スモーキー ターゲット 1 *サイト「桜紅葉」さまに掲載された「パワー・ツゥー・ザ・パワー」中の人物が 本作文2から出ています。 通りが悪いかと思いますが、お許しください。 「ありえない!!」 「香藤・・!」 「ありえないよっ!!絶対に」 「ちょっと待ってくれ、香藤」 「こんな仕事受けてくるなんて・・・・信じらんない」 香藤のその言葉に押しやられるように、テーブルを挟んで2人の間には、1冊の『順応できない心』 とタイトルが入った台本が無造作に置かれていた。 原作:三滝 卓、監督:大矢 徳雄、とプリントされている、その下に、ペンで走り書きが入っていた、主演:岩城 京介、共演:菊池 克哉、と・・・。 「お前の・・・言いたいことは判る・・・判るが」 「判ってなんかいない!!岩城さん、全く判ってない!!ストーリーだけでもどうかって思うのに」 原作者、39歳の三滝卓の実体験を本にした『順応できない心』は、ベストセラーとして2年前から売れ続け、映画化の話が浮上していた。 それは、海外の監督からもオファーがあるほどだった。 日本での映画化、ということが、大手のスポンサーと大矢監督が手を上げたことで決定したのが1年前、だった。 すでに幾多の映画祭で受賞経歴を持つ大矢は、この作品を間違いなく上質なものに仕上げる力がある気鋭の44歳になる監督だった。 大矢が主演を岩城京介でと、念頭においてのスタートだった。 そして、主演と同等レベルで重要視される共演者を、菊池克哉で、と名指しで申し入れたのが、原作者の三滝、だった。 監督の大矢が、自分を演じることになる主役に岩城の名を出してくれたことは、無論、三滝には出来すぎと思えるほどの配役であった。 一番最初に出演を依頼されたのは、岩城を飛ばして菊池克哉だった。 本を渡され、主演は岩城京介を考えている、と知らされた菊池は、おもむろに、大矢を前ににこう言った、 「岩城京介が出演を承諾すれば、出る」、と・・・・。 そしてその後、「彼はきっと、この話を受けないだろう」、とも付け加えていた。 そこから、岩城への出演交渉が始まった、が、菊池が予想したとおり、岩城はこのオファーを断り続けた。 配役がぎりぎりまで決定しなかったことが、台本の役者名が手書きになった所以でもあった。 結局、岩城が首を縦に振るまで、1年近くもかかっていた。 断る理由は、あった。 以前の香藤を巻き込んでの騒動を考えれば、当然ともいえた。 しかし、理由はそれだけではなかった。 香藤が口にした、「ストーリーだけでもどうかと思うのに」、という、そのストーリーは、確かに、ある種の衝撃的な様相を呈したものでもあり、だからこそベストセラーを続け、多くの監督が映画化への意欲に燃えた。 原作者の三滝卓が、かつて広告代理店の社員であった5年間の出来事の話、だった。 上司の男に才能を見出され、仕事面でも可愛がられる。しかし、上司があるときから、恋愛感情を三滝に求め始め、三滝も一時はその要求に応じようとする、が、結局、自分の中に無理を感じはじめ、拒否する。 上司が嫌いだったわけではない、ただ、求められる感情は持つことが難しかった。 逃げるようにその職場を去り、3年たって、この本を書いた。 なぜ書くことが出来たか、それは、退職後、上司であった男の病死を知り、思いのほかショックを受けた自分がそこにはいたからだった。 その上司を演じるのが、菊池克哉、だった。 菊池を希望した理由、それは、実像に酷似していると、三滝は恥じらいながら説明していた。 「断ってたじゃん!!岩城さん、ずっと!!なんで今になって、承諾しちゃうのさ!!」 「それは・・・本に魅力を感じたからだ。監督や作者の思いも理解できた。だから」 「菊池を相手に!!恋愛映画を撮ることに!!どう魅力を感じて、どう理解できたのさっ!」 香藤の瞳には苛立ちが浮かんでいた。 香藤の思いも充分理解できる。 自分でも、承諾するには難しいと思える条件がそろいすぎていた、だからこそ、1年もの間、どれだけ熱心に打診されようと、断り続けていた。 事務所は岩城の判断に任せていた。積極的に断らないには理由があった。 見逃すには惜しい、と、そう思えるものを、多々含んでいる仕事であったからだ。 原作、監督の質、注目度など、どれを考えても、これほどヒットすることが間違いないと予測できる仕事はなかなかない。 また、主演の三滝の人物像は、作中でも人間性に魅力があり、観る側に高い好感度で受け入れられることも、間違いなかった。 「香藤。落ち着いて聞いてくれ。俺は・・確かに、お前が言うことを全て考えた。色々なことが障害としてある、それも判っていた、が、当初からこの話に魅力を感じていたことも確かだ・・・・俺は・・・・・大矢監督に訊いた、なぜ、俺、なのかと。俺の私生活を考えてのことなのか、と・・・」 香藤は、岩城の目の前で憮然としながらも、黙って話を聞いていた。 岩城がなぜ、この話を受ける気になったのか、それは、香藤とて、知りたいところだった。 「で・・・監督は言った、違うと・・・・」 大矢は、何度目かの説得のために岩城を目の前にして、こう言った。 「岩城さん、私はこの話を読んだときから、三滝役には岩城京介、しか浮かばなかったんです。それは・・・この役が持つ微妙な感情の機微を演じるには・・・とても難しいあいまいさがいるんです。 強過ぎず、しかし虚弱ではない・・・不透明でもないが清廉潔白というわけでもない・・・普通の人間に見えながら、上司に惚れられる魅力もなければいけない、そして・・・何よりも、悩みながら出した結論に絶対的な自信が持てない、その苦痛を、観る側に同調してもらえる人間としての魅力が必要です。 だから・・・・私にとって、岩城さんがどう生活しているか、などは全く関係ないんです。 岩城京介という、1個人の俳優としての仕事を見てきたうえで、是非、三滝になってもらいたい・・・・それだけなんです」 そして、その後、こうも言った。 「もし・・・菊池さんとの共演がネックになっているのであれば、私としては、お断りするのは菊池さん、のほうですから・・・・」 その言葉には、即座に岩城は答えていた、「いえ、それは止めてください。お受けするのであれば、全てを呑んでお請けします」、と・・・。 「・・・・岩城さん・・・岩城さんがこの映画を撮ってる間・・・俺は・・・どれだけ・・・目をつむってたらいいのかな・・・・・俺、自信ないよ・・・自信なんてない・・・・・機嫌よく・・・・・あぁ・・・でも・・・」 香藤は苦しそうに、うつむいて頭をかいた。 そして、ふっと顔を上げると、自分に言い聞かすように、言葉を発した。 「でも・・・そんなこと言ってちゃ、役者としても・・・伴侶としても失格なんだ・・・」 「・・・すまない・・・・・・お前が・・・どれだけ嫌な思いをするか・・・話がきたときから判っていた・・・・・俺は・・・・しかし俺は、いい映画が撮りたい・・・・・ただそれだけ」 そこまで口にした岩城を正面から見据えると、香藤は言った。 「判ってる・・・判ってるから・・・・判らなきゃいけないんだ・・・」 本当に判っているかどうかなど、始まってみなければ誰にも判らない。 口にした本人さえ、果たしてそうなのか、自分の言葉を信じ切れてはいなかった。 そんな香藤の目を見つめ返しながら、岩城には、香藤の苦悩が痛いほど理解できていた。果たして逆の立場であれば、自分はどうだったろう・・・と。だからこそ、今、香藤が口にした、判っているという言葉は、いずれ姿を変えることもあるかもしれない、と思った。 しかし、その感情を修復していくのも、自分の、この映画を撮ると決めたときから始まるもうひとつの仕事でもあると、 岩城は思っていた。 香藤を愛していれば、それは当然だった。 5月に撮影は開始した。 久しぶりに顔を会わせることになった菊池克哉に、岩城は、「よろしくお願いします」と、笑顔こそ浮かべることは出来なかったが、他意のない挨拶を送ることが出来た。 そんな岩城に菊池は言った。 「よく、受けてくれたね、この仕事、嬉しいよ。俺としては、岩城くん主演でゴーサインが出るなら、俺は外されると思ってたからね」 「そんなことは・・・誰も望んではいません」 菊池はニヤッと笑って、そうかな?と、無言で訊いていた。 岩城は、この仕事を受けると決めたからには、いいものを創り上げる以外の感情は、全て忘れることに決めていた。菊池も子供ではない。 岩城が自分との共演を呑んでも、この映画を選んだからには、そのくらいの決意は持って挑んでいると、重々察していた。 「まっ・・・とにかく、いい作品になるよう、よろしく」 そう言って、菊池は手を差し出した。 その手を、岩城は頷きながら握った。 差し出した岩城の手を握り返した力は、思った以上に強固な力、だった。 そうやって、始まる前に、決してスムーズとはいえない形でスタートを切った撮影だった。 しかし、撮り始めてみれば、やはり、原作の力と監督の力量が、全てを良質なものへと変えていっていた。 そこにはもちろん、岩城の存在は大きかった。 1年間という永きにわたって監督がこだわり続けた主役は、こだわり以上の役目を果たしていた。 また、岩城にいい仕事をさせている要因のひとつには、岩城と菊池の間に、役を演じる以外の邪念が全く消し去られていたからだった。 役者としての菊池克哉に対し、尊敬という念を抱いていた過去の岩城の感情は、全く同じではないにせよ、やはり演技に触れれば、認めるべきものは認める、というものへ自然に流れていた。 そんな中、撮影も1ヶ月が過ぎようとしていたころ、当初、台本にはなかったキャスティングが追加された。 主役の同僚という立場のこの役に割って入ってきたのは、海馬剛史、という、23歳の青年だった。 この映画のスポンサーは、輸入業日本最大手の海馬グループ、そして、海馬剛史はその息子だった。 「どこの世界でも、金があれば無理が通るってわけか」 そう言って、菊池は嫌悪を隠さなかった。 岩城は、そんな菊池に、「いい役者であれば、いいんではないですか?彼も、望んで親の名前を抱えているんじゃないかもしれないし・・・」と、答えた。 菊池は、フッと岩城に向かい、クールな笑みを向けた。 「成長してないね・・・岩城くん」 そう言葉を残して、菊池はスタンバイの位置に戻っていった。 「じゃぁ、始めます!!」 掛け声がスタジオに響き、岩城も菊池の後を追った。 その日が、海馬の撮影参加初日、だった。 事前の挨拶を済ませた3人は、オフィス内でのシーンを撮るため、それぞれの立ち居地へと入った。 スーツに身を包んだ菊池が、岩城に、『大丈夫、三滝君、自信を持てって、言ってるだろ、いつも。 そのままの案で進めてみろ』、と、肩を叩きながら、声をかける。 上司である、宇津木を演じる菊池の表情は、先とは打って変わっていた。 厳しい口調の中に、きちんと隠された愛情を秘めていた。 そんな菊池に、岩城も、『はい・・・でも・・・自分なんかで本当に・・・宇津木さん、いいんですか?』、と、自信のない声色に嬉しさを入れることを忘れていはいなかった。 そこへ、海馬の台詞が割って入る。 『俺も、絶対いい、と思います、がんばりましょ、三滝さん』 軽く若々しい声・・・下手ではない、だが、上手くもない。 岩城は心の中で、ああ・・これは・・・浮くかもしれない・・・と、感じていた。 そのシーンを撮り終えると、菊池は、海馬をチラっと見て、その場を黙って後にした。 その視線は冷淡だった。 岩城は、休憩に入るため、清水と話しながらそこを出た。 海馬には、終了と共に駆け寄るマネージャーらしき男がいた。 それぞれがそれぞれの空気を残し、その場から去っていった。 「おかえり」 先に帰宅していた岩城は、30分ほど遅れて帰宅した香藤に声をかけた。 「ただいま!!」 元気な声で居間に入ってきた香藤は、ソファーに居る岩城に笑いかけると、「晩御飯、今日、いいものもらっちゃった」と、抱きついてきた。 「なんだ?」 訊く岩城に、「うん・・・出来るまで秘密!」と、子供っぽく答え、唇にキスをした。 温かいキスにそっと愛情を込めて岩城はキスを返した。 しばらくそうやって、ソファーで岩城の体に抱きついていた香藤は、「じゃ、一寸待ってて」と言いながら、岩城から離れた。 その背に、「俺も、出来ることがあったら、手伝うから」と、岩城が声をかけると、「うん、ありがと」と、香藤の声が返ってきた。 その姿を目線で追いながら、岩城は感じていた、無理をしている・・・と。 訊きたいことが山のようにあるだろう。 あれだけの激しい嫌悪の感情を見せた心は、今、どうやって収めているのだろう・・・・。 撮影が始まってから、香藤は、何も訊かなかった。 何も訊かない、何も触れない、そんな香藤が見せる態度は、愛しいほどの努力の姿だった。 香藤が秘密、と告げていた車海老は、天ぷらに姿を変えてその晩の食卓へ並んでいた。 その夜、どちらからともなく互いを求め合った体は、いつものように、その心と体に喜びと幸せを与えてくれはした。 優しすぎる香藤の手管は、申し分のない愛情表現を尽くしていた、が、その優しさの色は灰色、だった。 岩城が、『順応できない心』の撮影に入ってから、ずっと、そうだった。 香藤は、穏やかで、時に子供っぽく、そして、ベッドでは優しく岩城を抱いた。 そうしなければ、何かが溢れ出てきてしまう・・・そうだろう?香藤・・・・・と、岩城は、その灰色の感情に包まれながら、いつも問いかけていた。 「・・・岩城さん・・・いい・・・?」 愛撫に波打つ胸を、香藤の指がなぞった。 「気持ち・・・いい・・・?」 頷く岩城の反応に、嬉しそうに香藤は腰を進めた。 お前の努力に、俺は気が狂いそうだ・・・いっそ訊いてくれ・・・今日はどうだった、菊池とどうだったか?と・・・・。 そうしたら、俺は答えるだろう、何もない、全て順調だ、と・・・。 「岩城さん?ちょっとここ、いいですか?」 海馬が、自分のシーンを撮り終えスタジオ隅で休憩している岩城のところへ、そう言ってきた。 ここ、と海馬が指した、岩城の隣の空間へ、岩城が、あ・・どうぞ、と、答えると同時に、海馬は笑顔で腰を下ろした。 甘ったるいコロンの匂いが漂った。 「俺、岩城さんと共演できて、すっごく嬉しいんです。大好きでしたから」 あけすけにそう言われ、岩城は、「それは・・・どうも」と、セットで菊池が演技しているのを見ていた視線を、僅かだけ海馬に向けて、小さく答えた。 ストレートな表現は、香藤であれば慣れている、が、基本的には、苦手、だった。 撮影当初から、海馬はよく、あれこれ理由をつけては岩城の傍に来ている。 自分に好意を持ってくれているのだろう、と、そう思いながら、なぜか岩城は苦手意識が消えなかった。不思議なもので、まだ菊池の傍にいるほうがリラックスできた。 「・・で、今日、いいですか?」 ぼんやりと上の空だった岩城の耳に、海馬の声が飛び込んできた。 「えっ??何が?」 「もう・・・いやだなぁ・・・岩城さん、食事、です、食事」 「え・・・食事?」 海馬を見ながら、とぼけた受け答えをしていた岩城の頭上から、突然、菊池の声が降ってきた。 「いいねぇ!!3人で行こうぜ」 「菊池さん!!」 驚いて振り向く岩城の傍で、海馬が、「えっ!!菊池さんも・・・ですか・・・?」と、言った。 菊池はそ知らぬふりで、「何だ?俺が一緒じゃまずいのか?そんなわけねぇよな。俺が美味い店、連れてってやるよ」と、言葉を泳がせながら、返事も待たずその場を去って行った。 ここでもまた、それぞれの思考が、全く異質な感情で交差していた。 しかし、岩城は、そんなことを詮索するより先に、香藤に今夜のことを、どう言うべきか、そのことだけが頭にめぐっていた。 その日、撮影を終えると、菊池に連れられて3人は食事へ向かった。 岩城は事前に電話で、今夜、スタッフなどとの食事がある、と、香藤に告げていた。 「スタッフなどと」という、岩城の表現は、非常にあいまいなものであった、が、香藤はただ一言、 「うん、判った」と、答えただけだった。 判った、と理解を示され、岩城はそれ以上の説明は出来なくなった。 岩城は、はっきりと菊池も一緒だ、と、言うべきであった、と、電話を切った後に思った。しかし、わざわざそこに、菊池も一緒に食事へ行く、と言うのも変な話だと、そんな複雑な迷いを抱えながら食事の席へついた。 一緒に、と言い出した割りに、いざ席に着き食事を始めると、菊池はあまり会話をせず、しゃべって いるのは、ひたすら岩城に話しかける海馬だけだった。 熱心な海馬の口調は、仕事を終えた岩城には、疲労を増幅させるだけだった。 海馬は、過ごす時間が多くなればなるほど、海馬グループの臭いを徐々に強く漂わせてきていた。それは、ほんの些細な事からではあるが、たとえば、目上の先輩に当たる共演者への、態度、言葉のニュアンスなどからも、感じられた。 力を持った人間に会うことは多い。 岩城は何故か漠然と、以前、香藤の仕事で、決して好条件とは言い難い環境において対面することになった、クオリティ・ジョイントの社長、石垣元哉を思い出していた。 彼も絶対的な力を持つ人間の1人である。 あのとき石垣から、香藤の仕事、という餌を前にして、嫌悪して余りある権力そのものを振りかざされながらも、何故か岩城の心の中で、彼に対しての怒りは消えていた。結局、その根底にある人間性を垣間見る瞬間もあったからだろう。菊池にも同じことが言えているかもしれない。 そんなことを考えながら、海馬の話を聞く岩城だった。 菊池は酒を飲みながら目の前の2人の様子を、面白がっているように見守っていた。 2時間ほど過ぎたころ、海馬が、「じゃぁ、次は僕の知ってる店へ」と、口にした。 それまで余り会話に加わってこなかった菊池が、そのときは強い口調で「帰るぞ」と、割って入り、さっさと勝手に会計を済ませた。 店の外へ出た海馬は、「いいでしょ?岩城さん、行きましょうよ」と、あきらめ切れていないその手が岩城の腕を掴んでいた。 その強引さに少し驚きながら、岩城は、「いや、俺は」と、口に仕掛けた、そのとき、菊池が横から岩城の背を強い力で押した。 「悪いね、海馬君、俺たち、ちょっと、寄らなきゃいけないとこがあるから、ここで」 そう言いながら、押していた岩城の体を、さっさと目の前のタクシーの中へと押し込んだ。 車内の後部座席であっけにとられている岩城の隣に、続いてすぐに菊池が乗り込んできた。 あっけにとられていたのは、岩城だけではなかった。 1人残された海馬も、その場で立ちすくんでいた。 タクシーの運転手に、「悪いけど、とりあえず、ここから離れて適当に流してくれる?」と、告げ、それに従って運転手も、その場から車を走らせ始めた。 「菊池さんっ!!」 岩城は瞬間、脳裏に悪夢がよみがえり、きつい口調で名を呼んだ。 表情がこわばっている岩城を振り向き、菊池は、クッっと、笑った。 「なんだ、お前、俺がまた襲うとでも思ってるのか?」 真意を突かれ、岩城は言葉につまった。 少し赤面している岩城を見ながら、「どこだ?家?このまま、回ってやるよ」と、菊池は言った。 「え・・・?」 「ほら、はやく言わないと、運転、困ってるぜ」 「あ・・・いえ・・・」 とっさに岩城の頭の中で、先までの疑いを恥じ打ち消す自分と、新たに生まれる不安が入り交り混乱していた。 「すみません・・・送って・・・いただくわけにはいきません」 「これはまた、えらい警戒されたもんだな」 「いえ・・・そうではなく・・・菊池さんと一緒に乗ったタクシーから、家の前で降りたくない・・それだけの理由ですから・・・」 「・・・・・まっ・・・勝手にしろ、降りるんならこの辺にしとかないと、次、拾えないぜ」 「すみません」 岩城は小さく頭を下げると、運転手に止めてもらうよう、告げた 後から乗り込んだ菊池が、岩城が降りるために一旦、車外へと出た。 岩城が降りると、再び中へ乗り込もうとしていた菊池を、「菊池さん」と、岩城が呼び止めた。 顔を上げた菊池に、岩城は少し迷いながら訊いた。 「菊池さんはなぜ・・・・今日、ご一緒に食事を・・・菊池さんが・・・望んでいらしたとは、俺には思えませんでした」 菊池は、ちょっと真顔になったが、すぐシニカルな表情へと変わった。 「どうしてねぇ・・・まっ・・・判るときもくるかもしれないし、こないほうが幸せ、ってこともある・・・・少し・・・勉強してみるのも、いいかもな、岩城くんにとっても・・・ああ・・・それ以上に、香藤くんにとって・・・・かな?」 そんな不透明な言葉を残し、「じゃ、また明日」と、菊池はタクシーに乗り込み去っていった。 岩城は、走り去るタクシーを見送りながら、菊池が口にしたことを考えていた。 それは、新たに拾って乗り込んだタクシーの中でも、家に着くまでずっと頭にめぐり続けた。 夜、11時を過ぎた家の玄関を、岩城は頭を切り替えながら開けようとして、玄関に鍵がかかっていることに気がついた。 自分の鍵で玄関を開け入ると、中は暗かった。 香藤はいない、と知った岩城は、やや足早に居間へと入っていった。 電気をつけると、テーブルの上に、白い紙が1枚、置かれていた。 『おかえり、岩城さん。食事の誘いが友達からあったんで、ちょっと行ってくるね。香藤』 見慣れた字で書かれたメモに目を通した岩城の心は、はっきりしない失望感が漂った。 別段、なにがどう、というわけではない。 いつものソフトな字体で、温かいメッセージ、だった。 自分が勝手に今夜の予定を作っておいて、香藤の不在に失望するのは身勝手だ、と、岩城は考え、風呂へ入ることにした。 先に言われた菊池の言葉、今読んだ香藤のメモが、ずっと岩城の頭に残り続けた。 風呂から出た岩城は、ソファーで明日の台本のチェックをしていた。 夜中1時を過ぎたあたりまで、熱心に目を通していた岩城だった、が、ふと目を上げ、台本を閉じると、帰る気配のない香藤に思いを馳せた。 ソファーに足を上げ、横になると、目を閉じて、今日のことをもう1度考えてみた。 菊池は、以前とは違う、そのことを香藤にきちんと伝え安心させるべきかもしれない。しかし、訊かれないものを、わざわざ話題に出す、というのも戸惑われる・・・全く菊池について触れようとしない、それは、その裏に存在する香藤なりの努力の姿、なのだろうから・・・・そうすることが香藤にとって1番安らげるのであれば、尊重するべきかもしれない・・・・。 岩城の頭は30分ほど、行きつ戻りつの思考を繰り返しながら、疲労を抱えた体はそのままソファーで寝り込んだ。 香藤が帰宅したのはその1時間ほど後だった。 電気のついている居間へ入ると、岩城がソファーで、静かな寝息をたてて眠っていた。 柔らかな笑みを浮かべながらソファーへ近づいた香藤の目は、その前のテーブルに置かれている『順応できない心』の台本を捕らえていた。 岩城がチェックの途中、無意識に挟んだペンが、そのままで閉じられていた。 香藤は、チラと岩城の寝顔を見て、おもむろにその台本を手にとった。 ペンが挟まれている箇所を開き、読み始めた香藤は、立ったままの姿で、ただじっとそこから数ページを読み続けた。それは、岩城が書き込んだと思える走り書きが、所々に入っている、明日の撮り分のもの、だった。 〜夜間のオフィス内 『三滝君・・・黙って俺の言うことを聞いてもらえないか・・・・』 『宇津木さん、今日のプレゼンのことでしたら、俺』 『違う・・・仕事のことじゃない』 『・・・えっ?』 『・・・・・俺は・・・・君に・・・・』 〜宇津木、一旦、目を反らす 〜三滝はそのまま宇津木の言葉を待つ 『宇津木さん・・・どうしたんです?』 (宇津木が言おうとしていることを、心の中では判っているのか) 『すまない・・・俺は、君を・・・恋愛の対象として見ている』 『・・・・・・!!』 (どのくらい驚くのか) 『俺は・・・言わずにすむならそうしようと・・・そう思って今まで君に接してきた・・・・だが、もう・・・無理だと判った・・・君と会社で顔を会わせることが・・・会って普通に接することが出来なくなってきている・・・・本当に・・・すまない』 『・・・・・・』 (嫌悪しているのか、それとも戸惑っているだけなのか) 『どうして、黙っている・・・何か言ってくれ・・・・嫌だと言われても、俺は・・・そんなことは覚悟の上で・・・・ただ・・・俺は・・・どうしても言わずにおれなくなってしまったんだ・・・・自己満足のために・・・自分が楽になるために・・・・』 『宇津木さん・・・・・俺は・・・・』 (本当は何を言おうとしているのか) 〜宇津木、三滝の腕を掴み、引き寄せる。抱きしめた三滝にキスをする。 〜1度、三滝逃げる 〜再度、宇津木キスをする。三滝逃げない。 (どうして抵抗しなかったのか) 三滝にキスをする・・・・・そこまで目を通した香藤は、とっさに本を閉じた。 それは、まるで見てはいけないものを見てしまったような感覚だった。 自分の心臓が、早鐘のように波打っていた。 しばし立ちすくんだまま、じっとしていた香藤は、我に返ったかのように岩城を見下ろし、手にしていた台本を、丁寧に元の位置へと戻した。もちろん、ペンも挟んだ位置そのままにしておいた。 その後、シャワーを浴び、パジャマに着替えると、香藤は再びソファーへ向かい、岩城の体をそっと抱き上げた。 体がふわっと浮き上がった瞬間、岩城は目を僅かに開き、かとう・・・と、小さく呟いた。 「ただいま、岩城さん、ごめん、黙って留守にして」 岩城の頭上からそう告げた香藤の表情は、すでに柔らかなものへと戻っていた。 「・・・ああ・・・いい・・・自分で」 自分を下ろすよう告げた岩城に、「俺が抱いて上がりたいんだ」と、香藤が答えた。 階段を上りながら、岩城が腕の中で、「・・・寝てしまっていた・・・今日は俺のほうこそ急に」、 と、言いかけた言葉は、香藤の、「ダメだよ、ちゃんとベッドで寝なきゃ」、と口にした言葉に遮られた。 寝室に入って、香藤は、「こっちで一緒でいい?」と言いながら、自分のベッドへ岩城を下ろし、その隣に自分も入り込んだ。 すっと岩城の体を自分の腕に抱き入れ、足も絡めると、「窮屈?何もしないから・・・このまま寝ていい?」と、そう言って岩城を抱き込んだ力は、普段より強いものだった。 胸に収まった岩城のくぐもった声が響いた。「おやすみの・・・・キスはしないのか?」 香藤は少し頭をかがめると、中にある岩城の唇に唇を寄せた。 暖かな唇に触れ、キスをすると、「おやすみ」と、呟いて、香藤はそこを離れた。 おやすみ、と、岩城も小さく囁いた。 この唇に、明日は菊池の唇が触れる・・・・一瞬、イラッとしたマグマが香藤の胸に流れかけた。 今日、香藤は誰とも食事などしてはいない。 電話を通してでも、岩城の、「スタッフなどと」と言う、その言葉の機微を感じ取ることはたやすかった。 笑顔で岩城を出迎える自信がなく、不在を決めこんだ。 岩城を苦しめたくない。 撮影が始まってから岩城が自分に対して、どれほど気を使っているか、充分知っていた。 ラブシーンなど、お互い嫌というほど見させられている。 岩城が菊池と共演したからといって、2人がどうにかなるなど、露ほども考えてはいない。 岩城の心は、変わることのないダイアモンドだ。 菊池も、仕事を前にして無茶はしないだろう。 ではなぜ・・・いったい何にこんなにも苛立ち、抑えきれないほどの嫉妬を感じるのか・・・。 理由は判っていた。 岩城が昔は菊池のファンだったという、たったひとつの事実が心の中から消す事ができない、それだけだった。 菊池が役者としていい仕事をすればするほど、岩城の中にあった菊池に対する評価が蘇るという恐れのような切迫感から、どうしても逃れられない。 以前、菊池は、岩城を襲ったとき、結局最後は手を引いている。 岩城の中に、中途半端な感情だけが残った。 それこそ尊敬していると言い切ることはなくなっただろう、が、かといって絶大な嫌悪感を抱くまでではないという、その曖昧な感情は、今回、共演を決めたことが示していた。 岩城の性格を考えれば、自分が絶対的に避けたい、と思っている人間との共演を、受け入れられるはずがなかった。 動くことは絶対にない岩城の自分への愛を、重々知っていて、それでもなお、自分の中に沸き起こる嫉妬を、どうしても制御できない。 こんな感情が、どれだけ子供じみたものか自分がしっかり承知していることで、自己嫌悪もそこへ入り込み、なお一層、苦しめる。 自分は、いつまでも岩城より5つ年下というスタンスから逃れられず、そこへ現れた、年上で、愛する人が以前は尊敬していた、という場所に位置する人間。 目を閉じている、と、固く決めていた瞳が、閉じきれず、愛するが余り岩城を射殺してしまいそうだった。 「馬鹿だ・・・・」 香藤は呟いていた。 岩城の心を、自分はいったいどうしようというのだ。 こんなにも愛されながら、それでもなお、その心の中から自分以外の存在をすべて排除したいのか。 そんな愛し方は許されない。 もっと、寛大な心で岩城を愛したい、そう思う気持ちが、会話と行動を制御している。 間違いかもしれない・・・・・と、香藤は腕の中で眠る岩城の顔をそっと覗いた。 明日、仕事が終われば、岩城は自分に合せて休みをとってくれている。 ゆっくりとした時間の中でなら、話せるかもしれない、自分のこんな、どうしようもない混沌とした思いを・・・・。 そんなことを考えながら、自分も目を閉じ眠りについた香藤だった、が、このときはまだ、自分の思考が全く異なる方へ向いていることを、知りはしなかった。 「ああ・・・・すみません、ちょっと・・・・もう少し・・・どう言えばいいか・・・」 監督の大矢は、そこまで口にしながら、やや考え込み、「一寸、15分、休憩を入れて・・・また、続けましょう」、と、静かに告げた。 出来れば1度でOKが出て欲しいと岩城が願っていた菊池とのキスシーンは、リテイクされることなり、皆、その場から散って行った。 どこがどういけなかったのか、岩城の迷いは、しっかりと表情に表れていた。 そんな岩城に、菊池がボソッと言葉をかけた。 「男とキスして、初めからそんなに従順になれないぜ、きっと」 「・・・・!!」 「まっ、俺は役得ってことでいいけどな・・・察するに、香藤とキスしてるつもりにでもなってやってるんだろうが・・・この場合は違うんじゃないか?岩城くん・・・・こなれ過ぎ?」 岩城が無言で、あっ・・・と、瞬時に赤面した表情で答えていた。 確かに、香藤のことを考えていた。 香藤以外の男とキスをすることが、これほど難しいとは、この場に直面するまで岩城は想像していなかった。 ラブシーンを多くの女優と演じてきた、そのときのものとは、全く違う感覚だった。 相手が男である、というだけで、これほど香藤に後ろめたさを感じ、逃げたいような、嫌悪感とまではいかないが、覚悟のようなものが必要だった。 相手が菊池であるということが、岩城の精神に大きくプレッシャーをかけていた。 香藤がこのキスをどれ程嫌がるだろう、と、そのことばかりが頭を巡り、結果、生まれる緊張をほぐすために試みた思索が、返って失敗へと導いていた。 相手は香藤、そう考えようと・・・・・。 「お前もよっぽど、香藤に気を使わなきゃならないんだろうが・・・使われすぎても、疲れるってもんだぜ、相手も」 「香藤は何も」 一瞬、ムキになりかかった岩城に、菊池がクッと笑った。 「ほらほら、そうやって・・・なっ?」 「・・・・・・」 言葉を失う岩城を放ったまま、菊池はその場に背を向け去っていった。 2度目のテイクは岩城の転換で、監督ほか全ての人間が頷くものが撮れていた。 菊池に唇を覆われる岩城は、驚きとともに、とっさに体中に走る緊張、戸惑い、恐れ、などを体現していた。一旦は抗い逃げかける体を、菊池に引かれ、再び、今度は強くキスを仕掛けられると、岩城は、微妙に現れかけている納得を、短い間で上手くあらわしていた。 迷いつつも、逃げることをためらわれる、上司である宇津木は三滝にとってそういった相手だと、岩城は演技に結論を出した。 菊池も上手かった。 決して自信に溢れるアプローチではないラブシーンを、思い切る形で相手にぶつける、という、どうしようもない自分の中に生まれる三滝への想いを、しっかり演技していた。 原作に込められているものに沿って見れば、文句のないシーンだった。 監督のカットの声が響き、場の緊張が解けた。 スタッフと同じく、緊張から解放された岩城に、菊池がニヤッと笑い、言った。 「やりゃ、出来るんじゃないか」 「・・・・いえ・・・それは・・」 菊池の訊き方のトーンに、もう少し好意を持てれば、岩城も言葉を続けられたかもしれなかった、それは、あなたの演技があったからこそ、と・・・。 しかし、そこまで菊池に対しての岩城の心の底の感情は解凍されてはいなかった。 そこへ菊池の、「なんだ、お前、ないだろ?今日は」と言う声がし、その方向を岩城は振り向いた。 見るとセットの外で、海馬が立ってこちらを見ていた。 海馬のシーンは今日はない。 「ちょっと勉強のために、見学してます」 海馬が答えていた。 菊池がポケットに手を突っ込んだまま、すたすたとスタジオから出口に向かいながら、海馬の横を通るときに、冷ややかに言葉を捨てて行った。 「ふーん・・・勉強ねぇ・・・岩城のキスシーンが見たかっただけなんじゃねぇのか?」 海馬に投げた菊池の言葉は、岩城には届かなかった。 その少し後から、岩城も、そこを後にするため出口へ向かった。 「岩城さん」 出かけた岩城を、海馬が呼び止めた。 足を止めた岩城に、海馬が、「岩城さん、今日は、これでおしまいですか?」と訊いた。 「えっ?いや、後ワンシーン、あるけど?」 岩城が答えると、「じゃ、また見させてください」と、海馬が笑顔で口にした。 「かまわないけど・・・・1時間、あるよ?今度は・・・休憩・・」 「大丈夫です。待ってますから」 こういった、ソフトな歩み寄りと真摯な姿勢には、岩城は弱い。 もちろん岩城は柔らかな笑顔で頷いていた。 個室に入ると、岩城はネクタイを外し、畳に横になった。 1時間あれば、仮眠がとれる。 岩城の体は、連日の忙しさと、夏の暑さで、久しぶりの明日の休日を前に、疲労がピークに達しかけていた。 清水は休憩に入った段階で、事務所へ所用のため帰っていたので、岩城は自分の携帯電話のタイマーをセットした。 そうやって目を閉じると、横たえた体には急速に睡魔が訪れた。 シンとした部屋のドアから、ノックをする音が外からコンコンと小さく響いたのは、その30分後だった、が、岩城は目が覚めなかった。 ドアは返事を少し待ってから開き、そっと覗くような姿勢で、海馬が部屋へ入ってきた。 返事がなければ入らない、という考えは、海馬にはない。 自分がすることは、どこかで容認されるだろう、という意識が、海馬の底辺にはあった。 少し奥で眠る岩城を見た海馬は、静かにそこまで歩くと、岩城をじっと上から見下ろし、一言、「岩城さん?」と、呼びかけた。 もちろん返事はない。 海馬は岩城が横になっている体の、すぐ隣に腰を下ろした。 海馬はその顔の、息がかかるほどの位置まで自分の顔を寄せ、僅か数センチの距離で、じっと凝視し続けた。 微かに香る甘い体臭、滑らかな肌。 形のいい鼻筋から唇が誘うような色香でソフトに結ばれ、岩城の寝顔は、それが無防備に見えるときこそ、余計に美しさを纏っていた。 海馬は、そっと首筋から胸元へと顔を移動させながら、ゆっくりと目の前の岩城の曲線を鼻先でなぞりその体臭を嗅いだ。 うっとりと魅せられた瞳の海馬の唇には、僅かな笑みが浮かんでいた。 ゆっくりと持ち上がった右手が吸い寄せられるように、開いたシャツの隙間から覗く岩城の肌へ忍び寄り、指先がシャツのあわせを僅かに開くと、海馬は唇を鎖骨下に付け、静かに吸った。 5秒ほどその場を堪能していた海馬は、ゆっくりと唇を外し、赤く残っている印に満足げに口角を上げほくそ笑んだ。 海馬が唇を肌から外した僅か後に、岩城の体がハッとしたように揺れ、同時に目を覚ました。 肩肘を突きながら体を起こした岩城は、とっさに立ち上がった海馬を認め、「海馬・・くん・・?」 と、はっきりしない疑問を口にした。 その声に海馬は、「あっ・・・」という、戸惑いの表情を見せた。 「・・?どうした?・・・?ひょっとしてもう時間・・・?」 口にしながら岩城は、自分がやけに汗ばんでいることに気がついた。 「ああ・・・そうです・・・岩城さん、もう、時間ですよ」 海馬は答えていた。 部屋の空気が夏の蒸し暑さそのものの、不快な熱を持って停滞していた。 「やけに暑いな・・・この部屋は・・・空調は・・・どうなってるんだ?」 言われて初めて、海馬もそのことに気がついた。 明らかに空調は効いていない。 「空調、切れてるみたいですね」 20分前から停電になり、全ての電気回路は停止し、もちろん岩城の部屋の空調も止まっていた。 岩城は自分の疲労がほとんど回復していないことを感じながら、この蒸し暑い部屋を出るために、立ち上がろうとした。 その目の前に、すっと海馬が寄ってきた。 支えが必要な様にでも自分は見えているのかもしれないと、そう感じた岩城は、「ああ・・大丈夫だから」と、断りながら、前へ足を進めようとした。 その岩城の両腕を、海馬の両手が強く握り締め、一言、「岩城さん」と、口にした。 ハッとして目の前の顔を見上げた岩城は、「え・・・海馬くん・・?」と、それだけ声にした。 そんな岩城を前に、海馬は強い口調で言葉を畳み掛けた。 「岩城さん?俺、岩城さん、すっごい好きなんです!ずっと前から、もう、この映画出れるって知ったときから、俺、毎日会えるのがすっごい嬉しくって、岩城さん見る度に!!どんどん気持ちが大きくなって・・・もう毎日、欲しくて仕方なかった、岩城さん!!いいですよね?岩城さん!ねっ!いいでしょ?」 驚愕の表情に変化した岩城の体には、瞬時に緊張が走り、海馬の手から逃れようと体をよじり言葉を投げつけた。 「海馬くんっ!!何を言って」 「岩城さんも知ってたんでしょ?俺がっ!俺がっ岩城さん、ずっと見てたことっ!!ずっとアプローチしてたじゃないですかっ!そうですよねっ!!判ってたでしょ?俺がっ!!どう思ってたかっ!そうですよねっ!」 海馬の、岩城を掴む手の力は強固だった。 骨が折れるかと思うほどの強さで岩城の腕を逃がすまいと掴み、自分の前から逃がさなかった。 「止めろっ!!放すんだっ!!」 海馬の頭は、先ほど岩城の肌に触れたことで、完全にガードが外れていた。 その瞳はまさに、獲物を前にした野生の欲に彩られ、狂気を孕むギラギラとした熱を持っていた。 岩城は、密度の高い距離の中で、たて続けに言葉と力で攻めてこられ、海馬が動くたびに襲う強いコロンの香りに、むせ返りそうだった。 全身で激しく抵抗しながら、しかし、抗おうとすればするほど、自分の脳が次第にぐらぐらと、浮遊し始めるのを感じていた。 蒸し暑いよどんだ空気の中で、体中に覆いかぶさってくる暴力的な言動・・・・、体がじっとりと汗ばみ、吐きそうなほどに気持ちが悪く、視界が揺れ、それは息をすることも困難なほどだった。 全く予期せぬ出来事に、このままでは・・・このままではダメだ、と、岩城は脳裏で叫び、渾身の力で片足を目の前のテーブル目がけて蹴り上げた。 簡易テーブルは、ガシャーンという大きな騒音をたて、少し飛び上がりながら位置を滑らせた。 誰かっ!!香藤!!・・・と、声にならない叫びを上げながら、岩城は意識がスーっと引いていくのを感じた。 途絶えそうな現実をか細い糸で繋ぎとめながら、岩城はめくるめく記憶の狭間を泳いでいた。 菊池との昔の出来事・・・あのときの香藤の、荒れ狂った嫉妬の感情、怒り、苦しみ。 嫌だ・・・絶対にあんな思いを再び香藤に背負わせたくはない・・・自分が甘かったのか・・・・自分に知らず隙があったのか・・・・ああ・・・間違っていた・・・警戒すべきは菊池ではなかったのだ・・・。 瞼が閉じる僅かな隙間で、その菊池の姿を岩城は見たような気がした。 しかし岩城は、あっ・・と、僅かに反応しただけで、上半身はぐったりと海馬の腕に掴まれたまま、そこに意識を放棄した。 一瞬にして自分のものになった体に、海馬の中では狂喜の嵐が渦巻いていた。 岩城の体を畳に下ろし、体をかがめ、海馬が再びシャツのボタンに手をかけたときだった。 背後から、その肩を、突然強い力が掴んだ。 凍りついた動作の中で、こわごわと後ろを振り見ると、自分の背に立つ菊池が、肩を掴んだまま見下ろしていた。 「お前まさか、そこから手を突っ込んで肌を撫で回そうなんて、思ってんじゃねぇよな」 瞬時に我に返った海馬を、じっと見つめる菊池の目は、氷のように冷ややかだった。 「どうする?このまま俺が何も見なかったことにするのか?それとも、1回、ここで大騒ぎしてみるか?騒いでも、お前のバックボーンがありゃ、なんでもない、か?」 岩城に意識を奪われていた海馬は、菊池がドアを開けたことにも気がついていなかった。 「・・!!ちがっ・・・俺はっ!!」 言葉に動揺を隠せない海馬は、さっと立ち上がり、やっとそれだけ口にした。 停電のため今日の撮影が中止になったことを、岩城へ知らせるために部屋へ向かっていた、そのときに聞いた突然の部屋から響いてきた騒音。 海馬が今日ここへ来ていることと、今までに菊池が嗅ぎ取っていた海馬の体質・・・・それら全てを無視することも出来た、が、菊池はしなかった。 菊池の中で交差するさまざまな感情は、決してシンプルなものではない、が、ひとつだけ、はっきりと無視でいない感情があった。それは海馬への嫌悪だった。 権力を笠に着て割り込んでくる存在、その権力に追いやられ一時ははじき出された者としては、海馬のような存在は、吐き気がするほどだった。 自分を共演者として排除しなかった岩城の過去への罪悪感もあった。 部屋に入ってみれば案の定、だった。 菊池は、侮蔑の視線を言葉と共に放り投げた。 「お前も、食えない男だよな、全く・・・・たいした役者にもなれねぇんだから、せめて邪魔にならないように、息くらい潜めて存在を消してたらどうだ?」 菊池の冷たい目線を、ただ黙って数秒見返していた海馬は、ふっと岩城から離れ、菊池の横を通り過 ぎて、部屋を出て行った。 「あんただって、同じじゃないか」 海馬の残した捨て台詞を、菊池は無視し、海馬が出て行ったドアを内から閉めた。 ゆっくりと中へ戻ると、ぐったりと畳に体を横たえている岩城の横に菊池は腰を下ろした。 停電で電気のついていない部屋は、薄暗く、そこには岩城が蹴り上げたテーブルが斜めに向いて位置を変えていた。 そのままの姿勢で、菊池はしばし考えた。 岩城のマネージャーがすでにこの場を離れていることを知っていた菊池は、畳に置いてある岩城の携帯電話を取り上げた。 着信履歴を表示させ、その中から、「香藤」の名を探し、リダイアルした。 香藤の電話は、マナーモードになっていた。 あきらめて電話を切った菊池は、再び考えていた。 以前、岩城が口にしていたことを考えれば、自分が介入しないほうがいいだろう、ならば事務所に連絡をいれるしかない、と、再び岩城の携帯を操作しようとしたときだった。 手の中で電話が着信し、画面に、「香藤」と、名が表示された。 3秒、その名を見つめていた菊池は、結局ボタンを押した。 耳に当てると同時に、「岩城さん?俺、電話出れなくてごめん、どしたの?」と、久しぶりに聞く声が飛び込んできた。 ワンテンポ置いて、菊池は返事をした、「菊池だ」と。 電話の向こうから息を呑む明らかな動揺が伝わってきた。 「・・・なんで・・あんたが・・・」 「岩城くんが」 「なんで岩城さんの電話にお前が出てるんだよっ!!お前っ!!何やってんだよっ!!」 「おい」 「何してんだよっ!!岩城さんはっ!!岩城さんはどうしてんだって訊いてんだろっ!!」 「・・・・・」 「なに黙ってんだよっ!!菊池っ!!お前まさかまた岩城さんに」 「切っちまうぞ!!電話、いいのか?」 「・・・・!!」 「・・・・お前も相変わらずだな」 菊池は小さく笑った。 少しだけ間をおき、香藤は投げやりに「・・・早く言え!」と、言葉を投げて、とりあえずは聞く姿勢をとった。 やっと説明が出来る空気になったところで、菊池は今の状況を説明した。 電話での細かい説明は面倒だったので、とりあえず、岩城が気分を悪くして臥せっている、迎えに来い、と、必要なことだけを告げた。 なぜ、どうして、は、とにかく後回しにして、香藤は、「居ろよ、そこに、俺が行くまで」と釘をさしておいてから、電話を切った。 電話を切る前に、「ああ、今停電で、エレベータ止まっちまってるからな、走ってこいよ、5階まで階段を」と、菊池は笑いながら教えた。 もちろん、返事もなく電話は切られた。 電話を手放すと、菊池は小さくため息をつき、「・・お前も大変だな」と、独り言を口にしながら、部屋から外へと、香藤を待つため出て行った。 部屋の中で待つのでは、香藤の熱も余計に上がるだろうと、菊池は思った、あれ以上ヒートされてはたまらない、と・・・。 それから30分ほどすると、誰も居なくなっている5階フロアーへと、階段を駆け上る足音が響き、 それに続いて、香藤が廊下を走りこんできた。 やや奥から、「ここだ」と、菊池は声をかけた。 それを認めた香藤は、汗ばんだ表情で、菊池がドアにもたれて立っているところまで、走ってきた。 「岩城さんはっ?」 開口一番、荒い息を吐きながら口にする香藤へ、あごで背後を指しながら、「この中に居る」と、教えた。 菊池の体を避けながら、ドアノブへ手を伸ばす香藤を、菊池が「ちょっと待て」と、制した。むっとする香藤は、「何?」と、言い捨てた。 「岩城は逃げやしない、中で寝ている、その前に、お前にちょっと話しときたいことがある」 菊池はそう言うと、目線でその向こう側に設置されている椅子を指し、来るように促した。 ドアから体を起こすと、さっさと椅子へ向かい腰を下ろした菊池を見ながら、香藤は少し迷いながらも、そこへ向かい、菊池から離れて腰を下ろした。 香藤が座るのを待って、菊池が口を開いた。 「お前も・・・よっぽど俺のことが頭から離れないんだろうが・・・・」 ゆっくりと話し始めた菊池の言葉に、「んなわけねーだろ・・・すっかり忘れてるよ・・・こうやって岩城さんに関わらない限りな」と、香藤はいらいらとした感情をむき出しにして、言い捨てた。 そんな香藤を横に、菊池は煙草を口にくわえ火をつけながら、「・・・まっ、そんなことはどうでもいい」と呟き、煙を吐き出した。 「さっさと要点を言え」 香藤は、菊池に落ち着き払った態度を示されれば示されるほど、イラつきが高まっていた。 菊池は香藤を見ずに、話し始めた。 「この映画に・・・途中から参加してる役者がいる。海馬剛史、っていう男だ」 予想外の方面からの菊池の言葉に、香藤は意表をつかれた。 「・・・・で、そいつはこの映画に参加したときから、岩城にご執心だ」 瞬時に驚きの表情で菊池を振り向いた香藤だった。 菊池は、チラとそれを見て、続けた。 「この映画のスポンサーは海馬グループ、で・・・、そいつはその息子だ」 「・・・なんだ・・・それ・・・?」 唖然としている香藤を見て、「岩城から何も聞いてないのか?お前」と言い、まぁそれもありか、という表情を菊池は浮かべた。 「お前、間違えてるんだよ、ターゲットを・・・俺のことで頭が一杯だったんだろうが・・・」 「ちょっと待てよ・・・えっ?じゃ、今日、岩城さん、気分が悪くなったって・・・それと何か関係があるってことなのかよ」 「・・・・俺が部屋を覗いたときには・・・まあ・・・シャツに手はかかってたな」 「・・・!!」 「未遂だから安心しろ」 そう言いながら、菊池は腰を上げた。 「ちょ・・ちょっと待てよ」 あわてる香藤を見て、菊池は、「俺は一応、伝えることは伝えた、後は、考えろ」と、人事のように口にして、その場から去っていった。 突然降ってわいた危険地帯に、香藤は呆然とその後姿を見送っていた。 顔はおろか、先まで名前さえ知らなかった、海馬剛史という男。 「・・・なんなんだ・・・一体・・・」 その口が知らず呟いていた。 部屋から岩城を連れて帰るときには、停電は復旧していた。 香藤が、ぐったりと汗ばんだ体を畳に横たえている岩城を抱え起こそうとしたとき、その体がビクッと揺れ、岩城は目を開けた。 目の前にいる香藤に驚き、次に、なぜ自分が気を失っていたかを全て思い出し、驚きはすぐ戸惑いに変化していた。 「かと・・う・・・お前、どうして」 何を口にして、何を口にしてはいけないのか、岩城の瞳は揺れていた。 しかし、そんな岩城に、香藤は告げた。 「うん。菊池さんから電話もらった。岩城さん、気分悪くして寝てるから迎えに来いって」 「ああ・・・そうなのか・・・部屋が・・・空調が止まってて・・・」 「そうだね・・・停電で、俺が来たときも、空気、悪かった」 「停電・・?ああ・・そうだったのか・・・・撮影は・・?皆は・・」 「今日の撮影は中止、もう皆、帰ってるよ」 「・・・そ・・か・・・すまなかったな・・・わざわざ迎えに来てもらって・・・」 「なに言ってんの・・・どう?起きて歩けそう?もうエレベーター動いてるから」 大丈夫だ、と、口にしながら、ゆっくりと体を起こす岩城の頭には、整理できない疑問が山積していた。 菊池が香藤に連絡・・・、なぜ菊池なのか・・・、自分はどういった状態だったか・・・、海馬はどうしたのか・・・あの時・・・気を失う瞬間、菊池が部屋に入る姿を見た・・・あれは本当にそうだった・・・とすれば・・・自分は・・・・・無事だったのだ・・・・・そして香藤は・・・香藤は何も知らないのか・・・・菊池は何も告げていないのか・・・・。 容易に口に出来る事柄ではないだけに、自然と岩城の口は重くなっていた。 互いに余り話すこともせずに帰宅した家だった。 訊かない、話さない、という関係も、限界が見えてきていた。 香藤が先に居間へ入り、その後ろからついて入った岩城が、「香藤」と、呼びかけるのと、目の前の香藤が振り向いて、「岩城さん」と、声をかけるのが、同時だった。 同時に2人が呼びかけ、そして同時に口を閉じた。 相手が何を話したいのか、見えていた。 「香藤・・・俺が先に話していいか?」 車の中で、既に今日のことを香藤に話す決心をしていた岩城は、そうやって口火を切った。 「うん」 頷いた香藤は、ソファーへ腰を下ろし、岩城をそこへ目線で誘った。 岩城もゆっくりと香藤の隣へ腰を下ろした。 岩城が口を開こうとした、そのとき、香藤がこう言った。 「やっぱり、岩城さん、俺が先に言う・・・きっとその方が正しい」 そして、岩城の返事を待たず、香藤は話し始めた。 「岩城さんが今撮ってる映画のスポンサーは、海馬グループ、そして、その息子の海馬剛史が映画に参加している、その男は岩城さんのことを好きで、今日・・・・岩城さんが倒れたのもそいつのせい・・・そいつに岩城さんは・・・今日・・・・・・・襲われかけた・・・」 両肘を膝にかけ、前で手のひらを組んだまま、うつむいている香藤の口からとつとつと流れ出る言葉に、岩城は唖然としていた。 出来るだけ淡々と述べたつもりだった。 言葉を失っている岩城を、ふっと顔を上げて見つめ、「大丈夫、未遂だって知ってるから」と、告げた香藤の目は、一抹の深い悲しみと苦悩の色を宿していた。 今日、帰宅してから、岩城が話をしようとしたことで、自分に全てを打ち明けるつもりだと判った。 ならば、わざわざ岩城に苦しい告白を強いることはない。 自分はすでに知っているのだと、先に言いたかった。 「・・・それを・・・・菊池さんから・・・?」 「うん・・・今日ね」 「そ・・・・か・・・」 そして再び、2人は言葉を失った。 少しして、「香藤・・すまない」と、岩城が言った。 目の前の香藤の顔に浮かぶ、複雑な感情を岩城はやるせない思いで見つめた。 たとえ未遂であろうとも、こういった状況に香藤がどれだけ胸を痛めるか、岩城はその痛みが自分の心臓に突き刺さるようだった。 「この映画を撮ることだけでも・・・・お前にかけている心労は計り知れないのに・・・その上俺は・・・こんな嫌な思いまでお前に・・・本当に・・・すまない・・・」 「違う・・・・違うんだ・・岩城さん・・・」 そう口にした香藤の両手は、いつの間にか堅く握り締められていた。 「俺は・・・・・・・自分が悔しい・・・・ただそれだけなんだ」 「・・・・・・・」 自分をじっと見つめる岩城を、正面から改めて見据えると、香藤は思い切ったように口を開いた。 「岩城さんが、かつて・・・ファンだった、菊池克也に・・・俺は嫉妬していた・・・嫉妬して・・ただ菊池だけを考えていた・・・・考えて・・・無視しようと・・・岩城さんの撮っている映画そのものを無視しようとしたんだ・・・・そうすることで考えずにすんだ・・・岩城さんが毎日菊池に会っている、ということを・・・」 「・・・・か・・・とう・・・」 「でも、間違ってた・・・何も訊かずに・・・何も見ずに・・・そんなことをしている内に・・・見失っていた・・・・岩城さんの毎日を・・・・」 「香藤・・そうじゃない・・・俺が言わなかったんだ・・・俺が何も話さなかった・・だから、お前は知らなくて当然なんだ」 「訊かない俺の気持ちを尊重して、話せなかった・・・そうでしょ?」 そう言って、香藤は微かに笑みを浮かべた。 「俺が、子供っぽいことしてるから・・・こんなことになるんだ」 「違う・・・・・話していたって・・・たとえ俺が海馬のことを話していたって・・・何も変わらない、何も判るわけがない、俺だって判らなかった・・・それを言うなら、俺のほうが成長していない・・・もしかしたら、予測できていたかもしれない・・・・もっと・・・注意を払えば・・・」 そこまで口にした岩城が、少し体を動かしたとき、シャツのあわせが僅かに開き、その隙間から、薄っすらと赤い痕跡が姿を現した。 香藤の瞳が見逃すはずのない、白い肌に浮き上がっている現実だった。 瞳の中に瞬時に鈍い炎が立ち上がり、次の瞬間、岩城の腕を、香藤の手が強く掴んだ。 数秒、じっとそのまま、次の言葉を繋げずにいる岩城を見すえ、香藤は自分の体中を駆け巡る何かと戦っていた。 しばらくして僅かに開いた香藤の唇が、「・・・そうだね」と、呟いた。 その声は僅かに震えていた。乱暴な力で岩城の腕を引き、自分の胸に転がり込んだ岩城の後頭部に、香藤は再び呟いた。 「そこんところは・・・・ムカつくくらい腹がたつとこ、だけどね」 言葉が終らぬ内に、そのまま岩城の体をソファーの上で、後ろへと押し倒した。 真上から見下ろす香藤の表情は、制御できない溺愛する者への怒りと愛欲が浮かんでいた。 香藤の右手が、岩城の顎から頬にかけてをつかみ、僅かに力を込めると、ギリギリとした感情むき出しに、「・・今日は・・・優しくなんか抱けないよ・・」と、言葉を搾り出した。 痛いほどの力で顔を押さえ込まれながら、岩城は、真上から押し寄せる怒涛のうねりに身を預けたかのように、静かにその瞼を閉じた。 糸が・・・今まで繋いでいた糸が切れたんだな・・・香藤・・・・・いいんだ・・それでいい・・・それが当たり前なんだ・・・。 香藤の痛みがどうすれば癒えるのか・・・、岩城はその方法を香藤に委ねた。 自分に出来ることは、全ての痛みを受け止め、その痛みを、自分の、香藤への愛に変えて返すしかない、と、岩城はそっと両手を香藤の背に回した。 ふっと顎から香藤の強い力が外れると、その手が乱暴に岩城のシャツのあわせを開き、と同時に数個のボタンが音を立てて飛び散った。 今度ははっきりと、目の前に現れた痕跡を香藤は見据え、襲い掛かるようにして、そこに唇を押し当て、ぐっと歯を立てて噛み付いた。 んんっ!!という岩城の呻きを耳にしながら、香藤は歯跡を舌でなぞり、そのまま強く吸い上げた。 しばらくして、香藤の唇がそこを離れたときは、岩城の肌に浮かんでいた赤い印は、香藤がつけたものに、姿を変えていた。 そのことを確認した香藤は、もう見る必要もないとでも言うように、岩城の体を裏返し、その背を押さえつけ愛し始めた。 自分だけが認めた、岩城の体に残る痕跡。 きっと岩城は気がついていない。 風呂へでも入れば、岩城も知ることになるだろう。 知る必要はない、岩城はすでに、充分すぎるほど自責の念を持っている。 そんなことは百も承知だ。 後は、自分の気持ちの整理がつきさえすれば、もっと穏やかに岩城を慰めることも出来る。 しかし、今は無理だ。今はどうしても抑えきれない。この数ヶ月見ずにいたものが、巨大な布石として襲いかかってきた。まるで、つけを払えと言わんばかりに・・・。 香藤は叫びだしそうだった、どうして、どうしてそうなんだ、なぜいつもそうなんだ、と。 岩城という人間にたかる邪魔なものたち全てに、防御を張ることは出来ない。ならば、もっと自分で気をつけろ、と、喉まで出掛かっている言葉を、香藤は飲み込んだ。 岩城が岩城であることに、責任はない。 突出したものはプラスにもマイナスにもなる。 普通に生きようとして、普通に生きることが出来る人間もいれば、それが阻まれる人間もいる。 多分、岩城は、ただ椅子に座っていても、普通を生きることが難しいかもしれない。 香藤は、競り上がる岩城の首筋に執拗に舌を這わせながら、フッと心で自分を笑った。 それを造ったのは他ならない自分だ・・・、岩城が自分に愛され、そして愛する喜びを知った、その結果、なのだと。 その夜、ソファーの上で、幾度、岩城に自分を埋めたか知れない。 時間も読まず、場所も知らず、1度終わるたびに、もう大丈夫だと、香藤は己の感情を確かめた。 岩城の胸に顔を伏せて、息をついているうちに、そこから響く鼓動と馴染んだ体臭、心地よい肌触りに、まだ消えていない自分の幼稚な独占欲に出会う。 半ば眠りの縁に足をかけようとしている岩城の唇を塞ぎ、舌をからめ、鈍い反応を、無理にでも現実へ引き戻しながら抱いた。 そうやって何度も体を繋がれ、岩城の口から漏れる歓びの声に苦痛も混ざりはじめ、腕を持ち上げることも、香藤の名を呼ぶことも出来なくなり、最後は、吐精するものさえも消えていた。 しかし、岩城は1度も止めてくれとは、口にしなかった。 「・・・死にそう・・・?岩城さん・・・」 香藤の囁く声が、岩城の耳を掠めた。 「・・・止めなきゃ・・・言い訳して、止めてよ・・・・」 薄っすらと開いた眼が見たものは、幻のような香藤の、汗に滲んだ悲哀を映した慟哭の瞳だった。 自分でもどうしようもないのだと、その表情に岩城は香藤の苦しみを悟った。 岩城は、どこにあるのかもわからない自分の腕を、這うように香藤の背に回した。 「・・・お前・・・だけだ・・・」 かすれた岩城の声に、香藤の胸が一瞬で後悔の波に襲われた。 「・・・お前・・・だけが・・・俺を・・・幸せにして・・・くれる・・・」 「嘘・・・いい・・言い訳なんて・・・ごめん・・・いいんだ・・」 そっと香藤はその唇に触れ、指先でなぞった。 「・・・・・岩城さん・・・・判ってる・・・充分判ってる・・・」 背にある岩城の指先が、香藤の肌を、ずずっと滑り落ちた。 「・・・すま・・・ない・・・・お前を・・・苦しめ・・・た・・・」 消えるように言葉が漏れると、そのまま岩城は重い瞼を閉じた。 岩城を見下ろす香藤の瞳に、ふいに熱いものが浮かんだ。 動かない岩城の体を抱きしめて、声を出さず、香藤はただ肩を震わせながら泣いた。 この腕の中にあるものが、自分は髪の先までお前のものだと教えるために、黙って抱かれてくれた。 今回の出来事を納得するライン、それを香藤が超えることが出来たと思えるまで・・・。 しかし、ラインはもっと近くにあって、簡単に超えることが出来なければいけないのだ・・・ここまでしなければ納得のできない自分が許せなかった。 夜が明けると、夏の雨が降る、静かな休日だった。 交わした言葉も少なく、ただ2人は互いの体温を感じながら、誰も入り込まないこの家の空気にじっと身を沈めていた。 ベッドで眠る岩城とともに、香藤も眠り、ときに起きては食事をし、また眠り、夕方バスタブに2人でつかると、またベッドへと戻った。 岩城は、目覚めては隣の香藤を確認し、起きようか、と、考えているうちに、またうとうととそのまま眠りに落ちた。 そんな岩城を腕に、香藤はほとんどの時間を起きていたが、岩城から離れる気になれなかった。 ただこうやって2人で互いの体に触れ合っているだけ、だったが、その感触が生むものは、2人にとっての最大の治癒だった。 夜、9時を過ぎたころ、岩城は明日からの台本をベッドで読んだ。 その横で香藤も同じく台本を読んだ。 2時間くらいして、寝る?と香藤が訊いたので、ああ・・そうだな、と、岩城が答え、ベッドサイドの明かりを消して、また2人で抱き合って眠った。 互いの体温が心地よく、世界中が無情に犯されても、この相手だけは変わらず自分と共にある、と、そう思えた。 to 2 |
※後編は後日掲載予定です