遠い夜明け




―名、で、ございますか。それは、お許しくださいませ。
…はい、元は武家の出でございます。
三河以来の直参で、父は奉行を務めておりました。左様でございます。御一新の直前に、兄が家督を継ぎました。妹は嫁いでおりましたが、私(わたくし)はまだ、家におりましたもので…。
いいえ、婚約者はいたのですが、その御方に、待つなと、婚約を解消されましたの。


―生まれて初めてお会いしたその方は、とても美しい御方でございました。『申し訳ない。』そう、仰って…。

「待つな、と、仰いますの?」
諦め切れなかった。生まれてからずっと、物心ついたときから、この御方の妻になるのだと、思っていましたから…。
「私はもう、生きて戻るつもりはないのです。お気持ちには、応えられない。」
「そうではありません、戻って来てくださらなくても構わないのです。…私が、お邪魔でしょうか?」
言ってはならない言葉だと、判っていても止められませんでした。
「そうではないのです。全ては、私自身の問題で…、貴女にはとても申し訳ないが。」
そうして、ぽつりと、呟いた言葉が、耳に届きました。
「待っていて頂く資格が、私にはない。」
独り言の、ように。
「…好いたお方が、いらっしゃいますの?」
「いいえ!」
即座に、強い、否定の言葉でした。
「いいえ。でも…そう、共に生きたいと、思う人がいました。」
「…え?」
それを、好きだとは、言わないのでしょうか。
「ああ。」言葉が、足りませんでしたね。
「共に新しい世を作ろうと、誓いあった友人がいたのです。」
いた…、と?
「その、お方は?」
「今は英国にいます。長州藩士で…」戻ってくる頃には戦も終わっているでしょう。
「では、そのお方が戻られるまで、せめて、戦に行くのではなく…」
未練がましいとは、判っていましたけれども。
「それは…。確かに、勝敗は見えているかもしれない。無駄な抵抗かもしれない。でも、ただ黙って薩長の言いなりで新しい世を待っていては、あいつに顔向けが出来ない。薩長には薩長の考えがあるように、幕府には幕府なりの、新しい世の絵図がある。それを彼らに問わずして、ただ流されているだけでは、あいつを待つ資格がないのです。」
そのために、命を賭けられると…。
「では、私の気持ちも、判っていただきとう存じます。」
「貴女の…?」
「はい。幼き頃より、貴方様の妻になるのだと、そう、言われ続けてまいりました。」
これまで、幾度となく、婚約の解消を求められても、肯うことが出来なかったのは、そのせいだけではないけれど。
「待つな、と仰るそのお言葉が、ご友人のお言葉だったとしたら…。」
「…そう、ですね。私も、待つでしょう、そう告げずとも、きっと。」
そのお顔は清々しく、静かな決意に溢れておいででした。
「待たせてくださいませ。貴方様をではなく、望まれた、新しい時代を、待たせて頂きたいのです。」
「でも、それでは…。」
私の年を、気にしているのは、判りました。けれど、既に婚期は逸しているのです。
「望んで今まで待ったのです。誰のせいでもなく、私自身の我儘で。ですから、待たせて下さいませ。」
「…さん。」
そう、私の名を呼んで、少しの間、目を閉じて何かを考えておられました。
「では、貴女の望むようになさって下さい。私は生涯、妻を娶ることはいたしません。でも…、女性はただ一人、貴女だけです。」
「有難う、存じます。」
…様。御名を呼ぶことは出来ませんでした。幸せすぎて。

そうして、その御方は、旅立って行かれました。伝習隊に加わって、宇都宮に行かれたそうでございます。その後のことは、存じません。


「へぇ、上玉じゃあないか。一体どっから仕入れてきたんだい?」
「へへ、このご時勢でさ。よくある話ですよ。」
「確かにね、で、身元は確かなんだろうね。」
「もちろんでさ。しかもとびっきり。何でも先の戦で婚約者が行方不明ってんだ、まっさらのおぼこですぜ。」
「本当かい?」
女衒の言葉に店の女将の声が変わったようでした。
「へぇ…、トウは立っちゃいるけど、そうかい。」
ポン、と手を打った女将と女衒の話はうまく折り合いが付いたようで、私はこの、玉屋という置屋に、女郎奉公することになったのでございます。

―どうしてそのようなことになったのか。
女衒の言うように、よくある話ではございました。ただし、大身と言われる領地もあった我が家のような旗本ではなく、御目見え以下の方々の、でございます。
では何故、と申せば、家督を継いだ兄の、太平の世であれば美徳と言われたであろう人の良さと、嫂の矜持の高さが裏目に出たのでございました。
そうして、家では厄介者でしかなくなっていた私にできることといえば、足繁く出入りするようになった借金取りが連れてきた女衒の言葉に、肯くことしかなかったのでございます。

『花魁、しばらく、この子を頼んだよ。』
私を買った置屋の女将はそう言って、一人の女性を引き合わせてくれました。その方は、私よりも少し年上でしょうか、とても美しい方でした。
「お武家のご新造かい?ここがどんな所かは、判って来たんだろうけど、大丈夫かい?」
「いえ、…はい、あの…」
事情を説明いたしますと、そっと肩を引き寄せて背を撫ぜて下さいました。
「花魁といっても、あたしももう落ち目だし、今ここに来ることのできる男は、あんたにとっても仇に当たる薩長のお人ばっかり、それでも、いいんだね?」
「はい。」
それ以外に、できることはないのだと。
「違うよ。自分で諦めてしまうのではなくて、それでも自分を無くさないで、生きて行こうとする気概がないと、抜け殻になっちまう。」
幸せだった頃の気持ちを、思い出を消しちまえば、不幸にはならなくて済む。でも、そんな抜け殻になっちまったら、幸せになることも、出来やしないのさ。
「でも、それじゃあいけないんだよ。」
確かに、体を売ることは辛いけれど、それに負けちゃいけないんだ。
「でも…、」
花魁というからには、客も選べるし、他の者よりもよい待遇を受けているはずで…。
「ああ、そうさ。」その代り、年季が明けるような借金じゃなくなるんだよ。
位が上がれば揚げ代が上がる。衣装も良いものが着られるし、禿もつく。でもそれは全部借金に上乗せさ。どんなに揚げ代が上がったって、追いつきやしない。
「ここはそういう所なのさ。」
あたしもいつかは、ここにも居られなくなって、舟女郎かねぇ。
「花魁…」
そういえば、先程、も、と仰って。居に染まぬ方の相手もなされたのでしょうか。
「そうさねえ。」こんな商売じゃ、惚れた相手とばかりにゃいかないけどさ。
「―情夫(いろ)がいたんだよ。」
全部自分の借金で背負って店に上げる、そうやってでも自分のものにしたい男を作る、それが花魁の、贅沢であり、粋であり、意気地って奴さ。
「どのようなお方でしたの?」
「お方って言う上品な奴じゃあ、なかったねえ。」
そう言って、花魁はからりと笑われました。あでやかな衣装、艶やかな化粧に不似合いなほどの、鮮やかな笑み。
「でも、そう。いい男だったよ。」顔も、頭も、腕っ節もね。でも…、
「武士になる、って、京へ行ってそれっきりさ。」
伏見で負けて、帰ってきたらしいけど、まあ、顔なんか出せやしない。後はずうっと、北へ行って、戦を追うように箱館までいって、
「死んじまった、って話だけは。」馬鹿な、男ですよ。
そう、愛おしそうに呟いておいででした。

「ほお、新顔だな。」
「それにしちゃあ、トウが立っていますよ。」
ここに来て十日余り。
『本当はまだ、早いとは思うんだけどね。』そう言いながら、花魁は私の衣装を調えて下さいました。
今夜のお客は、長州閥の中でも外務省にいらっしゃる方々だというお話でした。
「―今日が初見世のとびっきりですからね、」
そう言って花魁は、座の中ほどに座られておいでの方をちらりと見やりました。
「大輔、いかがです?」
「いや―」
「せっかくの初見世ですよ。」
「そうですよ。こんな上玉、滅多とあるものではありません。」
「やはりアレ、良くある幕臣のご新造とやらか?」
「夫はなんという?禄高は?」
大輔と呼ばれた方が興味を示されない分、他の方々の不躾な声が掛かりました。
「そんなことは、どうだっていいじゃありませんか。」
花魁の言葉にも、耳を貸されません。
「我々が勝って、良かったですな。」
「いやまったく。でなければこうやって、身を売るのは妻子であったのかもしれんと思うと、…」
「やめないか!」
「大輔…」
「その物言いは随分と下品ではないのか。勝てば官軍、とはいえ、負けたものの家族までこのように侮辱するなど、驕りでしかない。恥を知れ。」
「…大輔」
「やはり、大輔様に水揚げしていただきたいものですが、いかがでしょうねえ。」
もう一度、花魁が申しました。
確かに、このような御方に、と、私も思わずにはいられません。けれど…。
「―では、私が買おう。だが、もう帰らねばならないから、ゆっくり休めばいい。」
そう、大輔様が仰られたとき、思わず口ごたえ致しておりました。
「そのようなことは、して頂かなくても宜しゅうございます。」
「何!せっかくの大輔のお情けをなんだと!」
「生意気にも程がある!女郎の分際で…」
「いいえ!」
花魁は、ただ心配そうに、けれど、黙って見ていて下さいます。
「いいえ、女郎であればこそ、でございます。確かにお金で売り買いされる身、であればこそ、そのようななされようは、かえって侮辱ではございますまいか。」
「生意気だぞ!」
「女郎とて女子、女子とて人でございます。私とて、覚悟を決めてここに居りまする。その覚悟を持った人を、抱きもせず、ただお金を払えばよいなどと、情けとは申せませぬ。それならば、金銭で体を売るような女子は汚らわしいと、そう言われた方がましでございます。」
「…なるほどな。」
大輔様は微かに微笑んで頷かれました。
「確かに私のほうが、由無いことを言った、許されよ。」
「いいえ、私のほうこそ、生意気を申しました、お許しくださいませ。」
「だが、本当に今宵は時間がないし、ここにいる者達では貴女の相手には力不足。かといって、他の席の誰かに水揚げさせるのも勿体無い。同情ではなくて、次の機会を、ということで、納得してはもらえないだろうか。」
「有難う存じます。」
そう答えたのは花魁で、私はただ、その隣で、深く頭を下げたのでございます。

その話が、どう伝わったものか、私を水揚げしようという話はしばらく聞かれることはなく。
「身請け?」
「ああ、先達ての話を聞いたとかでね。きちんとした家柄の教養のある女性がいいと仰ってねえ。」
妾にもそういうのがいいのかねえ。
「あたしは反対です。こんないい話、裏があるに決まっている。旧幕臣のご新造を囲って嬲り者にしようって奴だったらどうするんですよ。」
「花魁…」
「そりゃあ、あたしだって思わなくはないよ。」でもねえ、
「ここで年季が明けるまで勤めるったら、どういうことなのか、あんただって、判ってるだろ。」
そうやって、身を売って、無事年季明けまで勤め上げることのできる者のほうがまれなんだ。体を壊して死んじまう女郎がどれくらいいて、足抜けや心中を図って折檻で死んじまうのがどれくらいいて…、
「死なれちまうあたしらだって、辛いんだよ。」
花魁の前だから、出た言葉なのかもしれません。
「…お話、御受け致します。」
「いいの、かい?」
「はい。」
どちらも、私のことを思ってくださってのこと、それがよく、判りましたから。


執事だと仰る方に連れられて来たお屋敷は、瀟洒な洋館でございました。
門からお屋敷まではさほどではございませんが、裏庭が森と思えるほどに広がり、尚且つその奥には離れがあるとのことでございました。
そこに囲われるのかと思っておりましたところ、私は母屋にて女中頭のイト様のお手伝いをとのことでした。
わざわざ置屋から、高い身請けのお金を払って女中を雇うなどと、酔狂なお方もあるものと、けれど、ふと、かすかな気がかりを感じてしまったのです。形になる前に、打ち消してしまいましたけれど。
「旦那様はお忙しい方ですから、特別なご挨拶はしなくてもいいそうです。」
そう、イト様は仰いました。
「ここに勤めているのは皆住み込みで、執事と私、もう一人女中がいて、この子は表の細々としたことをやってもらっています。後、御者と下男が一人づつ。貴女には、奥向きのことを主にやってもらいます。そして、ここに勤める条件は、余計な詮索をしないこと。」
イト様は、何でもご主人の乳母でいらしたのだそうです。いまだに独身のご主人が奥様をお迎えするまで、とは言うものの、お年のこともあって女手を雇うことにしたのだとのことでした。
―余計な詮索、というのがどういうことなのか、私にもすぐに判りました。
出入りを禁じられた奥庭の離れ、そこにどなたかを匿っておいでなのでした。
誰にも知られぬように、ひっそりと、大切に、真綿で包むように、風にも当てぬように、私どもにも必要最低限以下のことしか知らせずに、護っておられるのでした。
―ただ、食の細いその御方のお口に合ったとかで、日々のお食事は、私が支度するようになったのでございます。


時は流れ、季節が移り、新しい年が明けました。
イト様がお忙しいと仰ったとおり、旦那様にお目通りする機会のないまま、私は明治四年を迎えたのでございます。

―その朝、前日からの雪がお屋敷を、まるで閉じ込めてしまうかのように降りしきっておりました。
私はいつものように朝餉の支度をしておりましたが、玄関先がなにやら騒がしくなりました。
お客様にしてはおかしいと、台所から顔を出しますと、陸軍の制服が見えたのです。
何故?旦那様は外務大輔です。ましてや警視庁でもない方々が、何の故あっての捜索なのでしょうか。
膝から力の抜けてしまうような恐ろしさが襲ってまいりました。いたたまれなくなって玄関先に向かいますと、ちょうど指揮官らしき方に男の方が食って掛かっているところでした。そうして、その方といいますのが…。
「大輔、さま…」
全ての答えが一気に押し寄せてくるようでした。
もちろん、私がこの身を売ったことや、初めて旦那様が登楼なさったときのことは偶然でしょう。けれど、身請けの話は…身請け?そうです。どうして旦那様は、私を、身請けしたのでしょう。何故、私、だったのでしょう。
「だんな・さま…」
お二人は、なにやら言い争っておられましたが、旦那様はその陸軍の方を突き飛ばすようにして、玄関から飛び出してゆかれました。
「旦那様っ!」
どこに向かわれたのか、その先に、あの離れにいらっしゃるのが誰なのか。まさか、まさか…。
「…さま、だんなさ・ま…」
ふらふらと、後を追うように私も玄関を出ました。そうして、いつの間にか走り出していたのでございます。

走って、走って、ようやく離れについた私の前に、大輔様が飛び出してこられました。それを追って、私もまた。
「草加!…う、わ…」
そのとき後ろから掛かった声は、多分。思わず突き飛ばしておりました。そして、その勢いを借りて、再び駆け出したのでございます。
けれど、所詮は女の足、大輔様に追いつくことはできません。
それでも、行く先を導くように、足跡と、何かの這ったような跡が…這った、跡?離れにいたのは人でございましょう。人、が…?
胸が締め付けられるような心地がいたしました。早く追いつかなくてはと思うのに、足が思うようには進みません。
ようやく、目の前の大木の根元に蹲る人を見つけたときには、もう、歩くのもやっとでございました。
木の根元に、抱かれるようにして重なり合う二人。そして、その、左の御足が…。這った跡という理由が、わかりました。
己を染める赤を降り込めるかのように、その色に染まりたいというかのように降りしきる雪…。赤?赤い、雪…真紅の、あれ、は…。
そして、そして…大輔様は、長州閥だと、登楼なさったときに花魁が仰っていたはず。
「…あ・き、づき…さま、景一郎様!…っ、あっ、ああっ!あー…」
もう、私には動くことなどできませんでした。その場に、その、場所に、崩れるように座り込んで、ただ…。
不意に、いつかの花魁の言葉を思い出しました。
『生まれ変わりって、信じるかい?』あたしたちはね、信じているんだよ、そう言って、少し淋しそうに微笑んでいらしたときのことを。
―さくりと雪をふむ音がして、後ろに人の立つ気配がいたしました。さきほど突き飛ばした、指揮官の方でございましょう。
けれど、私はただ、身を揉むように泣くことしかできませんでした。
その身に取り縋ることもできずに…。

私たちとの間を遮るかのように、雪が降っておりました。
お二人を抱くように、その恋を、護るように…。
ただ、雪だけが、静かに…。

                                      了


6月9日脱稿(だったらよかったのに)

砂沙
ええと「冬の蝉」ネタのつもりです。
彼女の名前は考えていません。もう一人の彼女、の話もあるので、ちょっと駄目かなあと、思いまして。
これが本当の春抱き一作目、のはずでした。前のがほとんど発作的にできてしまいましたので。
一応連作でして…、ごめんなさい。でも、頑張れたなら、と、思っています。



冬の蝉を別視点から表現されています〜ああ、なんて切ない。
そうですね、こういう想いを抱えたままの方もきっといた事でしょう・・・
最後の場面・・・本当に胸が締め付けられます・・・・

砂沙さん、素敵な作品をありがとうございます