寒 桜
乾いた電子音を響かせて、体温計が示した数値は…。
「38.5度…まだまだ全然下がっていないな」
軽く息をつき、数値をリセットしてケースに戻しながら、岩城は呟いた。
「うわー…大分下がったと思ったんだけどな、マジでまだそんなにあるんだ?」
自分で確認するように額に手を置くと、掌に感じる明らかにすぐそれと分かる体温の高さに自分自身で驚いた表情を浮かべると香藤は、それでも確認するようにそう聞いてくる。
前夜からの発熱と喉の痛み、明らかに風邪だと分かるその症状。
熱で上気した頬は赤みを増し、咳と共に発する声は、いつもよりもかなり掠れており、普段が元気の塊のような人間であればあるほど、こういう時の状態は弱くなってしまう。
「全く、信じられない。何でこういう日に風邪なんて引くかな、俺ってば…」
自分でも呆れるように呟くと、そのまま布団の中へと潜り込んで身体を丸めてしまう。
「風邪なんて、引きたくて引くものじゃないからな、安静にして早く治せ」
その様が、まるで拗ねている子供の様な感じがして、微かに笑みを浮かべると岩城は、ベッドの淵へと腰を下ろし、そんな香藤を布団の上からぽんぽんと軽く撫で叩く。
「だってさ、折角の岩城さんの誕生日だよ。折角二人でオフ取れたのにさー」
布団の中から、その拗ねた様子のままの、くぐもった声が岩城の耳に届いた。
「とにかく凄く綺麗らしいよ、そこの寒桜。話聞いたときに、絶対に岩城さんと見に行きたいって思ったんだ」
その話を岩城が香藤から聞いたのは、まだ年が明ける前の師走の頃だった。
「寒桜…っていっても、さすがに一月の末頃じゃ咲いていないんじゃないのか?」
「それがさ、気温の関係で一月の中旬から下旬頃に開花が始まる花があるんだって。だからちょうど岩城さんの誕生日に掛かるからいいと思ってさ」
そんな事を言いながら香藤がとても楽しそうに、近くの施設まで調べたりしていたのを知っていたからこそ、今回の落胆はかなり大きいのだろう。
全然そんな事は気にしなくてもいいのに…あいつらしいといえばあいつらしいが…と、岩城は心の中で呟く。
別に、今年が駄目ならまた来年がある。
自分の誕生日は、今年だけじゃないのだから…と言いたいものの、そう言ったら多分。
『でも、今年の岩城さんの誕生日は、今日一日だけだよ』
…という返事が戻ってくるのは分かりきっているから。
だから言えない。でも、その心遣いが凄く有難いというか何というか…。
いや、有難い、のではない。
余りにも暖かくて…嬉しい、が正しいのだろう。
本人は無意識であろうが、こうして一杯暖かな気持ちを、香藤はいつも自分にくれている。
果たして、自分はそれに対して何か返すことが出来ているだろうか…?
そんな事を考えていた時だった。
寒桜…で、一つ思い出した事がある。
確か、自分の知っているあの花は…。
暫し考えを巡らせ、それが確定となった時、寝室で寝ていた香藤の様子を見、まだ息は荒いものの、ぐっすりと眠っている様子を暫し眺め、その後になるべく音を立てずにその扉を閉めたのであった。
日も陰る夕刻…。
そっと、まだ寝ている香藤の額に手を置けば、自分が出かける前よりも幾分熱の引いた様子に、岩城はほっと安堵の息を零す。
「……っ、ん…いわ、き…さん?」
額の掌に気が付いたのか、香藤はゆっくりと瞼をあげると、まだ僅かに眠りから覚めきってはいない様子で、額の手の存在を確認するように、自分の手をそこまで運び、置かれた手の上に自分の手を重ねた。
「済まない、起こしたか? 具合の方はどうだ?」
「ん…朝よりは大分いい…と思う。ごめんね、心配かけて」
手を離して上体をベッドの上へと起こすと、意識を完全に覚醒させるように、軽く頭を振りながら、まだ少し掠れは残るものの、熱と同じく大分楽になった声で香藤が答えた。
「食事は食べられそうか? 薬も飲まないとならないから、軽くでも食べた方がいい」
「多分大丈夫…かな、岩城さんの顔を見たら何か安心して、少し食欲も出てきたかも」
「そういう冗談が言えるようなら大丈夫だな、もし無理なようならここまで食事を運ぼうと思ったが」
「え、ベッドの上で岩城さんが食べさせてくれるなら、今すぐだって重病人になってもいいよ、俺」
くすくすと笑い声を立てつつそういう香藤の額を軽く小突くと、着替えて暖かい格好で来るようにと言い渡し、岩城は寝室を後にしたのだった。
とりあえず…びっくりした。
それが、ダイニングに入って来た時の、香藤の一番の感想だった。
食卓に乗っていたのは、風邪に優しそうなメニューだったが、驚いたのはそこではない。
「…岩城さん、花屋にでも行って来たの?」
テーブルの上に、ちんまりと食事と共に乗っていた、食事の他にテーブルを埋める鉢植えの小さな花。
ほんのりと薄いピンク色の清楚な花を咲かせているそれ。
「いや、それは…とにかく、まあ、座れ」
まだ何も語らず、それでも少しだけ照れたような顔表情を隠すようにそむけてそう言うと、岩城もテーブルの対面の椅子へと腰をおろす。
「折角、お前が…寒桜を見に行こうと計画を立ててくれていたから…な」
そして、香藤が椅子へと腰を降ろすとほぼ同時に、そう呟く様に言った。
「…え?」
「その花は…カスミソウの一種で、プリムラ・シネンシス、和名は…寒桜だ」
花の名前を聞いた途端、香藤の口元に笑みが浮かぶ。
もしかして…いや、もしかしなくても多分…。
自分が風邪を引いてしまった為に、行けなくなってしまった寒桜見学。
その代わりに、この花をこうして飾ってくれたんだ…という事に気が付いたから。
「何だかなあ…。本当なら岩城さんの誕生日なんだから、俺がプレゼントしないとならないのに、俺の方がもらっちゃった感じだよ、これ」
可憐な小さな花を軽く指で突くと、まるで笑うように花が揺れる。
「いや、俺だって十分なプレゼントをもう貰っているさ」
…こうして、鉢植えだけでもこんなに楽しんでくれる、そんな香藤の笑顔という贈り物を。
それを言葉に出して岩城が言う事は無かったが、それでも…まるで先程の寒桜の花のような笑顔で、香藤は嬉しそうに笑っていた。
H18,1 こげ
またお題から見事に外すようなもので申し訳なく…。
普通、桜の寒桜を書くはずのお題で、どうしてサクラソウになるか自分(自己突っ込み)や、でも、この寒桜も当然実在の花ですので、ご容赦頂ければと…。
春抱きで書くのはまだこれが2本目なので、色々と言い回しや不手際があろうかと思います。でも書かせて頂けて嬉しかったです。
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