた母上様や乳母殿もなくなり、私がお世話をす るようになって。静かな日々。
 時折うっすらと正気に戻られては、懐かしそうに稔麿様のお話や、私のことなど。

―私にも、婚約者はおりました。
 幼馴染のその方は、江戸詰めになってこの地を離れ、そのまま英吉利は倫敦に留学して 、私にはただ、婚約を解消して欲しいと、御文が来ただけでした。
 お返事をしようにも連絡は取れず、明治の新政府では外務大輔の地位に就かれたと風の 便りに聞いただけ。それでも、正式には婚約を解消しないまま、明治の御世も落ち着い てくると、今度は私の側が、この婚約について物申すようになりました。 
 当然でしょう、婚期を逸した娘と、婚約を履行しようとしない高官、いくら長州とはい え、新政府の恩恵を受けられたのは、ほんの一握りなのですから。
 それでも私が東京へ行かずにいたのは、彼女がいたから。
 今ではお世話をする人もいないのだからと言い訳して、本当は私自身、お会いして直接 確かめるのが、恐ろしかっただけなのに。

そして、明治三年の秋、姉さまは稔麿様の元へ逝かれました。
 冬になったかのような寒い朝、その前から引き込んでいた風邪のために、眠るように、 そっと…。

「姉さま…」
 一片、海に雪が落ちて。
 『思うとおりにお生きなさいね…』
 幸せだったと、ただ稔麿様のことだけを思って生きられて、誰がなんと言おうと自分は 幸せだったからと。だから、私にも、思うとおりに、幸せに生きて欲しいと。
 その言葉を胸に、東京へ行きます。
 その後どうするかなど、判らないけれど、東京へ行って、あの方にお会いします。草加 十馬様に―。

東京へは船を使いました。
 横浜港で上陸し、東京の家に着いたのは年も明けた明治四年。
 荷を解いて、旅の疲れを取るようにと宛がわれた部屋で寛いで数日を過ごしました。
 ―それは、前夜からの雪が降りしきる、一月も末のある日。
 萩では考えられないような寒いその朝、
「行くのはよしたがよい。」
「何故でございますか?」
「草加殿は、」
 新政府の中でも派閥やらなにやらあるとは聞いております。何かあったのかも、知れま せん。
 草加様、そういえば、幼いころのように御名で呼ぶこともなくなっていました―いつか ら、私も、そうなっていたものか。それでも…
「私、行きます。」
 すでに家督を継ぎ、お役に付いた兄の反対を押し切るように家を出ました。
 随分としつこく止められたのが、気になったということも、ありました。
 広大な敷地の割にはこぢんまりとした洋館が、草加様のお屋敷でした。
 昨夜からの雪に降り込められそうなそのお屋敷は、しんとしていて…。
 玄関先で案内を請うてもうろたえたように当を得ない答えが返ってくるばかり。
「どうかしたか?」
「…相沢様。」
 どうしてここにいらっしゃるのでしょう。
 相沢正之進様、長州藩のお方で、確か今では陸軍少将と聞いております。
「草加か、…こちらだ。」案内しよう。
 そうして連れて行かれたのは奥庭の離れ。
 随分と離れたところに、ひっそりと建てられた平屋でした。
「では、俺はこれで。」
「相沢様?」
 確か、身分の差こそあれ、親しかったはずなのに。それに…。
「相沢様も御一緒に。」
「いや、俺は…。」
「御願い致します。」
 では、と、相沢様が先に入られたそこには、草加様の乳母のイトさんがいて。
「お帰り下さいと…あ、」
 失礼いたしました、と、招じられて私は中へ入りました。
 そこには、ふたつ取られた床に、白い布を被せられた遺体が二つと、そして…臈たけた 一人の女性が。
「どちら様でしょうか?」
 こんな、人の目からも隠すように設えた離れ、草加様に侍っていた方なのでしょうか。「…私は、」
 そう言って、その方は目を伏せられました。なんと言ってよいものか、そう、思案なさ るように。
「…まずは、ご対面為されませ。」
 そう言って、彼女は片方の顔にかけられた白布をめくり上げました。
「…!…」
 口元に微かに笑みを含んだその方は…。
「そして、こちらが…」
 もう一人は知らない方でした。艶やかな黒髪、瞳は閉じられていましたが、それと判る 端正な面立ち。同じように笑みを含んでいらして…。
「秋月景一郎様と仰います。」
 それが…、
「私の、婚約者でございました。」
「…え?」
 それが、どうしてこんな風に…まるで、心中のように。
「どうして…」
 枕を並べた二人の殿方と、そして残された女は二人とも、既にトウがたっていて。多分 、この方も私と同じように、戊辰の戦によって、この婚約者の方と別れられたのでしょ う 。
「…私も、よくは存知ませんけれど、」
 そう前置きした上での話では、
「宇都宮に向かわれる前にお話したとき、共に新しい国を作ろうと約束した御方が長州に おられると、それが多分、大輔様なのだと思います。」

 それが、どうして…。
「倫敦に立つときに、婚約を解消したいとお便りを頂きました。」
 そのときにはもう、このような仲になっていたのでしょうか…。
「さ、それは…。」
「二人が出会ったのは草加が留学する前だ。」
「相沢様…。」
「御存知なのですか?」
「…ああ、」
 そうして伺ったのは、草加様と、秋月様との、恋のこと―。
「それでは、」
「俺が殺したのだ。」
 嫉妬したのは草加にか、秋月にか。そもそれは、嫉妬というものだったのか。
 項垂れる相沢様に、二人の女にはかける言葉が無く―。
「相沢様。」
 それでも、責めることはできないと、思って。
「貴方様のせいではございませんわ。」
 彼女も、そう思ったのでしょう。
「景一郎様は、悔いてはおられません。」だから、恨むお人も。
「どうぞ、ご自分を責めたりなさらないで、」
「だが…」
 悔いているのは、二人が死んだからではないのだと。
「そんなことでは困ります!」
「―どの、」
「十馬さまだって、無念を残しているわけじゃありませんわ。」
 それなのに命を絶ったというだけで、自らを責めないでほしい。少なくとも、任務だっ たのだから。
「御自分のお仕事に、もっと誇りをお持ちなされませ。」
 それこそが二人の命の贖いであると。
「ええ、本当に、そうですわ。」
 そう言って、私は、明るくなった窓へ行き、障子を開けました。
 いつの間にか雪はやみ、日が射しております。
 今はきっと、何ものにも捕らわれることの無くなった二人が、光を目指せるようにと、 雲が切れたように、思われます。

「…ほら、」

 

 

                              了

 

9月11日脱稿

 

砂沙

 

名前のついていない人シリーズ、三部作完結でございます。どこが冬の蝉だ?

 あとは番外編が一つ。こちらはちゃんと、春抱きです、あれ?





とても切なく、そして美しいお話です・・・
それぞれの人物の想いが晴れた冬の空のように昇華出来ますように・・・と
願わずにはおられません

砂沙さん、素敵な作品をありがとうございます