翡翠

 それは、忙しい二人が、そんな時間の中でも何とか時間を捻出して、二人で行った小旅行での出来事がきっかけだった。

 旅館の夕餉の食卓の際にあった、翡翠で出来た盃。
 この旅館のそれを、香藤はとても気に入った様子だったが。
 国産翡翠はただでさえ産出量が少ない上に、採取不可能となる指定地域も多く、まだらも濁りも殆ど無い、鮮やかな色を醸し出していたそれと同じような盃は、普通には入手する事はかなり難しいらしい。
そう言った宿の女将の言葉に香藤は、本当は欲しいとこだけど、それじゃ仕方が無いね…と言いながら、名残惜しげにそれを眺めていた。

 ただそれだけの事だったが、何故かその事が岩城の胸の中に、すとんと居座ってしまっていた。
 だから、何となく機会がある毎に、あれと同じもの…とまではいかなくとも、せめて似た感じのものがあったら…とか、そんな事を思っていた。
 そして…。

 今、自宅のダイニングテーブルの上に置かれていたのは、それとほぼ同じ様な翡翠の盃。
 ただそれは、少し小振りなものではあったが、色合いなどは十分あの翡翠の盃に匹敵するものだと思われた。

 きっかけは、撮影で出かけた先の、ほんのちいさな事だった。
 取材先で、その土地の歴史とか、撮影にも関係する事でもあるそういう事に触れる機会が多く。
 そして、その話の延長で翡翠の話になった時に、あの盃の事を思い出して聞いて見たりしたのだが。
 …無論、戻ってきた返事は、かつて旅館の女将が言っていた事と同じだったが、今回はそれに少しだけおまけが付いていた。
 石の大きさの関係で商品にはならないものの、いわゆる規格外のものであれば、もしかすると工芸場の方にあるのでは無いだろうか? その話が聞けた事も、そして…撮影の合間に、話を聞いた時に所在を聞いておいた工芸場へと行き訪ねた処、偶然にもそれがあった事。
 多分、それは運が良かったに過ぎないのかも知れない。
 しかし…『今日』という日にそれがここにあるという事、それは例え偶然でも強運でも、とてもありがたい事だし自分にとっても嬉しい事だと岩城は思っていた。

 そう、今日という日。
 6月9日という、自分にとってはとても重要な1日に。

 ふと、その盃を見ながら、まだ香藤とこういう関係になる前の自分の事を思い出していた。
 というか…あの頃の自分は、誰かの誕生日をこんな風に祝う事など、想像もしていなかったのではないかと思う。
 自分の夢を叶える為に上京し、壁にぶつかる日々を送り、そしてそれは…自分の心の中から少しずつ何かをすり減らしていくような…そんな時間を過ごし。
 今の自分と比べれば、その違いは自分自身で歴然と感じる事。
 そう…まるで掘り出したばかりの角の荒い翡翠の原石が加工を経て、このような見事なまあるく暖かな色合いと優しさを醸し出す盃となるように。
 そんな変化に近いのでは無いだろうかと思った。
 だからだろうか…。何となく、この盃の存在は、まるで自分を映し出しているようなものだと感じてしまうのは。
 あの時、香藤が欲しがったこれを手に入れてやりたいという気持ちが、ぽんと自分の中に居座りそして、住み着いてしまっていたのは。
 勿論、自分にこの貴重な品物と同等の価値があるのかなどという事は二の次だとして。
「…大した職人だよな…香藤は」
 そう呟き、テーブルの上の盃を手に取り眺めつつ、微かに岩城は笑い声を零す。

 その当の『職人』…香藤は、どうしても空けられない仕事のスケジュールが入り、まだ自宅に戻っていない。
 とはいえ、泊まりでは無いので、夜には戻ってくるはずだ。
 だから、その前に岩城にはまだしなければならない事が残っている。

 折角手に入れた最上級の盃。
 それに見合う酒も用意していた。
 あとは、それに合う肴…。
 基本的に、この家でキッチンに立つのは香藤の方だ。
 だが、現在そのキッチンの冷蔵庫で眠っている新鮮な魚は今日の朝、それこそ刺身にする為に手に入れた鮮度も抜群な魚。
 その為に密かに、仕事の合間に魚の下ろし方だけは主婦でもあるマネージャーの清水に教わっていたのだ。
『鯵ぐらいでしたらともかく、いきなりカレイの5枚下ろしは難しいのでは…』 とか苦笑いと共に言われてしまったりもしたが。
 とにかく、香藤が帰ってくる前に、その作業も終えてしまわなくてはならない。

 果たして、帰ってきた時に香藤はどんな顔をするだろうか…? あの盃の事は、本人も覚えていないかもしれないのだが、それでも少しでも喜んでくれたら、それだけで嬉しいんだが…とか思いながら、盃をテーブルに戻すと岩城はキッチンの方へと足を向けるのであった。


'07.6 こげ





※翡翠の盃・・・いいですねv
それとお酒と肴・・・・そして何よりも岩城さんが一緒・・・
それが何よりのお祝いなんですよねv
さて岩城さんの肴作りは上手くいったのでしょうか?
こげさん、素敵な作品をありがとうございます