晴れた日はデートしましょう
―――ディトだ。 唐突に、草加は思った。 ―――これは、ディトというものではないのか!? やや興奮気味に、草加十馬はそう思った。 ・ date [でぃと] 一、 日付 二、 恋仲同士が日時を決めて他出すること・逢引。 (出典:秋月さん英和辞典) 手製の写本辞書を握り締めて、すばやく確認して。 草加はこの僥倖に、しまりなく緩んでしまう頬を、小躍りしそうな脚を、必死で堪えた。 草加の隣りには、藤色の麗人。 れっきとした男性なのだが、そんな表現が最もふさわしい人。 うきうきと弾む心そのままに、草加は彼を見返した。 「ね、秋月さん。盛り場って言っても、場所はけっこう広いし、日暮れまで時間にそう 余裕があるわけじゃないしさ。今日は、俺のお勧めスポット巡りってことでいいかな?」 「スポットもなにも、俺は盛り場初体験だからな。お前に任せるさ。 ・・・それにしてもお前、すっかり英単語に馴染んでるな」 草加の言葉に、秋月景一郎は柔らかく微笑んだ。 彼は、直参旗本の嫡男で、開国論者で、草加の英語の先生である。 攘夷論一色に染まりつつある長州藩に籍を置く草加にとって、立場のかけ離れた存在 ながら、秋月は唯一の同志といえた。 それだけではない。 藤色の小袖に、紫苑色の羽織がすこぶる映える、白磁の肌。 短髪でありながらもさらさらと風になびく、目を奪われるばかりの翠髪。 笑みを形作る唇から頬にかけての輪郭は、墨絵のように繊細で。 こんなに美しい人が・・・いや、大の男に向かって「美しい人」という表現は逆に失礼 だが、とにかく秋月は、容姿といい心ばえといい教養の高さといい、草加を感嘆させず にはいられない。 そんな人が、自分の隣りにいるのだ。自分と同じ歩調で、自分と同じ目的地に行こうと しているのだ。 草加は嬉しくて誇らしくて、必要以上に下がりそうになる目尻を定位置に止めることに 苦労しなくてはならなかった。 「そりゃもう、先生がいいからね!」 草加が笑って答えると、秋月もまぶしげに微笑を返す。 こんな他愛ないやりとりが、甘く熱く草加の胸郭を満たす。 なぜだろう。どうして、だろう。 自分の心がふわふわと浮ついて、まるで落ち着かない。 子供のように走り出す気持ちを、抑えることができない。 しかし、それがまったく不快ではない。 (こういうのを、・・・ハッピー、って・・・言うんだろうか) そんなことを思いながら、草加は秋月の横顔をそっと見つめた。 じゃりじゃりと小石を踏みながら歩く秋月は、・・・彼も、やはりどこか楽しげに微笑を 浮かべている。草加はなんとなくほっとして、再び目尻を下げた。 これから、二人で両国に遊びに行く。 草加が英語を習得できたのは、秋月のおかげである。 そのお礼がしたいと申し出た草加への、秋月の返事が、これだった。 盛り場で遊んだことがない、と照れくさそうに語る秋月の姿は、草加の両手をおかしな 具合に震わせるほど、・・・なんというのか、初心な乙女の様に微笑ましいもので。 思わず彼を腕の中に閉じ込めそうになり、慌てて手を引っ込めた草加だった。 (あれだな。たぶん、女子供がカワイイカワイイ言いながら猫とかを追っかけまわして ギュウギュウ抱きしめたくなる心理と一緒だな) 思い出しながら一人で納得して。 意味もなく両手をぶらぶら振りながら、草加はふと、隣りを歩く秋月に顔を向けた。 「―――なっ、どっ、どうかした、秋月さん!?」 自分を見ていたらしい秋月と正面から視線がぶつかり、草加はつい、どもってしまった。 訳もなく、顔が熱い。理由もなく、心の臓が早鐘を打つ。 草加の狼狽えた口調に、しかし秋月は、小さく笑んだだけで。 そして小さく、「ありがとう」と言った。 「え? どうして秋月さんが俺にお礼なんか・・・」 「どうしてって・・・。どうして、だろうな・・・」 尋ねる草加の顔から視線を外して、秋月は独り言のように呟く。 「・・・単に、嬉しいから・・・かな? だから、ありがとう」 うつむき加減に歩きながら、またぽつりと秋月が言う。 そのまま彼は何事もなかったように無言で歩き続けたが、桜貝のような耳朶が心なしか紅く 染まって見えた。 「・・・・・・・・・・・・・・」 草加もまた、無言だった。 しかし彼の場合、何事もなかったでは済まされない程の心理的大恐慌に陥っていて、言語 中枢が正常に働かないために何も言えなかったのである。 (・・・・・・。 ・・・・・・。 ・・・秋月さんが前向いてくれてて、ホント助かった・・・) 脳内の混沌を理性で制し、草加は深く大きく、しかし静かに溜息を吐き出す。 今の今まで、草加の体は秋月の隣りを歩く以外の、あってはならない行動をとりたがって、 ギクシャクと奇妙な動きになっていた。 そのうえ顔中から嫌な汗が流れ、唇の端はピクピクと引き攣り。その様子は、幕府の言う 「不逞浪士」よりよほど不穏に見えたに違いない。 こんなみっともない姿など秋月だけには決して見られたくないと、草加は強く思う。 草加は額に浮き出た汗を拭って、雲ひとつない初夏の空を仰いだ。 (まぁ、あれだ。さっきのアレは、親戚の赤ん坊を見ると、つい柔らかそうなほっぺたに 吸い付きたくなる衝動と一緒だな。うん、それそれ) さわやかな青を瞳に焼き付けてから、深呼吸する。 内臓にたまった不合理な衝動を吹き払い、草加はひょいと脚を伸ばして秋月の一歩前に 出た。「?」と顔を上げた秋月に、にっこりと笑いかける。 「ねぇ、秋月さん。もうちょっと行くと、おいしい草餅を売ってる茶屋があるんだ。 ちょっとお茶でも飲んでかない?」 草加の提案に、秋月は「ははは」と笑って答えた。 「両国にも食べ所はあるだろう? 今からあんまり食べたら、まるまる肥えるぞ?」 「そりゃそうなんだけどさ。今日はせっかく秋月さんとデートなんだから、道々を楽しみ たいんだ」 草加が言った瞬間、秋月は大きく目を見開いて、そしてまた、ふふっと吹き出した。 「え、なに、秋月さん? 俺、なんか変なこと言った?」 「あ、すまん。おかしいから笑ったんじゃないんだ。・・・ふふ、お前は本当に、物怖じ することなく英単語に親しんでいるんだな。 でも、一緒に出かけるって意味なら、デートっていう単語は使えないと思うぞ」 「え!?」 秋月の指摘に、草加は咄嗟に「秋月さん英和辞典」を抱きしめた。 確かに、秋月の言うとおり。 草加は先刻、手製の写本辞書で「でぃと」の欄を確認していた。 確認して・・・、デートとは・・・ 「日付とか、逢引とかいう意味・・・でしたよね・・・。 あー・・・、でもなんでだろ、違和感なく使っちゃったなぁ・・・」 自分の無意識の思い込みに半ば唖然としつつ、草加は再び辞書を紐解いて、それから チラリと秋月を窺った。 くすくすと小さく笑いながら、秋月も草加を見返す。冷たい印象を与える切れ長の目は、 しかし微笑むことで、こんなにも甘く柔らかく変化する。 「・・・きれいだ・・・」 「? あぁ、よく晴れた空だな」 草加の呟きに、秋月がつられて空を見上げる。 その間隙をぬって、草加は無防備で無遠慮で不躾な自分の唇をぎゅっと抓った。 (・・・秋月さんに見惚れてました、なんて正直に言ったら、秋月さんはどんな顔を するだろう・・・) 強く抓りすぎて涙目になった草加は、情けない顔を見られないようにさりげなく視線を下げ た。それに気づかず、秋月が快活に言う。 「茶屋でもなんでも、任せるよ。草加がおいしいって言うなら、間違いないんだろう。 ・・・今日は、・・・デートだし・・・な」 草加に笑みを投げて、秋月はくるりと背中を向けた。 さっさと先を歩いてく端整な後姿を、草加は呆然と見送る。 「・・・あ、待ってよ、秋月さん!」 ―――あんたに会いたいとか、 あんたの側にいたいとか、 あんたに触れたいとか、 あんたと、 少しでも長く、少しでも近く――― (でも今は、そんなこと考えない・・・) 言葉にすると壊れてしまいそうな、何か。 自分でも説明できない、何か。 音もなく降り積もる雪のように、草加の胸に蓄積する、想い。 (―――今は、考えない) 駆け足で、不安定な己の足元を飛び越えて。 草加はすぐさま、秋月に追いついた。 「行こう、秋月さん。 とびっきりのデート、しようね!」 その言葉に、二人が同時に笑う。 夏の空は、どこまでも高く、青かった。 |
―了― |
2007・6 牛馬
こんな日もあったのだろうと・・・
すごく短い時間だったけれども互いの心が
暖かく交流しあった時もあったと思います・・・
牛馬さん、素敵な作品ありがとうございますv