スモーキー ターゲット 2 全てがオープンになった岩城の仕事は、2人が標的を知ったからといって、その場の空気が変わるわけではなかった。 変わったのは、互いの間の空気だけ、だった。 香藤の衝立が外れ、岩城が自由にその中へ出入りできるようになった。つまり、元に戻った。 そのまま何事もなく撮影が終了することを、願って仕事に向かう岩城と、その岩城を見守る香藤だったが、その願いは残念ながら、ただの願いとしてしか、叶えられなかった。 海馬の持つ幼児性と、生まれてから誰にも否定されたことのない人生が、今まで一番厄介な障害として立ちはだかってきた。 「・・・だから、そういったことは止めてくれ、海馬君」 「いいじゃないですか、岩城さん、これ、絶対、岩城さんに似合うと思います」 「受け取れない。君は・・・何を考えてるんだ。あんなことをされて、俺が何も感じないとでも思ってるのか」 「えっ・・・俺のこと、少しは考えてくれたんですか?」 「違う!!そうじゃなくて!!俺がどれだけ不快に感じたか、判ってるのか」 目の前で、ラッピングされた小箱を手にする海馬へ、岩城は切れそうな頭と戦いながら、向かい合っていた。 あんなことがあったのは夢だったとでも言わんばかりの、海馬のその後の全く物怖じしない態度は、驚くものでもあった。 逆に自分の気持ちを表したからには、もう遠慮はなくなった、と言わんばかりの海馬の素行だった。 「いいじゃないですかぁ、岩城さん、俺、香藤さんと同時進行でも、構わないんですって」 あっけらかんとそう言われたときは、さすがに岩城の表情も険しくなり、思わず大声を上げそうになっていた、が、「おい、岩城くん、時間」と、菊池がやや離れたところから声をかけたことで、岩城は無言でその場を去ることができた。 海馬がこの映画のスポンサー「海馬グループ」の息子である、この事実は、常に皆の頭にあることだった。 そして、それは海馬自身こそが、一番よく承知していることでもあった。 夏も終わりかけている時期、撮影も、海馬のことを除けば、順調に進んでいた。 「はい、オッケーです」 監督が声を上げ、岩城は小さく頭を下げて、息を抜いた。 居酒屋で1人酒を飲んでいる、というシーンを、少し前にその場から去った設定の菊池が、外から見ていた。 2人で酒を飲みながら、アプローチを断わられた菊池が店を出た後、岩城が1人、断ったことへの罪の意識に思い悩みながらその場に残っている、というシーンだった。 互いが一線を越える越えない、というラインで行きつ戻りつする、非常に繊細な演技が求められる箇所に映画は突入していた。 「岩城さん、すごく・・・・いい表情でした」 監督が傍に来て、嬉しそうに告げた。 岩城も、「そうですか、だったら・・・俺も嬉しいです」と、少し照れながら答えていた。 足を外へ向けた岩城へ、菊池が後ろから静かに寄ってきた。 「お前・・・知ってるか?」 「えっ・・・?何をですか?」 横の菊池に、岩城は顔を向けた。 菊池は歩きながら、再び小さく声をかけた。 「今月末・・・海馬グループの20周年記念パーティ」 「・・・いえ・・知りません」 「どうも・・・この映画関係者は、出席必須、らしいぜ」 「えっ?」 「まっ、俺は欠席しても、何にも問題なし、ってとこだろうがな・・・お前はそうはいかないぜ、きっと」 そう言いながら、菊池はニタッと笑った。 明らかに嬉しくもない表情に変化している岩城へ、菊池は言った。 「多国籍パーティらしいぜ、輸入業の見栄はって・・・」 それがどうした、という岩城の表情に、再び菊池は面白そうに言った。 「伴侶同伴、だってよ、皆」 えっ、と、顔を上げた岩城に、「お前も、同伴してもらったらどうだ?誰かさんに・・・」と、肩を揺すって笑いながら、菊池はさっさと先に歩いていった。 その背を見送りながら、やや離れた位置にいた清水に、岩城はすぐ確認をとった。 その通りだった。 清水のところへ話がきたのが、昨日のことだったので、今日、言うつもりだったとの事だった。 菊池が言っていたとおり、岩城の出席はすでに決定済みだった。 もちろん立場を考えれば、欠席など出来るはずもない、それは事務所も岩城自身にも判りきっていることでもあった。 「どうされますか?同伴での出席・・・もしよろしければ香藤さんが出られても・・・」 「・・・ちょっと待ってもらえますか・・・返事・・・」 そう言って、岩城は、その問題は答えを保留して家へと持ち帰った。 「ふーん・・・で・・・俺が出なきゃどうするの?岩城さん」 「1人で出るか・・・なんなら清水さんに頼むかな・・・どっちにせよ欠席は・・出来ないだろう」 「そ・・・だね・・」 帰宅した岩城から、海馬グループのパーティの件を聞かされた香藤は、そう言って少し考えていた。 「無理しなくてもいいんだ。俺も菊池さんに言われるまで、思いつかなかったことだし・・・」 「菊池・・・?」 「ああ・・・菊池さんに、伴侶同伴だからお前を一緒に連れてったらどうだ・・って・・・そう言われて・・・・・・・伴侶・・・・・・って・・・言えば・・・俺にとっては・・・・お前・・・かな・・・と・・・・」 次第に声が小さくなる岩城の言葉に、香藤の顔は満足気な笑顔に変わっていた。 「出る!!」 「えっ・・・ああ・・・そうか・・?嫌なら別に」 「腕、組んで出よ」 「いや・・・腕は組まなくても・・・」 「ペアスーツで出る?」 「着ない」 ウフフッ、っと、笑いとともに、香藤が抱きついてきた。 そんな香藤に、「・・・いいのか?本当に・・・会うぞ、絶対」と、岩城がややまじめなトーンで口にした。 「会いたいなぁ・・・俺!絶対!海馬に」と言いながら、香藤は、岩城の耳を軽く噛んだ。 その脳裏には、あの時岩城の肌に見た赤い印が、まだ見ぬ海馬の存在とともに浮かんでいた。 見てやろうじゃないか、その面を、と、香藤は胸で呟いた。 パーティには色々あるが、これほど金の臭うものも珍しい、某ホテル最上階フロアでの「海馬グループ20周年記念パーティ」だった。 その演出は、品があるとは言いがたいもので、同様に、主催者である海馬代表も、決して品のいい人間とは言えなかった。 菊池は、さっさとそんな空気を読み取って欠席を決めていた。 そんな中で、岩城は香藤と共に狭い範疇を決め、あまり動かずにいた。 別段、特別な気持ちがあるパーティではない。 ただここに居る、そのことだけが必要とされているのだから、それ以上のことはする気にもなれなかった。海馬の息子のことを考えれば、それは当然の感情だった。 しかし2人のグラスを手に立っている姿が、広いフロアの中にあっても紛れ込めるわけはなかった。 間をおかず、次々と話しかけてくる者たちに笑顔で受け答えをするという、最低限の礼を欠かすことは2人ともしなかった。 今日、一旦仕事から帰宅した岩城が、香藤とともにパーティへ向かうため、ダブルのダークスーツに着替えようとしていたとき、すでに着替えていた香藤が、これ、と言って、服をクローゼットから持ち出した。 指し示したものと、そこに立っている香藤の服を見て、岩城は、「略式・・だったか?」と、やや呆れながら口にした。 艶消しシルバーのソフトレザージャケットにダークグレーのナイロンパンツ、インに黒のビーズが同色の地にモチーフデザインされているシルクシャツという、お得意のソフトサイケデリックなムードを漂わせて立っている香藤は、「うん。ちゃんと招待状、見たよ」と、どこか嬉しそうに口にした。 「・・・で・・・俺は、これを着ればいいのか?」 岩城は香藤が示したものを手に、半ば諦めながら言った。 「そっ、どうせ何着たって目立っちゃうんだから、さ!スマートに目立たなくっちゃ!!ねっ」 「・・・・・・」 まぁ、どうせ何を言っても、もうこいつが決めてしまっていることだ、と、岩城は着替え始めた。 ミドルコート丈の黒のロングジャケット、襟に黒の刺繍とスパンコールが埋め込まれ、インに白のスタンドカラーシャツ、そしてブラックパンツ、だった。 躊躇することなく、これくらいなら、と、岩城が着ることが出来る範囲で程よくフォーマル感を出すという、ちゃんと選択された香藤のセンスだった。 さりげなく、互いのモチーフの飾りにペア感も忘れてはいなかった。 しばらくして、2人のところへ、海馬剛史がやってきた。 「始めまして、香藤さん」 そう言って右手を差し出した海馬は、地にストライプラインの織り柄が入ったダークグリーンのジケットスーツに身を包み、一目でシャネルと判るタイをしめていた。 「はじめまして」 一言だけ口にすると、趣味の悪い奴、と、胸で呟きながら、香藤はやんわりと差し出された手を軽めに握った。 その手が離れると、海馬はさっさと岩城のほうへ顔を向け、「岩城さんが香藤さんと一緒に来られるとは思ってなかったですよ。俺、てっきり岩城さん1人だろうって、思ってたから」と、口にした。 遠慮のない微妙に礼を欠く物言いに、岩城は、そう?と、軽く答えると、続けて、「同伴パーティ、って聞いてたけど?」と、答えた。 「同伴、っていっても、岩城さん、独身だから」 なんとなく甘える声色で話しかける海馬に、岩城は冷静な目線で口にした。 「独身・・・?俺は既婚、だよ?海馬君」 さらっと答えられ、海馬は一瞬たじろいでいた。 そこへ、岩城に紹介したい人がいる、と、大矢監督が声をかけてきた。 香藤をちらと見た岩城へ、香藤が目線で、大丈夫、と答えていた。 岩城が去った後、その場に残った香藤の前から、海馬も当然去っていくものと思っていた、が、何故か海馬はそのまま香藤の傍に立っていた。 そして、おもむろに話しかけてきた。 「結婚・・・って言っても・・・結局、一緒に暮らしてる、ってこと、ですよね」 あくまで自分に敵意を向けてくるつもりなのだと、香藤は判断した。 しかし、何も答えなかった。 無視することで、この場でのトラブルを避け、自分の拮抗する気持ちも収めようと決めていた。 海馬がどんな男であるか、確認できた今は、もう何も興味はなかった。 想像以上の軽薄な人間だった。 「もう永く一緒、なんですよね。岩城さんと香藤さん」 意味ありげに口にして、海馬は香藤の横でグラスを口にした。 「・・・・飽きてないかな・・・岩城さん・・・」 ボソッと海馬が呟いた。 香藤は、響いてくる耳障りの悪い声に、何も言わずその場を離れようとした。 「おんなじ人とずっとセックスしてたら・・・つまんないんじゃないかなぁ・・・岩城さん、あんな綺麗で、開拓しがいがありそうだけどな・・・見たいな・・・・岩城さんのエッチ」 相手が何かを口にするまで仕掛けてくる、幼稚な攻撃。 キラキラと、味方だらけの会場で海馬の顔は興奮気味だった。 一歩踏み出しかけていた足先を止め海馬に向けると、香藤は目の前に立ち、ほんの数秒、その顔をまじまじと見た。 ポケットに片手を突っ込んだまま、香藤はおもむろに口を開いた。 「・・・教えてやるよ」 さげすむような表情の香藤の目は、薄っすらと笑みを浮かべていた。 「何が知りたい?言ってみろよ・・・・何でも教えてやるよ」 「・・・い・・やだなぁ・・・香藤さん・・俺、自分で」 「そんな手間、省いてやるよ」 香藤の鋭い目線に射止められ、海馬は開けかけた口を僅かに動かしただけで、ただその顔を見つめていた。 「綺麗・・・?ああ・・・綺麗はもう知ってるんだったな・・・」 香藤は少し遠くを見るように、「・・・・感じるともっと綺麗だけどな」と、呟いた。 海馬の喉がごくりと嚥下した。 その様をちらと見やりながら、香藤はさらに続けた。 「・・・セックス・・・か・・・そうだな・・・・・肌に触れてセックスを匂わすと、恥らって・・・・体の中心に火がつくと・・・大胆になる・・・徐々に俺を欲しがって・・・膝が開いてくる・・受け入れると我を忘れて・・・乱れる・・・・白い指先が背中に強く張り付いて・・・込み上げる感情に目じりが・・・薄っすら涙を浮かべる・・・・次第に余裕がなくなってくる・・・・最後は・・・・・俺の名前を呼び始める・・・・・・」 まんじりともせず、ただ香藤の口から流出される言葉に耳を傾けている海馬は、完全にここがどこかを失念していた。 「・・・こんだけ教えてやったんだ。後は頭で勝手に想像してろ。考えるだけなら許してやる」 香藤は口を一旦閉じると、笑みを消し去り、鋭い眼光に戻っていた。 そして、「だけどな・・・」と、さらに1歩海馬に詰め寄り、口を開いた。 「間違っても自分の目で確かめようなんて考えるな!」 それだけ言い捨てると、香藤はその場を去り、岩城を探した。 海馬はただ夢に冒されたように、呆然と立ち尽くしていた。 紹介された人間との話も終わり、岩城のほうも香藤を探そうとしていたところだった。 互いにホールの中央で出会い、香藤がニコッと笑みを向けると、岩城も笑顔を返してきた。 さりげなく岩城の腰に手を回した香藤が、「帰ろ」と言うと、岩城も頷いた。 互いに、もう充分、時は過ごしたと感じていた。 ホール出口に向かいながら、香藤が耳元で、「岩城さん・・・帰ったらすぐ、抱かせて」と囁いた。 何も答えず、岩城は黙って、ただ耳元を赤く染めていた。 海馬に話をして、香藤の体にもしっかり火がついていた。 ほんの小さな復讐。 それは相手が選ばれず、次の日の撮影が重なるタイミングがなければ、何事もなくすんでいた。 しかし、事は悪いほうへと転がった。 人気の失せたオフィスに残っているのは、宇津木と三滝2人だけだった。 夜間、図らずも気まずい状況になってしまった2人が、無言で明日必要となる書類を作成していた。 一通り終え、宇津木のデスクに書類を持っていき差し出すと、三滝はいち早く、『では、これで帰ります』と、小さく告げて帰ろうとした。 書類から引きかけたその手を、宇津木が強く握り、立ち上がった。 『宇津木さん!』 小さく声を上げ、三滝は宇津木の顔を見た。 宇津木は無言で、その手を引きながら、パーテンションで仕切られている応接ソファーへと、三滝を引き連れていった。 三滝の体はガタガタとデスクや椅子に衝突しながら、強い力で引き連れられ、ソファーへとそのままなだれ込んでいた。 引かれながら、三滝の口から、『ちょ・・・ちょっと!!待ってください!!宇津木さん!!』と、焦る声が飛び出していた。 押し倒されたソファーで、宇津木に首筋へ喰らいつかれ、三滝は宇津木の肩を掴み、抗った。 三滝のシャツを乱暴に開くとボタンが飛び、中から裸の胸があらわになった。 その胸に宇津木の手が這い、唇は肩へと滑り降りていた。 三滝は押さえられた体をジタバタと躍らせながら、『止めてっ!!・・くださいっ!!』と、何度も荒々しく声をあげていた。 さらに進む攻めに、着衣は乱れ、宇津木の力は有無をも言わせぬ強引さで三滝を圧倒していった。 次第に三滝の額も汗ばみ始め、迫る宇津木の顔に右手を当て、力ずくで押し返しながら叫んでいた。 『や・・止めてくださいっ!!・・・・菊池さんっ!!』 瞬間、菊池は動きを止め、口にした岩城自身も、あっ、という表情で菊池の顔を見上げ、もちろん、撮影に関わっていた人間すべてが、その場で動きを止めていた。 シン、とした中、岩城が、「・・・す・・・みません・・・」と、小さく呟いた。 そんな岩城の上から、菊池は、「はい、カット」と、口にしながら身を起こした。 「すみません!!」 岩城が再度、その場に響く声で口にした。 「いいですよ。じゃ、もう1度いきましょう。ちょっとこのシーンはロングでいきたいんで、すみませんが最初からお願いします」 いつもそうであるように、大矢は柔らかく口にして、その場もガヤガヤとまた動き始めた。 自分に起きたこの想像もしなかった事態に、岩城はショックを受けていた。 その場から立ち去る菊池に、「菊池さん・・・すみません」と、やっとそれだけを弱い口調で告げることが出来た。 岩城に背を向けたまま、菊池は一言「・・・早く着替えて来い、シャツ」と、静かに口にした。 菊池の口調は決して厳しさも、こわばりもなく、ただ、過去を覚えているのは岩城だけはないと言っていた。それも仕方がない、と・・・。 岩城は、個室でシャツを新たなものに着替えながら、自分の中に残っていた感情を知った。 しかし、口から菊池の名がついて出るまで、自分でも全く忘れていたことでもあった。 菊池に申し訳ないことをした、と、岩城は心から思った。 深呼吸をして、新たに気持ちを入れ替え演技に挑むためセットに向かった岩城の耳に、菊池の声が響いた。 「なんだ、お前、また来てんのか、熱心なことだな」 声のほうを見ると、そこには、今日仕事のない海馬がいた。が、今の岩城はそんなことはどうでもよかった。 常にターゲットが異なる方を向いている、それがあらゆることの基盤となっていた。 セットに入ると、菊池に頭を下げ、「せっかくの演技を・・・すみませんでした」と、再び謝った。 そんな岩城をチラと見ると、「・・・不器用だな・・・お前も・・・まっ・・・そう簡単に忘れられても、俺もせつないけどな」、と、笑った。 やや表情を硬くした岩城に、「冗談だよ」、と、菊池はまた笑った。 その笑顔は少し悲しそうにも見えた、が、すぐに菊池は宇津木の顔へと戻った。 「じゃ、いきます」と、監督の声が響き、再び撮影はスタートした。 ソファーまで同じテンポで流れ込み、そこからも、臨場感のある場面が撮れていた。 この映画のひとつの山場でもあった。 『どうした・・・もう抵抗しないのか?』 『・・・・・』 『諦めてるのか?』 上半身をさらけ出した三滝は、宇津木に押さえ込まれながら、荒い息で胸を上下させながら無言で宇津木を見上げていた。 『・・・・違います』 『・・・じゃあ、いいのか?』 『・・・・・・・』 『・・・何とか言え』 『・・・・判りません』 『・・・・判らない・・?』 『・・・・俺はっ・・・どうしたらいいのか・・・こんなこと・・・判らないです・・・』 そう言い、三滝は不意に顔を背け、涙を流した。 『判る分けないじゃないですかっ!・・・俺は・・・宇津木さんをっ・・・嫌いじゃない・・・好きかも知れない・・・きっと・・・きっとこうやって・・・セックスしても・・・・』 『・・・・三滝・・・・』 『セックスしたらっ!!・・・宇津木さんと関係が出来てしまったら自分がどうなるかっ!!全然判らないっ!!俺はっ・・・俺はっ!!今までの・・・宇津木さんとの仕事が・・・・会社で傍に居てくれる宇津木さんで・・・・それでよかったのにっ!!』 ふっとその瞬間、宇津木の体が、三滝から離れた。 三滝のはだけたシャツをそっと持ち上げ、指で頬に伝う涙を拭くと、『すまなかった』と、小さく口にして、体を起こした。 それから1ヵ月後に三滝は辞表を出し、会社を去り、さらに1年後、宇津木は死んだ。 このとき、宇津木がすでに自分の運命を知っていたのかどうかは、永遠の謎として、三滝の心に深く根を張った。 深い慙愧の念、そして、ひょっとしたら自分は知らず宇津木に惹かれていたのではないか、という後悔から、苦しい日々が続く。 映画は、その苦しみから、三滝が本を書こうと思い立つところまで続いて終わる。 2度目のテイクで撮り終えることが出来た今日のシーン、カットの声がかかると同時に、周りから拍手が起こっていた。 「本当に・・・よかったです!!お2人とも」 大矢監督の声を聞きながら身を起こす岩城に、菊池が小さく、「よかったぜ」と、告げた。 菊池が本気でぶつかってきてくれたからこそ、出来た演技だった。 少しでも菊池に、罪の呵責で躊躇するところが見えれば、それなりにしか写らなかっただろう。また自分も、過去の呪縛から解き放たれることは出来なかったかもしれない。 そのことを、岩城は菊池に告げようと、そう思ったときには、もう菊池はその場から離れていた。 乱れたシャツを手で直しながら、おもむろにソファーから立ち上がり、菊池に続いてその場所を後にする、そんな岩城の一挙一動を、セットの隅で見つめる2つの目があった。 その目は、不健康な輝きで、今、目の前で繰り広げられた場面を、しっかりと頭に刻み込んでいた。 昨日、香藤から聞かされた言葉に、映像が甘味された海馬の頭には、巨大な欲にとらわれた悪事が踊っていた。 自分が持つ権力を最大限に利用し、思い通りに好きな玩具を手に入れよう、という、頭は悪いが悪知恵だけは働く見本のような姿だった。 「・・・岩城さん・・ちょっとお話があるんです」 数日後、清水が改まった口調で言ってきた。 テレビ局の控え室でのことだった。 「どうしたんですか?」 岩城が訊くと、ええ・・・、と、清水は少し言いずらそうにしながら、要件を口にした。 「実は・・・海馬グループが持っている劇団があるんです」 「ああ・・知ってます。『劇団・海』?」 『劇団・海』、それは、国内では中堅クラスの劇団だった。 国内外から劇団員を100名近く抱えて、派手な演出をすることでは、ある意味有名ではあり、強みは何といっても自分の上演シアターを持っていることだった、が、決してその舞台の力量を認められているわけではなかった。 3作に1作は、主役級の配役を、息子である海馬剛史がつく。 それなりにヒット作も出してはいたが、2流の銘はついて回っていた。 「で、どうしたんですか?それが」 「はい・・・『劇団・海』の次回作が半年後にあるんですが・・・その主役をやって欲しいと・・」 「えっ!!」 「作品はオリジナルのもので」 「ちょ・・ちょっと待ってください!!それ、いつ打診があったんですか?」 「・・・打診・・・・ではないんです・・・・」 「・・・清水さん・・・意味がよく判らないんですが」 「・・・・・もう・・・すみません・・・こんなこと、私も申し上げたくないんですが・・・この岩城さんの出演は打診、と言うより・・・・条件がついています」 「・・・・条件・・?どういうことです?出る出ないに、条件があるってことですか?」 「はい・・・」 「出ること、にですか?出ないこと、にですか?」 「出ないこと、にです」 「・・・・・どういった?」 「もし、岩城さんがこの出演を断るのであれば、『順応できない心』のスポンサーを降りる、と」 その瞬間、岩城は、ガタガタっと大きな音を立てて椅子から立ち上がっていた。 驚愕した顔からは、何一つ言葉も出なかった。 そんな前で、清水がテーブルに手を着いて、「すみません!!」と叫んでいた。 すでに映画の撮影は終盤に差し掛かっている。 岩城の頭には今清水が口にしたことが、異国の言葉のように響いていた。 「・・・・いえ・・・清水さんが謝ることでは・・・・でも・・・・しかし・・・そんなこと・・・許されないんじゃ・・・契約はっ?契約違反になるんじゃないですかっ」 考えながら口にする岩城の言葉は不安定なトーンで混乱していた。 「ええ・・・」 清水は顔を上げて、再び口を開いた。 「今の今になってこんな話・・考えられないことなんですが・・・契約違反にはならないんです。スポンサーは、映画の製作段階であらゆる希望を出すことが出来ます。それは・・・まあ、他の場合と変わらないのですが・・・今回の場合、そのひとつが・・・海馬剛史さんの出演、だったわけですが・・・・で・・・その出演の扱いが気に入らない、と海馬グループは言っています。つまり・・・・出を増やせ、と・・・・」 「・・・・増やす・・・・どのくらい・・・・」 「・・・・それは・・・」 「・・・何です?言ってください」 「・・・岩城さんとのシーンをもっと入れるように・・と・・・かなりの量を要求してきています」 「そんな・・こと・・・許されるわけないじゃないですか・・・映画自体が変わってしまう」 と、そこまで口にして、岩城は、あっ・・と、小さく叫んでストンと腰を椅子に落とした。 全てが今、岩城の頭にはっきりと見えた。 出来るわけのない映画そのものへの要求、それが受け入れられないことを理由にしてスポンサーを降りる。 海馬グループが提示してきた、スポンサーを継続することへのふたつの条件。 映画自体への内容変更、そしてもうひとつは、岩城個人の劇団への出演。 ひとつは、映画に携わってきた多くの人間にとって、これまでの仕事を無に帰するに等しい。 しかし、もうひとつは、岩城個人だけの問題に終始する。 つまり、海馬はあらゆる逃げ道を塞いだ上で、岩城の劇団への出演を手に入れようとしているのだ。 放心している岩城へ、清水が小さく、「・・・岩城さんが・・劇団への出演を承諾すれば、映画自体はこのままの状態で継続になります・・・・・・・事務所は・・・このことをまだ大矢監督に伝えていません・・・・この映画を今のまま・・・・無事上映にもっていくためには・・・岩城さんに・・出ていただくしかないんです・・・海馬グループの劇団へ・・・・・」と、岩城の頭に見えたことを言葉にして説明した。 岩城は何も答えなかった。 嵐のような感情が沸き起こりながら、心は氷のように冷たい感情が流れていた。 「・・・岩城さん・・・」 清水が心配そうに声をかけると、岩城はふっと清水を見て、「いつまで・・ですか?いつまでに返事を・・・?」と、口にした。 「・・・1週間・・です。1週間後には海馬グループへ、返事をしなければいけません」 「・・・そう・・・ですか・・・」 再び黙ってしまった岩城は、じっと自分の膝を見下ろしていた。 そして最後に、口にした。 「・・・少し・・・1人にしてもらえませんか・・」と・・・。 力と金、このふたつは、一旦持つ者を間違えれば、とてつもない暴走をする。暴走はもう始まっていた。 帰宅をした岩城は、隠しおおせないと判断し、香藤に全てを打ち明けた。 隠すには事が大きすぎた。 ソファーに腰を下ろした岩城が、今日知った事実を香藤に説明し、最後に、「自分でも・・・どうすべきなのか・・・」と、困惑を口にすると、それまで黙って耳を傾けていた香藤は、いきなりソファーから立ち上がった。 ゆっくりと数歩、思案の顔で俯いたまま前に進み、そこからまた身を返しソファーまで寄ると、そこにあるクションを掴み、振り向きざま、いきなり壁に向かって投げつけた。 クッションは、壁にボンッと音を立てて勢いよくぶつかり、そして落ちた。 「か・・とう」 その様に、岩城は驚きながら香藤を呼んだ。 背を向けたまま、香藤は一言、「俺のせいだ・・・」と呟いた。 「何を言ってるんだ・・・お前は全く関係」 「俺がっ!!」 一言大きく言い放つと、香藤は振り向いた。 「・・・俺が・・・煽ったんだ」 苦しい表情で口にすると、香藤は顔を上げ岩城を見つめた。 「俺が煽ったんだよ、あいつを・・・あのパーティのとき・・・・岩城さんがいないときに・・・」 「煽った・・・って・・・・」 「いらないこと、あいつに言っちゃったんだよ・・・あいつが・・・海馬が岩城さんのこと・・好奇心丸出しで言ってくるから・・・我慢してたんだけど・・・」 「香藤・・・」 ソファーから見上げていた岩城は、ゆっくり立ち上がると、「まぁ・・・座れ」と、その手を静かに引いた。 少し抵抗しながらも、香藤はそのまま岩城と共に腰を下ろした。 「別に・・・・それが・・・それだけが原因じゃないだろう・・・こんなことは・・・もっと大きな作為が働いてのことだ」 岩城は、海馬と香藤がいったい何をやり取りしたのか、あえて訊こうとはしなかった。 訊かずとも、大体の見当はついた。 常識を外れて喧嘩をしかけるような、香藤はそんな人間ではない。 多分、香藤がずっと耐えていた口を開かせるだけのことを、海馬がけし掛けたに違いない。 それは、自分にも責任はあると岩城は思った。 「とにかく・・・そんなことは考えるな・・・このことは直ぐには俺も決心がつかない・・・もう少し考えてみる・・」 香藤は黙っていた。 押し黙ったまま、じっと床を見下ろしていた。 岩城にどう言われようとも、あのときの自分の言動が引き金の要因のひとつとなったと、そう思う気持ちは変わらなかった。 劇団の仕事、そして映画での仕事、どちらも海馬と岩城の接点を増やすことには違いない。 ふたつの条件は、香藤にはとても頷けるものではなく、それは岩城とて同じだった。 2日ほどたった。 事態は動かないまま、誰にも知られず、時間だけが過ぎていた。 あれだけのことを要求しておいて、海馬は次の日からピタリと現場へは顔を出さなくなっていた。 海馬のシーンはもうなかったが、今までの態度を考えれば、明らかに不自然だった。 菊池が意味ありげに、言った。 「どうした?難題をふっかけられたか?」 岩城は今日、2度、続けて同じ箇所で台詞につまずき、その様を傍から清水がハラハラと心配そうに見つめていた。 仕事中は何も考えまい、と、岩城は努力していたが、スタッフや監督、菊池などの顔を見ると、自分の行動ひとつで、この今までの仕事が泡と消えるかもしれない、と、そのことが何度も頭をよぎり消えなかった。 「ちょっとペース、落としましょうか、疲れますよね、明日、もう1度撮りましょう」 大矢監督は、始まった当初から、いつも謙虚で静かだった。 しかし、今はそのことが余計辛かった。 小さくため息をつく岩城の傍で菊池は言った。 「・・・・海馬は来ない・・・・お前は冴えない・・・・どうしたって臭ってくるぜ?」 「・・・いえ・・・・」と、菊池の横で一旦はそう答えた岩城は、フッと顔を上げ、「菊池さん」と口を開いた。 しかし、直ぐに思い直し、「いえ・・すみません・・何でもありません」と、口を閉じた。 そんな岩城を菊池は見ながら、珍しくまじめな調子で、言葉を口にした。 「・・・何を犠牲にするにしたって、そんなもんの上に成り立った仕事ってのは、あんまり嬉しくもないぜ・・・俺は」 「菊池・・・さん・・・」 やけに見透かした目線で岩城を見ると、菊池は去っていった。 言うことは出来ない。 菊池だけにではない、それは、大矢監督を初め、この映画に携わる人間全てにだった。 岩城がひとつの結論を出してしまえば、それは限られた中での水面下のことで済む。 その後は何事もなかったかのように、映画が撮れればいい。 いや、そうでなければ岩城自身困る。 皆が、何の上でこの映画が成り立ったかを知った中で、演技など出来ない。 犠牲にするならば、自分が海馬の劇団へ出演をすることしかないと、岩城や、岩城の事務所も判っている。何よりも、提示した海馬自身が一番判っている事だった。 ただ、決心をするには時間がいる、そのための1週間だった。 3日目、事態が動いた。 その日、香藤はあるテレビ局で仕事に入っていた。 仕事を終え、1階ロビーに降り立ったとき、その目線の先にある人物を見た。 クオリティ・ジョイントの石垣元哉だった。 やや斜めから見かけたその顔は、確かに間違いがなかった。 濃紺のスーツに身を包み、見送りに出ている局の人間と並んで出口へと向かう姿は、変わらぬ風で自然体だった。 エントランス正面には、黒塗りの車が、後ろ座席ドアを運転手が開けて待っていた。 玄関の自動ドアが開き、見送りの男が頭を下げると、軽く手を上げ、石垣は車へ乗り込んだ。 運転手がドアを閉めようとしたとき、すでに香藤の足は駆け出していた。 一言、「石垣さんっ!!」と、大声で呼んだ香藤の声とすれ違いにドアがバタンと閉まり、と同時に2人の男が後ろを振り向いた。 やや驚きながら見送りの男が口を開きかけたとき、石垣が乗った側のスモークガラスがスーっと下がった。 香藤はすでに、窓の傍まで来ていた。 黙って車内から香藤を見上げる石垣に、「すみません・・・一寸・・・お話が・・・」と、香藤が落ち着かない様子で口にした。 ほんの3秒ほど間をおいて、「乗りなさい」と、石垣が言い、同時にカチャっとロックが外れる音がした。 黙って見ていた運転手は、そのまま運転席へ回り、見送りの男も何も言わなかった。 ドアを開け、石垣の横へ香藤が座ると、「行って」と、石垣が運転手へ告げ、車は静かにその場を離 れた。 なぜ声をかけたのか。 以前、香藤が主演した映画のスポンサーであった、クオリティ・ジョイントの社長、石垣元哉。 父親の代から彼に引き継がれたクオリティ・ジョイントは、国内メディアの中にあって、さらに絶対的なものへとその地位を確立し不動のものとしていた。 しかし、久しぶりに見る石垣は、相変わらず自然体で、背負った権力を見せない姿だった。 あのときの映画は、岩城を巻き込んで難しい経路でたどり着いた仕事だったが、香藤は、自分がこの男を結局は嫌っていないのだと、顔を見た瞬間に感じていた。 ほんの数秒の間にあらゆる事が走馬灯のように頭をめぐり、結果、この男になら、たとえ頼んだことを拒否されても、頼む理由だけは理解してくれる、と、そう思えた。 何を頼むのか。 岩城に話を聞いてからこの数日の間で、香藤の頭ではひとつの答えだけが見えていた。 海馬に代わるスポンサーが欲しい。 海馬グループがスポンサーでさえなければ、こんなややこしい話に苦しむことはない。 提示されている選択肢は、絶対に避けたかった。 そんなことを混沌と頭にめぐらせていた矢先に出会った、石垣。気がついたときは、その名を叫んでいた。 「久しぶりだね、香藤くん」 車内で石垣は穏やかに声をかけた。 「はい・・・すみません・・・突然、こんな失礼な・・・」 少し躊躇しながら口を開く香藤に、石垣は一言、「どうしたの?」と、訊いてきた。 続けて、「海馬のこと?」と、口にした石垣を、香藤は驚きの表情で顔を上げ見た。 「石垣さん・・・どうしてそれを・・・」 「顔に書いてあるよ」 そう口にして、石垣は面白そうに笑った。 「まっ・・・どうして僕が知っているかは、いいとして・・・・」 石垣は煙草を胸から取り出し、目線で断りを入れると1本くわえ火をつけた。 煙を吐き出すと、「で?」と、先を促した。 「実は・・・」 香藤は一連の事態を、出来るだけ感情を入れず端的に説明をした。 石垣はそれを黙って聞いていた。 最後に、海馬に代わるスポンサーとして石垣に手を挙げて欲しいと、そのことを言うべきかどうか香藤が迷っていると、石垣が静かに口を開いた。 「スポンサーとして海馬に代わり金を出してくれ、と・・・・そういう主旨、かな?」 的確に結論を理解され、香藤はただ、頷いていた。 「・・・・そんなことが出来ることなのかどうか・・・契約とか・・・そういったことは俺には判らないんですが・・・・ただ・・・どうしても・・・」 「どうしても海馬の条件は受け入れられない?」 「はい」 「岩城くんが、ではなく、君が、受け入れられない」 「いえっ・・・岩城も・・・・・・あっ・・・・でも・・・そうです・・・岩城はすでに決めているかもしれない・・・劇団に出ることを・・・・」 「だろうね」 岩城の性格を考えればそうであろうと、石垣も判断していた。 「石垣さんにこんなことを唐突にお願いするなんて・・・それも映画自体に関わっていない俺なんかがどうこう言う立場でないことは、充分承知しています・・・・承知はしているんです・・が・・・あいつは・・・あの息子が考えていることは・・・俺には・・・許せない・・・ただ黙って言いなりになることは」 「出来が悪いからね」 その言葉に、えっ?と、香藤が石垣を見ると、石垣は面白そうに笑った。 「親父も出来が悪く品もないが・・・息子は輪をかけて酷いからね」 そのまま石垣はしばし沈黙した。 香藤も思考する石垣の隣で黙り、車内では静かな車の走行音だけになっていた。 3分もたったころ、石垣が口を開いた。 「即答は出来ない。・・・2日後に返事をする」 「お考えいただけるんですか?」 「考えるのではなく、調べる時間がいる」 「可能性は・・・・ありますか」 「・・・・・・・」 やや沈黙した石垣は、ふと外を見ながら人事のように言った。 「海馬っていう男はね・・・・文化なんてものを爪の垢ほども理解しない男だ。金で成り上がり、金だけで動く・・・・可能性があるとすれば・・・・そこだろう」 金で話をするつもりなのだと、香藤は思った。 いったいどれ程の金を石垣が考えているのか、まったく予想もつかなかったが、香藤には石垣が前向 きに考えてくれるだけでも救いだった。 「すみません。石垣さん、本当に・・・ありがとうございます」 「感謝されるのはまだ早いかもしれないな・・・・それと・・・」 「・・・はい」 「岩城くんに直接確かめたいことがある。それとも、彼の心中は君に訊けば間違いのないものが返ってくるのかな?」 「・・・・はい・・・・あっ・・いえ・・・・」 クスッと笑った石垣は、「そう」と、言い、「では、彼の答えは急ぐ。今夜・・・いや、明日朝、電話を入れてもらってくれるかな?」と、胸から名刺と万年筆を抜くと、その裏に書き込んで香藤に差し出した。 見ると、携帯電話の番号が記入されていた。 「明日・・・何時ごろでしょう」 「午前中なら何時でもいい・・・君も彼に説明する時間が必要だろう?」 「判りました」 名刺をポケットに仕舞う香藤をチラと見て、石垣が静かに、「着いたよ」と、言った。 言われて外を見ると、車はいつの間にか、元のテレビ局へ戻っていた。 去る前にもう1度深く頭を下げながら、香藤は車を降りた。 よかったのだろうか・・・・・果たして自分はこれでよかったのだろうか・・・。 走り去る車を見つめながら、香藤は自問自答していた。 「きっと・・・・正しい」 香藤の口が小さく呟いた。 その夜、帰宅した香藤に、岩城が言った。 「出ようと思う・・・海馬の劇団へ」 「ちょっと・・・待って、岩城さん」 「いや、まだ返事はしていない。だが・・・・・どの道同じなら、早く決断して、早く諦めたい」 そんなことを言う岩城へ、香藤は今日、石垣と会って話したことを全て伝えた。 「・・・・そんなことが・・・」 聞き終わり、狐につままれたような表情でボソッと口にした岩城に、香藤は、「うん・・・俺もそんなことが果たして可能なのかどうか・・・全く判らないで石垣さんに話した」と、言った。 2人とも食事もしていない。 着替えもしていない、そんな状態だった。 今、2人にとって口を開くならこのこと以外に何もなかった。 期限は切れられている。 「もし・・・クオリティ・ジョイントがスポンサーになってくれるとすれば・・・・岩城さんもOK・・・だよね・・・?」 ソファーで向かい合ったまま、静かな居間で香藤がすこし伺いの声色で訊いた。 岩城の心の中に、かつての石垣との事が、どう残っているのか・・・・。 今日、石垣に、岩城の心中を全て知っているか、と訊かれ、そうだ、とは言えなかった。 価値観は同じでも、互いの性格は違う。 じっと香藤に見つめられる中、岩城は少し考えて口を開いた。 「ありがとう・・・お前が道を模索してくれたんだな・・・・俺では絶対に石垣さんにはたどり着かなかった・・・その以前に、スポンサーを替えるなんて・・・本当、お前は凄いな」 そう言って、ニコッと笑った。 その笑顔を見て、香藤は自分も満面の笑顔を浮かべていた。 「俺は全く問題ないよ。石垣さんがどういう人か知っている。クオリティがスポンサーになることで海馬との縁が切れるなら」 「うん」と、言いながらら、香藤は岩城の手を握って、「でも、まだ判んないからね・・・」と、付け足した。 「そうだな」 岩城はそう言うと、香藤に抱きつき、その体を力いっぱい抱きしめた。 「いいんだ・・・もしこれがダメでも・・・お前がしようとしてくれたこと・・・俺は本当に嬉しい・・・それだけでいい・・・それだけで、俺は迷わず仕事ができる」 岩城は思っていた。 何と強い味方が自分にはいるのか、と・・・・。 いつもどんなことが起こっても、自分では出来ない発想と行動力で救ってくれようとする。 たとえ結果が何も出なくても、そのことを知るだけで、生きていけると・・・。 よかった・・・・と、香藤がその背中で呟いていた。 「あ・・・それでね」 香藤は岩城の腕の中でもぞっとポケットに手を入れて、石垣にもらった名刺を出した。 「これ」 その手を岩城に差し出して言った。 「石垣さんの携帯の番号、書いてある・・・明日朝、電話してくれって・・・」 えっ、と、やや不思議な顔をしてその紙を受け取る岩城に、香藤は続けた。 「確認したいことがあるって・・・言ってた・・・岩城さんに直接」 「・・・何だ?」 「判んない・・・」 「そうか・・・・判った」 岩城は名刺を前のテーブルに置くと、そのまま香藤を再び抱きしめた。 「どしたの?岩城さん・・・・ご飯、食べる?」 「・・・お前を食べる」 そう言って、岩城は香藤の唇に重なり、体も重ねた。 「・・・食べるの・・・?俺を・・・?食べられちゃうんだ・・・俺」 「今は・・・それしか欲しくない・・・」 岩城の彷徨う手が香藤の下半身を探り、熱い吐息を香藤の口から吐き出させた。 「・・・・ゆっくり・・・食べてね・・・・きっと・・・・」 岩城の唇が喉元を這い、先を求めて指がベルトをくぐった。 あっ・・・と、小さく声をあげながら、香藤の手も、次第にせわしなく岩城のシャツにもぐりこんでいた。 「きっと・・・・何だ・・・?」 耳元で囁かれ、香藤は焦る気持ちで答えた。 「・・・・・凄く・・・・美味しいからっ・・・・」 小さく笑った岩城は、香藤の見せる可愛さを一緒に抱いた。 ゆっくり食べてと言いながら、早く欲しいと先を急く体の中に入り、岩城は、そこで待っていた深い愛に包まれた。 その感触は、世界中で一番自分を愛してくれている男の、強く優しい包囲網だった。 次の日、それぞれが互いの仕事へ向かい、岩城は10時を待って、映画の撮影現場で石垣に電話を入れた。 「電話の結果は、連絡するから」 心配しながらも何も言わず玄関を出る香藤へ、岩城は言った。 控え室で電話を入れると、2コールで石垣に繋がった。 「岩城です」 名乗ると、「わざわざ悪かったね」と言う、岩城にとっても久しぶりに聞く石垣の穏やかな声が返っ てきた。 「いえ・・・こちらこそ、今回は大変なご無理をお願いして・・・」 「・・・香藤くんとは無事、話ができたようだね」 「・・・はい」 「・・・で、ひとつ確認させてもらいたいことがある」 「はい、何でしょう」 少しだけ岩城の心臓が高鳴った。 ワンテンポ置いて、石垣が口を開いた。 「もし、うちがこの映画を引き受ける、とするならば、海馬剛史には降りてもらう」 「・・・・・は・・・い・・」 「それは、既に昨夜、大矢くんにも確認をとってある。海馬のシーンは撮り直しになる」 「・・・はい・・・」 「そうなった場合、ひとつの可能性が出てくる・・・海馬と円滑に交渉する、ということが不可能に なるかもしれない、ということだ」 「・・・はい・・・」 「つまり・・・君がもうこの先、海馬グループと完全に縁が切れてもいいかどうか、その気持ちを確認しておきたい。有体に言えば、岩城京介には2度と海馬からの仕事はこない、ということだ・・・それは多分、香藤くんにとっても同じことだろう」 自分への何らかの条件を口にされるかもしれないと、2人ともが考えていた。しかし、予測を大きく違えて石垣の口から述べられる言葉に、岩城は自分がいかにこの人間を見くびっていたかと、深く恥じた。 「・・・事務所に対しても、ということになるんでしょうか?」 「いや、それはない。あくまで君たち個人に対して、ということだ。それくらいの圧力は充分海馬に かけて交渉はできる。が・・・今後、その約をとったとしても、さりげなく君たちへの仕事は避ける 可能性は充分ある。僕の文句が出ない程度、にね」 「・・・・自分が・・・・出してもいい答えなのかどうか・・・」 「そう・・・だから、君に先に訊いた。本来なら事務所へ先に打診すべきところだろう、が、もしそうすれば、事務所は必ず、ノーと言うだろう。君を劇団へ出したほうが被害は少なくて済むだろう、とね」 「・・・・はい・・・」 「それでは、君は困るのではないかな?」 「石垣・・さん・・・」 「海馬と縁を切ってでも、今回の仕事をより完成度の高いものへと仕上げる、それが君にとってベストだと僕は思ったから、この順番をとらせてもらった」 「石垣さん・・・・俺は、もちろん、この先海馬から仕事が2度と来なくても構いません・・・・・でも・・・ひとつ心配があります・・・・もし・・・もしこの映画が、石垣さんの期待に沿う結果が得られなかったとき・・・そうなったときには・・・・石垣さんには申し訳なかったでは済まないと・・・・そのことが」 「心配はいらないよ」 「えっ?」 「この映画は必ず大きな反響を受けて、多大な利益を生む」 「・・・・どうして・・・そんなことが」 「観たからね・・・昨夜、うちの試写室で今までのラッシュを観せてもらった」 「しかし・・・でも・・・石垣さんが香藤にこの電話のことをおっしゃったのは・・・その前・・観られる前です」 「もう永いからね・・・この世界も・・・原作と役者と監督、その3つが判れば、ある程度は予測できる・・・・ま、一応その確認をするために観せてもらったんだが・・・いい映画だったよ・・・君も菊池くんも、いい演技をしていた・・・・ある意味、そこが理解できない海馬だからこそ交渉がしやすい、ということもある・・・・価値を金でしか換算できない人間は、価値が生む見えない金を信じないからね」 岩城はもう、何も思うことはなかった。 石垣が言うことに不安も感じず、また、映画を観た上で引き受けたいと申し出てくれている、その思いがただ嬉しかった。 やや口を閉じてしまった岩城に、石垣が少し笑いながら言った。 「大丈夫だよ、君たち2人が今後海馬と縁が切れようが、そんなことは塵ほども影響しないよ」 「あっ・・・いえ・・すみません・・・そうではなく・・・それはもう・・いいです。どうぞこちらのことは気になさらないで進めてください。色々お考え頂いたことが・・・・本当に有難く・・・どうお礼を申し上げればいいのか・・・」 「・・・・・岩城くん」 「・・・はい・・?」 「相変わらず、素直だね」 「・・・・え・・・・」 「以前にも、僕は言ったと思うけど・・・君は危ないって・・・」 「・・・・・・・・」 「もっと、ガードを張りなさい。今回のことも、感謝するのはまだ早い」 「・・・・は・・い・・・」 「欲しいものを手に入れるまで、安易にガードを外してはだめだ・・・・そういった意味では、君はまだ何も手に入れてはいない、僕はまだOKの返事を出したわけではないからね」 「はい・・・」 「ま・・・・今回のことについて言えば、香藤くんが投げてきた直球は正解だった、と言えるかな」 石垣は少し笑いながら、明日、返事をすると告げて電話を切った。 よろしくお願いします、と言い、岩城も電話を切った。 ガード・・・・石垣はガードという言葉で岩城の危うさを指摘した。 その言葉は、深く岩城の胸に残った。 石垣はそのことを言葉にして教えた、が、きっと香藤も同じことを自分に言いたかったに違いない、と、そう思えた。 電話を切った後すぐ、岩城は香藤へ電話を入れ、今、石垣と話したことを伝えた。 ある意味、香藤の意向を代弁してしまった形になっていた。 そのことを言うと、香藤は笑って言った。 「石垣さんも鋭いよね。俺が代弁する岩城さんの気持ち、じゃなく、岩城さんが代弁する俺の気持ちをとったわけだ」 「すまない・・勝手に」 「違う違う!!いいんだよ、それで。俺も昨日訊かれた。岩城さんの心の中は訊かなくても判っているのか、って・・・。で、俺はそうだとは言えなかった。多分・・・石垣さんの中では俺たちの答えは見えていたんじゃないかな・・・・その上で、一番俺たちがスムーズにいく順番を取ってくれた、ってことだと思う・・・俺が答えちゃった後じゃ、俺はそのことも含めて岩城さんに伝えなきゃならなくなる・・・・石垣さんという立場から口にしたほうが、納得しやすい」確かにそうだろう。 事務所を飛ばして自分たちに先に答えを求めてくれた。 今日、話をした石垣は、以前もそうであったように、権力者の臭いが全くしなかった。 海馬剛史という人間からは、嫌というほどその臭いがする。 その姿は対照的だった。 石垣が口にした明日が、明日の何時なのか、行方が気になりながら、その日、岩城は撮影の仕事を終え、次のスタジオでの収録へと向かった。 夕方4時を回っていた。 5時からの収録にあわせてリハーサルに入った岩城だった、が、こちらに移動する際、清水は事務所へ呼ばれ離れていた。 それから収録が終了した8時ごろまで、清水は帰ってこなかった。 こちらのスタジオに入った段階で、1度、香藤には電話を入れた。 結果を心待ちにしているのは、自分だけではない。香藤の思いは岩城以上かもしれなかった。 無事収録が終わり、スタジオの隅を見ると、清水が立っていた。 「少しお話があります」と清水が言い、岩城も頷きながら2人でそのまま控え室へと入った。 岩城が椅子に座るのを待って、清水が口を開いた。 「お疲れ様でした、抜けて済みませんでした・・・・さっそくですが、『順応できない心』の件でのお話です」 「はい」 「スポンサーがクオリティ・ジョイントへ変更になりました」 その瞬間、岩城の顔がパッと笑顔に変わった。 同時に清水も笑っていた。 「清水さん・・・すみません・・本当に・・・ありがとうございます」 「いえいえ、私は何もしていません・・・ただ、決まったことをお伝えするだけ、の役目ですから」 そう言って、また笑った。 「経緯を・・・・訊いていいですか?」 「ええ、もちろんです、その説明に戻ってまいりましたから」 そう言って、清水も岩城の前に腰を下ろした。 「今日、昼過ぎにクオリティの石垣社長からうちの社長へ電話が入りました。それで、この映画の件について、少し込み入った話になるので、出来たらクオリティのビルへ来ていただけないだろうか、というお申し出でした・・・・それで、社長と私が2人で石垣社長のところへ伺いました」 岩城は、清水が静かに語る言葉に、黙って耳を傾けていた。 「私どもが伺ったときには石垣社長は、映画のスポンサーが変更になることで発生する諸事を全て、既に済ませていらっしゃいました」 岩城の表情がやや不安げに動いていた。 それを見て、清水はすぐに、「うちの面倒や損失が出ないための、全て、の事柄、です」、と口にした。 「本当に・・ですか・・?何も問題はなかったんですか?」 「はい。少なくとも、岩城さんが海馬グループの条件を全て断った上でこの映画に出ることでは、うちには何も問題は発生しません・・・・・というか、より好条件を与えてもらったくらいです」 「それは・・どういった・・・・」 「海馬剛史さんに映画を降りてもらう、そしてスポンサーが、映画の受け皿として、よりよい環境を与えてくれるクオリティに代わるという、これはうちにとって非常にいい条件です」 「・・・・・・・・・」 黙ってしまった岩城に、清水が、「何か・・・今までの私の話で・・・不安に思われるところがありますか?」と、訊いた。 「あ・・・いえ・・・・」 小さく言葉を発し、岩城はその口を再び開いた。 「クオリティは・・・・石垣さんは・・・・海馬とどうやって・・・いったいどれ程の」 金、と言いかけて、言葉が途切れた。 それを受けて、清水が答えていた。 「石垣さんははっきりはおっしゃいませんでした、が・・・・・その後、その場に関わったある関係者の方から海馬グループとの交渉の内容を訊きました・・・・・石垣さんは、海馬グループが今まで出資した資金全額を倍にしてお支払いになったそうです」 「倍!!」 思わず岩城は声をあげた。 「倍・・・って・・・!!・・・そんな」 「ええ・・・うちもそれを聞いたときは驚きました。その方が言うには、もし相手がこの映画が大きな収益をあげる可能性を出してこられると、交渉も難しくなる、そのことを読んで、石垣社長は、海馬さんが即座に納得する金額を提示した、と・・・・つまり、予測のつかないものよりも、今、この場で受け取る金額が絶対に得だと、そう思える金額、です」 「・・・・・でも・・・息子さんのことは・・・・」 「面白いんですよ、それが・・・・これは石垣社長自身がおっしゃったんですが・・・・、映画のスポンサー権の交渉を金で終わらせた、その後に、息子さんに映画から降りてもらいたいことを、石垣さんはおっしゃったそうなんです・・・・まるで何かのついでのように・・・・そうしたら、海馬さん、ああ、判った、って・・・・・」 「えっ・・・・」 「もう、それはあっさりと・・・」 「そんな・・・・」 「だから・・・・このことで、今後の仕事に何らかの影響がでることはない、と・・・円満に交渉は成立した、と・・・・そう最後におっしゃっておられました」 気が抜けたように、「・・・そう・・・ですか」と、呟く岩城だった。 清水は笑顔で、そんな岩城に話した。 「よかったですね。岩城さん。私も本当に安心しました。クオリティが手を上げてくれたこと・・・降ってきたような幸運で・・・、石垣社長、この映画に最初から興味をもっていらしたと、おっしゃってました。いい映画であることはもちろん、多大な利益を生む、と、確信しているのでスポンサーを強引な形で引き取った、と・・・・・謝っておられました」 あっ・・・・と、岩城は言葉を失っていた。 石垣は何も言っていないのだ。 この件には香藤も岩城も、何ひとつ関わっていない、・・・・なぜ、どうして、は、全て自社収益のため、としたのだ。 岩城は胸が熱くなり、声にならぬ叫び声を上げていた。 もしこれが石垣なりの、以前仕掛けたことへの謝罪の形であれば・・・・。 2日前、香藤が石垣を頼って全てを打ち明け頭を下げた、その時点で既に、石垣の頭の中ではイエスの返事が出来ていたのであれば・・・・・。 今の今まで微塵も思っていなかった・・・・・いや、判らない・・・・それは判るわけはない・・・しかし・・・・もしかしたら・・・・。 黙り込んでしまった岩城へ、清水が心配そうに、「岩城さん・・・・岩城さん?」と、呼びかけていた。岩城は、ただ「何でもありません・・・何でも」と、上の空で繰り返していた。 差し伸べられた手は余りにも大きく、全くその真意に手を届かせない完全な軽さを装い、しかしその奥は、といえば、信じられないほど深い意思が存在している。 考えれば考えるほど、岩城にはそうであったと思えていた。 帰宅して今日の結果を伝えると、香藤も同じ見解を示した。 香藤は言った、自分が頼んだとき、石垣はまるでそれを待っていたようだった、と。 永い道のりで苦しんできたことが、余りに急速に好転した。 2人はこの数日、限られたこと以外は考えられずにいた。 ただ、スムーズに望む環境で仕事がしたい、と・・・・。 しかし、ここまでのことは予測はしていなかった。 その1ヵ月後、無事、映画がクランクアップした。 内輪の試写会が石垣のもとで行われることになり、岩城は香藤とそろって映画を観た。 香藤くんも、と、石垣が声をかけてくれていた。 映画のエンドマークとともに、その場から自然に拍手が沸き、その先にある成功を誰もが確信していた。この映画を手放した海馬グループの判断は、後に大きな後悔となることは間違いなかった。 改めて岩城と香藤は、部屋を出ようとしている石垣に礼を言った。 頭を下げる2人を見て、石垣は言った。 「ほんとに・・・君たちは面白いね・・・飽きないよ」 小さく笑って、じゃぁ、と、フロアへと出て行った。 皆がばらばらと部屋を後にするのについて、2人もフロアへと出た。 そのとき、フロアの窓際で、石垣が菊池と立ち話をしているのが目に入った。 その様には、余りよそよそしさもなく、互いに笑いあってもいた。 岩城が、後ろに居た清水に、何気なく訊いた。 「菊池さん、石垣さんとお知り合いだったんですか?」 清水は、ええ、と言いながら続けた。 「以前、菊池さんが海外へ出られるとき、石垣社長が状況の打開に骨を折られたらしく・・・でも、結局、菊池さんは行かれましたが・・・・帰られるときもご助力されたと、伺っています」 その瞬間、岩城と香藤は2人で同時に、あっ、と、顔を見合わせていた。 ずっと気になっていたことの答えが、微かに姿を現した。 家路を走る車で、香藤は運転しながら言った。 「石垣さんに海馬のこと教えたの・・・・」 「ああ・・・菊池さん・・・・だったのかもしれないな・・・はっきりは判らないが・・・」 「・・・・まっ・・・言わないよね」 「そうだな・・・・もし、そうだったとしても、彼は言わないだろう・・・そう考えれば・・・」 ふと言葉が途切れる岩城に、香藤は、なに?と、訊いた。 少し考えるように言葉を選びながら、岩城は口を開いた。 「映画に海馬君が入ってから・・・・菊池さんはそれとなく気にかけて・・・少なくとも・・・俺よりは海馬君に対して警戒はしていた・・・」 もっとほかに思い当たることはあったが、香藤にとって余り愉快な話しではないだろうという思いから、岩城はそれ以上の説明をしなかった。 「・・・・そう・・・」 一言ぽつんと答えた香藤は、しばらくして口を開いた。 「凄く・・・・いい映画だった・・・・岩城さんはもちろんなんだけど・・・・」 微妙なニュアンスで一旦言葉を収めると、再び香藤は話し始めた。 「・・・あいつって、やっぱさ・・・いい役者だったんだって・・・認めたくないものを認めさせられちゃった、って感じ・・・」 「かとう・・・・」 「もう・・・さ・・・嫉妬しちゃったよ、俺・・・・なんかさ・・・映画の中で・・・・・宇津木?・・・彼が、岩城さんのこと好きで好きで・・・苦しんでるのが、すっごい伝わったからさ・・・」 「・・・・・お前にそう言ってもらうと・・・・複雑だが・・・嬉しいよ・・・ありがとう・・・」 「そっ・・・・複雑!!でしょ」 香藤はニタッと笑った。 でも・・・・と、香藤は改まった口調で口を開いた。 「なんだか不思議・・・だよね・・・・考えてみれば、今まで岩城さんに面倒をかけた人間が、皆そろって返してくれたって感じ・・・しない?・・・」 運転しながらさりげなく口にした言葉に、岩城はふっと香藤を振り向いた。 左手でそっと、香藤の耳にかかる髪をすくい、岩城はそのまま頬をなぞった。 「何っ??事故るから止めてっ!」 「お前の頭の中・・・・思考回路・・・・いいな・・・・本当に好きだ・・・」 そう言うと、岩城は頭を香藤の肩に乗せ、もう1度、「・・・大好きだ・・・」と、呟いた。 少し照れながら、香藤が、「俺も、大好きだよ、岩城さんの頭の中・・・」と、答えた。 何事もなかったかのように車は静かに走り、決して勝つことだけで戦ってこなかった2人の姿勢は、 永い時間を越え、正しい答えを連れて帰ってきてくれた。 2007.02 比類 真 |
読みながらこの先どうなるのだろう・・・
とドキドキしてしまいました(>_<)
岩城さんを巡る仕事と欲望と愛情が複雑に交差していましたね
菊池さん!素敵でした!かっこ良かった〜v
本当にたくさんの人がふたりを見守ってくれているようで感激しました
比類さん、長編の作品をありがとうございましたv