渡り鳥
夏の暑さは過ぎ去り、草加邸にも虫の声と共に秋の気配が漂う。 草加はイトに用意させた膳を手に、秋月を囲う離れの戸口の前に立っていた。 何度も繰り返されてきていた事にも関わらず、身体が緊張する。 最近の朝晩の寒さに体調を崩しているのもあるが、何度と無く自ら命を絶とうとする秋月に気を置くことは出来なかった。 ふっと小さな息を吐き、秋月に何も無いことを祈りながら戸口を開ける。 自分の足音だけがやけに響く廊下を歩き、襖を開けた。 ひんやりと冷たい空間。 そこには、いつもと変わらず障子戸を開け、格子柵の外を見つめる秋月の閉ざした背中が目に入る。 寂しさを感じながらも、秋月に何も無いことに草加は胸を撫で下ろした。 「秋月さん・・・食事、持ってきたよ?・・・」 秋月は背を向けたまま、返事はない。 ずっと此処に来てから変わらないやり取り・・・・ 秋月から返事が返ることが無いのは、分かっていること・・・・ だが、草加は自分でも気付かないほどの一瞬だけ、寂しげな小さな笑みを口許へ浮かべて、消えた。 膳を置くと、草加は秋月の背の後ろへ座り、小さくなった秋月の身体をそっと自分の胸へ包み込んだ。 冷たい秋月の体温が胸に伝わる。 「こんなに冷たくなるまで・・・・・」 秋月の存在を確かめるように、頬に顔を寄せて呟く。 秋月は答えない・・・・・ そのまま秋月の視線が捕らえる格子柵の先へ、草加も視線を合わせた。 その先には、古池に佇む一羽の鷺がいた。 「へぇ・・・鷺が来ていたんだね・・・此処に来る時には、全然気付かなかったよ」 草加の素直な、喜びを含んだ反応に僅か、秋月の視線が動く。 草加はそれに気付き、愛おしげに笑みを浮かべて、秋月を抱きしめる腕に力をこめた。 「秋月さん・・・憶えてる?あの川辺で見た鷺のこと・・・・」 ああ・・・忘れるはずがない・・・ あの、お前との穏やかな愛しい時間が流れていた日を・・・・・ 秋月は、切なさに目を閉じた。 「二人でさ、将来を語り合いながら歩いていたら・・・・・桜も、綺麗に咲いていたよね」 まるで昨日の事かのように草加は語りながら、秋月の亡くした左足の腿を確かめるかのように、撫でた。 秋月はその感触にほんの僅か、身悶える。 「・・・・あの時の鷺・・・・今の秋月さんと同じで、片足が・・・無かったよね・・・」 草加は少し苦しげに顔を歪ませると手はそのままに、秋月の項へ唇を寄せ、顔を埋めた。 「秋月さん、凄く心配して。でも、ちゃんと片足を踏みしめて立っててさ・・・ 二人で凄いな、強いな、って・・・。 そしたら、強い風が吹いたと思った瞬間、桜の花びらが舞い散るのと一緒に大空へ羽ばたいてさ・・・・」 草加の言葉が途切れ、沈黙が続く。 部屋の中には二人の静かな呼吸と、風に舞う木の葉の音だけが響いていた。 秋月は目を閉じ、愛しい思い出とは別に、自分が恨めしかった。 あの鷺でさえ自分の力で、力強く生きていると言うのに・・・・・ 俺は、草加に守られ、愛され・・・甘やかされ。 そしてそんな草加を思う恋しさに負ける自分を草加のせいにし、責め、苦しめている。 俺は、草加の・・・足かせでしかない。 終わらせなければ、今日こそは終わらせなければと・・・・・ あの鷺のように一人でも羽ばたける勇気があれば・・・・ 草加を自由に・・・・ 「秋月さん・・・・っ」 草加に苦しげ名前を呼ばれ、秋月ははっとした。 草加の身体が震えている。 どうした・・・草加・・・・? 秋月は、子供をあやすかの様に心で呟いた。 「秋月さん・・・・俺は・・・俺は、あの鷺の様に、あなたを羽ばたかせたくなかったんだっっ!」 「・・・・・か?」 驚きのほんの小さな声で、秋月は草加の名を呼んだが草加の耳には届いていないようだった。 「最初の頃は、あなたを守りたいと思っていた・・・でも、そのうちそうじゃな いって気がついたんだ。怖かったんだ・・・いつか俺を置いていってしまうんじゃないかって。 こんな時代が終わったらあの時の鷺のように力強く羽ばたいて、 俺のことなんか忘れて・・・自由に・・・・だからっ、俺はあなたをっ、秋月さんを・・・どこへも羽ばたけないように・・・・捕らえているんだ・・・・本当は、力強く羽ばたいていけるのかも知れないのにっ・・・・俺が自由をっ・・・」 言いかけた草加の唇から秋月の項が離れ、ゆっくりと秋月が振り返った。 秋月の、昔と変わらぬ黒く濡れた瞳が草加を捕らえる。 うっすらと何か言いたげに唇を開け、草加の頬へ秋月の手が触れようと伸びる。 その動きは、あの頃のように愛情に溢れて自分を求めてくれているかのように思えた。 名を呼び、その手を握り締めようとした。 今なら、心さら抱き合える気がする・・・・・ 「秋月さん・・・・・・・・――――っっ?!」 名を呼んだ瞬間、ほんの僅かで手と手が触れる瞬間、鷺の鳴き声と共に羽音が響き渡った。 その声に、秋月の視線と愛しい手も草加から離れ、格子柵へと向けられる。 草加は、秋月さえも鷺と共に羽ばたいて行ってしまうような怖さに襲われ、秋月に縋るように手を伸ばす・・・・ 秋月は、空へ飛び立つ鷺の姿をなぞるように手を伸ばしたが、その手は草加に捕らえられ、痛いほど強く草加の胸へ身体ごと抱き寄せられた。 「―――――っつ・・・」 急な息苦しい痛みと驚きに、秋月は声を漏らし、頬に感じる草加の顔を見ると、草加の視線とぶつかった。 「秋月さん・・・・駄目だよ?」 草加の言葉に反応するかのように、秋月の瞳が揺れる。 「置いていかないで・・・・・俺は、秋月さんがいなければ渡れないんだ・・・・何処にも・・・・・」 草加は、秋月の手を握る手に力を込めた。 秋月を逃さぬよう・・・・・・ 「草加・・・・・・」 秋月が小さく呟くと、温かな草加の唇が重なってくる。 草加・・・・・・ 俺は・・・俺は、渡ることなどもう・・・忘れてしまったんだ・・・・・ 逃さぬよう、捕らえているのは・・・ 俺のほうだ・・・・・・・ あの鷺のように、大空へ羽ばたいていけるお前を・・・ 羽ばたくのを忘れた俺は・・・・ 一人が怖くて・・・・・ 唇が離れ、草加の瞳が見つめてくる。 「秋月さん・・・・愛している・・・・・・」 草加の言葉が秋月の身体に、染み込んでくる。 ああ・・・・ こんな時代でなければ、その言葉に寄り掛かれたのだろうか・・・ こんな時代でなければ・・・・・・ それとも・・・俺たちは・・・・ 秋月は切なさに、草加からの視線をよけ、格子柵の外へ逃した。 そこは、あの時の桜の花びらのように枯葉が舞い散っていた・・・・ あの頃とは、変わってしまったのだろうか・・・・・・ 愛しすぎて・・・・・・・・ 草加の腕が秋月の思いごと隠すかのように、身体を包み込んできた。 草加の胸に包まれ、草加の鼓動が聞こえる。 まるで翼が羽ばたくかのように、力強く。 秋月は草加の胸に身体を委ね、この胸の中でなら何処へでも羽ばたいて行ける気がした。 あの、渡り鳥のように・・・・二人で・・・・ ****** 終 ****** 2006.10.30. ミーコ 最後まで未熟な文章を読んで頂いてありがとうございました。 |
互いに誰よりも求めているのに心から寄り添うことが出来なくなっているふたり・・・
こんな時代じゃなかったら・・・こんな立場でなかったら
いっそ鳥になって・・・と
痛く切ないふたつの気持ちが伝わってきて涙が止まりません・・・
ミーコさん、素敵なお話ありがとうございますv