小さな手のひらが掴んだのは、5つ星てんとう虫だった。てんとう虫は小さな手の上をぐるぐると回りながらも飛びそうで飛ばない。まるで手のひらを遊び場にしているようだ。一旦手の甲に回ったてんとう虫が、再び手のひらに戻ってくると、小さな手のひらは容赦なくそれを掴んだ。
小さな手が慎重な面持ちで、てんとう虫を掴んだグーの手を虫籠に入れた。そしてようやく手を広げた。てんとう虫は2、3回羽をバタバタさせて小さな手の拘束から逃れると、ようやく籠の中で居心地のよさそうな側面に止まった。

籠の側面を歩き出したてんとう虫をじっと眺めるつぶらな瞳。

―まだまだ足りない。虫籠いっぱいの虫を東京に持って帰るんだ―

黄緑色、緑色のピンク色の小さな虫籠には、カブトムシ、クワガタ、カマキリ、てんとう虫、名前のわからない綺麗な蝶も・・・。極ありきたりな虫が都会ではデパートで買わないと手に入らない代物になっている。軽井沢の自然の中では、ちょっとした林や森に入ると安易に見つけることが出来る虫たちだ。

今年小学5年生の香藤洋二が父親の会社の保養所がある軽井沢に初めて来たのは、小学4年生の夏、今年で2度目になる。
大手企業の保養所が立ち並ぶ旧軽井沢に近いこの場所では、ちょっと外に出ただけで都会ではなかなか出会わない様々な虫たちと出会える。そんなわけで夏休みの宿題の一つである昆虫観察が楽しく出来た。しかし今年の目的は少し違っていた。
今年も洋二の父の会社の家族と一緒に泊まりに来た。谷作治は父洋一の同僚で、親友である。時々香藤家に夜酔っ払った谷が泊まりに来ていた。酒を飲んでも谷の人の良い温和な性格は変わらなかった。
昨年も谷の家族と一緒に来たが、今年は谷の長男光治はいなかった。決して遅い結婚ではなかったが子宝になかなか恵まれない谷夫妻にとって、5年の不妊治療を受けての念願の長男の誕生だった。その後は一女に恵まれて仲睦まじい4人家族であった。
幸せな家族に暗雲が広がったのは、この春のことだ。長男光治が急に発熱し寝込んだ。単なる風邪をこじらせたのかと思ったが、なかなか熱が下がらない。しかも手足の節々の痛みを訴える。いろいろ検査した結果、若年性の白血球の異常であることがわかった。だから今回作治は、長女の絵里と二人でやってきた。妻の真紀は、光治の付き添いで病院に残った。
作治が病気の長男を置いても今回旅行を決行したのは、光治の経過が余りよくないため、光治の好きな昆虫を捕って少しでも元気を取り戻して欲しいという気遣いだった。
今回の旅行で洋二は、光治に見せるための昆虫を採集していた。光治は小さい頃から無類の虫好きでファーブル昆虫記を読み漁り、昆虫をスケッチし、昆虫採取も同じ年齢の子供たちよりも膨大なコレクションを持っていたのだった。夏休みには昆虫採集することが光治の最大の楽しみだった。
春先に身体を壊してから、光治は入退院を繰り返していた。やがて集中して治療をしようと都内の大学病院に入りなおしたのは6月中旬。それから1ヶ月経った今も退院のメドがつかない。

「蛍?あの体が光るやつ?」
保養所の掲示板に蛍が見られる川辺の告知が出ていた。6月から蛍の散策をイベント化している。蛍の住める水質にするための環境問題がメインテーマになっていた。
「そうだよ。この前銀座のソニービルのところで見ただろう?」
洋一は、作治に銀座の一角のイベントスペースに本物の蛍が設置されたのを見に行った話をしている。
「あ〜あれね。見たけど。あれは本物の蛍じゃないよ!」
すげなく洋二は答えた。
「おいおい、あれは本物だぞ? だから話題になったんじゃないか、銀座の一等地に本物の蛍が来たって」
「だって、本物の蛍は、箱の中に住んでいるわけないよ、だからあれは、嘘っこ!」
「ハハハ。確かに箱には住まないな」
「本物の蛍か〜。見たいな〜。本物の蛍って、捕れるの?」
作治が笑いながら手を横に振った。
「無理だよ。いや、取れなくはないけどね、でも・・・飼育は無理じゃないかな・・・綺麗な水辺じゃないと、きっとすぐ死んでしまうよ」
「でも光ちゃん、きっと見たことないよね?蛍」
「そうだな、光治もちっちゃい頃、うちの田舎で蛍がいる場所に行ったけど、小さすぎて記憶ないだろうな・・・」
「じゃあ、きっと蛍持って帰ったら喜ぶよね?」
「洋二、病院に虫は持っていけないだろう」
「夜さ、こっそり持っていくよ!!そうしたら見られるじゃん? どうせ暗くないと光らないし」
夜なら大丈夫かもしれない、と苦笑しながら作治が答えた。しかし、病院には生きた虫は持って行けないだろう、と洋一はつぶやく。
「ちょっとだけ、ちょっとだけだから!光ちゃんに見せてあげたいんだ、蛍」
掲示板のチラシの蛍の絵を指差しながら語る洋二に、二人の父親はしぶしぶ了解した。





「今日はどうする?運転」
ボストンバックをメルセデスのトランクに入れながら、香藤が言った。
「そうだな、はじめは俺が運転するよ。そのうち替わってくれ」
「オッケー!伊豆まで一人じゃ大変だもんね。いつでも替わるから言ってね」
天現寺から高速に乗り約3時間。結局岩城は運転を続行し香藤に運転させないまま伊豆に来ていた。
すれ違いの日々が続いていたので、車中でお互いの現場の話や、漏れ聞こえてくる冬蝉のスタッフの近況などを話しているうちにあっという間にホテルに着いてしまった。

今夏オープンする伊豆湯ヶ島の渓谷沿い建つ高級ホテルに招待されたのはインタープロの社長だった。しかしスケジュールが合わないので今回岩城に譲られた。プレビュー料金で泊まってもらう期間の滞在中、ホテルの施設やサービスについて、忌憚なく意見を聞かせて欲しいというもの。プレオープン2ヶ月前から、ホテルライフになじみのある有識者や著名人など一部の関係者だけが特別に宿泊していた。スイート仕様で各部屋露天風呂がついているのでプライベートも確保されるし、一般客はいない。香藤と一緒に休みが取れるなら・・・という条件で岩城は快く譲ってもらうことにした。
ホテルに着くとすぐにベルボーイらしき男が二人現れた。
「岩城様ですね、アルカナ イズ へ ようこそ」
「お世話になります。駐車場は?」
するとベルボーイの一人は、二人に車を降りるように促し、メルセデスの運転席に速やかに座ると駐車場に向かった。もう一人は、二人のボストンバックを持ってフロントに案内した。
「岩城様ですね、ようこそお越しくださいました。お部屋の準備が出来ておりますのでご案内いたします」
90平米のスイートルームは、落ち着いた木と石と大きな窓ガラスでできたシックなレイアウトである。北欧風の家具が大人のリゾートといった雰囲気を醸し出している。大きな窓ガラスからは、落葉樹の葉が生い茂り、少し離れたところに渓谷が見えた。茶とベージュのインテリアが大きな窓から見える自然の風景を邪魔しないコーディネートである。
「シンプルでいい部屋だね」
「そうだな。これなら落ち着いて本が読めそうだ」
「えー!?2泊するんだよ? 本読んでばかり読まれると・・・俺寂しいんですけど・・・」
「ははは。分かった、分かった・・・。なるべく集中しないようにするさ」
「本当かなぁ・・・。岩城さん、本読み始めると夢中になって食事も忘れちゃうことあるからさ、不安なんだよね・・・」
山奥のホテルだが駿河湾や相模湾の海の幸も用意され、もちろん近隣の山や里で採れた野菜も手に入る。このホテルの最大の売りは、静かな渓谷沿いのコテージと、レストランにはメニューがなく、その日の仕入れた素材をシェフと相談しながら作るという料理だった。土佐湾に次ぐ日本第二位の豊かな漁場、駿河湾の魚が自分の好みの調理法で食べられる。ある意味、食材に力を入れているこのホテルの一番とも言える売りである。
荷物を置くなり香藤は、メニューの打ち合わせがしたい、と申し出ていた。
「じゃ、行ってくる、レストラン。岩城さん、今日はお魚、肉、どっちがいい?」
「そうだな・・・じゃ、新鮮な旬の魚が入っていたら魚にしてくれ。あとはお前にまかせるよ」
「わかった。魚だね。じゃ、行ってくる!」
香藤が部屋から出ると岩城は、大きな窓の前に立ってみた。
おそらく谷を切り開いて作られたであろうこのコテージは、まるで人間の方が自然の中に闖入者として佇んでいるようにも見えた。プリミティブな自然界の際どい部分に差し掛かりながらも、上品さを失わない佇まいは、景観と室内から見えるレイアウトを充分考慮した建築家の見事なデザインだった。
しばらく窓辺に立ち尽くしていたが、ガラス越しにデスクの上のチラシが見えた。
近くの川で野生の蛍が生息しているらしい。地元の人の尽力でここ数年その数が増えているという。
蛍といえば岩城の地元には蛍の生息地が多く、近所の田園でも見られた。新潟の温泉地で蛍が有名な岩室温泉にも何度か足を運んでいた。
見ごろの時期になると夜ご飯を早く食べて、兄に連れられて近くの田んぼに見に行ったものだった。
「懐かしいな・・・」
思わず溜息が漏れた。
すると、レストランで打ちあわせを終えた香藤が帰ってきた。
「魚、あったよ。サワラがあった。でももうシマアジが来てたからシマアジを中心にしちゃった。あとアジも。何故か明石産のタイも今日入ったんだって」
「そうか。すまないな」
「アジは朝ごはんにしたよ。だから今夜はシマアジとタイだよ」
香藤は岩城のそばに近寄ると岩城を抱きしめようとして、岩城の手元のチラシに気が付いた。
「なあに?これ・・・」
「この近くで蛍が見られるらしい」
「・・・野性の蛍?・・・いまどき珍しいね」
「行ってみないか?小さい頃兄貴とよくこの時期見に行ったんだ。懐かしいよ」
「俺も昔観たことあるよ?親父の会社の保養所の近くで。都内でも見たけど箱の中に入っててさ、味気ないの!」
「そうか、やっぱり千葉は都会なんだな、千葉じゃ見られなかたか?」
「いや、房総半島の方行くと見れたみたいだけど、房総はサーフィンやるために早朝行くことが多くて・・・」
「そうだったのか」
「何時から?蛍が来るの・・・」
「7時前から8時がピークだって」
「よし、岩城さん、行こう!俺、夕食の時間、6時半ぐらいに終わるように頼んでみる!」
香藤はディナー時間を早めてもらうため、早速受話器を取った。





保養所のフロントで掲示板にあった蛍が見られる川辺の告知のチラシをもらうと、洋一と作治は、洋二と洋子、絵里を連れて蛍見学に出かけた。中軽井沢の三井の森近くに車を走らせ、ホタルの里に向かった。
ゲンジボタルが多く発生するという三井の森付近は、ゲンジボタルとヘイケボタルの両方が発生する場所だ。
夕方6時に出発して8時に戻ってくる予定である。いつも午後7時に設定されている夕食だが蛍を見るから、と午後8時からにしてもらった。
洋二は野生の蛍が見られることで興奮気味だった。チラシによると群生する蛍が見られるという。ソニープラザのイベントで見たのも数はいたが、昼間なのであまり光っていなかった。洋子と絵里は、夕食が遅くなったこと、観たいTV番組が観れらなかったことで少し不服そうだった。
「洋二、足場が悪いんだから、ふざけないで歩け、気をつけろよ」
「分かってるよ、大丈夫!」
肩から空の虫籠を提げ、小さな懐中電灯を手に洋二は一人先頭をきって歩いていた。洋一は双眼鏡を首から提げ、肩にはカメラを下げていた。作治の手にはビデオカメラがあった。カメラもビデオも洋二の夏休みの宿題のためであり、残念ながら今日来られなかった光治に見せるための準備だった。
すぐ下の川面を眺めながら洋一が言った。
「そろそろ時間だな」
次第に暗くなりかけたその頃、一匹の蛍が確認できた。
「あ、あそこにいる!」
洋二が指差す先に一匹の蛍が草むらに向かって飛んできた。すると次第に二匹、三匹と現れ始めてきた。
「わあ〜キレイ〜!!」
「凄い!!光ってる!!」
さっきまであまり乗り気ではなかった洋子と絵里も盛んに声を上げ始めた。
洋二はしばらく一匹の蛍の光の行方を追っていた。しかしそのうちに沢山の蛍が飛び交い、自分が追っている蛍を追い続けることは困難になっていた。次第に無口になる洋二に洋一は不思議そうに顔を覗き込んだ。
「どうしたんだ?さっきまではしゃいでいたのに」
「お兄ちゃん、怖くなったんじゃないの?」
洋子が面白がって絡んできた。
「そんなんじゃないよ! 怖いことなんかあるもんか」
洋二はこれまでの人生で観たことのない光景に戸惑い感動していた。決して強い光ではないが、この独特の光が不思議な気持ちにさせていることを実感していた。
呆然と立ち尽くしていた洋二の足元から一匹の蛍が上がってきた。洋二の身体を気に入ったかのように旋回しながら上がってくると、手のひらにポツンと止まった。手の中の蛍はゆっくりとまるで呼吸をするように点滅を続けた。するともう一匹の蛍がその光に引き寄せられるようにやってきて、やはり洋二の手のひらに止まった。
「洋二くん、すごいな。蛍は君の手のひらが好きみたいだね!」
作治が驚きながらゆっくりと洋二の手のひらに顔を近づけた。作治は急いでビデオを回し、洋二の手のひらを撮影し始めた。洋一もカメラを取り出して急いで撮影しはじめた。

「お兄ちゃんの手のひらが好きなんだ〜私のトコにも来ないかしら!」
洋子も便乗して手のひらを出してみる。が、なかなか蛍は近寄ってこなかった。
洋一も洋二の手のひらに顔を近づけると、
「このままつかめそうだな」
と言った。
洋二もそんな気がしてきた。意を決してゆっくり手をグーにしてみると、安易に蛍は洋二の小さいグーの手に収まった。
「信じられない!もう捕まえちゃったよ!!」
作治が叫んで絵里に、ほらほら観てご覧、と洋二の手に顔を近づけるように促した。
「このまま虫籠に入れたら入っちゃうかな・・・」
不安そうに洋二が父親に尋ねた。
「そうだな。やってみるか?」
洋一は、洋二の首から提げられた虫籠の蓋を開けると、慎重にその蓋の入口に洋二の手を近づけさせた。父に促されて洋二は籠の中にゆっくりとグーの手を片方ずつ入れて手をパーにした。パタパタと羽が籠に当たる音がして、側面と底辺に身構えた二匹の蛍が、捕まえる前と同じように点滅を始めた。
「よくやった!でかしたぞ!!洋二」
「すごい!!捕まえたな〜洋二君」
洋一も作治も洋二の健闘を讃えた。まさか本当に野生の蛍を捕まえられるとは思ってもみなかった。あっけない捕り物に一番驚いているのは洋二だった。虫籠に入った様子を確認した洋一は、再びしゃがんで洋二の目線になった。
「さあ、捕ったはいいが・・・この蛍はここが住処だ。本当に東京に持って帰るわけには行かないだろう」
「えっ!?」
「パパは返すべきだと思う。洋二は本当に持って帰りたいのか?」
「・・・。」
洋二はどう答えたらいいかわからなかった。ただせっかく捕ったのだから・・・その気持ちが洋二の心を支配していた。意を決して洋二は父に尋ねた。
「パパ・・・。ダメかな・・・せっかく捕ったんだよ?光ちゃん、喜ぶよ!」
「それはそうだが・・・。」
洋一は作治と顔を見合わせた。作治は何とも言えない、といった風だった。しばらくして作治は重い口を開いた。
「香藤、預からせてくれないか。俺が責任を持ってまた戻しに来るよ」
「また戻ってくるのか?大変だぞ?半日かかるぞ?病院にも居てあげたいだろう?」
「いや、光治もきっと喜ぶよ。洋二君が捕ってくれた蛍だと聞けば余計に喜ぶだろう」
後のことは任せてくれないか?と作治に詰め寄られた洋一は、子を持つ父の気持ちとして作治の思うことも分からなくもなかったので、考えた末、了承した。

その後しばらく散策して蛍の飛び交う様子や交尾の様子を観察し、予定通り8時10分前には保養所に戻ってきた。
保養所に戻ると事務の男性に蛍を捕まえた経緯を話して、決して故意ではなかった旨を説明した。その上で、作治が自分の息子の事情を話した。明日持って帰って病院で見せたら、すぐにまたこの地に戻しに来る、と約束して、2日だけ作治が蛍を預かることになった。
餌についてはどうやら成虫なってしまうと、1、2週間生きて光を放って、交尾するがその間何も食べないという。水だけは気をつけてといわれた。思ったよりは神経を使わなくても済みそうだと、洋一と作治は安堵した。





夕食は、期待通りに素晴らしかった。素材にこだわる地元生産者のつくるオーガニック野菜は、どれも食物のパワーを感じさせる素材の濃い風味が感じられ、岩城も香藤も舌を巻いた。
そしてこの山間で食するにはあまりにも新鮮な魚は、岩城に地元新潟の海の幸を思い出させ、実に和ませた。
「もし、いろいろ召し上がれるなら・・・」
とソムリエの勧めで、お酒は日本酒とワインの両方が用意された。食前酒はオーガニックの梅で作られた梅酒、刺身を梵の5年もの大吟醸酒「夢は正夢」、魚のサラダとグリルは、白のルフレーヴの04年、最後に少しだけ出された地元の牧場の牛のフィレ肉にはオーパスワンの92年が当てられた。
ダイニングのロケーションも素晴らしかった。蛍見学のために、まだ明るい5時過ぎからセッティングされた夕食だったため、ダイニングの大きな窓からは木々の隙間から夕日が差し込み、刻々と変わる美しい初夏の夕景を眺めることができた。

川の向こう側に地元の案内人がツアーを組んだグループを案内していた。川の説明と蛍の生態系について語っている。
夕方6時半過ぎ、岩城と香藤は、ホテルのコンセルジュで訊いたとおりの道を進んだ。人通りが少なく観光客にもわかりやすい散策路だった。二人が他の観光客になるべく遭遇しないよう、こんなところにもホテルの心遣いが感じられた。
細い石が敷き詰められたその散策路を進んでいくと、一匹、二匹と蛍が次第に現れてきた。すぐ左側には渓谷のせせらぎが聞こえた。
「出てきたね!蛍」
「そうだな、そろそろピークになるかもな」
「ゲンジボタルかな?」
「ゲンジボタルもいるが、ヘイケボタルもいるぞ?体長が違う種類が何匹か飛んでる・・・」
「岩城さん、さすが詳しいね!」
7時少し前になると蛍の数がだんだん増えてきた。あたりは大分暗くなっていて、向こう岸から子供のはしゃぐ声が聞こえるが、向こう岸からは、木陰という場所柄もあって顔が判別できないほどになっていた。
「わあ〜。・・・こんなに沢山!!凄いね、岩城さん」
「ああ、凄いな!俺の地元にもこんないたかな」
岩城と香藤は、あまりの幻想的な光景にしばらく呆然と立ち尽くしていた。
水面すれすれに飛び交う美しい黄緑色の光と白い光・・・。繁殖を目的とした光のダンスは、一週間食べることもせずひたすら交尾のために飛び続ける。そして卵を産んでその生涯を全うする。そんな一途な蛍の生き様がとてもいじらしく思えてきた。昔小さい頃、蛍を見たときにこんな気持ちになっただろうか・・・。

岩城と香藤の美しいシルエットが、ほんの少し草むらに隠れた。その瞬間、どちらからともなく互いの身体を引き寄せて唇を合わせた。合わせた唇が少し離れると、一瞬、二人にしかわからないほど小さな熱い吐息が漏れ、再び唇を合わせることに集中した。
時折、蛍が二人の周辺を飛び回り、頬の辺りをやわらかく照らし出した。うっすらと目を開けた香藤が、蛍の柔らかい光に照らされた岩城の顔を眺めた。
「岩城さん、綺麗・・・」
香藤が熱い吐息の隙間でそう呟いた。

ホテルの部屋に帰ると、香藤はすぐに岩城を求めた。
「さっきお風呂に入ったから、いいよね? 今はこのまま抱かせて・・・」
強引ではないが力強く的確に岩城の一番感じる部分に唇を這わせる香藤の熱に、岩城はされるがまま香藤の欲望の熱に犯された。
香藤は岩城の興奮に自分の高まりを合わせるように、ゆっくりと攻めていった。岩城が快楽に研ぎ澄まされたとき、小さな声で、カ、トウ、と呼ぶと、香藤はすかさず岩城の手を取り握り締めて唇をふさいだ。
岩城のしなやかな両脚が香藤の腰にまとわりついた時、香藤は岩城の中にゆっくり挿入した。甘いうめき声に誘われるように香藤は、岩城をベッドに縫いつけるように何度も突いた。絶頂の瞬間、岩城の内腿が震え呼吸が凍りつくと、香藤は岩城の最奥に自分を埋め込んでうめき声を上げ、岩城を抱き寄せながら全身を震わせて果てた。





「本物の蛍!?本当なのパパ!!」
電話越しに作治が笑いながら頷いた。久しぶりに聞く元気な息子の声に作治の頬も緩みっぱなしだ。
「明日持って帰るよ。但し、野生の蛍だ。すぐに元に戻さないといけないよ?」
「うん、分かってる!!ありがとうパパ!!」
弾むような声でさようならを言う息子の声を久しぶりに聞いた作治だった。

翌日午前中に出発して帰京した。さすがに夜の病院に蛍を持っていくことは出来ない。昼間しかいけないが、息子には光る蛍を見せなくても充分だろう、と語った。
「洋二君から、手渡して欲しい」
そう言うと病室の前で作治は紙袋に入れてきた虫籠を洋二に手渡した。
「僕から?」
「そうだよ、君が捕まえてくれたんだ。君が捕った蛍だっていうと光治も喜ぶから、是非そうして欲しい」
虫籠を両手で掴むと、洋二は二匹の蛍をじっと眺めた。
「うん、分かった!」
「あ、でも他の人にわからないようにそっと見せてね。病院に虫もって来たって知れたら怒られちゃうから」
そう言うと、作治は紙袋に虫籠をまた入れなおして、それを洋二に手渡した。
「はい。分かりました」
ドアを開けると、3人部屋の一番奥のベッドに座っている光治がこちらに振り向いた。
「あ!!洋ちゃんだ!!」
洋二は久しぶりに会う光治が別人に思えて、少したじろいだ。光治は春よりも少し痩せていたが顔色は思ったほど悪くない。
「光ちゃん、大丈夫?」
「うん、大丈夫。大分いいんだ。検査ばっかりしてるけど」
「そうなんだ・・・」
「あ、これ。漫画の本。光ちゃん好きだから。あのあと続きが出たんだよ?」
「わあ!ありがとう。これ続き読みたかったんだあ。この前の巻までもう暇だから何回も読んだよ」
「そっか!よかった」
二人の会話を優先していた作治がようやく頃合を見て割り込んできた。
「光治、洋二くんからもうひとつお土産があるんだよ?」
「え?何?」
「あ、そうそう。これが一番のお土産だよ!見て!」
と、洋二は他の患者に見られないように紙袋からそっと小さな虫籠を出した。
光治が思わず叫びそうになり、小さな手を自分の口元に持ってふさいだ。
「わっ!」
「僕が捕ったんだ・・・っていうか、自然に手の中に入ってきたの」
「・・・洋ちゃん!!凄いよ。本物だ・・・これゲンジボタルだね!体がおっきいもん。ホラ、背中に黒い十字もあるだろ?」
光治が声を押し殺すように言った。それだけ興奮していて今にも大声を出しそうなのを必死にこらえているのだった。
「さすが!光ちゃん、すぐ蛍の種類わかるんだ!」
そういうと洋二がケラケラと笑った。
作治は自分の息子と大して歳の違わない洋二の日に焼けた顔と、ベッドに座っている色白の我が子を見比べていた。いつもはそんなことはしない作治だったが、このときは、検査の結果もまったく変わらない状態が続いていて、少々鬱に入っていた。
洋二の顔や手足は夏になるに連れ真っ黒に日焼けして、いかにも太陽の申し子のようだった。そして会う度に伸びていく身長を羨ましく思った。
自分の息子だって、夏には真っ黒になりながら虫を捕っていた・・・誰が自分の息子をこんな目に合わせているのだろう・・・。不妊治療の末に苦労して儲けた長男の光治が、これほど苦労して生きているのに、片側で洋二のように苦労なく腕白に育っていく子供もいる。
学校の出来事を夢中で話す洋二が、時折、作治と視線が合った。作治の視線に今までにない不思議な違和感を洋二は覚えたが、それがどういう意味なのか判らなかった。
しばらくすると蛍の捕獲シーンのビデオやら写真を出してきた作治が普段と変わらない様子に戻ったので、洋二は内心ほっとした。

作治は車で洋二を自宅まで送った。
「ありがとう、悪いね。まだ検査の付き添いがあってね、ちょっと帰れないから、終わったら洋二君の家に取りに行くよ」
車に置きっぱなしでもし蛍に何かあったら、と、作治は蛍を洋二に預けることにした。
「はい。分かりました」
「じゃ、夜8時ごろに」
家に戻ると、母美江子が、鉢植えの植え替えをしていた。
「あら、洋二、帰ったの?」
「あ、ただいま」
「おかえり。病院、どうだった?」
「うん、行ってきた。元気だったよ、光ちゃん」
「そう、ならよかった。そろそろ病院移るらしいから谷さんのところも大変よね」
「え!?光ちゃん、病院変わるの?」
「あ、洋二は知らなかったのね。言わないほうがよかったかしら・・・」
「・・・。」
「光ちゃんね。空気のいいところに行くんですって。北海道か沖縄か、まだ分からないけど。検査が必要だがら大きな都市だとは思うけど」
「そうなんだ・・・」
「命にかかわるわけではないから、ご両親も安心されているとは思うけど、光治君の病気には、空気のきれいな静かな場所での静養が必要なのよ」
「いつ行くの?」
「分からないわ。でもそろそろ病院や引越し先を決めないとって真紀さんが仰っていたから」
美江子の言葉を聞き終わるや否や、洋二は、バタバタと紙袋を持って二階の自分の部屋に向かった。

―光ちゃんが居なくなる・・・。―

学年は違うが、家が比較的近いためにしょっちゅう行き来していた谷家。その谷家が今、引越しをしようとしている。しかも光ちゃんは、治るどころか、まだまだ良く分からない病気と闘わなければならないのだ。
そう思うと、洋二は光治が不憫に思えて仕方がなかった。
紙袋から蛍を出してみる。この蛍が中軽井沢のあの水面で飛んでいたときの光景の美しさといったらなかった。たった二匹だけの蛍だが、あの幻想的な光の祭典を光ちゃんにも見せてあげたい・・・。本来なら元気な盛りの高学年の時である、ベッドに居なければならないのはどんなに辛いだろうか。ならば、蛍の光る様子ぐらい見せてあげたい。
洋二の今夜の覚悟は決まった。今夜、光治の病室にあの蛍を持っていこう。そして光治に蛍の美しさを是非感じてもらおう。

夜7時過ぎ、洋二は家を出る前に貯金箱を割ると小銭と少しの千円札を握り締めた。作治が来る前に出なければ、蛍は二度と光治の目に触れることはない。
家を出るとき、出て行く気配を感じた母が、キッチンから声をかけてきた。
「洋二?出かけるの?もうご飯よ?」
「うん、ちょっと近くまで行くだけだから」
自宅を出ると自転車で総武線の駅に向かった。総武線に乗れば光治の入院している大学病院までは一本で行けた。駅を降りれば目の前が病院だ、あとは何とかなる。
総武線の駅まで自転車で15分ほどあった。洋二は夢中でペダルをこいだ。かなりのスピードが出ていた。
大通りに出る前の路地で突然通勤帰りの男性が乗る自転車が向こうからやってきた。前方不注意の洋二がぶつかった。
と、その拍子に紙袋から虫籠が転げ落ち、コロコロと転がって壁にぶつかった。壁にぶつかった途端、虫籠の蓋が開き、蛍が仲良く外に飛び出していった。
「あっ!ダメっ!!待って!」
洋二の声をよそに、二匹の蛍が夕闇迫る都会の空に飛んでいき、やがて点になり、やがて見えなくなった。

洋一がひたすら保養所の事務担当の男性に謝っていた。必ず持ち帰ると約束した蛍を逃がしてしまったからだ。保養所の男性は、仕方ないですね、都会の水面でなんとか生き延びて、メスの蛍を上手く見つけて繁殖してくれれば・・・と言った。それは不可能に等しいことだったが、誰もがそうあってほしいと願った。
夜8時に迎えに来た作治は、何も言わなかった。ただ光治には、無事に蛍を帰したことにしてほしいと言って帰っていった。

洋二は自分の部屋で自分が犯した罪の重大さに押しつぶされそうになっていた。

―光ちゃんなら、あんなことしなかったかもしれない。虫のことを大事に思っている光ちゃんなら大事に軽井沢に返したはず―

そう思うと余計に悲しかった。洋二はベッドにうずくまるとそれまで我慢していた涙を流し始めた。蛍の入ってた空の虫籠を眺めると余計に嗚咽した。しばらくひゃっくりのように嗚咽していると、そのうちに疲れて眠りについてしまった。





少し離れた場所から聞こえてくる川のせせらぎが心地良い。
わずかに勢いのあるそよ風が頬を撫でた瞬間、岩城は覚醒した。しばらく何度か瞬きをしてみる。ゆっくり目を開けると、香藤が振り向いて不思議そうな顔で岩城を観ている。
岩城が、どうやら眠っていたようだ、と気がついたのは、記憶の一番手前にある光景が見えたから。見慣れない室内だが、ここが伊豆のホテルで、先ほどまでリビングのソファーで香藤と他愛無いことを話していたことが思い出された。
いつの間にか眠ってしまった。
岩城は、ゆっくりと起き上がってソファーに座りなおした。

2泊3日の旅だが、蛍を見に行った以外は、ほとんどホテルの部屋で過ごした。夕べ蛍を見に行き、その後は、ほとんど香藤の熱に一晩中包まれていた。
昼間は時々本を読んでは、うとうとした。気が付くと香藤がそばに横たわって岩城が目を覚ますと静かに声をかけた。

まるで岩城が目覚める頃合いを計ったかのように、香藤がちょうどお茶を淹れている。こいつのこういう感の良さにはいつもながら恐れ入る、と岩城は思う。
茶托を二人分持ってこちらに向かってくる香藤が、何、何、どうしたの?と怪訝そうな顔をしている。
「岩城さん、変だよ?」
と、いつもなら、にやけた香藤に岩城が言う台詞を香藤がつぶやく。
どうやら今の岩城は随分にやけた顔をしているらしい。
茶托をテーブルに置いた香藤が俺の隣に座わって、俺の顔を覗き込んでいる。
「どうしたの?」

―その顔、さっき夢で見た虫籠見ている表情と一緒だぞ?―

和やかに微笑みながら岩城は思った。

―あとであの夢のことを話してやらないとな―

「ちょうどいい、お前が足りないと思っていたところだ」
岩城は香藤の首に腕をまわしてそっと引き寄せた…香藤の身体の重みが少しずつ自分の身体にかかってくるのを心地よく感じながら。

(了)


香藤くん、お誕生日は二人で一緒に過ごせるといいね。おめでとう。そして、いつもありがとう。

平成19年6月                 ゆにこ





※蛍の飛び交う様子が目に浮かぶようで素敵ですv
いつもお仕事できらびやかな光に包まれているおふたりですが
こんな素朴な幻想的な光に包まれるおふたりも
とっても美しいのだろうなあ・・・と感じてしまいましたv
ゆにこさん、素敵な作品をありがとうございます