6月の声を聞いて1週間ほどが経った日の夜。 香藤は、ここ数年の約束事のように休日として確保してもらった翌日のことをあれこれ考えては知らず知らずのうちに口許に微笑を浮かべつつ、金子の運転する車で帰宅した。 「それじゃ、明後日の朝10時にお迎えにあがります。よいお誕生日を、香藤さん。」 「ありがと、金子さん。気をつけてね。じゃ、明後日。」 「ただいま、岩城さん。…って、あれ?」 いそいそと扉を開けて覗き込んだリビングには、穏やかな微笑と共にお帰りと声を掛けてくれる筈の艶やかな黒髪は見えなかった。 「明かりがついてるのに…岩城さん?…帰ってるんだよね…どこ?」 呼びかけているような独り言のような、中途半端な言葉を口にしながら、香藤は最愛の人の姿を求めて家の中を歩き回り始めた。 「岩城さん?かくれんぼしてるの?」 「どこー?俺、帰ったよぉ。」 「何でいないのー?」 いつの間にか唇の両端が下がり始め、香藤はべそをかき始める直前の子供のような表情になってきた。 「岩城さぁん!」 姿が見えないだけで確かに人の気配は感じられる。いる筈なのに見つからないという状況に、不安や焦燥や苛立ちの入り混じった複雑な心境になってきた香藤は、半ば自棄を起こしかけていた。 こんなとこにいる訳ないじゃん、と自分で自分に突っ込みを入れながら、実際に普段岩城の姿を見かけたことのない場所に足を向け始めた。 そして、そんな所を探し始めて3箇所目。 「何でこんな所にいるんだよぉ。俺、家中探しちゃったよ〜。」 ずっと見つけたかった黒髪をやっとのことで視界に入れた香藤は、いささか涙声になりながら、黒髪の主に訴えかけた。 「あぁ、お帰り、香藤。そうか、もうそんな時間だったか。」 振り返ってにこりと微笑む岩城。 「そんな時間って、岩城さん、俺の帰ってくる時間知ってたんだよねぇ。」 「あぁ。こっちに夢中になって気がつかなかった。悪かったな。」 「もう〜、びっくりさせないでよ〜。」 自分の焦りや不安とは全く反対側にある、極々穏やかな表情で告げてくる岩城に、香藤は繰言のつらつらと並べ立ててやりたかったが、兎に角無事な姿を目にできたことと、本当に何かに夢中になっていたせいだったらしいことは分かったので、ひとまずは、しゃがみこんでいる岩城の肩に仔猫のように額を擦り付けて甘えることで満足することにした。 「こんな所にいるなんて思わないよ〜。もう〜、心配しちゃったじゃん〜。」 年下らしく素直に甘えながら文句を言って寄こす香藤の髪に、そっと岩城は頬を寄せ、撫でてやる。 「すまなかったな、香藤。」 「ホントだよ〜。もう、こんなわかんない所にいるからだよ…って、ここで何してたの?」 ふと浮かんだ疑問に、ついと顔を上げて岩城を見つめる。 すると岩城が、香藤の視線から逃れようとするようにふと視線を逸らした。 が、すぐに香藤を見つめ直し、少しだけ困ったように微笑んだ。 「何?」 「いや、俺は隠し事は下手だからな。下手なことをして話がややこしくなるのも嫌だし、もう、この時間だからいいか。」 「何なの、岩城さん。」 謎掛けのような岩城の言葉に焦れた香藤が、すぐ隣にある岩城の腕を掴んで軽く揺する。 岩城は、掴まれたままその腕を伸ばして自分たちの前の地面をそっと指し示し、香藤の視線がそこへ向くのを待った。 窓ガラス越しに届く柔らかな明かりに照らされたそこには、光沢を帯びて丸みのある独特の形をした緑色の葉と、その葉に隠れるように幾つかの小さくて白い花がころりころりと丸い形を見せていた。そして、その葉も花も、大地に植え替えられて初めて与えられた水を、きらきらと輝く煌きにして身に纏っていた。 香藤は、その、一般によく知られた植物を見つけ、じっと見つめる。 そして、ややあって、あ、と声を出した。 その香藤の反応を見て、岩城が優しく微笑んだ。 「わかったか。」 「…う…ん。でも、これ、本当にそうなの?」 「あぁ、そうだ。懐かしいか?」 「うん。懐かしいなぁ、確かにあった、あった、うちの庭に。あんまり目立たない所だったけどね。」 「お義母さんが育てていらっしゃるんだろ。」 「うん。何だっけな、北海道にいる友達が送ってくれたとか言ってたっけ。千葉でも、北向きの日のあんまり当たらない所なら育つかもって言われて試したんじゃなかったかな。で、見事に育ってたよ。」 実家の裏庭にそっとその花が植えられている様子を思い浮かべる香藤の表情がとても優しいものになった。花への思いと、その花を大切にしていた母への思いがそうさせている。 その香藤を見て、岩城も更に表情を和らげた。 「おまえ、結構好きだったんだろ、これ。分けていただく時にお義母さんに伺ったよ。」 「そだね。だって、何かさぁ健気じゃん。日当たりの悪い所でも一所懸命に育って、こんなに可愛い花を咲かせるんだよ。」 香藤はそう言いながら手を伸ばし、小さな白い花を指差した。 「そういうのに弱いんだよな、おまえは。」 香藤への愛しさに満ちた表情でそう言って微笑む岩城の言葉に、香藤は何となく照れ臭くなって伸ばしていた指を戻し、鼻の頭を掻いた。 「へへ。でも、何でまた、岩城さん、これを?」 指先を動かしながら岩城を見てそう尋ね、彼の顔に浮かぶ優しい表情を目にした香藤の表情がみるみる明るくなった。 「…あっ!」 「1日早くなってしまったな、これじゃ。」 込み上げてくる嬉しさと岩城への愛しさに晴れやかな表情で瞳を輝かせながら、本当に嬉しそうに、にっこりと香藤が微笑んだ。 その微笑を目にして、岩城の顔にも満足そうな笑みがゆっくりと広がる。 「おれも、たまには、おまえが好きなものや大切にしているものを贈ってやりたいと思ったんだ。」 そう言って、当に家の裏というべき北側の庭の片隅に並んでしゃがみこんだまま、岩城が隣の香藤の肩にそっと黒髪を凭せ掛けた。 「いつも、おまえはおれの誕生日に、おれが喜ばずにはいられないようなものを贈ってくれるだろう。」 「そっか。」 「でもさ、鈴蘭って、姿はこーんなに可憐だけど、実は毒なんだよね。」 「あぁ、だから気をつけないとな。」 「それって…。」 岩城の真面目な声に、一瞬置いて香藤がくすりと笑いを漏らす。 そしてそのまま、小さく肩を揺らした。 「何だそのくすくす笑いは。」 「だって…。」 俯いて肩を揺らしている香藤を見て、岩城はその理由に容易に思い至った。しかし、いつものように呆れの滲む口調で文句を言いはしなかった。 「じゃあ、折角だから、おまえのその笑いをもっとひどくしてやろう。」 「え、何?」 「この花の別名を知ってるか。」 思いがけぬ岩城の反応と予期せぬ質問に、香藤が目を丸くする。 「え?何、それ。知らない。」 問いを投げた岩城は、ほんの少しだけ視線を逸らして言った。 「“君影草”だ。」 「うわぁ、何かロマンチックだねぇ。…あれ?何変な顔してんの?まだ何かあるの?」 「もう一つある。」 「なになに?」 わくわくと目を輝かせている香藤の視線を受けながら、岩城は再び、今度はまた別の方向へ視線を逸らし、呟くような小さな声で言った。 「…“谷間の姫百合”。…っ!こら!危ないだろ。いきなり抱きつくな!」 「だって!もう、岩城さんそのものじゃん!」 「…そう言うと思った…。だから言うのがイヤだったんだ。」 「でも、ちゃんと調べてたんでしょ。」 「あぁ。おまえが好きそうだからな。」 「うん、大好きだよ、そういうのって。勿論、岩城さんもね。」 「馬鹿…。じゃ、ついでに花言葉だ。よーく聞けよ。」 「うんうん。何、何?」 「意識しない美しさ、純粋、純潔、幸福が訪れる、だそうだ。」 「岩城さん!もう!」 「…。」 「岩城さんそのものだ。…おれがこの花を好きだったのは、運命だったんだね、きっと。岩城さんに出会って大好きになることを暗示してたんだ。」 そう言いながら、香藤は岩城を抱き締める腕にもう一度力を込めた。その運命のもたらしたものを確かめるように。 「香藤…。」 岩城も、香藤のその運命に感謝を捧げたい思いを抱きながら、香藤に身体を預けた。 「ありがと、岩城さん。すっごく嬉しい。本当に、すっごく嬉しいプレゼントだよ。」 「喜んで貰えてよかった。…1日早いが、誕生日おめでとう。」 香藤の腕に包まれながら、岩城は最愛の人の瞳を見上げて告げた。 微笑みながらそれを受け止めた香藤は、しっかりと岩城を見つめ返す。 「うん、ありがとう。」 そのままいつものように唇を重ねようとして、ふと屋外にいることを思い出した二人は、どちらからともなく忍び笑いを漏らした。 そして、絡めた視線で“続きは家の中で”と交わすと、揃って立ち上がり、健気に可憐な花を咲かせている鈴蘭に小さく「おやすみ」と告げた。 ごく自然に手を繋いで家の中へ向かう二人を、小さな白い花たちが香しい香りを振りまきながら、見送っていた。 二人の幸せ振りを囁き合っているかのように、吹き抜ける微かな風に揃って細かく揺れながら…。 2007.06 翔子 |
※もう、どうしてくれよう!というくらいラブラブなおふたりにわふわふv
本当に優しく甘い場面です〜
鈴蘭と共に岩城さんの気持ちの籠もった別名&花言葉ももらった香藤くん
本当におめでとうございますv
翔子さん、素敵な作品ありがとうございます