ウォール







別段とりたてて、その男が変わったことをしていたわけではない。

岩城は、テレビ局のエントランスへ歩きながら、目線の端にある男の顔を認め、エレベータへ乗って

も頭の中で、漠然とその顔を模索していた。

やや猫背の暗い表情をした、やせ気味の男は、ポケットに手を突っ込んだまま、入口近くの壁際に、

隠れるでもなく、しかし目立つでもなく、立っていた。

全く見覚えはないだけに、岩城は奇妙な不快感を覚えながら、自分を待つ仕事へと頭が切り替わり、

当然、男の事は頭から消えていった。

そして、次にその男を見たときは、嫌でも忘れられない顔になっていた。





その日、仕事を終えた岩城は、自分の車がある表駐車場へ向かっていた。

深夜4時を回っていた。

辺りはさすがに静まり返り、残る車もほとんどなかった。

明日は・・・いや、既に今日になってしまったが・・・香藤の誕生日だ。

香藤は休み、岩城も同様だった。

互いに今日の仕事の終りが見えなかったため、どちらかが帰宅できる時点で、電話、もしくはメール

を入れることにしていた。香藤からは何も入っていない、ということは、まだ仕事をしている、とい

うことだろう。

今から帰って2人でゆっくり誕生日を、と、そんな甘い熱を体に廻らせていた岩城が、車のロックを

解除した瞬間、背後脇腹辺りに鋭い痛みを感じ、と共に、くぐもった声が覆いかぶさってきた。

「そのまま車に乗れ・・・声を上げたら、刺す」

既に布地を突き破って、3ミリくらいは肌にめり込んでいる感触があった。

その時、何故か岩城は直感した、顔の見えない背後の男は、あの、今朝ここで見かけた男だと。

言われるがまま車に乗りながら、岩城の頭には、男の次の要求を考えていた。

最善は金だ。

しかし岩城は、この男が望むことは金ではない、と、思った。

岩城の持って生まれた直感は、香藤に比べればスロータイプだ、が、当たって欲しくないときに限っ

て、正しい答えを導き出す。

案の定、ナイフを突き刺したまま、助手席から運転席へと無理やり岩城を押し込み、その隣に乗り込

んだ男は、「車を出して俺の言う通りに走らせろ」、と、低い声で告げた。

エンジンをかけながら、「どこへ行くんだ」と、岩城は聞いた。

その途端、脇腹にあるものが、1ミリ深くめり込んだ。

「黙って言う通りに走らせろっ!!」

叫ぶ男の顔を、岩城はチラと横見して、その、決して優柔不断に構えているとは言い難い、いわば自

分を脅している男の持つ空気に、下手に興奮させないほうがいい、と、判断した。

岩城は黙って、ゆっくりと車を出し、局を後にした。




右だ左だと、結構な道を走らされ、辿り着いたところは、木造2階建ての、わずかな風力でも悲鳴が

おきそうな、集合アパートだった。

車を示された場所へ停車すると、「エンジンを切れ」と、男に言われ、岩城は言われる通りにした。

この時間、辺りはどこもシンと静まり返っていた。

張りつめた車内の狭い空間で、男は、聞き取れないほどの声で、ここに・・、と、言いかけた。

様子をうかがいながら、岩城はそっと、わずかだけ、身をナイフから外した。

この男からの殺意は消えたわけではないが、身震いするほどの脅威を感じさせるわけでもなかった。

つまり、逃げることも可能である、と、岩城は考えはじめていた。

そのためには、最初に何をするべきか、具体的な手順を考えはじめた矢先、男の口から、戦意を喪失

させる言葉が発せられた。

「逃げようなんて考えるな、そしたら次は香藤を刺す」

「・・・そんなことは考えてない」

岩城は胸の計略はしまい込み、短く答えた。

黙っていると、男は再び口を開いた。

「ここの2階に・・・弟が寝ている・・・もう明日にも死ぬ・・・」

「死ぬ・・・?」

「末期だ・・・」

岩城は口を開きかけたが止めた。

男の声は、とても淡々としていて、こんなことを仕掛けている場には似つかわしくない、まるで世間

話でもしているかのような、感情が読み取れない冷たさがあった。

しかし、沈黙を通されるより、何がしでも話す気があるだけ、まだ安心できた。

とりあえず、岩城は男の言い分を聞く体制をとった。

「・・・・・弟は・・・・・俳優を目指していた・・・・・3年前・・・役がついた・・・セリフの

ないチョイ役だ・・・その時、お前が主役だった・・・それ以来、弟は・・ずっとお前のファンだ・

・・お前みたいになると、言いながら・・・次の役がこないうちに病気になった」

「いったい・・・いつ・・・どの役の・・」

思わず口をついて出た岩城の言葉を、男は一言「知るか、そんなこと」とばっさり切り捨てた。

確かに、聞いたところで、セリフもない役者を、岩城が覚えているはずもない。

「とにかく・・・弟はもうじき死ぬ・・・それだけは確かだ」

「・・・・・・医者には・・・」と言いかけて、馬鹿なことを聞いた、と、すぐ岩城は後悔した。今

さら医者もないだろう。そんなことが望める状況なら、もっと死は先にあっただろう。

男はフンと鼻で笑い、「・・・・・お前みたいな場所にいる奴には・・・わからねぇことだろうな・

・」と、言った。

お前みたいな場所・・・その頭に、恵まれた、と、形容詞がつくのだろう。

自分で勝ち取った場所だ、それをとやかく言われる筋合いはない、が、望む望まざるにかかわらず、

理不尽な場所へ追いやられる人間がいることも、岩城は知っている。

岩城は少し冷静になってきた。

「で・・・いったい俺に何を望んでいるんだ」・・・こんなことをして・・と、本当なら続けたいと

ころだったが、刺激はしたくなかった。

脇に3ミリめり込んでいるナイフがある限り、言いたいことを言える立場でもない。今日も家に帰り

、香藤のあの笑顔に会いたい。

「・・・部屋に行って弟に会えばいい・・・それだけだ」

「・・・本当にそれだけなのか・・?」

「・・・・そうだ」

弟に自分を会わせたかった、死ぬ前に・・・・ただそれだけなのか・・・・・こんな手段を選んで・

・・そんな馬鹿なことが・・・・しかし、ではどうやれば接点が持てるか、と考えれば、それも疑問

だった。多分、無理だろう。時間も迫っている。

「・・・・そうか・・・なら」

と言いかけた時、岩城の胸ポケットから携帯電話の呼び出し音が響き、瞬間、体が揺れ、自然と目線

は隣の男へ流れた。

男は、それを黙殺していた。出るな、ということなのだろう。

静かな車内で、結構な存在感を示す着信音、それは、30秒ほど鳴り、いったん切れた。互いにホッ

としていた矢先、再び鳴り始めた。

「出てもいいか?」

岩城は聞いた。

相手は香藤であることに間違いない。

仕事が終わっているから、着信している。仕事中なら呼び出さない。運転中ならマナーモード、それ

が分かっているから、香藤は繰り返しかけている。岩城が出るまでかけるだろう。

「・・誰だ」

男が聞くので、「香藤だ」と、短く答えた。

そして「俺が出なければ、おかしいと思い、またかけてくるだろう。出ても何も言う気はない」と、

付け加えた。

3秒して、男は「出ろ」と、言った。

岩城は胸から携帯電話を取り出し、着信した。

飛び込んできた香藤の声に、岩城は、先から用意していた通りの答えを口にした。

「悪い、今、車に乗ったんだ・・・・ああ・・いや・・一旦帰ろうと車に乗ったんだが、監督に呼ば

れて・・・置き忘れてた、携帯・・・ああ・・そうだな・・・いや、何でもない・・・そうか・・じ

ゃ、俺も今から帰るから・・・ちょっと監督と話してから帰るから・・・ああ・・・寝てていいぞ・

・・それじゃ・・」

岩城が電話を切り、内ポケットへ仕舞うと、再び車内は元の場面に戻った。

なんとも不思議な感覚だった。

耳に響いた、馴染む声、そこにあった日常と、今、自分がいる非日常・・・いったい自分は何をして

いるのだろう・・・混乱しそうな岩城の頭が、男の声でしっかり現実に引き戻された。

「降りろ」

一言告げると、男はナイフで岩城の脇を押した。

香藤、という保険をとったからには、自分が走って逃げるとも思っていないのだろう。

岩城は黙って車を降り、男が回りこんでくるのを待った。

静かな闇に、ジャリっと、足音だけが不気味に響いた。

立っていると、再び背後を鋭角な先が突っつき、「2階だ・・・その先から階段を上って、つき当た

りの部屋だ」と、声が命令した。

ゆっくりと岩城は言われるままの方向へ足をすすめ、階段を上った。男からは微かに土と埃のにおい

がした。

男に押されながら、つき当たりの部屋の前まで来て、足を止めた。

「鍵はかかっていない・・・開けて入れ」

そう言った男に、岩城は「おい」と、振り向かずに声をかけた。

「いい加減、ナイフは仕舞ったらどうだ。ここまで来て、俺は逃げも隠れもしない。そんな姿、誰か

に見られたら言い訳できないぞ」

背後で男は考えているようだった。

少しして、「変な真似しやがったら」と言いかけたので、「分かってる」と、岩城は答えた。

男がナイフを仕舞う音がした。

岩城は胸で小さく息を吐いた。

とりあえず、一瞬の気の迷いで刺される心配はなくなったようだ。

香藤ならどうしただろう・・・香藤なら、ここで走るか・・・・いや・・・香藤とて同じだろう・・

・俺の名を出された時点で、逃げることは選択肢から排除されただろう・・・そして、もうひとつ・

・・男の言うことが嘘であれ本当であれ・・・そこに存在する理由は、無視をすれば後で自分が苦い

思いに駆られることは分かっていた。

金を奪い取られ逃げられたほうが、まだ、すっきりする。厄介な感情だった。

ドアノブに手をかけると、男が「俺は入らない」と言った。

「俺がいないほうが・・あいつもお前と話しやすいだろう」、男はぼそぼそと、そう続けた。

岩城はドアに手をかけたまま、「名前は?」と、言った。

「名前・・?」

「弟の名前だ」

「・・・・・・庸司」

瞬間、岩城は振り向いていた。

男は岩城から目をそらしながら「偶然だ・・・字は違う」と、言い捨てた。

岩城の心臓がドクンと、音を立てて鼓動した。



ギィッという音と共に外へ開いたドアから中を見れば、そこは6畳ほどの薄暗い、ムッとする、ある

種決して健全ではない空気が立ち込めた部屋だった。

玄関とも言えないスペースに、岩城は靴を脱ぎ、1歩、中へ入った。

背後で、戸の閉まる音がした。

前方に、まさに煎餅布団というにふさわしい1枚の敷布団の上に、同じく薄い1枚の布団をかけて、

弟が寝ていた。

岩城は静かにそばまで行き、上からその姿を見下ろした。

弟は、目を閉じ、まるで死んでいるかのように見え、ほんの僅か掛け布団が上下することで、息はし

ているのだと、分かった。

ゆっくりと枕もとに腰を落とし、片膝を立てたまま、岩城はしばし、その姿を見ていた。

痩せこけた顔は、健康であれば、好感をもてる精悍な顔つきであっただろうと、想像できた。

しかし今は、ただ哀れを買う姿だった。

どうしたものか、と、岩城が、胸に一抹の苦い感情を抱えながら、その顔を見つめていると、小さな

うめく声とともに、重たそうな眼がうっすら開いた。

力のない瞳が、ゆっくりとこちらを向き、ただじっと見上げていた。

何物も写していない、そんな瞳だった。

かさついた唇が小さく動き、「だれ・・・」と言った。

岩城は、立てた膝を直し、正座すると、ひと言名乗った。

「・・岩城京介」

「いわ・・・き・・・?」

「ああ・・・」

「・・・・あの・・・・?」

岩城はうなずいた。

「・・・・君のお兄さんに・・・・お兄さんと・・・ちょっと知りあうことがあって・・・・君のこ

とを聞いた」

「・・・・・・に・・せもの・・・・?」

「・・・本物だよ」と、答えて、岩城は少し笑った。

「・・・・・・・」

弟は、何度か目をしばたかせて、先にある顔を見ようとしていたが、視界も良くないのだろう、岩城

の顔がはっきりと確認できないようだった。

「俺と・・・共演したことがあるんだって・・?」

岩城は、知る知識で、会話を始めた。

「・・・・ん・・・昔・・・・ぶつかる・・・・だけ・・・・」

「ぶつかる・・・?」

「・・・・俺・・・・スリの役・・・・だったから・・・・」

「・・・・そう・・・」

「・・・・岩城・・・・さんの・・・・財布・・・スルだけ・・・」

「・・・・そう・・・・」

「・・・・俺・・・・うまく・・・・ぶつか・・・れ・・・なくて・・・・・・」

「・・・そ・・・う・・・」

「・・・・・何・・・・度も・・・・落としたり・・・・して・・・財布・・・・・」

岩城の頭に、ひとつのシーンが、閃光のように蘇った。

いつだろう、いつごろだろう・・・あれは・・・・連ドラだ・・・・・歩く自分に男がぶつかってき

て財布をスッていく・・・・・そうだ・・・・何度もやり直し、・・・・明らかに男は、岩城に力い

っぱいぶつかることを躊躇していた・・・・・演技はどんどん硬くなって・・・・見かねて俺は・・

・・俺は・・・・・

「大丈夫だよ、もっと思い切りぶつかってきても・・・」

弟を見下ろしながら、知らず、岩城は声にしていた。

はっと気が付き、その後、「・・・って、言ったんだっけ・・?」と、少し可笑しそうに続けた。

それまで、今にも落ちそうだった弟の瞼が、その時、わずかに引き戻された。

そして、小さく、「・・は・・・はっ・・・本物・・・だった・・・」と、口にした。

不確かな現況において、少なくとも、兄が自分に言ったことは事実であった。

赤の他人、1度でもその時間が交わった人間、この差は大きい。岩城の苦い思いが、違う重さで苦し

いものに変わりつつあった。

弟は、少しの間、岩城を認めようと努力しているようだった、が、疲れたように瞼を伏せた。

岩城はそっと、右手を弟の額にあてた。

手に名前があるわけではないが、幻でもない。

「いわき・・・さんの・・・手は・・・・・・・」

か細い声が途切れ、岩城が、何?と、聞いた。

「・・・にいちゃんのは・・・・がさがさ・・・・・・・」

動かぬ表情が、その時僅かだけ笑ったかに見えた。

小さく、ありがと、と、呟くと、弟はそれきり口を閉じ、眠ったようだった。

額から手を引いた岩城は、シンとした中、1分ほど、じっと弟の眠る顔を見ていた。

頭を上げ、部屋をほんの45度ほど視線で追うと、岩城は、目線を自分のもとへ戻し、少し考えてか

ら、腕を上げ、静かに時計を外した。

外した腕時計は、そっと弟の寝る枕の下へ忍ばせた。

財布はバックの中にある。バックは車の中だ。どの道今日は、先に帰った清水へ、ある買い物を頼む

ため現金を手渡した。カード以外残りいくらも入ってはいない。

岩城は、目を閉じた。

30秒ほどして、ゆっくりと目を開けると、ジャケットの右ポケットから薄い10cm四方の箱をと

り出した。

箱をしばし見つめ、思い切ったように包装紙とリボンを外し、それらをポケットに押し込むと、箱の

蓋を開けて、中からメッセージカードを抜き、保証書はそのままに、同じく枕元へ忍ばせた。

胸で「すまん、香藤」と、呟いた。

本当に・・・こんなことを想定していようはずもないが、今年、岩城が選んだ誕生日プレゼントは、

やや値が張るものだった。その上、イニシャルなどの刻印も施していない。

自分はいったい何をしているのだろうか・・・・こんな場所で・・・・こんなことを・・・今、自分

がとっている行動・・・・・それにつける名はあるのか・・・・同情・・・・憐み・・・情け・・・

・・・・そのどれとも違う・・・・・しいてつけるなら・・・・・それは「壁」だ・・・・岩城が絶

対に潜り抜けることができない、壁だ・・・・・・・

岩城は知っていた。自分がある種の弱さを持つ人間だと。

そして、その弱さを、良くも悪くも理解してくれるのが、この世で唯一、香藤である、ということも

・・・・。

きっとお前は、自分の誕生日プレゼントが、帰途の間に消えたことを、まるで何でもないことのよう

に・・・でも、少し悔しがりながら、許してくれるだろう。

香藤・・・・俺はお前に甘えているか・・・・?

たとえそうだとしても、俺は今、こうすることしか出来ない。

岩城はもう一度、弟の顔を見つめ、ゆっくりと腰を上げた。

出口に向かいながら、もう一度、すまん、と、胸で香藤に謝った。




戸を開けると、入るときと同じように、男が立っていた。

ただ、その顔から冷たい威嚇するような空気が消えいていた。

岩城を見て、何か言葉を模索しているようだったが、結局、何も言えず、ただ、黙って目線をそらし

た。

言おうにも、自分のしでかしたことを考えれば、それもなかなか難しいだろう。

気まずそうにしている男の顔をチラと見て、「帰ってもいいか?」と、岩城は聞いた。

ああ、と、短く答えた男は、自分の前を通り過ぎる岩城の背に、小さく「すまなかった」と言った。

岩城は足を止めた。振り向くことはしなかった。

「今日・・・」

岩城の頭に、先ほどの弟が寝ている姿と暗い部屋の様子が浮かんだ。

小さく息を吐いた岩城は、「お前が俺にしたことは許されることじゃない・・・が・・・お前の気持

ちが全く理解できないわけでもない・・・・」と、続けた。

不確かな感情、正解のない好意・・・・返事を待たずに、岩城は階段を降りて、車へと向かった。

乗り込むと、すぐエンジンをかけ、アクセルを踏んだ。

早く香藤に会いたかった。

その思いは、ただ仕事を終えて帰るとき以上のものだった。







寝ているだろうと、静かに玄関のドアを開けると、中から「おかえり〜」と言う明るい声とともに、

香藤がパジャマで飛び出してきた。

そのとき岩城は初めて、自分が先まで、どれほどの状況にさらされていたのかを、実感した。

やや複雑な表情で、黙って突っ立っている岩城を見て、「何??どしたの?何かあった?」と、香藤

がたて続けに聞いてきた。

聞きながら、その腕は岩城の手をとっていた。

握られた手は暖かく、近づいた香藤からは、ソープの清潔な香りが漂った。

その瞬間、岩城の胸にこらえきれない感情が押し寄せた。

さっき自分がいた暗い部屋、湿った空気、手に触れたヒンヤリと生を感じない感触、それら全てが、

あまりに悲しすぎた。

「ほんとに・・・どしたの?岩城さん・・・仕事で何かあった?」

読めない表情に不安な声で問いかける香藤、それに岩城はしっかりと顔を向け笑顔を送った。

「いや・・・何でもない・・・こともないが・・・まぁ・・・上で話す」

自分が越えられなかった壁について、香藤の誕生日プレゼントを手放した自分の弱さについて、全て

を包み隠さず話してしまいたかった。

岩城は靴を脱ぎ、フロアに上がると、自然に腕が香藤の体を抱きしめていた。

抱きしめながら、「会いたかった・・・お前に・・・とても会いたかった・・・」と言った。

訳がわからず腕に収まったままの香藤は、それでも「うん、俺もすごく会いたかった」と答えた。

「誕生日おめでとう」

小さくつぶやいた言葉は、愛する者の、その日を再び迎えることができた喜びに震えていた。

そんな普通のことが、どれほど恵まれた普通であるかを、改めて岩城は思わずにいられなかった。





比類 真
2009.06