冬茜〜ノー エクスキューズ トゥ セイ ハッピィバースディ



それは、本当に些細なことだった。
別にこれほどむきになって、喧嘩を仕掛けることもなかった。
香藤にしてみれば、岩城の無防備な、いや、無防備でもない、それは、岩城の基本にある性質そのものであり、そこを含めて好きになっていることなど、重々承知であった、その岩城の、「礼節を重んじる」、言動が、時折、無性に癇に障ることがある、それは言葉を変えれば、単なる香藤の、嫉妬にすぎない。
岩城の言動を横目で見ながら、どうしても我慢できずに口を開いた、「岩城さん、無神経すぎるよ」という、その香藤の言葉が発端となり、言い合いになった。
初めてのことではない。喧嘩など、何度もあった。
しかし、今回は、少し事情が異なっていた。
香藤が岩城に喧嘩を仕掛けた、それは、新年も明けた1月26日、つまり、岩城の誕生日の1日前だった。あまりにもタイミングが悪すぎた。




互いにAV男優であった頃、岩城が仕事を一緒にすることが割りと多かった、篠原悠太という、アシスタントカメラマン。その彼が年末、昔の仲間達が集まって新年会を開くので、岩城も参加して欲しい、と言ってきた。その当時のカメラマン、監督、女優達も集まるので、是非に、と、熱を入れて誘ってきた。
よければ香藤も、と言われていたが、生憎、香藤はその夜、仕事が入っていた。
そして、岩城はその誘いを承諾した。ぜひ参加したい、というわけではなかった。ただ、岩城にしてみれば、AV男優から今現在の自分になった、その立場でこの誘いを断る、ということには、抵抗があった。断れば、岩城に全くその気がなくても、相手は思うだろう、自分達を否定したいんだ、と。


新しい歳が明け1月25日、岩城は某ホテルのレストラン内での新年会に参加した。
20名ほどの中で、やはり一番気心が知れていたのは、篠原悠太だった。歳は香藤と同じくらいで、今はピンのカメラマンに出世していた。
当初から、何かと岩城に快くしてくれていた。ちょっと暗めの性格だったが、優しさもあった。
色々な人間が、岩城に声をかけてくる、そんな中で、結局岩城は最後まで、その篠原と一緒に、当時の思い出話に花を咲かせていた。
篠原は、岩城が参加してくれたことが、とても嬉しそうだった。
「もう、俺、岩城さんがAV撮ってたときから、絶対この人抜けるって、そう思ってたから!」
「そんなこと・・・今だから、言えるんだよ」
「違いますって、絶対、岩城さん、凄い光ってたし」
「・・・・篠原君も頑張ってるね、ちゃんと出世してるし」
岩城は、褒め言葉一筋に突き進んでくる篠原の会話に少し照れて、方向を変えた。
「出世・・・といえばそうなんですけど・・・俺、出来たら岩城さんが現役でやってるとき、撮りたかったな・・」
そう言って、はにかんだ笑いを浮かべる篠原だった。
岩城は、「まだ現役だよ、俺は。がんばって撮りにきてくれればいいじゃないか。待ってるから」と労った。
篠原は、俯きながら「優しいからなぁ・・・岩城さんは・・そんな事言ってくれる人、いませんよ」と呟いた。
優しい、と、人から言われる、この性質が、香藤の神経を苛立たせる。しかし、岩城にとっては、全くの無意識から出る行為に過ぎなかった。


2時間ほど経過すると会は終わり、篠原は結構酔いが回った風体だった。
「岩城さん・・・俺・・ほんとに今日、岩城さんに逢えてうれしい・・」
そんな事を、よれた口調で何度も繰り返す篠原は、岩城を離さなかった。
どうしても、と、駄々をこねられ、仕方なくもう一軒付き合った。
篠原は、そこを出たときは、既に足元もおぼつかない状態になっていた。
「大丈夫ですってぇ・・・岩城さん・・・」
店を出てタクシーを捕まえようとする篠原に、「篠原君、おい、ちょっと、大丈夫じゃないだろ」と岩城は、その片腕を支えていた。それでも「大丈夫!!ですっ!俺、タクシーで帰りますから」と言いながら、岩城の腕を押しやり、ひとりタクシーに乗ろうとする、そんなふらついた篠原の足元を見ながら、ひとりでタクシーに乗せるのは無理、と岩城は判断した。
1台タクシーを止め、篠原について自分も乗り込むと、「ほら、篠原君、家、何処?」と、訊いた。
篠原は、「岩城さん・・すみませ・・ん・・・俺・・大丈夫ですって・・・ほんと・・」と、その口調は殆どろれつが回っていなかった。
岩城は、完全に体がよりかかってきている、自分よりは遥かに体重がありそうな篠原を受け止めながら、「いいから、そんなことは・・それより、家、何処なの?」と、懸命に訊いた。
岩城のコートの肩に、すっかり顔の半分を埋めている篠原は、すみません、岩城さん、と、かろうじて聞き取れる言葉を、繰り返していた。
岩城は、小さく溜息をついた。
タクシーの運転手がひと言、「どうしますか?」と訊いてきた。
岩城は腕時計をチラ、と見て、おもむろに自分の家を運転手に告げた。
車から携帯電話で、もう仕事から帰宅しているはずの香藤へ、電話を入れた。
事情を話し、篠原を連れて帰ることを、事前に報告した。
考えれば、この時点で、すでに香藤との喧嘩の要因を連れて帰っていた、ということに、岩城は全く気がついていなかった。



帰宅できたのは、午前1時を回っていた。
タクシーのエンジン音を耳にしたのだろう、玄関に香藤が迎えに出てくれていた。香藤も、篠原を全く知らないわけではなかった。
「おかえり」
そう笑顔で迎える香藤は、すっかり岩城に全体重をかけている篠原の体を、直ぐに預かった。
「岩城さん・・・俺・・・大丈夫ですから・・・・ひとりで・・・帰れますって・・・」
篠原は、香藤の肩に移行しても、まだそんな事を口にしていた。
「すまないな、香藤」と言う岩城に、香藤は笑って「し・の・は・ら・くーん・・・ちょっと頑張って、2階まで上がってよ」と、ふざけながら告げると、岩城よりは随分手軽に、篠原の体を階上へと押し上げた。
結局、篠原は、そのままダウンコートと靴下を脱いだだけで、客間のベッドでダウンした。
2人で、ベッドの上で寝息をたてている篠原を見ながら、顔を見合わせて笑った。
「篠原君、こんな、飲む人間だったっけ・・・」
そう香藤が言うと岩城が、「いや・・どうかなぁ・・まあ、とにかく、今日はよく飲んでたよ」と、やっと肩の荷が下りたような声を出した。
「嬉しかったんじゃない?岩城さんに会えて」
そう、香藤が言いながら、2人で客間を後にした。
階段を降りながら、岩城が、「目を覚ましたら、驚くかもな・・・自分が何処に居るのか、判らないかもしれないな・・・」と、口にした。
そんな岩城に「何?2次会は皆出たの?」と、香藤が軽く訊いた。
「いや、篠原君に連れられて行ったから、俺が」
「えっ!2人だったの?」
「ああ・・帰してもらえなくてな」
「ふーん」
そのとき、明らかに香藤の声色が変化していたのだが、岩城は全く気がつかなかった。無事家へ帰れたことで、安心しきっていた。
居間に2人で戻ると、岩城が脱いだコートを何気なく受け取りながら、香藤が、「岩城さん、お風呂入ったら?」と言い、その言葉に素直に岩城も従った。
岩城が居間を出た後、手にしたコートを何気なく見ると、肩と袖上辺りにシミが出来ていた。篠原が、今夜、どれだけ岩城に寄りかかっていたか、あの調子では、多分、タクシーの中でも、ずっと岩城にもたれかかっていたのだろう、と、コートの汚れを見ながら、香藤は思いたくもないそのときの光景を思い浮かべていた。



その夜、飲んで帰っていた岩城を、香藤は自分のベッドへ引き込んだ。
岩城の伸ばした手が掴んでいる、白いシーツのゆがみと、その手に浮き上がる筋、自分の動きに合わせて揺らぐ、肩の線と黒髪、細く喉の奥から搾り出される悲鳴にも似た嬌声、それら全てを目と耳で確認しながら、香藤の脳裏に、説明の出来ない火が点いていた。死ぬほど愛しながら、同じだけ苛立った。
肩を掴み、繋がったままの体を乱暴に裏返すと、足を持ち上げ、一層深く、自分を打ち込んだ。自分に向かって伸びてくる、その岩城の手を掴み、指を絡めながらシーツに押し付けると、体を折重ね、空いた手でその体を強く抱き寄せた。
「あぁ・・あっ・・か・・とう・・・」
喘ぐ声に乗って名前を呼ばれ、香藤は耐え切れず耳元で囁いた。
「愛してる、って、言って」
強くなる動きに翻弄されながら、岩城は途切れ途切れに「あい・・してる・・かと・・う・・」と、健気に求められるままの言葉を、吐息の端から送り出した。
求めたままの言葉を手に入れても、なお、香藤の苛立ちは消えなかった。
眼の前にあるその顔には、どれだけ愛しても愛し足りない、無意識の罪が宿っていた。岩城を愛し続けている限り、それは、何処にも逃げ場のない、香藤の戦場だった。



夜中、自分の腕の中に熟睡した岩城を抱きながら、香藤は、ふと、眼が覚めた。
明け方に近い時間だった。
岩城が言っていた、眼が覚めたとき、ここが何処か判らないかもしれないな、という言葉を思い出した。
確かに、ひと言、書き記しておいたほうがいいだろう、と考え、香藤は階下へ降りると、ここが何処で、どうしてこうなったか、また、ゆっくり寝てていいと付け加え、メモに書き記した。それを持って階段を上がり、静かに客間を覗いた。
先ほど横になったままの姿勢で、篠原は寝ていた。
ベッドサイドテーブルに、メモを置いて、体を出口に返したとき、背後から、僅かな声が聞こえた。振り向くと、篠原が寝言らしきものを口走っていた。
その無防備な寝顔を覗き見て、少し笑みを浮かべながら、その場を去ろうとした香藤の体は、瞬時に再び篠原を振り返った。
「いわき・・・さん・・」
篠原は、確かにそう口走っていた。
香藤は、微動だにせず、じっと、その篠原の寝顔を見下ろしていた。
そんな中、篠原の唇が僅かに動き、再び小さく「い・・・わき・・さん・・・」と、呟いた。
出口へ歩いて客間を出ると、香藤は寝室に戻り、岩城の眠るベッドへと、再び入った。
先ほど聞いたその声は、切ない声色で、香藤の耳に焼き付いて離れなかった。
岩城の体を抱きなおし目を閉じると、火が点きかけていた香藤の脳に、新たな熱が宿っていった。




次の日の朝、1番に起きていた香藤が3人分の朝食を用意していた。
篠原は、もぞもぞと、羞恥心に染まった体で起きてくると、既に起きて香藤と向き合って朝食を食べていた岩城達を見て、開口一番「申し訳ありませんでした!!」と、深く頭を下げた。
「おはよう」
2人でそう言うと、「朝食、出来てるよ、食べる?」と、香藤が言った。
何も言えずに棒立ちになっている篠原へ、岩城が「大丈夫だよ、そんな、気にしなくても」と、優しく告げた。
「本当に・・・・すみません」と、まだ動けずにいる篠原のところへ、岩城が椅子から立ち上がって傍へ行くと、「ほら、突っ立ってたって、仕方ないんだから、こっちへ座って、食べれば」と、篠原の体を促した。
岩城の手が、篠原の体に僅かに回されたのを、香藤は眼の端に捕らえながら、キッチンへコーヒーを入れにいった。
香藤の脳に、ふたつ目の火が点っていた。



その日は、香藤が午前中から仕事、岩城は昼から仕事だった。
「篠原君、仕事は?今日」
岩城が訊いた。
「休み、なんです」
そう篠原が答えた。
「そう、じゃ、俺は昼から仕事に出るから、そのとき、送っていくよ」
「いえ、そんな、いいです・・・俺・・」
「いいから、気にしなくても、ついでだし」
「・・・すみません・・・何から何まで・・・」
香藤が、先に出る支度をしている傍で、そんな会話が耳に入ってきた。
2階に上がって、クローゼットを開け、今日着て出る服を選んでいた香藤は、何度も服を手にしては考え直し、また手に取り、頭では一向に思考がまとまらなかった。
自分が、岩城と篠原を2人残して、家を出る、そのことが、香藤の思考を止めていた。
やっと服を選び、強い力でクローゼットを閉めると、着替えて階下へ降りた。


1階に降り立った香藤は、所在無くダイニングテーブルの椅子へ座っている篠原へ向かって言った。
「篠原君、俺が送るよ、今から出るけど、出れる?一緒に?」
はっと顔を上げた篠原は、「はい、出れます、でも・・・ほんとに俺、ひとりで・・」と、そう言いかけた篠原を遮ると、「じゃ、出よ、車出すから」と、香藤は言った。
「香藤、俺が送るから、そんな無理に・・」と、そんな事を言いかける岩城の言葉も、香藤は無視して遮った。
「岩城さん、ゆっくりしたらいいよ、俺、どうせ出るんだし」
そう言う香藤に、岩城は「そうか・・・?悪いな・・」と、答え、「じゃあ、篠原君、急がせて悪いけど、香藤に乗せてってもらってくれる?」と、笑顔で告げた。
篠原は顔を僅かに赤く染めて「いえ、そんな・・・」と、ぼそっと答えた。
柔かな笑顔で、そんな篠原を見つめている岩城に、いいようのない苛立ちを感じつつ、と同時に、その感情を殺す努力もしながら、香藤は車の鍵を持って、「じゃ、行ってくる、岩城さん」と言葉を送った。
岩城は、「ああ、気をつけてな」と、それにも笑顔で答えていた。


そうやって、篠原は、帰宅するまでの約20分ほどを、車内で香藤と過ごした。
香藤はさりげなく、話題を投げた。
「岩城さんとは、久しぶりなの?」
「・・・はい・・・もう・・あっちの世界から抜けられて、以来です・・・」
「ふーん、そうなんだ」
香藤は、運転しながら、言葉の色に気を配りながら、さらに続けた。
「でも、どうして岩城さんに声、かけたの?そんな会ってないのに」
「あ・・・それは・・・あの・・・俺・・・ずっと・・アシスタントしてたときから・・・その・・・・・岩城さんを見てて・・・あの・・・」
ちょっと意地が悪い、と、香藤は自分でも感じ、助け舟を出した。
「ファンだったんだ」
「ファン?!あっ!そ・・そうなんです。俺、ずっと岩城さんのファンで・・・」
篠原の受け答えを聞きながら、香藤は心の中で呟いた。そうじゃないよな、ファンなんて言葉、違うよな、もっと、深いよな、お前が抱えてる感情は・・・・・と。
そんな事を考えていた香藤の横で、小さな声で、篠原は言った。
「・・・久しぶりに会っても、岩城さんはとっても優しくて、全然変わっていらっしゃならくて・・・・俺、嬉しかったです。俺、岩城さん、撮りたい、って言ったら、待ってるから、って・・・」
「・・・そう、よかったね」
「ハイ、俺、頑張ります」
罪作りな会話をしている、などと、篠原は全く思うはずもなかった。
車を降りるとき、「香藤さん、ありがとうございます」と、笑顔で礼を述べ、続いて「岩城さんにもよろしくおっしゃってください」と、締めくくった。
明るい笑顔で、じゃあ、と、それに答えながら、車を発進させた途端、香藤の脳裏は、焼けるくらい熱くなっていた。



抑えよう、抑えなければ、と、一日考えて、仕事をこなし、夕方4時過ぎに帰宅したときには、香藤の中で抑えられているはずの感情は、岩城のひと言で、完全に引き戻されてしまった。帰宅した香藤を、その少し前に帰っていた岩城は玄関に迎えて、こう言った。
「おかえり、篠原君、大丈夫だったかな?」
靴を脱ぎ、そんな岩城の前を通りながら、香藤は言ってしまった。
「何で、大丈夫じゃないことがあるのさ?」、と。
勿論、岩城は、えっ?という表情を返してきた。
「どうしたんだ?篠原くんとなんかあったのか?」
自分が帰宅してから、2度目に岩城の口から出た篠原の名前に、さすがに香藤も、忍耐の糸が焼き切れた。
居間に入り、コートを脱ぐと椅子に投げるようにかけ、ついて入ってきた岩城を振り向き見据えた。
「岩城さんっ!!」
香藤の声に、驚いて足を止めた岩城は、「なんだ・・香藤、そんなに・・・」と、言いかけた。が、かまわず、香藤は言葉を吐き出した。吐き出し始めると、もう、止まらなかった。
「泥酔してるのを介抱して、泊めて、ご丁寧に自宅まで送って、それで、何で、大丈夫じゃないことがあるって言うのさ!!」
「どうしたっていうんだ・・・お前、仕事で何かあったのか?」
全く外した方向から攻めてくる、そういう岩城の、よく言えば温和、言い換えれば鈍感、それが救いになるときもある、が、今日は違った。
「岩城さん、無神経すぎるよ!!」
その言葉に、さすがの岩城も、ややむっとした。
「何がだ」
何が、と訊かれ、何が、なのか、香藤はいったい自分が何に腹を立てているのか、判ってはいても、それを言葉に表す準備が出来ていない、そんな状態で、口を開いた、それが間違いだった。
「だいたい、岩城さん、あの新年会、行くことなかったんだよ!あの人たちと会わなくなって、いったい何年過ぎてるって思ってるのさ」
「何故、今になってそんな事言うんだ。お前だって、仕事がなければ行きたいって、言ってたじゃないか」
「それはっ・・・あの時はそう思ったんだよ!!」
それは、岩城をひとりで行かせたくない、ただそれだけの理由からだった。
「それで、いったい俺の、何が、無神経、なんだ」
無神経、と、岩城に自分の発した言葉を復唱されて、香藤の胸に、僅かに後悔の波が押し寄せ始めていた。
「岩城さん、誰にでも・・・・、優しすぎるよ!!」
「・・・?それが、俺が無神経、って事なのか?」
「人なんて、好きな相手に優しくされれば、懐いてくる、それが判んないの?」
「何を言ってるんだ・・・誰が俺に懐いてるって言うんだ」
「・・・・・・」
香藤は、岩城の目を見つめながら、僅かに口を動かしかけて、閉じた。
脳裏に、今朝耳にした、篠原の寝言がこだました。しかし、それを岩城に告げたくはなかった。
ただ2人で立ちつくして見詰め合っている、その体に、窓から冬の日が低く斜めに入りかけていた。
その光が、2人の足元から茜色に照らし始め、それはまるで、今の互いの間にある心情を映すかのような赤だった。
岩城にしてみれば、ただ、流れに沿って動いた結果だった。
それは、香藤にも重々判っていることだった。
誰が岩城を慕っているか、など、岩城に責任など何もない。
その相手の感情を、全くといっていいほど察知できない、多分、岩城は、相手に「好きだ」と目の前で言われて、初めてそのことに気がつくのだろう。
しかし、香藤は、悲しいかな、その感情を直ぐに嗅ぎ取ることが出来る。それは、自分がそうであったからこそ、だった。
そこから発せられる熱、空気、視線、それら全てが岩城に向いている。
今朝の篠崎は、まさにそうだった。
篠崎から、もっと、人間として不出来で嫌な面を感じることでも出来れば、もう少し感情を抑えることも出来ただろう、と香藤は思った。真面目な不器用さを持つ、決して憎めない性格、それが香藤をより一層、苛立たせていた。
なぜなら、そんな篠原ならば、岩城が無下に出来るはずもない、と、思うからだった。
そう・・・・無下にするような、岩城がそんな性格であっては欲しくない・・・しかし・・・しかしどうなのか・・・岩城にどうあって欲しいのか・・・香藤は感情が先走り、論理が後回しになっていた。そんなときに口を開いても、いいことはない。が、しかし、始めてしまった。
「岩城さんっ!・・・岩城さんはきっと、無意識、なんだろうけど・・・俺のこと愛してくれてんなら・・・もっと・・・もっと、考えてよっ!俺がどう思うかっ!どう感じるかっ!」
そこで、岩城は初めて、香藤がいったい何に対して、これほど苛立っているのかを知った。
「香藤・・・お前、篠原君のことで・・・」
「・・・そうだよっ!いつもの、俺の、たわいもない、ばかばかしい嫉妬、ただそれだけだよっ!」
そう吐き捨てると、香藤は岩城の体の横を通って、一陣の風を残し部屋から出て行った。
シンと静まり返った居間に、香藤が玄関から出て行く音だけが響いてきた。

赤く染まったフロアを見つめながら、岩城は、そのままひとり、しばらくたたずんでいた。
たわいもない、ばかばかしい嫉妬、と、そう香藤に言わせてしまったことが、胸を締め付けた。自分が気づきさえすれば、気づいてさりげなく、香藤の眼に入らないようにしていれば、そんな思いを、あのような、切羽詰った形で口にすることもなかっただろう。
香藤を前に、誰か1人を取り立てて思いやる、その行為そのものが、香藤の気持ちを乱す、ということ、そんな、恋愛の基本定義を、今更のように、岩城は噛み締めていた。いつしか自分は、香藤の愛に甘えている、そう感じた。
ざわつく胸を抱えたまま、岩城はじっと、何もせずに、ただ、外を見ていた。
椅子には、香藤が脱いだままに残していったコートが、寂しくかかっていた。



家を出た香藤は、あてもなく、車を走らせていた。
しばらく走ると、冬の日はすぐに落ち、薄暗い空気に包まれた世界に変化していった。適当な場所へ車を止め、少しして思い立ったようにダッシュボードを開けた。
中から、グリーンのリボンに包まれた小さなギフトボックスを取り出し、じっと見た。ただ、何分も香藤はじっとそれを見つめていた。岩城の誕生日にと、3日前に購入した、プレゼント。シルバー仕上げのキーホルダー、自分の名前を彫ってもらい、同様に、自分にも同じタイプの、少し型が違うものを購入した。勿論それには、岩城の名を彫ってもらった。
明日、渡すつもりだった。
特別に頼んで、急がせて、明日に間に合うように準備したプレゼント。
渡したときの岩城の喜ぶ笑顔、それをどれだけ楽しみにしていたか・・・・・。
「あぁー・・・馬鹿!!本当に、馬鹿!!俺って・・」
そう溜息とともに言い捨てると、リクライニングを倒し、眼を閉じた。
何も、あんなにむきになって、責めることではなかった。
岩城に何ひとつ、罪はない。
自分が、あの寝言さえ聞かなければ、岩城の言動に、ここまで過敏になることもなかっただろう。
無神経、などという、棘の在る言葉で岩城を責めたことが、今更のように悔やまれた。
無神経ではない、それは、単に岩城の優しさ、なのだ。
その優しさを自分が受けているときは、それを誇らしく思い、他に向けられたときには、腹が立つ、そんな子供じみた感情を、香藤は、いつになっても、上手くコントロールすることが出来ない。
いつまでも、甘えてるな・・・・そう、香藤も感じていた。
香藤は、再び溜息をついて、小さく「ごめん・・・岩城さん・・」と、呟いた。
その呟きは、岩城に届くはずもなかった。



2時間ほど、車で頭を冷やし、香藤は帰宅した。入ろうとすると、家に鍵がかかっていた。予想外の出来事に鼓動が高鳴り、香藤は性急に鍵を開け、ばたばたと中に入った。
電気のついていない家中が暗く、香藤を慌てさせた。
小走りに居間へ入ると、テーブルに1枚の紙が置かれていた。
「急遽、今日撮ったものの撮り直しが必要になった、との連絡が入り、出かける。かなり時間がかかると思うので、帰宅は不明。さっきは悪かった。岩城」
香藤は、両手を椅子にかけたまま、しゃがみこんだ。
しばし俯いたまま、失望と戦い、その姿勢のまま、ポケットから携帯を取り出し、岩城に電話を入れた。どうしても、ひと言、伝えたかった、自分こそ悪かった、と。
突如、聞こえるはずのない呼び出し音が、居間に響いた。
香藤は、えっ?と、驚き、音の鳴るほうを見た。
ソファーに、岩城の携帯があった。
岩城が忘れて行ったのだと、直ぐに理解した。
悪かったのは自分のほうだ、と、そう岩城に伝える手段を断たれ、香藤は愕然となった。
心に重い荷物を持たせたまま、自分は岩城を残し、家を出た。そんな状態のままで、岩城を仕事へ行かせた、そのことがショックだった。
香藤は、ゆっくりと立ち上がり、もう1度、岩城の残したメモを見た。
「さっきは悪かった」と、そう書かれた文字が、一層、香藤の胸を締め付けた。




次の日になっても、岩城は帰宅していなかった。
昨日、岩城が撮ったCM。それは、既にスポンサーの商品キャンペーンにあわせ、次週からの放映開始が決定している。岩城のスケジュールの空き等を考えれば、もう絶対に先延ばしは出来ない、と思え、仕上がらなければ帰宅できないだろう、と、思った。
岩城は、本来なら、今日は休み、だった。
香藤は、どうしても仕事の調節がつかず、昼から3時ごろまで仕事だった。
しかし、それでも、十分、幸せな誕生日を、2人で迎えられるはずだった。
香藤は、気持ちを切り替え、仕事に出るまでの少ない時間で、買い物に出て、夕食の材料とワインを買い、テーブルに花を生けた。
そうやって、岩城の誕生日の1日はスタートした。




その日香藤は急いで帰宅し、それでも、帰り着いたときは午後4時を少し回っていた。
玄関に入ると岩城の靴があり、はやる気持ちで自分も靴を脱ぐと、居間のドアを開けた。昨夜から逢いたくて仕方なかった人は、ソファーで横になり眠っていた。
足は床に落ちたまま、上半身だけ横になっている、その岩城の傍に、そっと近づくと、その頬に僅かに髪が乱れかかっていた。
窓から、昨日と同じ冬の日が入り込み、床を染めていた。香藤にはその同じ色が、今日はとても暖かで穏やかな茜色に感じられた。
徹夜をして帰宅した岩城が、ソファーで香藤を待ちながら、寝てしまったのだろう。
話しかけたい気持ちは山々だった、が、岩城の疲れを考えれば、起こすことは出来なかった。
愛しい者の寝顔をそのままに、香藤は静かに、その体にブランケットをかけ、自分はキッチンへと向かった。そして、なるべく音を立てないように、夕食の準備にかかった。



食事の用意ができた後、テーブルにグラスなどを並べている香藤が、ソファーに目をやると、僅かにブランケットが動く気配がした。
時間を見ると、午後6時を回っていた。
ソファーへと歩いて近寄ると、薄っすらと、岩城が眼を覚ましていた。
自分の顔の上にある香藤を見て、小さく、かとう・・・と、呟いた。
そして、次に、「いい匂いがする・・・」と、少しずつ覚醒しているような顔で、岩城は口にした。
「うん・・・」と、香藤は答えたまま、じっと岩城を見つめていた。
今日は、岩城に逢えたら言おう、と考えていたことがあったはずだった。なのに、香藤は何を口にしていいのか、判らなかった。
それほど、目の前にある岩城の存在は、幸せに満ちていて、喧嘩をしていたことなど、嘘のように感じられた。
たった1日前のことが、遠い昔のことのように思え、何が原因であれほど苛立っていたのかさえ、思い出せなかった。
そんな香藤に、岩城がブランケットの中から両手を伸ばし、ゆっくりとその体を抱いた。この家に帰ったときから、家にある、自分の誕生日を忘れていない、という、香藤のメッセージを感じていた岩城も、その胸は香藤と同様に、暖かな安心に包まれたものに変化していた。しばらくそうやって抱き合っていた2人が、「昨日は・・」と、口にした。それぞれが同時に同じ事を口にし、互いの顔を見つめなおした。
岩城の顔が少し笑みを浮かべ、香藤も同じ笑顔で見下ろしていた。
互いが、相手の弁明と謝罪をもう何も必要としていない、そんな時間が自然に訪れ、ただ必要な言葉はひとつだけだと、その時が教えていた。
「岩城さん・・・お誕生日、おめでとう」
香藤はそう告げると、優しく唇を重ねた。
ありがとう、と答えた岩城の腕は、一層強く、香藤の背に絡まり引き寄せていた。
相手を心から愛する余りに生まれる喧嘩の種は、そうやって、2人の愛に拾われ、成長、という姿に形を変えていった。







2006.01
比類 真


こういうジレンマはきっと・・・ふたりがふたりである限り続くと思うんです
でも明確な解決法は出せない、出せるわけがない訳で・・・・
それが辛くて切なくて、でも限りなく優しいのです
香藤君の気持ち、岩城さんの気持ち・・・痛いほどに伝わってきます;;
比類さん、素敵なお話ありがとうございますv