L’attente trop longue
(あなたを待ち焦がれて)
「ごめんね、岩城さん。本当に、ごめん・・・」 ふだん自分の強運を信じて疑わない、とにかく呆れるほどポジティヴな男なのだが。 今回ばかりは、さすがの香藤も相当参っているようだった。 映画の撮影のために単身パリにやって来て、ほぼ二ヶ月。 香藤のいない日常生活にも慣れた。 認めたくはないが、慣れてしまった。 ・・・寒くて、淋しくて、どうしようもない日もあるけれど。 ・・・あいつの腕のぬくもりが恋しくて、眠れない夜もあるけれど。 話題のフランス映画に抜擢された驚きと喜び。 共演者やスタッフに恵まれ、やりがいのある仕事をさせてもらっている。 役者として、充実しているのは確かだ。 紗のかかった、モノトーンの冬のパリ。 本当に美しい街だった。 ・・・これ以上望めないくらい、幸運だと思いながら。 それでも俺は、東京の雑踏に戻ることばかり考えていた。 「今年のクリスマスは、一緒にパリで過ごそうね」 一日一回かかってくる、香藤からの電話。 香藤の声は、弾んでいた。 あれはいつのことだろう。 忙しい年末に、長い休暇なんて取れるのか。 あいつの仕事が気になってそう言った俺を、明るい笑い声がさえぎった。 「秋からこっち、俺もう、馬車馬みたいに働いてるもん。社長がOK出したんだし・・・だいたい、長いって言ってもたった2泊4日だよ?」 「そうだな・・・」 照れくさくて、笑ってごまかしてしまったけれど。 ・・・嬉しかった。 そして心から、感謝した。 役者としての自分を優先させて、香藤をひとり日本に置いてきた。 そのことで俺が罪悪感を感じていることを、あいつは知っていた。 「岩城さんは、世界中どこでも、羽ばたいて行けばいいよ」 この映画の仕事が本決まりになったとき、香藤は言った。 「俺はどこまでも、追いかけて行くから。絶対に岩城さんを見失ったりしないから。だから岩城さんは、安心して好きなことをすればいい」 確信に満ちた力強いまなざしで、香藤はそう言い切った。 その言葉を信じたから、俺は今、パリにいる―――。 「岩城さぁん」 最初に電話がかかってきたのは、成田空港からだった。 パリ時間で12月24日、午前5時。 「・・・どうした」 日本とフランスの時差など、お互いとっくに頭に入っている。 こんな時間に電話してくるからには、緊急事態なのだろう。 「飛行機が、飛ばないんだよ」 「飛ばないって、どうして」 「荷物をチェックインしたのに、乗って来ないバカがいるんだ」 「・・・そうか」 搭乗ゲートに現れない乗客がいる。 おそらく免税品ショップで散財に夢中で、時を忘れているだけなのだろうが。 それでも航空会社は、爆弾テロの可能性を考える。 空港内アナウンスでその乗客を呼び出し、ゲートを閉めずに待つしかない。 それでも現れなければ、最終手段として、その乗客のスーツケースを積み荷から降ろす。 とっくに搭乗したほかの乗客は、その間、延々と待たされるのだ。 「あ、ちょっと待って・・・」 香藤の声がふと遠くなった。 「ごめん岩城さん。今機内からなんだけど・・・電話、切れって言われて」 香藤が声をひそめた。 「・・・わかった。多少遅れようがちゃんと待っててやるから、心配するな」 「ごめんね、岩城さん」 俺は苦笑した。 「おまえのせいじゃないだろう」 「そうだけど」 「俺は大丈夫だから。ほら、早く切れ」 「うん・・・」 歯切れの悪い返事のあと、電話はぷっつり切れた。 俺は、ため息をついた。 次に電話が来たとき、俺はちょうどシャワーから出たところだった。 アンティークの姿見の前で、香藤を迎えに行くのに何を着ようかと思案していたとき。 「おまえ、今どこにいるんだ?」 「・・・まだ成田・・・」 俺は時計を見た。 午前10時すぎ。 「なんで、また・・・」 さすがに驚きの声をあげた俺に、香藤はため息をついて説明した。 大遅刻の乗客はなんとか搭乗したのだが、今度は機材の故障が発見されたのだという。 「ジャンボ機後部の非常ドアが、ちゃんと閉まらないんだって」 香藤の声は、沈んでいた。 「今、機体の点検してるんだ。俺たちみんな、飛行機から降ろされちゃって。俺もう頭きて、別の航空会社のフライトに替えてくれるように頼んだんだけど・・・」 ただでさえ混み合っている年末年始シーズン。 おまけにヨーロッパ便はだいたい、出発時刻が正午あたりに集中している。 タイミングを逃すと、代替フライトもないのだ。 「・・・そうか」 俺はため息をかみ殺した。 辛いのは香藤のほうだ、と自分に言い聞かせる。 「ごめんね、岩城さん。本当に、ごめん」 「・・・さっき言っただろう。おまえは悪くないんだから、謝るな」 「うん・・・」 「いい方に考えよう。おまえの得意技じゃないか」 「得意技って・・・」 「おまえの乗る飛行機に、何かあったら俺が困る。・・・飛ぶ前に故障がわかって、本当によかった」 「うん」 「そう思えば、腹も立たない・・・だろ?」 「そうだね」 香藤がくすりと笑った。 「ありがと、岩城さん。・・・大好きだよ」 「香藤・・・」 携帯電話越しに、キスが送られてきた。 香藤が空港のどこから電話をかけているのか、気にならないと言ったらうそになるが。 俺はあえて、考えないことにした。 「・・・瞼?」 「はずれ。岩城さんのおいしそうな、鼻の先だよ」 「ばか・・・」 「じゃあ、これは・・・?」 今度は、もっと濡れたキスの音。 「・・・唇」 「あたり」 ちょっと笑って、香藤がささやいた。 「・・・早くこの腕に、岩城さんを抱きたいよ」 「香藤・・・」 「早く、本物の岩城さんに、キスしたい」 「・・・ああ」 想いは同じだ。 「もうすぐ、会えるさ」 それだけ言うのが、精一杯だった。 実は少し前に一度だけ、香藤がパリに来たことがある。 予告もなく忽然と俺のロケ先に現れ、その情熱で俺をさらって行った。 嵐のような、一昼夜。 俺は心身ともに翻弄され、あいつをベッドから呆然と見送った。 ・・・今では、あれは夢だったのかもしれないとすら、思う。 午後3時。 空港までの送迎を頼んでいた運転手のジャンが、時間きっかりに現れた。 カタコトのフランス語で、日本からのフライトが遅れていることを知らせる。 ジャンはちょっと考えてから、とりあえず空港へ行ってみよう、と言った。 俺は黙って頷いた。 ・・・同じ待つなら、少しでも香藤に近いほうがいい。 「奥さまのいないノエルじゃあ、淋しいでしょうから」 早く到着するといいですね。 生真面目な顔でそう言われて、俺は苦笑を返すしかなかった。 もちろん、左手の指輪を見ての言葉だろう。 待っているのは女房じゃない、と言おうかとも思ったが。 あいつのことをどう説明すればいいのか、わからない。 恋人・・・アマン。シェリ。アムール。 俺の知っているフランス語など、限られている。 思いついた単語の甘すぎる響きに、俺は嘆息した。 いくら何でも、恥ずかしすぎる。 ・・・まあ、いい。 香藤を見れば、わかることだ。 俺はジャンを促して、パリ左岸のアパルトマンを出た。 パリ郊外のシャルル・ド・ゴール空港。 到着ゲート近くのラウンジに、俺はどさりと腰を下ろした。 スチールの壁に、無表情な俺が映っていた。 白いセーターと、黒のハーフコート。 細身のヴィンテージジーンズに、皮のショートブーツ。 ・・・何の変哲もない格好だが、目立たなくていいだろう。 細い黒縁のメガネは、まあ、変装の小道具だ。 さすがに追いかけられたことはないが、パリにも日本人観光客は多かったから。 俺はポケットから、単行本を取り出した。 そうやって、いっこうに姿を見せない香藤を待った。 待つ以外なかった。 時折、フライトの発着を知らせる電光掲示板を見上げた。 ふと周囲に視線を走らせては、脚を組み替えた。 気がつくと、胸ポケットの携帯電話をそっと指でなぞっていた―――。 午後5時。 フライト・インフォメーションのカウンターから戻ってきたジャンが、大げさに肩をすくめて見せた。 「今日はもう、飛ばないそうです」 それだけ聞き取って、俺は天を仰いだ。 ため息しか、出てこない。 携帯電話が、鳴り出した。 「香藤・・・」 「岩城さん・・・」 ほぼ同時に、深い吐息をついていた。 再び謝罪の言葉を口にしかけた香藤を、俺は制した。 「・・・頼むからもう、謝るな。おまえのせいじゃないって言っただろう」 「うん・・・これからどうするの、岩城さん・・・?」 俺はちらりとジャンを見た。 明日はクリスマスだ。 彼を解放しないわけにはいかない。 「・・・近くのエアポート・ホテルを、取るよ。明日、おまえが何時に到着するかわからないからな」 「そんな・・・」 「アパルトマンに帰ってもどうせ何もない。ホテルのほうが気が楽だろう」 「岩城さん・・・」 「気にするな。もういいから、少し寝ろ。出発が決まったら、何時でもいいから電話してくれ。携帯はずっと、オンにしておくから。・・・な?」 少しでも香藤が元気を出してくれるように。 俺はできるだけ、やさしく言った。 電話をくれと自分から言ったのは、パリに来て以来初めてかもしれない。 香藤が、ひっそりと苦笑した。 「岩城さんがそんなふうに言ってくれるなんて・・・。俺よっぽど、情けない声出してるんだ」 「・・・まあな」 共犯者のように、俺たちはひそかに笑った。 そうでないと、あまりにせつなかったから。 結局、空港から一番近いホテルに部屋を取った。 ジャンが手配してくれた、というべきか。 申し訳なさそうに去っていく彼を見送って、俺はむしろホッとしていた。 誰かを巻き添えにするより、ひとりで待っているほうがずっといい。 枕元に携帯電話を置いて、俺はベッドにごろんと寝転がった。 あいつと一緒になってから、クリスマスは毎年、大騒ぎだった。 仕事が入るときも、すれ違うときもあったけれど。 でもいつも、なんだかんだ言って、ふたりの時間を確保していた。 この日は、特別なんだよ。 クリスマスは、年に一度の恋人たちの祭典なんだからね。 そう断言する、イベント好きの香藤に引きずられて。 どこかのイルミネーションを見に行ったり。 ティファニーやグッチでプレゼントを買ってみたり。 気どったレストランでディナーを食べたりした。 ・・・いつの間にか。 俺はそういうことを、当然だと思うようになっていたのかもしれない。 香藤のいない、パリのクリスマス・イヴ。 「・・・ばかやろう」 我ながら情けないが、最低の気分だった。 無意識のうちに、俺は携帯電話を握りしめていた。 香藤と俺をつなぐ、目に見えない電波。 そんなはかないものに頼るしかないのが、もどかしい。 睡魔が訪れるのを待ちながら、俺はそっと、ため息をついた。 眠れないと思っていたのだが。 いつの間にか、うとうとしていたらしかった。 雨の気配で、目が覚めた。 カーテンを開けると、鬱々とした小雨。 あたり一面、けぶるような暗い朝だった。 俺の気分は、さらに沈下した。 ルームサービスのぬるいコーヒーを飲んでいるときに、電話が鳴った。 「岩城さん!」 「・・・ああ、おはよう、香藤」 香藤の声の明るさに、自然と微笑がこぼれた。 ・・・本当に単純だと、自分でも思うが。 俺の気分など、こいつの声音ひとつでどうにでも変わってしまう。 「今、飛行機の中だよ・・・」 「えっ」 俺はあわてて時計を見た。 12月25日、午前8時半。 ちょっと待て。 ふと気づいて、俺は疑問を投げかけた。 「・・・なんでおまえ、電話できるんだ?」 「あはは、これは機内電話だよ。クレジットカードでかけるやつ」 「ああ、そうか」 そういえば最近のファーストクラスには、サテライト電話がついていることが多い。 「今ね、シベリア上空を飛んでるんだ。離陸したのが・・・えっと、4時間くらい前かな」 「・・・出発が決まったら、教えろって言っただろう」 不機嫌な声を出したつもりだったが、香藤はおかしそうに笑うだけだった。 「ごめんごめん。すねないで? ・・・岩城さん、さすがに寝てる時間だと思ったから。起こしたくなかったんだよ」 子供をあやすような口調。 俺はつい、押し黙った。 ・・・まあ、いい。 文句は、こいつの顔を見てから言おう。 「メリー・クリスマス、岩城さん」 したたるような甘さで、香藤が言った。 岩城さんは、フランス語で言って? そうささやかれて、俺は吐息をついて応じた。 「・・・ Joyeux Noel 」 今日はクリスマス。 遠い昔、どこか遠い国で生まれた、神様の子供の降誕祭。 正直、俺にはどうでもいい話だが。 それでもその神様の前で、結婚式を挙げた。 あいつへの生涯の愛を誓った、その気持ちは今も変わらない。 だから・・・。 ああ、そうか。 香藤、おまえは正しいな。 やっぱり今日は、特別な日だ。 「岩城さん?」 いつだって俺は、気づくのが遅すぎる。 香藤は真実しか口にしないって、そろそろ覚えてもいい頃だ。 「・・・岩城さんってばあ・・・」 俺は、くすくすと笑っていたらしかった。 「何でもない・・・何でもないよ、香藤。・・・俺は幸せだと、思っただけだ」 「・・・ええ?」 香藤が素っ頓狂な声をあげた。 「待ってるから・・・いつまでも、待ってるから。早く、来い」 キスをひとつ落として、俺は電話を切った。 頭の中で、フライト時間をざっと計算する。 あと7時間ほど。 夕方には、香藤はパリに着くはずだ。 俺はレイトチェックアウトを決め込んだ。 シャワーを浴びて、またベッドに寝転がる。 こんなに何もすることのない時間なんて、何年ぶりだろう。 本を読んでも頭に入らないので、目を閉じてじっと、香藤のことを考えた。 午後3時すぎ。 俺は再び、シャルル・ド・ゴール空港の到着ロビーに立った。 24時間遅れで香藤の乗った便が到着することは、確認済みだ。 やっと、会える。 無事で着いてくれれば、後はもう、何もいらない。 俺はそれだけを心の中で繰り返した。 ざわめきが、ひときわ大きくなった。 クリスマスだというのに、到着ラウンジはごった返していた。 やっとの思いで到着したくたくたの乗客と、安堵の表情で出迎える家族。 お互いを見つけては歓声をあげる。 抱擁と、キスの嵐。 どこかでフラッシュが焚かれていた。 花束を差し出す男性すらいる。 そうした小さなドラマを横目で眺め、スーツケースとカートを避けながら、俺はゲートの手すりに近づいた。 どこにいてもひと目でわかる、長身の姿を探す。 香藤。 香藤。 香藤。 早く。 早く。 早く。 心臓が、早鐘を打っていた。 「岩城さん!」 俺の姿をみとめた途端、香藤が走り出した。 薄茶色の髪をなびかせて。 周囲の人間を蹴散らすように、まっすぐ俺だけを見て。 もう、空港の雑踏なんか、聞こえない。 「岩城さん!」 俺が広げた両腕の中に、香藤が飛び込んで来た。 「おい、か・・・」 勢いよくすがりついてきた愛しい身体を受け止めかねて。 俺は香藤を抱きしめたまま、後ろにひっくり返った。 「え・・・」 あわてて香藤が身体を入れ替えようとしたが、間に合うはずもなく。 ドサリと、俺は派手に尻餅をついた。 容赦なく、香藤の重みがのしかかる。 「痛・・・っ」 「・・・ごめん・・・!!」 この、バカ。 自分の体重を考えろ。 ・・・顔を見たら、文句を言うはずだったのに。 香藤の顔を見た瞬間、何を言うつもりだったか忘れてしまった。 代わりに、涙がこぼれた。 飛びのいて、座り込んだままの俺の脇に膝をついて。 香藤がおろおろしながら、俺の背中をさする。 「ご、ごめんなさい、岩城さん。・・・大丈夫? 痛いの?」 泣きそうな瞳で、心配そうに覗き込む香藤。 「ばか・・・」 そうじゃない。 そうじゃないだろ。 俺は両腕を、香藤の首に回した。 もう誰が見ていても、構うもんか。 「・・・ス、くらい・・・」 「え?」 「・・・クリスマスが終わる前に、キスくらい、よこせ」 目の前でまたたく、明るい薄茶色のまなざし。 それを見つめたまま、俺は香藤にくちづけた。 甘い、熱い、久しぶりのキス。 香藤の太い腕が、俺の身体をぎゅうっと抱きしめた。 そのぬくもりに安心して、俺は目を閉じた。 ・・・ああ、やっと。 俺のいるべき場所に戻ってきた。 待ち焦がれた抱擁の中で、全身の力が抜けていった。 耳元で、ためらいがちの声がした。 「あの・・・岩城さん?」 「ん・・・?」 「なんかすごい、注目を浴びてるんだけど・・・」 俺はうっすらと目を開けた。 到着ロビーの利用客が遠巻きに、俺たちを見ていた。 チラチラと投げかけられる、好奇の視線。 俺は香藤の肩に額をつけて、嘆息した。 「・・・おまえが悪い」 空港の床にいつまでも座っているわけにもいかない。 香藤の腕をつかんで引き上げながら、俺はゆっくり立ち上がった。 「いたた・・・」 「腰、大丈夫?」 俺のコートをはたきながら、香藤が心配そうに言う。 「ああ・・・せいぜい、打ち身だろ」 笑って俺は、香藤の耳元にささやいた。 「痣になったら、責任取れよ」 俺の腰から尻の辺りをいたわるように撫でていた香藤の手が、はたと止まった。 「・・・もう、岩城さんてば・・・」 香藤がさっと顔を赤くする。 ばか。 何を想像してるんだ。 ・・・まあ今さら、そんなことで照れるような関係でもないが。 そのとき。 「・・・ムッシュ・イワキ」 すぐ後ろで名前を呼ばれて、俺は振り返った。 「ジャン!」 昨日、家に帰したはずの運転手が、大きな図体をすくめて立っていた。 「どうして・・・?」 ジャンが訥々と、言葉を続けた。 昨日の俺があまりに落胆していたので、心配だったのだと。 どうしても気になって、フライト情報を空港に問い合わせたのだという。 「・・・お疲れの奥さまに、お車を、と・・・」 香藤を見て、失笑する。 たぶん俺たちの再会の一部始終を見ていたのだろう。 「・・・ありがとう」 礼を言いながら、俺は顔がほてるのを感じた。 「岩城さん?」 事情がわからずにいる香藤に、俺は苦笑を返した。 「ジャンは俺の専属の運転手だよ。・・・長旅で疲れてるだろう俺の女房を、休日返上で迎えに来てくれたんだ」 「あは・・・そうなんだ」 香藤は明るい微笑をジャンに向けた。 「はじめまして。いつも岩城さんがお世話になってます」 「・・・おい、日本語で言っても・・・」 ジャンがきょとんと俺たちを見つめる。 「残念ながら俺は女じゃないけど。でも、マダム・イワキって呼んでくれても、いいよ?」 香藤の腕が、俺の腰にするりと回る。 「おい、香藤・・・」 「さあ、早く行こう?」 香藤の言ったことがわかったはずがないが。 ジャンは頷くと、くるりと背を向けて歩き出した。 俺はほっとして、香藤を促して彼の後を追った。 「本当にごめんね、岩城さん」 「香藤・・・」 「俺、岩城さんとの待ち合わせに遅れたことなんて、ないのに。本当に、ごめん」 「・・・もう、いいから」 「でも・・・俺、イヴの夜に、岩城さんに淋しい思いをさせちゃったから・・・」 パリ市内に向かうリムジンの後部座席で、香藤はひたすら謝り続けた。 ぴったり寄り添って、香藤の肩に頭を預けて。 俺は目を閉じて、香藤の声を音楽のように聴いていた。 「本当に、ごめんなさい・・・」 「もうよせ、香藤」 俺はそっと言った。 「・・・おまえが無事で、ここにいる。それだけで俺には、最高のプレゼントだよ」 運転席にいるジャンが気になったが、気を利かせてくれているのだろう。 さっきから、振り返るそぶりもない。 「岩城さん・・・って、あ、そうだ!」 香藤が突然、身体を起こしてかばんの中をゴソゴソかき回した。 取り出したのは、一枚の紙切れ。 「忘れるとこだったよ・・・はい。これ、俺からのプレゼント」 「なんだ・・・?」 押しつけられたそれに、俺は目をみはった。 オテル・ド・クリヨンの予約確認書。 コンコルド広場に面した、パリ屈指の超高級ホテルだ。 12月24日と25日の二泊。 マダム&ムッシュ・カトーとあるのには、気がつかないふりをした。 「香藤、これ・・・」 「うん」 香藤はうれしそうに頷いた。 「岩城さんが、クリスマスのパリは、お店もレストランも閉まっちゃって、何もないって言うから。・・・だったらホテルでのんびりっていうのも、いいかと思って」 「ば・・・」 口をついて出そうになった言葉を、俺は飲み込んだ。 こんなこと、してくれなくていいのに。 おまえが来てくれただけで、俺はもう十分すぎるくらい幸せなのに。 「・・・ありがとう」 ようやく絞り出した声は、かすれていた。 ジャンに行き先の変更を告げると、あとはもうすることがなかった。 ステレオからは、サティの甘い旋律が流れていた。 ときどき降ってくるついばむようなキス。 腰を抱く香藤の力強い腕。 何もかも心地よくて、そのぬくもりに浸った。 「・・・岩城さん・・・」 香藤がゆっくりと、俺のセーターの中に手を忍ばせてきた。 「こら・・・」 首を振った俺に、香藤がなだめるように言った。 「ごめん岩城さん・・・ちょっとだけ、触らせて・・・?」 低いささやきに、俺はからめとられる。 声を出して、ジャンに気づかれるわけにはいかない。 俺はぎゅっと、唇を噛んだ。 大きな暖かい手が、懐かしむように素肌を探る。 久しぶりの、香藤の愛撫。 肌が、じんじんと熱を持って疼いた。 首筋にちろりと、香藤の舌が這う。 息が、乱れた。 胸をたどる指先が、硬くとがった突起をくすぐった、その瞬間。 「・・・あぁんっ・・・」 俺は思わず、甘い声を上げていた。 香藤が驚いて手を止める。 目を開けた俺の視線は、バックミラー越しのジャンのそれにぶつかった。 驚愕と好奇の表情で、じっと俺を見ている。 おまえのほうが、女房だったのか。 そう言われているような気がして、俺は赤面した。 俺は黙って、いたずらな香藤の手をセーターから引きずり出した。 「ごめんね・・・?」 香藤の声が笑っていた。 「・・・うるさい」 「・・・岩城さん、敏感すぎ」 「うるさい」 俺はいたたまれずに、もう一度嘆息した。 夜のパリ。 リムジンが凱旋門に近づく。 イルミネーションで華やかに彩られた、シャンゼリゼ大通りの街路樹が見えた。 工夫を凝らした、街の灯り。 「うわあ・・・」 香藤が子供のような声を上げる。 するりと俺の肩に回ってきた手をつかんで、俺は聞いた。 「ちょっと、歩くか」 「え・・・うん!」 ノエルの夜のパリのど真ん中。 ここからホテルまで、ゆっくり歩いても15分くらい。 香藤に、少しでもパリの街を見せてやりたかった。 明日の夜にはまた、こいつは日本に戻ってしまうから―――。 ジャンに礼を言って、俺たちはリムジンを降りた。 冷たい夜の風が、ほてった頬に気持ちいい。 「きれいだね・・・」 「ああ、そうだな」 俺たちは肩を並べて、ゆっくりシャンゼリゼを歩いた。 コンコルド広場のオベリスクが、遠くに見える。 「岩城さん・・・」 香藤がさりげなく、俺の手を取った。 俺は無言で、指をからめた。 ・・・いつだって俺は、こいつに甘すぎるけれど。 何しろここは、聖夜のパリだ。 周囲には幸せそうなカップルしかいない。 手を繋いで道を歩くくらい、許されてもいいだろう。 ・・・最高のクリスマスだよ、香藤。 俺は、香藤の手のぬくもりをしっかりと握りしめた。 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇ ましゅまろんどん Le 18 decembre 2005 |
バックミラー越しで見てみたいです・・・私も(こらこら)v
最高のクリスマス・・・ふたりの歩いていく姿が目に浮かぶようです
全編を通じて映画を見ているようなお話で・・・ほわ〜っとしてしまいましたvvvv
ましゅまろんどんさん、素敵な作品ありがとうございましたv